2021年12月13日月曜日

12/12「ユダに、悪魔が入った」ルカ22:1-6

         みことば/2021,12,12(待降節第3主日の礼拝)  349

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:1-6                     日本キリスト教会 上田教会

『ユダに、悪魔が入った』

 

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:1 さて、過越といわれている除酵祭が近づいた。2 祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたからである。3 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。4 すなわち、彼は祭司長たちや宮守がしらたちのところへ行って、どうしてイエスを彼らに渡そうかと、その方法について協議した。5 彼らは喜んで、ユダに金を与える取決めをした。6 ユダはそれを承諾した。そして、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていた。       ルカ福音書 22:1-6

 

1:6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。 (1ヨハネ手紙 1:6-10)

 

1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。16 しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。17 世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。(1テモテ手紙 1:15-17)

1-2節、「さて、過越といわれている除酵祭が近づいた。祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたからである」。ここから、いよいよ救い主イエスの十字架の苦しみと死と、復活についての報告が始まります。キリストの死は、私たちとこの世界に新しいいのちをもたらすために成し遂げられました。救い主イエスの地上の生涯のどの部分にも、4人すべての福音書記者がこれほどまでに深く、こまごまと目を凝らしつづけることはありませんでした。救い主イエスのお生まれについての報告は、ただ2つの福音書だけが告げています。けれど救い主の死と復活については、4人の福音書記者すべてが詳しく十分に報告しています。

救い主イエスの十字架の死に関する報告の第一歩は、ユダヤ民族の宗教的指導者たちの心の思いと、その行動です。約束され、待ち望まれつづけた救い主を本来なら真っ先に喜び迎えるはずだった彼らが、正反対に、救い主イエスをどうにかして殺してしまおうと思い図り、相談をし合います。『世の罪を取り除く神の小羊』(ヨハネ1:29が自分たちのもとに来てくださったことを大喜びで喜び祝う当の中心人物だったはずの人々が、救い主イエスを憎んで、十字架につけ、犯罪人として殺してしまうおとしています。彼らは、「目の不自由な人たちを手引きして、導き歩く者」だと自認し、自分たちこそが「心細く生きる彼らのための、暗闇に輝く光である」と主張していました。あの彼らは、神についての自分たちの知識を誇っていました。けれど救い主イエスに聴き従ったガリラヤの片田舎のほんの一握りの貧しい漁師たちよりも、なおあまりに何も知りませんでした。どんな神であり、どういう救いであるのか、神を信じてどのように生きることができるのかを。

3-6節、「そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。すなわち、彼は祭司長たちや宮守がしらたちのところへ行って、どうしてイエスを彼らに渡そうかと、その方法について協議した。彼らは喜んで、ユダに金を与える取決めをした。ユダはそれを承諾した。そして、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていた」。12人の弟子の1人であるユダにサタンがはいった、と報告されています。サタン(=悪魔)は人間の頭の中で生み出されただけの架空の存在ではなく、現に確かに存在し、生きて働きつづけています。もし、悪魔を、人間が頭の中で勝手に生み出した架空の、想像の上だけの存在だと侮ってしまうなら、その人は、その同じ考え方で、生きて働かれる神をも頭の中の片隅にいるだけの、虚しい絵空事だと侮ってしまうでしょう。それでは、とても困ったことになります。

「ユダに、サタンがはいった」と報告されます。しかもユダの中に入るだけではなく、誰の心と体の中にも入り込むことができ、その人を自由自在に操りはじめるかも知れません。恐るべきことです。悪魔の誘惑を受けることさえ、あまりに危険です。悪魔の策略によって揺さぶられ、ふるいにかけられ、悪魔に捕まえられることは、本当に恐ろしいことです。けれど今や、悪魔が彼の中に入り込み、住みつくとき、その人はどうなってしまうでしょうか。しかも彼は、救い主イエスによって選ばれ、立てられた、あの特別な12人の柱の中の1人です。彼もまた、救い主イエスのためにすべてを投げうって従った者たちの1人です。キリストが語る神の国の福音を聴き、なされた奇跡の御業を見てきました。他のペトロ、ヤコブ、ヨハネなどと何の違いもありませんでした。けれどついに、彼は主人を裏切り、敵対者たちが主人を捕まえて殺すためにその手伝いをしてしまいます。ほかの11人の弟子たちは、救い主イエスが守り、保護しつづけたので、だから誰も滅びなかった。ただ、そのように定められていた『滅びの子』だけが滅びた、と報告されます(ヨハネ17:12。恐ろしいことです。

だからこそ、よくよく警戒し、悪魔との信仰の戦いに備えをして暮らすようにと警告されつづけている私たちです。悪霊に取りつかれていた多くの人々のことが聖書の中に紹介されています。7つの悪霊に取りつかれていた女性がおり、この私たちも、「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」(エペソ手紙6:11-18と警告されています。

また12人の弟子のもう1人、あのペテロも、主イエスご自身から、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている(マタイ16:23と叱られました。ペテロは、救い主イエスの十字架の死と復活を受け入れることがどうしてもできませんでした。主ご自身と自分たち自身のいのちと、目先の平安や幸いばかりに目がくらんで、心を鈍くされていたからです。主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。あっては不都合であり、私が困ります。それは、しないでくださいと。そして、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と厳しく叱られました。さらに主イエスは弟子たちに、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」と語りかけました。捨て去るべき自分のいのちとは、自分の「肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行おうとすること。それに、どこまでも執着しようとする自己中心の思いと在り方」(エペソ2:3)です。神を信じる以前に、かつてはそうだったというだけではありません。今も現にそうです。この私たち一人一人は。だから、それを「罪」と言い、「私たちは罪人である」と言い表しつづけています。神のゆるしと守りを日毎に必要とする私たちです。しかも、その肝心要をごく簡単に忘れ果ててしまいます。もちろん、たしかに神は十字架の上で罪のあがないを完全に成し遂げてくださいました。そのとおりです。では、この私たちは、洗礼を受けて神の子供たちとされたのだから、今では、すっかり自分自身の罪を洗い清められ、汚れもシミもない無垢で真っ白な人間とされているのか。いいえ、決してそうではありません。違います。成し遂げられた救いの御業と、私たちクリスチャンの日毎の現実との間には、大きな隔たりがあります。『そうあるはずの、恵みの現実』と、この私たち自身の日毎の『あるがままの自分』とはかけ離れています。その恵みの現実に向けて、全生涯をかけて、少しずつ近づいて行く私たちです。

自分の胸に手を当ててみて、直ちに分かります。少しも清くはない私だ。罪をあがなう救いはすでに完全に成し遂げられてある。けれど、成し遂げられた救いと、私たちクリスチャンの日々の現実との間には、はなはだしい隔たりがある。洗礼を受けて長い年月を過ぎてなお、私たちは怒りや憎しみを抱え、他者を見下したり軽蔑したりして暮らしている。「成し遂げられた救いの現実に向かって、少しずつ近づいて行くクリスチャンの実態」であり、「もっとも聖い人たちでも地上の生活にある間は、ほんのわずかばかりこの(神への)服従をし始めるにすぎません。とはいえ私たちは、真剣な決意のもとに、すべての神の戒めに従って生き始めている」(ハイデルゲルグ信仰問答 問114)。だから、クリスチャンである私たちも、毎週毎週の礼拝で「自分自身の罪」を言い表し、「罪のゆるし」の御言葉を聞いて心に収め、日毎の悔い改めをもって生きようと生涯にわたって努めつづけます。『神のかたち』は、ただ救い主イエスによって、救い主イエスを信じる信仰をとおしてだけ回復されてゆくと教えられています。生涯をとおして、少しずつ回復されつづけます。

神からの救いと祝福がどんなものであるのか。私たち自身が何者であるのかを、聖書ははっきりと告げています。しかも信じていない他の人々のことではなく、神を信じて生きてきた私たちのための真実をです、「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない」(1ヨハネ手紙:6-10。自分自身の罪深さと傲慢さ、かたくなさを知ることが、憐みの中を生きるための、いつもの出発点です。

もし自分に罪がないというなら、「罪人を救うためにこの世界に降りて来られた救い主イエス」と、この私は、何の関係もない者と成り果ててしまう。その途端に、憐み深い神との交わりはすっかり台無しになってしまう。このことだけは、いつもいつもはっきりと自分の心に刻み込んでおきたい。いつの間にか道に迷ってしまわないように、何度も何度も、この福音の出発点にこそ立ち戻りつづけます。かつては罪に捕らわれ、怒りや憎しみにしばしば支配されていたというだけではなく、長い間、信じて生きてきた今も、また生涯にわたって、自分の怒りや憎しみとの格闘がつづきます。救われた後にも、この私たち自身のはなはだしい罪は根深く残る。救いは完全に成し遂げられ、その完全な救いへ向かって日毎に少しずつ成長してゆく私たちです。だから日毎に、神の憐れみとゆるしを慕い求めて生きる、罪人の中の最たる者である私たちです。私たちは罪をゆるされた罪人であり、ゆるされつづけ、日毎に悔い改め続けて、神の憐れみとゆるしのもとに生きることができます。そこにだけ、格別な恵みと、神からのあわれみと平和があります。

さて1節で、「過越といわれている除酵祭が近づいた」と語りはじめられていました。『過越の祭』と『救い主イエスの十字架の死と復活』とは、深い結びつきがあります。