みことば/2021,12,5(待降節第2主日の礼拝) № 348
◎礼拝説教 ルカ福音書 21:29-38
日本キリスト教会 上田教会
『目を覚ましていなさい』
21:29 それから一つの譬を話された、「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。30 はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。31
このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。32 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。33
天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。34 あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。35
その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。36 これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。37
イエスは昼のあいだは宮で教え、夜には出て行ってオリブという山で夜をすごしておられた。38 民衆はみな、み教えを聞こうとして、いつも朝早く宮に行き、イエスのもとに集まった。
(ルカ福音書 20:1-8)
8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。14
すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。16
御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
(ローマ手紙 8:13-16)
まず29-33節、「それから一つの譬を話された、「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」。私たちの教会の信仰告白は、「終わりの日に備えつつ、主の来たりたもうを待ち望む」(『日本キリスト教会 信仰の告白』、使徒信条前の前文の末尾)と自分たちの信仰を言い表しています。世界の終わりの日が近づいています。それは、救い主イエスがふたたび来られて、この世界と私たちに裁きと救いをもたらす審判の日です。その日に向かって、日毎に備えをしながら、救い主イエス・キリストがふたたび来られるときを待ち望みつつ生きる私たちです。その終わりの日が近づいたことを見分けて、はっきりと知るために、よく目を覚ましていなさいと注意を促されます。イエスご自身からの直々の指図です。
どんなしるしが現れるでしょうか。私たちの周囲の世界で、どんな前触れや兆しが現れるでしょう。神を信じて生きる私たちは、どんなことに特に注意を払って、自分自身と周囲の様子を見ている必要があるでしょうか。
ヘブル手紙1:2は、「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである」。つまり、救い主イエス・キリストが最初に地上に降りて来られ、神の国の福音を語りはじめたことによって、『終りの時・この世界の救いが成し遂げられる時』が始まりました。また、その救い主イエスが十字架の死と復活の御業を成し遂げ、弟子たちが見ている目の前で天に昇っていかれたとき、御使いたちが彼らに語りかけて言いました、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒1:11)。この世界に「またおいでになる」時まで、救い主イエスは天に昇って行かれ、王としてこの世界を治めつづけ、やがてふたたび、この世界と私たちすべてを裁いて救いの御業を成し遂げるために来られます。このように、『終りの時』はすでに始まり、今も現につづいており、この私たちはその『終りの時』を日毎に生き続けていることになります(登家勝也『小教義学』、「終末の教理」の項を参照)。
救い主イエスが現れる前、そのずいぶん昔に、預言者エレミヤは新しい契約が結ばれる日が来ると預言しました、「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ書31:33-34)。神はここで、律法と福音の間にある違いを言い表します。神の福音は、新しく生まれさせる恵みをもたらします。それは言葉や文字によって知らされる教えではなく、心を刺し貫いて、私たちの内なる力のすべてを新しくします。それによって、神の義ときよさに私たちが従順に仕えて生きることができるようにするのです。また、「わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」と言い添えられています。これが、神から贈り与えられる新しさです。中身や内容はまったく変わりません。けれど、その伝え方、与え方が大きく変わります。神は、「これまでとは違う別の律法をあなたがたに与える」とは仰いません。「私は私の同じ一つの律法を書き記す。それはあなたがたの先祖に伝えた同じ律法である」と。しかもその同じ律法を、「彼らのうちに置き」、「その心にしるす」と。私たちが生きている間中ずっと神の律法に一致して、神の御心に従順に歩み通すことは、誰にとっても、とても難しいことです。自分の体中のあらゆる欲望が神に敵対し、神に逆らって戦おうとしつづけるからです。「この世界のあらゆるものを手放し、自分自身をすっかり捨て去るのでなければ、私たちは誰もキリストの弟子になることなどできない」と聖書は証言します。まったくその通りです。
ですから、「私たちの心に神がご自身の律法を書き記す」と預言者が証言していることは、神の特別なお働きを言い表しています。神の律法を心に書き記すとは、その律法がそこで力を十分に発揮し、そこで生きて働き、神の御心に逆らおうとする私たちの肉の欲望を押さえつけ、打ち負かし、断固として退け続けるということです。神の霊によって新しく生まれるのでなければ、誰も悔い改めて神の律法に従って生きることなどできません。御心にかなった良い行いをするためには、神がその人の心の中で、恵みによってそのための準備をすっかり整えてくださる必要があります。
「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる」。神が私たちを憐れんでご自身の民としてくださり、救いの契約を結んでくださるとは、どういうことでしょうか。その私たちが神に呼ばわって日々の暮らしを生き、神もまたご自身の民のために心を砕き、必要な一つ一つの配慮をしてくださる。「わたしはあなたがたの神となる」と神が宣言なさる時にはいつでも必ず、神は私たちに父としての慈しみを注ぎ、私たちの救いについて責任を持っていると保証しておられます。神に呼ばわりつつ生きるようにと私たちを招き、その恵みに信頼を寄せるようにと促しておられます。「私たちの神となる」とは、私たちの救いに必要なものすべて一切を必ず与えるという確かな約束です。この約束と保証の上に立って、「あなたがたは私の民となる」という宣言がなされます。
34節、「人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。神ご自身がどういう神であられるのか、その福音と救いがどういうものであり、神を信じてどのように生きることができるのかを教える。この信仰教育の務めはとても大切です。それがおろそかにされるというわけではありません。神の国の福音はますますはっきりと知られるようになります。なによりも、神を信じる者とされたこの私たちは何が神の御心にかなうことであるのかを弁え知り、何が良いことであり、何が神に喜ばれることであるのかを知りつつ生きるようになります。「小さな者から大きな者に至るまで」、神の御心をはっきりと知るようになる。神ご自身が、神を信じて生きるその一人一人に親しく教えてくださるからです。なぜならすでに、救い主イエスがこの世界に来てくださり、神の国の福音を宣べ伝え、救いの御業を成し遂げてくださったからです。
「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。神の慈しみ深さと真実の根本の土台がここにあります。先祖と私たちの不義と罪をゆるし、もはやその罪を思うことさえなくなる日が来る。しかも兄弟姉妹たち。神に背きつづける罪をゆるしてくださることは、それをただ大目に見て、「いいよいいよ、どうでもいいよ」と捨て置くことではありません。もし万一、クリスチャンが洗礼を受けた後、何十年も死ぬまで同じく罪深く、神に背きつづけ、同じく身勝手で自己中心な生活をし続け、家族や隣人にもしてはならない悪いことをしつづけるようなら、そのように神を侮り、人々を侮りつづけ、その邪悪な姿を神がただただ放っておくようならば、その神を信じて生きることに、いったいどんな希望があるでしょう。いいえ、それは間違った神理解です。何の役にも立たない、ただ虚しいだけの偽りの信仰です。決してそうではなく、生きて働かれる真実な神であり、「罪のゆるし」は、私たちのその罪深さや邪悪さから解放してくださり、罪の奴隷状態から救い出してくださることです。もし万一、そうでなければ、私たちが幸いに生きることも、自分も家族も救われることなど決してありえません。
神を信じる者たちが隣人たちと共に幸いに生きるためにこそ、そのために独り子イエス・キリストによる贖罪の御業が成し遂げられました。罪の只中にあった私たちが御子イエスの十字架の血によって清められ、神と和解させられ、新しく御心にかなう歩みを願い求めて生きることが始まりました。憐み深い神は、私たちを罪から救い出して下さる神であり、その憐みを救い主イエスによって知る私たちです。神を信じて生きることの格別な幸いと恵みを、救い主イエスによって味わい知る私たちです。
さて34-38節、「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。イエスは昼のあいだは宮で教え、夜には出て行ってオリブという山で夜をすごしておられた。民衆はみな、み教えを聞こうとして、いつも朝早く宮に行き、イエスのもとに集まった」。神の憐みを救い主イエスによって知る私たちは、御子イエスのかたちに似た者とされてゆきます(ローマ手紙8:29)。御父に対する御子の信頼と従順は十字架の死と、その直前のゲッセマネの園での祈りの中にはっきりと刻まれていました(ピリピ2:5-11「死に至るまで(御父に)従順でした」,マルコ14:36「アバ父よ。私の願いどおりではなく」と)。その御子イエスの御父への信頼と従順こそが「御子のかたち」であり、「神の似姿・かたち」の中身です。それが、そのようにして私たちの生活と生きざまと、神を信じて生きる心の思いの中で、積み重ねられていきます。御子イエスよ、来てください。主はふたたび来られます。救い主イエスの御前に立つ日の備えをし、その日を待ち望みつつ生きる私たちです。