2021年5月25日火曜日

5/23「あなたがたは神の神殿である」Ⅰコリント3:5-17

           みことば/2021,5,23(聖霊降臨日の礼拝)  320

◎礼拝説教 コリント人への第一の手紙 3:5-17   日本キリスト教会  上田教会

『あなたがたは

神の神殿である』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

3:5 アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。6 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。7 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。8 植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。9 わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。10 神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、13 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。14 もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、15 その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。    (1コリン手紙 3:5-17)


 まず5-9節。コリントの町に立てられたこの一つのキリスト教会もまた、難しい課題を抱えていました。神を信じる信仰も、それぞれの思いも、ついつい人間中心のものに成り下がり、神ご自身の御心やそのお働きを脇に置いて、自分自身の思いと周囲の人間のことばかりを思い煩いがちになってしまいやすいことです。このコリント人への第一の手紙のごく最初の部分で、彼らの争いやもめ事の中身に早くも触れはじめています。111節以下です、「あなたがたの間に争いがあると聞かされている。はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケパに』『わたしはキリストに』と言い合っていることである。キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか」。彼らはそれぞれに自分が教えを受け、養い育てられた敬愛する格別な先生や教師をもっており、そのことを誇りにも思っていました。けれども、その誇りは度が過ぎました。救い主イエス・キリストこそがすべてのクリスチャンのためのただお独りの先生であり、教師である。そのことを、まるで、すっかり忘れ果ててしまったかのようにです。だからこそ、この手紙の書き出しは、この信仰の中心の中身と出発点へと、あの彼らと私たちを招き寄せようとします。12節、「キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる」と。

 アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない」。そこまで言わなければならなかったのは、なんとしても神ご自身へと目を向け返し、神の御心とそのお働きと存在とに共々に立ち返らねばならないからです。「大事なのは、成長させて下さる神のみである」と、その土台の上に固く立つ者たちでありたいからです。

 すべての伝道者と、それだけでなくすべてのクリスチャンとが等しく、このへりくだった低い場所へと連れ戻されます。誰も彼もがみな何者でもない。それぞれ、主から与えられた分に応じて主であられる神さまに仕えている。「神に仕える者たち」である。これこそが、すべてのクリスチャンにとって、最も祝福された幸いな身元証明です。神に仕える者であるとは、神が用いてくださる手段であり、道具であるということです。それは、この私たちが、自分の力で何かをすることができるからではなく、神の道具として、その御手に導かれている者だからこそです。例えば、約束の土地を目前にして、モーセの口を用いて神ご自身が先祖と私たちをこう戒めました、「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである」(申命記8:17-19

 「あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えている」。神に仕える伝道者たちがおとしめられているわけではありません。ここに、格別な栄誉があります。私たちそれぞれが信仰を授かったのはその彼らの働きによった、とはっきり告げられるからです。つまり、主なる神があなたがたに、神に仕える仕え人を与えられたからこそ、あなたがたは信仰に導かれたのだと。

 「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである」。神ご自身のお働きを受けて成長させられてゆく私たちは、「畑」にたとえられ、「建物」にたとえられます。種が蒔かれ、土が耕され、水がまかれ、雑草や木や石ころが取り除かれ、肥料がほどこされます。そのほかいろいろな手間がかけられます。けれどなお、それらの人々の手の働きだけではまったく不十分でした。主なる神ご自身が太陽の日差しを注ぎかけ、暑さ寒さや厳しい日照りから守り、神ご自身が育て上げてくださるのでなければ、畑を耕す者たちのその膨大な労力はなんの実を結ぶこともありえませんでした。

 神ご自身こそが成長させてくださる。この一点に、よくよく目を凝らさなければなりません。約束の土地を目前にして、モーセの口を用いて神が戒めつづけたのはこのことです。「あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう」(申す命記8:10-14。心を高ぶらせて主を忘れることがないように、主を忘れることがないようにと。つまり、種を撒く者のためにも水を灌ぐ者のためにも、神ご自身のお働きがそこに伴ってあり続けました。聖霊の御力をもってその務めに光を添え、その働きが虚しいものとならないないようにしつづけてくださいました。神に仕える働き人たちの口から出る一つ一つの言葉をご自身の言葉とし、また聞く者たちの心にその言葉を刻み込んでくださいました。もしそうでなければ、その働きは死んだものでありつづけ、無益で虚しいものでありつづけたことでしょう。8節、「植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう」。多様な、様々な働きが1つとされるのは、それらを用いて、神ご自身が生きて働いておられるからです。しかも人間たちがではなく、神ご自身こそがそれぞれに報酬を与え、評価し、判決をくだされます。

 10-15節。神に仕える働き人たちの働きとその役割について、パウロは自分と同労者たちを例にとって説明し始めます。彼は、建築士として土台を据えたのであり、その土台は救い主イエス・キリストである。それは、十字架につけられて死んで復活させられた救い主についての神の救いの知らせを宣べ伝えることであると。キリスト教会にとって唯一無二の土台は救い主イエス・キリストであり、それは取り替えがきかず、すでに据えられてある土台以外の他の土台を据えることは誰にもできないし、ゆるされない。キリスト教会の土台を据えた者たちの働きがあり、その仕事を引き継いで、さらに建て上げてゆく者たちの働きが後につづきます。一個のキリスト教会においてもそうであり、同時にまったく、一人のクリスチャンが生み出され、その信仰の生涯が続いて行くことも同様です。十字架につけられて死んで復活させられた救い主イエスという土台が据えられ、その上に、それぞれの家が建て上げられてゆく。

 キリストという土台の上にキリスト教会が建て上げられてゆきます。やがて終わりの日に、なされたその仕事がどんなものだったのかがはっきりと現わされると告げられます。燃え盛る火によって試されるのであり、用いられた建築材料が「金、銀、宝石」という火によって燃え尽きないものなのか、あるいは「木、草、わら」という燃え尽きてしまう材料なのかどうかによって、すべてが明らかにされます。土台が『死んで復活なさった救い主イエスについての使信』であるならば、もちろん積み上げられる石の一つ一つもまた『死と復活の救い主イエスについての使信』でありつづけなければなりません。それでもなお、燃え尽きてしまう虚しい建築材料を用いてしまった愚かな建築家であってもなお、その人もまた「火の中をくぐり抜けてきた者」として救われるとはっきり証言されます。なぜなら、その建築家もまた、主イエスを信じて生きた一人のクリスチャンだからです。火のような試練を受け、そこで神の慈しみによって清められて救われる望みが残されています。しかも、「神ご自身が成長させる」6-7節)と告げられていました。あの伝道者は「私は熟練した建築家として土台を据えた」と語りました。そうかも知れません。ただ、それでもなお神ご自身こそがその千倍も万倍もの熟練と知恵をもって第一の建築責任者として働き、建て上げてくださいます。私たち人間にできる精一杯の熟練は、その神ご自身の真実なお働きに全幅の信頼を寄せ、服従し、聴き従ってゆくことである他はありません。詩篇127篇を直ちに思い起こしました。「主ご自身が家を建てるのでなければ、家を建てる者が労苦することはむなしい」と。私たちの希望は、ここにあります。主ご自身が家を建てる建築責任者であり、土台そのものであり、建て上げてくださる働き手ご自身である。だから、その働きは決して虚しくはない。虚しくはさせない。

 16-17節、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」。「あなたがたは知らないのか」と、それを十分に知っているはずのクリスチャンにわざわざ問いかけるのが、パウロの大事な口癖です。よく習い覚えて、分かっているはずのことがしばしば分からなくなり、忘れてしまう私たちだからです。そのために、道を踏み外してしまいやすい私たちだからです。そこで、「知らないのか」と、信仰の肝心要の生命の部分がこのように改めて差し出されます。キリスト教会とその信仰共同体が「キリストの体」であり、私たちはその肢(えだ)とされています。また同時に、クリスチャン一人一人が聖霊なる神がそのうちに住んでくださる神殿とされている。その両方の真実です。もし、神が住んでくださる神殿とされた一人のクリスチャンを壊そうとし、傷つけようとするならば、その一人の小さな人をわざと困らせたり苦しめようとするなら、そのとき私たちは神からきびしく咎められることになる。神が私たちの味方であり、同じくまったくその小さな人の味方でもあるとは、このことです。神の憐れみが私たちにも、その一人の小さな人にも同じく及ぶからです。

 

5/23こども説教「真実の言葉を語っている」使徒26:24-27

 5/23 こども説教 使徒行伝 26:24-27

 『真実の言葉を語っている』

 

26:24 パウロがこのように弁明をしていると、フェストは大声で言っ た、「パウロよ、おまえは気が狂っている。博学が、おまえを狂わせている」。25 パウロが言った、「フェスト閣下よ、わたしは気が狂ってはいません。わたしは、まじめな真実の言葉を語っているだけです。26 王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対しても、率直に申し上げているのです。それは、片すみで行われたのではないのですから、一つとして、王が見のがされたことはないと信じます。27 アグリッパ王よ、あなたは預言者を信じますか。信じておられると思います」。  

 (使徒行伝 26:24-27

 

 目の前に、遠いローマから遣わされてきた外国人の役人と、ユダヤ人である王とその妻がいて、パウロの話を聞いています。このフェストという名前の役人は外国人で、この信仰のこともこの神さまのことも、ほとんど何も聞いたことがなくて、何も知りません。だから、ひどく驚いたり、「気が狂っている」などと乱暴なことをうっかり言ってしまうのも仕方ないのです。大目に見てあげる必要があります。けれど、ユダヤ人の王とその妻はローマからの役人とはまったく違います。なにしろユダヤ人で、みな小さな子供の頃から、神のことも、信仰の中身も、ちゃんと精一杯に教えられつづけてきた人たちだからです。この夫婦は、パウロが語る神の救いの出来事を理解して、信じることができる可能性が大いにあります。25節で、「真実の言葉を語っている」と言いました。聖書にはっきりと書かれてある神の真実を、そのまま語っていると。また27節で、「アグリッパ王よ、あなたは預言者を信じますか。信じておられると思います」。そのユダヤ人の王が神を信じていると、パウロは確信しています。私は、神が預言者たちに知らせ、預言者たちは神から知らされたとおりに神の言葉を語り伝えた。「それをあなたも信じているし、そのように聖書から教えられて、信じてきたあなたですね」と、だから、神を信じる者同士として語りかけています。

 

2021年5月17日月曜日

5/16「わたしに従いなさい」ヨハネ21:18-19

        みことば/2021,5,16(復活節第7主日の礼拝)  319

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 21:18-19               日本キリスト教会 上田教会

『わたしに従いなさい』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。  ヨハネ福音書 21:18-19

                                               

9:21 イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。        (ルカ福音書 9:21-25)

 

11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイ福音書11:28-30)


  18-19節、「『よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう』。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、『わたしに従ってきなさい』と言われた」。若いときには自分で帯を締めて行きたいところへ行っていた。しかし年をとると、こうやって両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、自分が望まない、行きたくないところへも無理矢理にも連れていかれる。目の前に差し出されている最初の意味としては、『捕まえられてあちこちへ引き回されてゆく囚人の姿』です。救い主イエスは、やがてペテロが迫害者の手に捕まり、殉教の死を遂げることをあらかじめ知っておられました。その殉教の死によってペテロが、神の栄光をあらわすことになるのだと告げて、ペテロを励まし、やがて迫って来ようとするきびしい戦いを耐え抜くようにと、そのための備えをさせています。

けれど、そればかりではなくて、クリスチャンは誰もが皆、このペテロのように生きてゆくのです。帯を締められ、クビキをかけられ、けれどもその手綱(たづな)を牢役人でも看守でも他の誰でもなく、救い主イエスこそが握っておられます。「わたしのクビキを負って、わたしに従ってきなさい」(マタイ福音書11:27-30参照)と、おっしゃっていたではありませんか。それこそが主イエスに従って生きることだと。しかも不思議なことに、それこそが格別な喜びと平安であり、背負ってゆく荷物もあまりに軽い。

くわしく味わいましょう。「若かった時には」、つまり神さまを信じて生き始める前には、自分が自分のための主人でした。行きたいところへ行ったし、行きたくないところへは行かなかった。嫌だとか気が進まないなどと断ればいいんですから。したいことをし、したくないことをしないで自由に勝手気ままに生きることができた。けれど神さまを信じて、もし、主イエスに従って生きはじめようとするならば、もし、神さまをこそ自分の主人とするならば、主であられる神さまから「~しなさい」と命じられれば、する。「~してはいけない」と言われれば、したくてしたくてウズウズしても、それをしないでおく。『イエスは主である。主イエスにこそ従う私である』。神を信じて生きることの嬉しさや心強さは、そのことだと。

 どんな死に方で神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになった。どんなふうに生きて死ぬのかを、この私たちのためにも、神ご自身こそが決めておられ、その用意をすっかり整えていてくださる。その生涯をもって神の栄光をあらわすように定めていてくださる。それは、神を信じて生きる私たちに、これ以上はないほどの十分な慰めを与えます。もし仮に、自分自身にこれから起こる出来事のすべて一切があらかじめ知らされるとしたら、しかも、それは何一つも自分で選んだり変えたりできないことだとしたなら、多くの人々にとって、惨めで悲しく辛いことになるかも知れません。私たちの多くは他の何についてよりも、愛について苦しみ、傷つき、思い悩みます。身近な家族の愛を信じることができずに苦しむ人たちが大勢います。大切な人たちをかえってよそよそしく遠ざけ、毛嫌いし、心の底で憎んでしまう人たちもいます。妻を愛せない夫。夫を愛せない妻。わが子を愛せない親たち。あるいは逆に、連れ合いや父さん母さんから、この私は十分に愛されていない。子供たちから、仲間や友だちから、もっと愛してもらいたい、もっと大事に扱ってもらいたいと。愛されることが少なすぎるので、だからこの私は虚しくて惨めでと。

いいえ、神を信じて生きるクリスチャンにとっては、『自分の全生涯を神こそが決めていてくださる』と、それを思い起こすことは格別な、深い慰めと励ましになります。自分の全生涯が救い主イエス・キリストによって知られており、救い主イエスによってあらかじめ定められ、用意されている道であると気づくことができるならば。偶然や、運不運や、たまたまそうなってしまったという気まぐれなど、自分の人生の中に何一つもなく、救い主イエスによってあらかじめ定められていると気づくならば。しかも、このお独りの方は、十分に賢くて間違いを犯すことがなく、しかも私たちをとても愛していてくださるので、どこの誰も、私たちに意味なく危害を及ぼしたり、必要のない苦しみや痛みを味あわせることも決してできないのですから(ローマ手紙 8:31-39参照)

 私たちそれぞれが生きて死ぬことのすべて一切を、救い主イエスこそがあらかじめ定めていてくださり、用意していてくださる。その全生涯をもって、この私たち一人一人もまた、神の栄光をあらわすことになる。薄暗く危うい谷間を歩くような日々があり、はげしい嵐の中を心細い思いを抱えて歩く日々もあり、けれどそうした日々にも、「救い主イエスがこのことも知っていてくださり、私をご自分の弟子として招いてくださったときから、あらかじめ計画し、このことについても準備を十分に整えてくださっていた」ことを心に刻み込んでおきたいのです。神が味方であってくださるとは、このことです。思いがけない苦難や災いや厄介ごとが起こる度毎に、私たちを愛してくださる救い主イエスに向かって苦情や文句を言うのではなく、むしろ精一杯の信頼を寄せ、そこで支えと助けを神に願い求めることができます。「主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」と。また、私たちは旅路を歩みながら互いに励まし合います、「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない」と。なにより父なる神に向かって、私たちは、「アバ父よ」と呼ばわることができます。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(詩23:3-4,121:1-4,マルコ14:36と。主はすべて、あらかじめ御存知であり、もし、それが私の幸いと祝福のために役に立たないことであるなら、それを取り除いてくださるに違いないからです。神を信じて生きるクリスチャンのその生きることも死ぬことも皆すべて、ペテロだけでなく私たちすべてのクリスチャンの生涯のすべて一切が、神の栄光を現わすために神ご自身によって定められ、用意され、あらかじめ計画されていました。主なる神のために生きるだけでなく、主のために死ぬこともできる者とされている私たちです。

 先ほどご一緒に歌いました讃美歌285番。その1節は、「主よ、あなたの御手によって私の手を引くようにして導いていってください」と願い求めます。「そのようにして、ただ、私の主が選び取り、授けてくださる主の道をこそ、私は歩主に従ってんでいきます。その道がどんなに暗く険しくても、その道を歩むことが主の御旨であるなら、喜んで、私は従ってゆきます」。3節は、「主よ、わたしが飲むべき私の杯、あなたが選び取って私に与えてください。と願い求めています。それが喜びでも、あるいは悲しみであっても、主であられる神が私の杯にそれを満たしてくださるなら、満たしていただくままに、私はそれを受け取り、飲み干します」。4節も、「この世界を主におささげし、神の国としていただくためには、この私もそのために他人から責められることも恥を受けることも、安らかに受け取ります。それがいったいなにほどのことでしょう。主の御心にこそすべて一切をお任せし、お委ねして、歩んでいきます」と歌っています。自分が選んで決めた自分の道をではなく、主であられる神さまが選んで決めてくださる主の御心になかう道を歩みます。これが、クリスチャンの晴れ晴れとした広い道です。私たちに帯を締めるのも、その帯をもって連れて回るのも主イエスです。内心行きたくないなあと思っても、主イエスが連れて行くなら、たとえ嫌々渋々でも付いていきます。主イエスが引き止めるなら、私たちは行かない。したくても、主イエスがダメと仰るなら私たちは決してしない。しなさいと命じられるなら、自分自身の願いや計画や思いを脇に置いて、私たちはそれをする。つまり、主イエスへの従順と服従です。古い罪の自分と死に別れて、神の御前で新しく生きる者とされる。「この世を神にささげまつり、神の国となすためには」。難しいことを言います。この世界全体を神さまにささげ、世界のすべてを神さまのご支配のもとに置き、その王国とすることは、現実的に具体的には、どうやって実現していくでしょう。しかも、今はまだまだ、そうはなっていない。この難問を考えながら、主の祈りを思い浮かべていました。『御父よ。あなたの名を讚美させ、感謝と信頼を寄せさせてください。あなたの国を来らせてください。あなたの御心が天の上でなされるだけじゃなくて、この地上で、私たちの生活の只中で成し遂げられるようにしてください。……国と力と栄光とは、限りなく、すっかり全部、あなたのものだからです』。神さまにすべてをささげることと神の国の実現。それを拒んでいた張本人は、この私たち自身です。「私が私が」と言い張って、神さまの御心どおりではなく、むしろもっぱら、この私の願い通りにさせてくださいと拘って、心を頑固にしていました。神ご自身の国を拒みつづけて、すべてを自分の思いのままに抱え込んでいました。本当に、申し訳ありません。ですから、どうぞ、この歌の心を『私の新しい心』とさせてください。あなたの御旨を喜び、慕い求め、あなたにこそお委ねし、主にすっかり全部お任せして生きるしもべとならせてください。主に信頼し、聴き従って生きる私たちとならせてください。

 「私に従ってきなさい」と救い主イエスが、私たちを招きます。

5/16こども説教「救い主の死と復活」使徒26:19-23

 5/16 こども説教 使徒行伝 26:19-23

 『救い主の死と復活』

 

26:19 それですから、アグリッパ王よ、わたしは天よりの啓示にそむかず、20 まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました(注)。21 そのために、ユダヤ人は、わたしを宮で引き捕えて殺そうとしたのです。22 しかし、わたしは今日に至るまで神の加護を受け、このように立って、小さい者にも大きい者にもあかしをなし、預言者たちやモーセが、今後起るべきだと語ったことを、そのまま述べてきました。23 すなわち、キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに、光を宣べ伝えるに至ることを、あかししたのです」。                (使徒行伝 26:19-23

 

  主イエスの弟子パウロは、ローマから遣わされてきた役人とユダヤの国の王の前で、神の救いのお働きについて説明しはじめています。19節で、「天よりの啓示にそむかず」というのは、神さまが知らせて下さるとおりにということです。22節で、「預言者たちやモーセが今後起るべきだと語ったことを、そのまま述べてきた」というのも、神からつかわされた預言者たちが語ったとおり、聖書に書かれている通りに、そのまま伝えてきたということです。パウロだけでなく、キリスト教会のすべての伝道者たちは、そのように同じく、「神さまが知らせて下さるとおりに。聖書に書かれている通りに」、神の救いのお働きをそのまま伝えようと努めつづけています。その中身で最も大切なことは、救い主イエスの死と復活です。23節、「すなわち、キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに、光を宣べ伝えるに至ることを、あかししたのです」。

 

 

    (注)20節「悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うように」;神の救いのお働きを信じて生きるためには、まず自分自身が神に逆らっていたことに気づく必要があります。それが、神に従って生きる新しい生活のための、いつもの出発点です(ローマ手紙 6:3-19「古い罪の自分」,マタイ1:21,1テモテ1:15「おのれの民をそのもろもろの罪から救う者」「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」参照)


2021年5月10日月曜日

5/9「私の子羊を養いなさい」ヨハネ21:15-17

       みことば/2021,5,9(復活節第6主日の礼拝)  318

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 21:15-17               日本キリスト教会 上田教会

『わたしの小羊を養いなさい』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC 

21:15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。         ヨハネ福音書 21:15-17


 復活の主イエスと真向かう中で一人の弟子が主イエスに対する信仰を回復され、その信仰によって堅く立つ者とされてゆきます。「私を愛するか?」と主イエスはその人に問いかけます。不思議なことです。何でも知っておられる主が、わざわざ質問しているのですから。しかも、しつこく3度も繰り返して。いったいなぜでしょう。この問いの意味を私たちもぜひ、はっきりと見極め、受けとめたいのです。

 15-17節、「彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、『ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか』。ペテロは言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に『わたしの小羊を養いなさい』と言われた。またもう一度彼に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。彼はイエスに言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を飼いなさい』。イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。ペテロは『わたしを愛するか』とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を養いなさい』」。まず15節の、「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」という最初の問いかけ。この問いかけは、彼の心の急所をギュッと掴んで、痛いところを突いています。この人たち以上に。なぜなら、それは主イエスが十字架にかけられて殺される直前の、あの最後の食事の席で、ペテロ自身が主イエスと他の弟子たちの前ではっきりと言った言葉だからです。「あなたのためには命も捨てます」。また、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」(ヨハネ福音書13:37,マタイ福音書26:33-35と。「わたしこそは。わたしだけは」。そのこだわりが彼の心を貧しくし、また傲慢に思い上がる者にしつづけていました。このペトロも、ここにいる私たちと同じように、ついつい人と自分とを見比べてうぬぼれたり僻んだり、安心したり心配になったりすることに深く囚われて生きてきました。自分自身の正しさや強さにこだわった彼でした。ですからここで、主イエスご自身から、『思い上がってうぬぼれていたあの時のままなのかどうか、ほんの少しも成長していないのか』と問われています。まだまだ他人よりも自分を高く引き上げて誇ろうとしつづけるのか、それとも、あなたは自分自身の低さや弱さ、愚かさや貧しさを、とうとう習い覚えたのかと。

  このペトロのつまずきと挫折を、あなたも覚えておられるでしょうか。ペトロ本人は、彼自身はよくよく覚えています。他の皆があの晩のことをすっかり忘れてしまっても、彼だけは死ぬまではっきりと覚えているでしょう。主イエスが十字架にかかる前の晩に、あのペトロは大きな挫折と失敗を体験しました。「愛するか。愛するか。愛するか」と3度くりかえされた主イエスからのあの質問は、このときのペトロの挫折と深く関わります。熱心で一途な、自信にあふれてゆるぎない彼でした。「たとえ他の弟子たち皆がつまづいても、私だけは絶対に大丈夫。何があっても、たとえ死んでもあなたに付いていきます。この私こそは信仰を堅く守り抜きます」。けれども敵対者たちに囲まれ、大きな危機と恐れにさらされる中で、あの彼もまた主を裏切ってしまいます。主イエスが裁判を受けている間、彼は大祭司の庭でこっそりと様子をうかがっていました。その正体を疑う人々の目にさらされて、彼は主イエスと自分との関係を打ち消しつづけます。「そんな人は知らない。何の関係もない」と必死に言い訳するうちに、夜明けを告げて鶏が鳴きました。そこで彼は、ほんの数時間前に自分に向けて語られていた主イエスの言葉をハッと思い起こしたのでした。「鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言うだろう」。主がおっしゃっていたとおりでした(ヨハネ福音書13:38,18:25-27)

 あの彼だけではありません。私たちも同じです。自分自身の弱さや貧しさをつくづくと思い知らされる。それは、だから信仰をもって生きることの出発点でした。主を知らないと3度言ってつまずいた彼は、その深い破れを、3度修復されねばなりませんでした。「わたしを愛するか。愛するか。愛するか」と問いかけながら、そのようにして主は主ご自身からの愛を彼に注ぎかけます。壁の破れ目を新しいコンクリートで塗り固めるように、彼の貧しさと数々の失敗といたらなさと弱さと愚かさを、主イエスの福音こそが埋めるのです。救い主イエスこそが私たちを愛して下さっている。愛して下さっている。本当に、どこまでも愛しぬいてくださる(讃美歌461番を参照)。主イエスは愛を問い、ご自身からの私たちに対する愛を差し出しながら、同時に「主の小羊を飼え。彼らの世話をしなさい」(15,16,17)とお命じになります。聖霊を受けることが身近な隣人や家族や兄弟をゆるすことだった(ヨハネ福音書20:23ように、主を愛することもまた、私たちのいつもの生活の中での具体的なあり方と離れてはありえません。「主を愛する」と言いながら、身近な兄弟や家族や隣人を侮ったり軽んじたり、軽々しく裁いたりもできないはずでした。もし、主を愛そうと願うなら、あなた自身こそが主のものである小さな羊の世話をし、彼らを養うことだと。

  羊のような私たち。羊飼いのような神様です。その神は、かつて、私たちのために《生身の人間たちに過ぎない小さな羊飼い》たちを立ててくださいました。王、祭司、預言者たちのことです。けれど彼らはことごとく失敗してしまう。また、主を裏切ってしまう。獣たちの餌食にされようとする羊を、良い羊飼いである神が見ておられます。散り散りになり、あちこちに迷い出て、飼う者のいない羊のようにすっかり弱り果てている彼らに、けれどなお主は目をこらしつづけます。とうとう主なる神ご自身が立ち上がり、その不従順な羊飼いたちにこう宣言するのです。「もう、お前たちには任せておけない。散り散りにされた群れを私自身が探し出す。私が世話をし、養う」(エゼキエル書34:10-15参照)。そのようにして、主ご自身である格別に良いお独りの羊飼いがやがて、きっと必ず来てくださる。誰のことを言っているのかを、私たちは知っています。やがて来られたその救い主イエスこそが、羊飼いのような救い主です。この約束を聞き続けた人々は待ち望みました。羊飼いのような主が来てくださると。だからなのです。長い年月が過ぎて、ある日、ナザレ村から出てきたイエスという方が《羊と羊飼い》のことを語り始めたとき、人々は、はっとして耳を澄ませました。「ある人が百匹の羊を飼っていて、その一匹が迷子になって」とその方は物語りはじめます。また、「わたしこそが良い羊飼いだ」(ルカ福音書15:3,ヨハネ福音書10:11-)と。そして、「わたしを愛するなら、あなたは私の小さな羊を飼いなさい。ちゃんと彼らの世話をし、私の大切な羊たちを養いなさい」と。

  ペトロと共に、キリストの教会は、また一個のクリスチャンは、主イエスから命じられます。「私の小羊の世話をしなさい。養いなさい」と。それは断固たる命令であり、同時にそれはキリストの教会に対する祝福であり、クリスチャンである私たち自身のための幸いです。主のものである小さな羊たちの世話をし、互いに心を配りあい、養いあう。それこそが、私たちが主からの恵みを受け取る場所です。『世話をし、養い、また世話をされ、養われるその只中で、神様からの恵みと幸いを受け取るあなたになれる』、という約束です。不思議なことが起こっています。小さな羊たちがいます。失われ、追い払われた羊たち、深く傷ついて弱った羊たちがいます。彼らの世話をし、養おうと私たちは心を砕きます。「一体どうしたらいいだろうか」と私たちは悩み、頭を抱えます。そこで、その働きと悩みの只中で《神ご自身の働き》と出会い、神がたしかに生きて働いておられると知りました。ただ独りの大きな羊飼い御自身が、この小さな羊たちの世話をし、養っていてくださると知りました。「この小さな羊たちばかりではなく、私たち自身もまた、このお独りの羊飼いによって世話をされ、養われている。本当にそうだ」と知りました。私たちは羊の世話を互いにし養うものです。私たちも羊であり、心をついつい頑固にしてしまう羊だからです。

 主イエスを信じて生きる人々よ。この1回の礼拝に私たちが集っていることには、目的があります。いっしょに聖書を読んでいる。読まずにはいられない大切な理由が私たちにはあります。「わたしの羊たち。わたしの小羊たち」と私たちが主イエスから呼ばれているからです。なぜ、主イエスのものである羊なのか。主イエスの声を聞き分け、主イエスに従って歩んでいくからです。聞き分け、耳と心に蓄えている主イエスの言葉の1つ1つが私たちを清くしてくれるのであり、主イエスを信じる者とさせ、主の御心にかなった歩みをぜひしたいと願い求めさせるからです(ヨハネ福音書10:8,15:3。だから、ここに来ました。それは私たちが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じて、イエスの名により生命を受けるためです(ヨハネ福音書20:30-31)。生命を受け取りつづけて暮らし、主イエスの復活の証人でありつづけるためです。『私が主を愛するか、どこまでどの程度に愛するか』と問われる以前に、また、『この私が兄弟や隣人たちに愛と慈しみを豊かに差し伸べる人間であるのかどうか』と問い正される以前に、それを遥かに越えて救い主イエスこそが、こんな私をさえ愛してくださる。たとえ私が弱くてもです。たとえ私が冷淡で薄情で、あまりにかたくなであってもです。神さまを信じる心が私にまだまだ足りなくても、しばしば神に背き、逆らってばかりいるとしてもです。それでもなお、主なる神さまは、私たちを愛することを決してお止めにならない(ローマ手紙5:6-)。それが、神さまから私たちへの、変わることのないいつもの約束です。兄弟姉妹たち、なんということでしょう。信頼するに足る神です。すべてを委ねて、より頼むに値する神です。

 そうか。だからです。このただ一点によくよく目を凝らしつづけるためにこそ、あのペテロも私たちも、はなはだしく心を痛めなければなりませんでした。深い悲しみを覚え、自分自身の不信仰と不従順と身勝手さをつくづくと思い知らされねばなりませんでした。『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛する愛も信仰もあまりに貧しくて、とても足りないことを、あなたたがよくご存知です』と十分に身を屈めさせられる必要があります。そこでようやく神にこそ信頼を寄せ、神に聴き従い、神に願い求めて生きる私たちとされつづけます。

 

5/9こども説教「私自身の回心」使徒26:12-18

 5/9 こども説教 使徒行伝26:12-18

 『私自身の回心』

 

26:13 王よ、その途中、真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました。14 わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである(注)』。15 そこで、わたしが『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、主は言われた、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。16 さあ、起きあがって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしに会った事と、あなたに現れて示そうとしている事とをあかしし、これを伝える務に、あなたを任じるためである。17 わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、18 それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。 

(使徒行伝26:12-18

 

 主イエスの弟子パウロは、「自分は正しいことをしている」と思い込みながら、クリスチャンたちをいじめたり、困らせたり、牢獄に閉じ込めたりしていました。14節、15節で、「なぜ私を迫害するのか」「私は、あなたが迫害しているイエスだ」と語りかけられました。自分はただ主イエスを信じるクリスチャンたちを苦しめ、困らせているだけだと思っていました。けれど、「それは主イエス自身を苦しめ、困らせているのと同じだ。なぜ分からないのか」と叱られてまいました。驚きました。そんなこと、思ったこともなかったので。つまり、自分は神に逆らう悪い人間だと気づかされたことが、神を信じて新しく生きはじめるための大切な出発点でした。16-18節、「さあ、起きあがって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしに会った事と、あなたに現れて示そうとしている事とをあかしし、これを伝える務に、あなたを任じるためである。わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである」。パウロも私たちも、自分が神さまによってそうされたように、同じく、他の人たちにも神を信じて生きることができるように手助けをする役目が与えられています。18節に、「聖別された人々」と書いてありました。それは、『自分が自分のものではなく、神のものとされて生きるものたち』(1コリント手紙1:30,6:11,エペソ手紙5:26,ローマ手紙12:1-2という意味です。

 

 

       (注)14節、「とげのあるムチを蹴れば、(蹴った自分自身が)傷を負う」;蹴られるクリスチャン各自が身に帯びているトゲは、神の慈しみと強固な保護です。クリスチャンを迫害することは、救い主イエスご自身への迫害、神へのはなはだしい敵対行動となる。もし、迫害を加え、そのクリスチャンたちを滅ぼそうとするなら、神ご自身がその敵対者をきびしく懲らしめることになる(ローマ手紙8:31-35,13:19,1コリント手紙3;16-17,27:1-5しかも この慈しみと保護の約束は信徒のみに限定されず、すべての貧しく小さなものたちにまで及ぶと明言される(マタイ25:31-46,創世記9:10-17「すべての生き物。すべて肉なるもの」,12:1-3「地のすべてのやから」)。

2021年5月3日月曜日

5/2「主であると分かった」ヨハネ21:1-14

        みことば/2021,5,2(復活節第5主日の礼拝)  317

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 21:1-14                  日本キリスト教会 上田教会

『主であると分かった』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 21:1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。      (ヨハネ福音書21:1-14)
  まず1-4節。「そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった」。「テベリアの海」と呼ばれている湖は、あのガリラヤ湖のことです。1人の人が別の呼び名で呼ばれることがあるように、同じ1つの湖が、こちらの岸辺に暮らす人々からは○○と呼ばれ、あちらの岸辺の人々からは▽□と呼ばれるように。あの彼らは故郷の、自分たちがそこで長年魚を獲って暮らしていたあの湖に戻ってきています。そこで、復活の主イエスと出会います。私たちは、主イエスの最初の弟子たちのその貧しさに目を向けましょう。生きてゆくために、あの彼らもまた額に汗して働かねばなりません。しかも、ごく普通の一介の漁師として。金も銀も持たず、蓄えもなく家も土地もなく、裸一貫で主に従いはじめた彼らは、何の後ろ盾もなく裸のままで故郷の湖のほとりへと戻ってきました。「わたしは漁に行く」と1人が言い出し、「じゃあ私たちも一緒に」と小舟に乗り込みました。魚を求めて夜通し舟を漕ぎ、濡れて冷たい網を打ち、引き上げ、また打って引き上げて夜通し懸命に働きつづけ、けれどなお何の収穫もなく、ただただ疲れ果てて、腹ペコのまま岸辺へと戻ってきました。

  この彼らこそが、キリスト教会の基礎を築く人々とされたのです。格別な教育を受けたわけでもない、教養も知識もないはずの、どこにでもいるごく普通の、いいえ、無力な無きに等しい彼らが。だからこそ、やがて、「私たちを見なさい。私には金も銀もない。誇れるものを何一つ持たない私だが、持っている飛び切りに素敵なものをあなたにあげよう。ナザレの人イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3:6参照)と語りかける者たちとされていきました。本当に文字通りに、救い主イエスご自身こそが彼らの支えであり、頼みの綱であったからです。

  5-11節。「イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた」。ここにいるこの私たちもそうであるように、主の弟子たちは様々な性分と持ち前の者たちでした。例えば、同じ小舟に乗り合わせた2人の弟子たちのうちの1人は、夜明けの薄暗い岸辺に立っているお方が主イエスだと真っ先に気づきました。「主だ」と言いました。けれどもう1人の弟子は湖に飛び込んで、主イエスのいる岸辺に向かって泳ぎはじめました。よく考えて判断してということではなく、むしろ後先考えず、そうせずにはいられなかったのです。主イエスを愛する心が1人の弟子に、「主だ」と気づかせます。その同じ心が、もう1人の弟子に、湖に飛び込ませます。

それよりも何よりも、救い主イエスが復活なさったのです。聖書は証言します;「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」(コリント手紙(1)15:1-8)。聖書が証言するばかりではありません。ここにいるこの私たちも同じく語り始めます。家にいるときにも道を歩いていても、家族の前でも誰の前でも、自分自身の魂に向かっても。朝も昼も晩も。キリストが、聖書に書いてあるとおり、この私自身の罪のためにも死んでくださったこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、多くの兄弟たちに現れ、そして最後にとうとう、月足らずで生まれたような私にも現れました。これこそ、この私にとっても最も大切なことです。なにしろキリストが死んで葬られ、復活してくださった。この私たちもまた、キリストに結ばれて、古い罪の自分と死に別れ、神さまに逆らう考えやあり方を葬っていただき、そのようにして神さまの御前で、神さまに向かって新しく生きる者とされた(ローマ手紙6:1-11)。告げ知らされてきた福音は、このことです。この私たち自身も受け入れ、これまでも生きてゆくことの拠り所としてきたし、今もこれからもそうです、と。

  復活の主イエス・キリストは、7人の弟子たちの目の前に現れました。その生身の体をさらして。ガリラヤの湖のほとりで腰を下ろし、親しく語りかけ、弟子たちと一緒に食べたり飲んだりもなさいました。しかも、主イエスの弟子たちよ。この同じガリラヤの湖で、この同じ『元・漁師』たちのために、主イエスが彼らと出会った一番最初のときとまったく同じ出来事がわざわざ繰り返されたのです。出会った一番最初のとき。夜通し漁をして虚しく帰ってきた翌朝、「網を降ろしてみなさい」と主イエスから命じられ、半信半疑で、網を降ろしてみました。おびただしい数の魚に2艘の小舟が沈みそうになったとき、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です」と縮みあがってひれ伏したペトロでした(ルカ福音書5:8)。主よ、私から離れてください。私は罪深い者です。『私はとても汚れた者だし、恵みと祝福にまったく値しない罪人である』という認識はそのままに、やがてその同じ彼が、「だから離れてください」というのではなくて、「私はとてもとても汚れた者なのです。あなたがよくよくご存知のとおりに。ですから、どうか、私から離れないでいてください。こんな私を二度と再び離さないでください。あなたから離れては何もできず、何一つも実を結ぶことができない私だからです(ヨハネ福音書15:5参照)。頼みます。お願いですから」と、必死になってすがりつく者とされていきました。そのペテロが、岸辺に主イエスが立っておられると知った途端に湖に飛び込んで、泳いで近寄ってゆく彼とされていきます。

  最初に、「子たちよ、何か食べるものがあるか。舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」(5-6)と指図なさった。弟子たちが期待に反して何の収穫もなく、手ぶらで戻ってくるその前から、岸辺では炭火が起こしてあり、その上に魚が載せてあり、パンさえもすでに用意してありました。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12)と招いてくださいました。彼らが食べる物を何も持たず、疲れ果てて、腹ペコであることを、復活の主イエスはよくよくご存知でした。あの彼らのことを、ここにいるこの私共のことさえも、ちゃんと顧みておられます。もう誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとしません。すっかり十分に分かったからです。目の前にいるこのお独りの方が自分たちの主である、主に従って生きる私たちであると。陸に上がるとすでに炭火がおこしてあり、その上に魚が載せてあり、パンもすでに用意してあり、153匹もの大きな魚で網がいっぱいでした。153匹。とれた魚の数を一匹一匹、弟子たちにわざわざ数えさせているのは、主の恵みの御計らいを何一つも忘れず、すべての恵みを心に留め、刻み続けて生きるためです(詩103:1-2参照)。しかも、それほど多くの収穫だったのに、網は裂けずにしっかりと保たれてあったことも、皆すべて、神ご自身の格別な計らいでした。その恵みの収穫をあの彼らも私たちも喜び味わい、神さまへの感謝と信頼を深く心に刻みつけるためです。今日この箇所をご一緒に読んだのは、この私たちが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じて、イエスの名により生命を受けるためです。生命を受け取りつづけて一日ずつを生き延び、主イエスの復活の証人でありつづけるためです。『イエスは主である』と私たちも知っています。神さまご自身が教えてくださったからです。ある日、「私が暮らしてゆく毎日の生活と、この救い主とは関係がある。この一回の礼拝と、普段のいつもの暮らしの中で私が何をどう選び取り、何を捨て去り、何を掴み取り、何を投げ捨てることができるのか。どんな眼差しで物事を見据え、どういう腹積もりで生きることができるのかということとは大いに関係がある。むしろその礼拝の積み重ねの土台の上に立って、一日ずつを生きる私である」と、その人は気づきはじめました。神さまが、とうとうその人にも教えはじめてくださったからです。さまざまなことに振り回されつづけていた人が、あるとき気づきはじめます。「この私こそが主に逆らっていた。天の父の御心を知らされながら、なおそれを二の次三の次とし、後回しにしつづけていた。なんということだろう」と。神さまが、その人に教えてくださったのです。湖のほとりで「パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた」13節)ときにも、聖晩餐のパンと杯を受け取るときにも、「わたしたちに必要ないのちの糧を一日ずつどうぞ贈り与えてください」と願い求めて、主からの恵みの糧の一つ一つを感謝して受け取るときにも、この私たちもまた、それが主からの恵みの糧であると分かりはじめました。そのように主を知りはじめました。神さまご自身こそが、私たちにも、主が確かに主でありつづけてくださると教えてくださったのです。



5/2こども説教「迫害者だった私に」使徒26:9-11

  5/2 こども説教 使徒行伝26:9-11

 『迫害者だった私に』

 

26:9 わたし自身も、以前には、 ナザレ人イエスの名に逆らって反対の行動をすべきだと、思っていました。10 そしてわたしは、それをエルサレムで敢行し、祭司長たちから権限を与えられて、多くの聖徒たちを獄に閉じ込め、彼らが殺される時には、それに賛成の意を表しました。11 それから、いたるところの会堂で、しばしば彼らを罰して、無理やりに神をけがす言葉を言わせようとし、彼らに対してひどく荒れ狂い、ついに外国の町々にまで、迫害の手をのばすに至りました。(使徒行伝26:9-11

 

 キリスト教の信仰の中身を知らせようとして、彼はまず、その神と自分との出会いを、自分自身の信仰の出発点を打ち明けます。救い主イエスに逆らっていた私だ。神を信じる多くのクリスチャンを苦しめたり、いじめたり、牢獄に閉じ込め、ひどい目にあわせてきた私だ。彼らを殺すことにも賛成して、その手伝いもしてきた私だと。とても悪い人間だったその私が罪をゆるされ、神の恵みを証しする証人とされたと。だれでも悪い心をもっており、神さまは、私たちの罪や悪い心や行いをゆるしてくださる、思いやり深く、あたたかい心の神さまだからです。こどものための信仰問答は、このように説明しています。「あなたはすでに救われていますか」「はい、救われています」「どうしてですか。あなたは罪人ではないのですか」「はい。わたしは罪人ですし、いまも神に背きますが、主イエスを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われているからです」「神は正しいかたで、罪を憎むのではありませんか」「そのとおりです。神は罪を憎みますが、罪人であるわたしたちを愛することを決してお止めになりません」(「当教会のこども交読文」から。ローマ手紙3:21-28,同5:5-11,ヨハネ福音書3:16,テモテ手紙(1)1:12-17,創世記4:1-15 ,同8:20-22,申命記31:8を参照)。