2021年2月8日月曜日

2/7「見失った一枚の銀貨を」ルカ15:1-3,8-10

            みことば/2021,2,7(主日礼拝)  305

◎礼拝説教 ルカ福音書 15:1-38-10          日本キリスト教会 上田教会

『見失った一枚の銀貨を』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC 

15:1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。3 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、……「8 また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。9 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。10 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。    ルカ福音書 15:1-38-10

                                               

 1:72 こうして、神はわたしたちの父祖たちにあわれみをかけ、その聖なる契約、73 すなわち、父祖アブラハムにお立てになった誓いをおぼえて、74 わたしたちを敵の手から救い出し、75 生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。76 幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみまえに先立って行き、その道を備え、77 罪のゆるしによる救をその民に知らせるのであるから。78 これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、79 暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」。(ルカ福音書1:72-79)

 この15章の3つのたとえ話15:3-7,8-10,11-32は3つで1組であり、『ルカ福音書の心』だと言い習わされてきました。いいえ、聖書66巻全体の心、神さまご自身の心であると言ってよいでしょう。しかも神さまの心は、2つも3つもあるのではなくて、ただ1つ。羊のたとえや息子のたとえと照らし合わせながら、この2番目のたとえを読み味わいましょう。

 10枚の銀貨を持っていた女性がその中の1枚を見失いました。すると、家中ひっくり返して夜通し探しつづけ、見つけたら大喜びに喜ぶというのです。それはちょうど、100匹の羊を飼っている羊飼いがその中の1匹を見失い、たいへんな苦労をして探し出し、大喜びで連れ帰るのと同じように。それはちょうど、2人の息子がいる父親が1人の息子がようやく家に帰ってきたのを出迎えて喜びにあふれるのと同じように。1枚の銀貨。1匹の羊。出て行って戻ってきた1人の息子。そして、ずっと家にいっしょにいたはずのもう1人の息子。それらが、神を見失ってはぐれていた私たち自身の姿である、と聖書は語ります。例えば、あの羊がどんなふうに迷子になったのかは、私たちには分かりません。うっかりしていたのかも知れないし、自分勝手だったのかも知れません。狼や羊ドロボウに目をつけられていたのかも知れません。迷子になって途方にくれて、「帰りたい」とメエメエ鳴いたのかも知れないし、あるいは、迷子になったとも気づかず気楽に気ままに草をムシャムシャ食べ続けていたのかも知れません。また、あの息子は自分で判断し、家を出ていくことを自分自身で選び取りました。やがて身を持ち崩して「父の家に帰りたい」と願い、家に帰ってくるときも、誰に勧められたのでもなく自分から帰ってきました。さて、あの銀貨は、うっかりしていたのでもなく自分勝手だったのでもなく、帰りたいと鳴いたのでもなく、自分で帰ってこようとしたのでもありませんでした。だって、ただの銀貨だったのですから。ただ単に財布から落ちて、コロコロ転がって、どこかに紛れ込みました。自分が失われた、とも知りませんでした。放っておけば100年でも200年でもそのまま失われていたでしょう。見つけ出されて持ち主の手に戻っても、たとえ持ち主が大喜びに喜んだとしても、けれど銀貨は、うれしくも何ともない。持ち主の手に戻ったことに気づきもしないかも知れません。

 ここで、一つ気づくことがあります。3つのたとえ話を始めるきっかけとなった場面1-2節)。主イエスと共に食事の席についている人々。そして、遠くから眺めて「どうしてあんな人たちと」と腹立たしく思っていた人々。その一方で救い主イエスと共に食卓についていたあの人たちは、そのことを嬉しく思っていました。ちょうど羊飼いのもとに連れ戻された羊のように。ちょうど、父の家に迎え入れられたあの弟のように。遠くから眺めて「どうして」と腹立たしく思っていた律法学者やパリサイ派の人たちはどうでしょう。多分、もしその食卓に招かれたとしても、あんまり嬉しくは思わなかったでしょう。迷惑そうな渋い顔をして、「いいえ間に合っています」などと招きを断ったかも知れません。席に着いたとしても、「あまり熱心に誘われたものだから、仕方なく義理で、ちょっと来てみた」とソッポを向いているかも知れません。『ついに今この私は、救い主の恵みの御手の只中にある。この食卓がまさにそれだ』とは気づかないかも知れません。ちょうど、見つけ出されて持ち主の手の中に戻った銀貨がうれしくも何ともないのと同じように。けれど兄弟姉妹たち。連れ戻された羊が喜ぼうが喜ぶまいが、見つけ出された銀貨がそれを何とも思わなくたって、戻ってきた息子が感謝してもしなくても、なにしろ羊飼いはうれしい。なにしろ銀貨の持ち主はうれしい。なにしろ、あの父親はうれしい。多分、あの不機嫌な律法学者やパリサイ派の人たちが食卓に一緒に座ったら、もしそうしたら、主イエスはとても喜んだでしょう。家中ひっくり返して銀貨を探しつづけたあの持ち主のように。出迎えたあの父親のように。あの羊飼いのように、大喜びに喜んだことでしょう。

  もし、あなたがあの羊飼いだったとしたら、1匹の羊を見失ったら、同じように99匹を野原に放り出して探し回るでしょうか? もし、あなたが10枚の銀貨を持っていてその中の1枚をなくしたら、家中ひっくり返して1晩でも2晩でも、何週間でも何ヶ月かかっても見つけ出すまで探しつづけますか? いいえ他の用事もあり、私たちも結構忙しいのです。1匹ばかりに構ってはいられません。なくした銀貨についても同様でしょう。よほど家計が苦しくなければ、あるいはよほど高額な紙幣に目の色変えることはあっても、わずかな小銭になどあまり見向きもしません。けれど、これは他のどこにもいないほどの、きわめて稀有な羊飼いです。あまりに不合理な愚かな女です。神の価値判断は私たち人間の普通の価値判断とはまったく違います。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。罪のゆるしによる救いであり、それらすべて神の憐み深い御心によるからです(1コリント手紙1:25,イザヤ書55:8-9,ルカ1:77-79参照)

 先週のあの羊飼い。今日の、銀貨の持ち主である女、来週の1人の父親。それらは皆、ただお独りの神さまのことです。すると、「銀貨10枚を持っている女」(8)と言いながら、現実には、わずか10日分の労働賃金の蓄えしかない貧しい女性がなけなしのその1枚を必死に探し回るということではありません。むしろ、この女性はビックリするほどの大金持ちであり、その懐にはおびただしい数の膨大な資産を持っています。来週読み味わう1人の父親にも、おびただしい数の膨大な息子たち、娘たちがいます。神さまなんですから。その1枚の銀貨を探し出して、それでいくらかの買い物をしようとか、旅行のための費用の一部にするなどということでもありません。その1枚が見つからなかったら日々の暮らしに困る、というわけでもありません。困る困らない、都合がいい都合が悪いという話でもありません。神さまと、この私たち自身のことなのですから。頭をすっかり切り替えなければ、羊と1人の羊飼いのことも、銀貨と1人の持ち主のことも、息子たちと1人の父親のこともチンプンカンプンで、まったく何も分からないまま家に帰ることになります。どうしたわけか、野原に留まっていた99匹の正しい羊はなんだか物寂しくなってしまいました。持ち主の手の中にあったはずの9枚の正しい銀貨は、嬉しくもなんともなかった。家にずっと留まって父とずっと一緒に暮らしていたはずのあの「自分は正しい。ちゃんとやっている」と思い込んでいた兄さんは、けれどどうしたわけか喜び損ねて、どうしたわけか不平不満と悲しみと嘆きを密かに募らせてました。野原に留まりながら、持ち主の手の中にありながら、家にずっといながら、けれどもあの物淋しい彼らは迷子になっていました。とても大切なことを忘れてしまっていたからです。この羊飼いや銀貨の持ち主は、人間ではない。神ご自身です。私たちの主であられます神は、私たち人間のような神ではありません。価値ある大きな羊だから、と探す神ではありません。格別に値段の高い、毛並みのいい、優良上等な美しい羊だから、と惜しむ神ではありません。他の粗悪に造られた価値の低い銀貨と違ってたいそう高額な特別仕立ての銀貨だから、と探す神ではありません。他の息子と違って見所と取り柄のある大きな息子だから、と探す神ではありません。兄弟姉妹たち、本当に良かった。私たちは、高く昇っていっても神のようにはなれず、人間の道理にかなってモノを見、人やモノや自分自身を、自分たちの道理の枠の中で判断し続けてしまいます。知っているつもりになって、何でも分かったつもりになって。自分や他の人々にどれだけの価値があるのかと、そればかりを気に病みつづけて。

 7,10節。「大きな喜びが天にある。神の天使たちの間に喜びがある」。神の喜びは、神の悲しみや痛みと表裏一体であり、一組です。神さまのほうに向いていたはずの1人のゆるされた罪人が、いつの間にか人間のほうへ人間のほうへと思いを曇らせ、心を惑わせてゆく。ついに人間のことばかり思い煩い、神を思うことを忘れてしまう。すると、その1人の魂を思って、天に大きな大きな悲しみと痛みがある。その1人の迷い出てしまった貧しく小さい哀れな罪人を思って、神さまご自身がどんなに心を痛め、どんなに深く嘆き悲しむことか。だからこそ、立ち帰ってきたその1人の罪人を思って、神ご自身が大喜びに喜んでくださる。その喜びの大きさと深さは、その人のための神さまご自身の悲しみや嘆きの大きさと一組でした。目を凝らしてください。あの1人の羊飼いは大喜びに喜んでいます。「皆さん、いなくなっていた羊をとうとう見つけました。一緒に喜んでください」。あの1人の女も喜んでいます。「嬉しい、嬉しい。本当に嬉しい。どうぞ、一緒に喜んでください」。喜んで下さる神さまと共に、私たちもますます喜びたい。一緒に喜びたいし、いつまででも喜びつづけたい。それは第一に、神のあわれみと真実とを受け取ること。第二に、受け取ること。第三にも四にも五にも、しっかりと受け取り手放さずにいることです。大事なことをすっかり見失いつづけていました。神さまが、その人自身のためにも大喜びに喜んだり、ひどく悲しみ嘆いたりなさっているということを。私たちの主なる神さまは、正しくあられ、またなんでもおできになるだけではなく、価なしにただ恵みによって憐れんでくださる慈しみ深い神です。ただその恵みと憐れみによって救われた私たちです。神に逆らい、背いていた、神を信じる心がほんのわずかしかなかった不信仰な私たちのために救い主イエス・キリストが死んでくださいました。死んで、死者の中からよみがえってくださいました。そのことによって、私たちに対する神の愛と憐みが示され、差し出されました(ローマ手紙8:5-11参照)ついに、とうとう思い出しました。価なしに、ただ恵みによってく愛され、多くをゆるされつづけてきた私たちです。迷子になったあの一匹の羊のように。あの1枚の銀貨のように。父を見失ってはぐれていたあの息子たちのように。いなくなっていたのに見つけ出していただきました。死んでしまうところだったのに、生き返らせていただきました。その1人の迷い出てしまった貧しく小さい哀れな罪人を思って、神さまご自身がどんなに心を痛め、どんなに深く嘆き悲しむことか。だからこそ、立ち帰ってきたその1人の罪人を思って、神ご自身が大喜びに喜んでくださる。その喜びの大きさと深さは、その人のための神さまご自身の悲しみや嘆きの大きさと一組でした。目を凝らしつづけましょう。1人の羊飼いは大喜びに喜んでいます。「皆さん、いなくなっていた羊をとうとう見つけました。一緒に喜んでください」。あの1人の女も喜んでいます。「嬉しい、嬉しい。本当に嬉しい。どうぞ、一緒に喜んでください」と。その一人の人のためにも、神さまご自身こそが恵みの御業を持ち運んで、生きて働いてくださっています。「嘆いたり、泣いたりしなくても良い。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8:9-12参照)