2021年2月23日火曜日

2/21「父の家に帰る」ルカ15:11-24

 

       みことば/2021,2,21(受難節第1主日の礼拝)  307

◎礼拝説教 ルカ福音書 15:11-24                  日本キリスト教会 上田教会

『父の家に帰る』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 15:11 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。17 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。     (ルカ福音書 15:11-24)

11節、「ある人に息子が2人いた」。この「ある人=父親」は、神様のことです。「2人の息子」は、私たち人間のこと。兄と弟、2種類の別々の人間、別のタイプというよりも、同じ一人の私の中にも2つの心やあり方があります。先週と今日はまず、弟の箇所です。まず、12-16節。父の家を出て、放蕩のかぎりを尽くし、やがて身を持ち崩してしまうまで、あまりに足早に、大急ぎで語られます。「財産を分けてくれ」と言われれば、あの父親は言われるままに分けてやります。「出て行く」と言われれば、あの父親は言われるままに送り出します。まるで、息子が家に留まろうが出て行こうがあの父親にはどうでもいいかのように見えてしまいます。あまりに無口な父親です。ですから、『父の家を出て行くことが一体どういうことなのか。あの父親が、息子のことをどんなふうに思っていたのか。何を感じていたのか』は、このときにはよく分かりません。それは、帰ってきてギュッと抱きしめられたときに、そこで初めて分かります。父の家を出ていった息子の心が分かりますか? 独りで、誰の世話にもならず、自由に思い通りに生きてみたい。神様に対してもそうです。『神なんかオレには必要ない。オレはオレの力で生きる。自分の目で見て、自分の腕で切り開き、自分の足で歩いて行く。思い通りに自由に生きてやる』;それが、放蕩息子の正体であり中身です。ぼく自身も、さ迷い歩いた放蕩息子たちの1人だったので、この正体が分かりました。世界中に、何万人、何億人という数の放蕩息子たちがあふれています。すでに家に帰り着いた放蕩息子たちがおり、まだ放蕩途中の息子たちや娘たちがおり、これから父の家を出て行こうかと荷物をまとめはじめている息子や娘たちがいるでしょう。そのうちの何人かは、例えば明日の朝にも、「あなたの財産のうちで私がいただく分をください。さあ早く早く」と言い出すかも知れません。

自分のことです。長い間さ迷いつづけた後で、ようやくキリスト教会に、つまり父の家に戻ってきたとき、導いてくれた牧師が語ってくれました;「神を見失って、神ナシで生きるとき、人は何か別のものを『神・神のようなもの』とし、支えや誇りとしてしまう。周囲の人々やモノが『神のようなもの』になってしまう。あるいは、自分自身を『神のようなもの』としてしまう。『どうだ。オレ様はこんなにすごい』と思い上がり、傲慢になり、かと思うと『自分は何も出来ないダメ人間だ。生きていても仕方がない』。高ぶりと絶望。傲慢に思い上がったかと思うと、次の瞬間には卑屈にいじけている。その繰り返しです。上がったり下がったりしつづけて、心の休まる時がない」と。その通りでした。神さまを捨てて背を向けることは、別のところに別の『神ではない、偽りの神々』を作ることになってしまう。知らないうちに、何かを『自分の神。神のようなもの』にしてしまいます。しかも、ご覧ください。この世界は『まるで神であるかのようなもの』であふれています。お金や地位や名誉を、自分のための神とすることができます。ただの生身の人間だろうがイワシの頭だろうが、社会のしきたりだろうが誰かが決めたルールだろうが、何でも手当たり次第にあがめて、まるで神のように祭り上げることもできます。それは、これがあるから安心という支えや頼みの綱でした。あなたはどうでしょう。何をあなたの支えや頼みの綱とし、何を拠り所とするあなたなのかと問われています。

  さて、あの息子は財産を使い果たし、身を持ち崩してしまいます。飢饉が起こりました。食べるにも困りました。その頃の社会では、豚を飼う仕事が一番恥ずかしい一番人に嫌われる仕事と思われていました。彼は、その豚を飼う者になり、腹が減って腹が減って、その自分が飼っている豚のエサでも食べて空腹を癒したいと願うようになりました。どん底です。そこで彼はハッと我に返ります。17節。それまで、がむしゃらに夢中になって生きる中で、彼もやはり「我を忘れて」いたのです。「そういえば、父のところでは、あんなに大勢の雇い人の一人一人に、ちゃんと有り余るほどのパンが与えられていた」。我に返って、まず気づいたのはそのことでした。大勢の雇い人。雇い人は、今のサラリーマンとはずいぶん違って、日雇い労働者に似ています。その日暮らしの、仕事があったりなかったりして、とても不安定な心細い生活をしている貧しい人々。今日では、非正規雇用や派遣された労働者。また技能実習生などと体裁のよい名目で、けれども実態は、ただただ都合よく無責任に使い捨てにされ、不当に搾取されつづける数多くの外国からの出稼ぎ労働者たち。聖書の中の別のたとえ話では、雇ってくれる人がなくて広場で一日中あてもなく立っているたくさんの人たちの姿(マタイ20:1-がありました。それが、あの当時の雇い人です。そういう雇い人でさえも、「有り余るほどのパンが与えられている」。まして父の子である私は、この父親から、どんなに手厚い親身な、愛情深い扱いを受けつづけていたことか。その父に対して自分は、どんなに身勝手で、どんなに独りよがりな考えだったことか。彼は、やっと気づきました。我に返ったのです。

 この父親は、神様のことです。私たちの神さまがどんな神さまなのかを、それをこそ、ここで見つめたいのです。この父の姿を、よくよく味わっておきましょう。20-24節。まだ遠く離れていたのに、「あ、あの子だ。とうとう帰ってきた」と直ちに見つける父です。たまたま見つけたのではありません。目がとても良いわけでもありません。「あの子はいつ帰ってくるだろう。今日だろうか明日だろうか」と、いつもいつも目を凝らして見渡している、片時も私たちから目を離さない父だからこそ、はるか遠く離れていたのに、すっかり変わり果てて別人のようになっていたのに、それでも「あ。あの子だ」と見つける父です。そのような神さまです。息子を見つけて、あわれに思いました。「あわれに思う」とは、『かわいそうでかわいそうで、悲しくて、はらわたが掻きむしられる』という意味です。神さまが私たち人間を、こうやって見ていてくださる。豚を飼う仕事をしながら、豚のエサを眺めて身もだえする息子のような、そういう私たちです。苦しくて困って悩んで、どうしていいか分からずしばしば途方にくれている私たちを見て、私たちの主なる神は、かわいそうでかわいそうで悲しくて、はらわたが掻きむしられるのです。

 あの父親は息子を見つけて、見つけた途端あわれに思い、走り寄ってギュッと首を抱き、接吻しました。変わり果てた情けない姿で遠くからトボトボトボトボ歩いてくる私たちを見て、神さまの心は、私たちへと一目散に飛んできます。走り寄ってきて、私たちの首に倒れかかるようにして、ギュッときつく抱きしめてきます。抱きしめられながら、私たちは、あのお詫びの言葉を言おうとします。道々考え、歩きながら何度も何度も言う練習をしてきたお詫びの言葉を。「お父さん。わたしは天に対しても、またお父さんに対しても」。でも、なんという父親でしょうか。せっかく考えて、道々せっかく練習してきた侘びの言葉を、この父親はろくに聞きもしません。「お父さん。わたしは天に対してもまた」。父親は最後まで言わせません。最後まで聞かなくてももうすっかりよく分かっているというよりも、私たちが謝罪や弁明や侘びの言葉を話しかける途中で、いいえそのずっと前から、「あ。あの子だ」と見つけた瞬間から、あの父親は、もう嬉しくて嬉しくてたまらない。居ても立ってもいられない。ここです。この父を見てください。見失っていた一人の息子が戻ってきたことで、我を忘れて、こんなにも大喜びに喜んでくださる父親の姿を見なさい。あなたは、この父親の姿にこそ目を凝らしなさい。私たちの神は、こういう神です。「さあ、急いで急いで。一番上等な服を持ってきて、この子に着せてやってくれ。指輪もはめてやってくれ。いいか、靴も忘れるな。さあ早く早く」。上等な服は、父のもとに戻ってきた祝いの晴れ着です。そして、この人を父が手厚く守っていてくれることのしるしです。指輪は、あの父親の大切な子供であることのしるしです。靴は、もう奴隷ではない自由な人間であることのしるしです。大喜びのパーティーが始まります。24節。この子は、今まではいなくなっていた。とうとう見つかった。今までは死んでいた。今からは生きるのです。主なる神さまを一途に仰ぎながら、父から愛されている大切な息子、娘として、色あせることのない本当の喜びの只中を、この子は生きることをしはじめます。 

 最後に、もう一つのことを考えましょう。どこで何をしていても、父の御心を見失わず、自分が父の息子であり娘であることを腹に据えて、父に背を向けずに生きることもできるはずです。旅立って、出かけてゆき、けれどその後で度々帰ってきたらいい。できれば毎週毎週。惨めにボロボロなって、なにもかも使い果たして、それで、そのまま家に帰ってくることさえできます。ちょうど、あの放蕩息子のように。なぜなら、家の中でただ心配して、ただ待っている父ではありません。「どうだ大丈夫か」とどこまでも探しに出てきて、私たちがずっと遠くに離れているうちから、私たちのどんな失敗も、どんな惨めさ苛立ちも失望も、どんな嘆きもため息にも、目を凝らし耳を傾けつづけてくださる父でした(出エジプト記3:7,創世記4:10,8:1,16:13参照)。父のものである財産をたくさん贈り与えられ、それを山ほど抱えて、私たちは旅に出ます。けれど兄弟たち、息子や娘であることを忘れたどこかの馬の骨としてではありません。天の父の家から、父の息子たち娘たちとして遣わされてゆくのです。父の御心から離れずに、父に背を向けずに、私たちは父から遣わされて生きるのです。それぞれの町や村へと。それぞれの家庭や職場へと。家族や同僚たちの只中へと。ずっと語りかけられてきた父の御声と言葉を思い起こし思い起こし、『わたしは天の父の息子。娘である』と肝に銘じながら一日一日を生きる。もし、そうであるなら、私たちはどんな遠くへでも、どんな悩みや乏しさや困難の只中へも、恐れず勇気をもって出かけてゆくことができます。一つ所に腰を据えて、じっと留まることも出来ます。一週間、また一週間、また次の一週間と七日ずつ区切られた私たちの旅路です(♪「七日の旅路」56)。送り出され、そこに腰をすえて留まり、日曜日ごとに、また父の家に帰ってきます。












レンブラント「放蕩息子の帰還」1668-69年制作