みことば/2021,1,31(主日礼拝) № 304
◎礼拝説教 ルカ福音書 15:1-7 日本キリスト教会 上田教会
『見失った一匹の羊を』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
15:1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。3
そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。5
そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。7
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。 (ルカ福音書 15:1-7)
2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。24
さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。25
あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。
まず1-3節、「さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった」。罪人たちを迎えて一緒に食事をしている。主イエスを憎んで、踏みつけにしてやろうとする者たちのこのつぶやきは、その方を喜んで褒めたたえているわけではありません。あざけって、笑いものにしています。しかも、このパリサイ人や律法学者たちのつぶやきは、まったく的確であり、神の真実を言い当てていました。そのとおり。救い主イエスは、罪人を救うためにこの世界に降りて来られました。彼らの罪をゆるし、その彼らを清くし、神の国へと迎え入れること。それこそが、救い主イエスに託された使命です。このお独りの方は正しい人を招くためではなく、ただ罪人を招いて悔い改めさせ、罪から救い出してくださるためにこの世界に来てくださいました(1テモテ手紙1:15参照)。
そのために救い主はへりくだり、固守なさらず、かえってご自分を虚しくなさり、神であられることの栄光も尊厳も捨て去ってくださいました。けれど、この私たちには自分自身が罪人であり、神に背く罪深いものであり、度々わけもなく心を頑なにしてしまうという自覚が、ほんのわずかでもあるでしょうか。この自分こそがはなはだしくよこしまであり、神の怒りに価すると感じ取ることがあるでしょうか。むしろ、いつの間にかひどく傲慢(=ごうまん。思い上がった気持ちになり、人を見下す様子)になり、気高く善良で、神の恵みにふさわしい自分であると思い込んでしまったのかも知れません。あのパリサイ人たちのように。
◇ ◇
この15章の3つのたとえ話(15:3-7,8-10,11-32)は3つで1組であり、『ルカ福音書の心』だと言い習わされてきました。いいえ、聖書66巻全体の心だと言っていいでしょう。4節以下です。迷い出てしまった一匹の羊と羊飼い。羊飼いは、見失ったその一匹の羊を見つけ出すまで、いつまででもどこまででも探しつづける。羊と羊飼いの姿は、聖書によって養われつづけてきた人々にとって、とても馴染み深いものです。羊飼いのような神が私の主であってくださる。また、この神によって支えられ、養われ、心強く守られて生きる私たちは一匹の羊のようだ(詩23,同119:176,イザヤ53:6,エゼキエル34:1-24,ヨハネ福音書10:9-16,1ペテロ手紙2:25参照)。けれどさて、私たちはどこがどう羊に似ているというのでしょう。他の動物と比べて、羊には何があり、何がないのでしょう。立派なツノも恐ろしいキバもない。太くて強い腕もない。固い甲羅におおわれているわけでもない。ウサギのように危険を聞き取る良い耳を持っているわけでもない。格別に足が速いわけでもない。だから、私たちは羊のようなのだ。ライオンや熊に襲われ、狼に追い回され、羊ドロボウに狙われる。だから、私たちは羊のようです。その弱さと無防備さが、私たちです。ひどい近眼でとても目が悪い。目の前の、いま食べている草しか見えない。うまい草に目も心も奪われ、夢中になって食べているうちに、簡単に道を逸れ、迷子になってしまう。気がつくと仲間たちからも羊飼いからもはぐれて迷い出てしまう。
あなたが群れからはぐれて道を迷い出ていったとき、良い羊飼いであられる救い主イエスはどんなに心を痛め、どんなに悲しみ、どれほどあわれに思ったことか。だからです。見つけ出すまで探し回り、どこまででも追い求め、見つけたときに大喜びに喜びます。「よかった。どうぞ、いっしょに喜んでださい。いなくなっていたあの一匹が見つかりました。死んでいたかも知れないあの一匹が、とうとう生き返った。こんなに嬉しいことはない」と。けれど今日では、危ういところを辛うじて連れ戻していただいた一匹の羊のために一緒に喜ぶことのできる羊たちは、あまり多くはないかも知れません。ある人は正直なところ、自分が羊だなどとは思ってもいませんでした。大きな熊か、素敵なカモシカか何かもっと強い、もっと足の速い、もっと利口でたくましい生き物だと思っていました。また別の人は、「たしかに私は羊かも知れないが、それでも、あの迷子の1匹なんかじゃなくて99匹の中の1匹だ。迷子になるなんて迂闊すぎる。考えが足りず、自分勝手だったんだろう。そんなつまらない愚かな価値の少ない1匹のことなんか放っておいて、私たち99匹の正しい羊たちの世話をもっとちゃんとしてほしいのに」と、他人事のように、まるでいかにも優れた見識を持つ評論家のように冷ややかに眺めていました。だから、こんなたとえ話を聞かされても、うれしくとも何ともない。そうでした。羊のもう一つの決定的な性質は、とても忘れっぽいことです。『喉元過ぐれば熱さを忘るる(=苦しい経験も、そのときに受けた恩義も、すぐに忘れてしまうこと)』と言いました。苦しいことや辛かったことを忘れてしまうだけではなく、嬉しかったことも心から感謝したことも、ごく簡単に忘れてしまいました。その羊たちも私たちも、ほんの少ししかゆるされなかったのではありません。少ししか愛されなかったわけではありません。けれど、とても多くゆるされたことも、多く愛されたことも、すっかり忘れ果ててしまいました。そのせいで人を愛したり、思いやったり、ゆるしてあげたり、神さまに感謝することさえも今ではほんのわずかしか出来なくなってしまいました(ルカ福音書7:44-48参照)。
あの格別な羊飼いの悪戦苦闘は、実は、見失ったその一匹をようやく連れ戻した直後から始まりました。99匹の残った群れの中にその1匹を戻し、「ああ良かった」と一息つく間もなく、別の一匹が見当たらないことに羊飼いは気づきます。気づいた途端に、羊飼いはまたもや手に取るように分かってしまう。その心細さと惨めさを。こうして羊飼いは、来る日も来る日も見失った羊を探し求めつづける。連れ戻しつづける。しかも、たった今連れ戻していただいたばかりの羊さえ、澄ました涼しい顔をして文句を言い始めます、「ああ。迷子になるなんて信じられない。考えが足りず、浅はかで、自分勝手だったんでしょう。まったく。そんな1匹のことなんか放っておいて、私たち99匹の正しい羊たちの世話をしてください」などと。けれど羊飼いには、なにしろあの一匹のことが憐れでならない。滅びるままに捨てておくことなどできない。今にも失われようとするその小さな一つの生命が、あまりに可哀そうで、惜しまれてならない。
7,10節『悔い改める』。この聖書独特の言葉には、ただ単に「悪かった。とても反省しています」というよりも、もっと嬉しい豊かな意味があります。『神さまのほうへ向き直る』ことです。気もそぞろでフラフラしていた者が、『神さまのほうへ、グルリと向き直る』こと。神の御前に据え置かれて、そこで、『どんな神さまか。神さまがどんなふうに働いておられるのか。何を願って、どうしようとしておられるのか』と目を凝らしつつ生きることです。ですからそれは第一に、神のあわれみと真実とを受け取ること。第二に、受け取ること。第三にも四にも五にも、しっかりと受け取り手放さずにいることです。1人の罪人が悔い改める。物欲しそうにあちらこちらと見回していたあの人が、深く息をつき、腰をすえて、向きを変えた。神様のほうへ向き直った。自分自身と人間のことばかり思い煩っていた1人の人が、ついにとうとう神を思うことをし始める。神を思いながら、神へと思いを凝らしながら生きることをし始める。すると、悔い改める必要のない、神を思う必要のないとついうっかり思い込んでしまった99人の強く正しい人についてよりも、もっと大きな、ずっとずっと大きな喜びが天にある。それを神ご自身が、どんなに待ち侘びていたことか。その1人をようやく探し出し、ついにとうとう迎え入れることができたことを思って、神ご自身が大喜びに喜んでくださるのです(ルカ15:7,10,22-24,32節)。
1人の人は、ここでようやく思い当たります。「そうだった。うっかり忘れていたが、この私こそが羊だった。それも、囲いの中の正しくふさわしい99匹じゃなくて。たびたび迷子になった。弱く、あまりに無防備な私だ。羊飼いのような主がこんな私のためにさえ確かにいてくださり、何度も何度も探し出し、連れ戻し、私に襲いかかってきた熊やライオンとも命がけで戦って、救い出してくださった。そうしていただくだけのふさわしさや価値があったからではなく、ただただ深く憐れんでいただいたので。だから、こんな私さえ心強い」と。主のものである羊たちよ。私たちの安らかさや満ち足りた慰め深さは、むしろ、深い痛手を負った羊飼いの膝元にある慰めでした。血を流し、体を引き裂かれて横たわる瀕死の、自分のために生命をさえ投げ出して死にゆく羊飼いの、その痛々しい枕元にある喜びと信頼でした。羊飼いの真実さや愛情深さは、そこにあったのです(ヨハネ10:11,15参照)。こんな自分のためにも深い痛手を負い、血を流してくださった羊飼いを、十字架につけられ、青ざめて身悶えするキリストを目の前に見て、目の前にありありと示されて、そこでその格別な慈しみを味わい知りました。「ああ、そうだったのか。そうだった、そうだった。すっかり忘れていた。けれど思い出した」。ついに、とうとう。
キリストの教会とは何者でしょう。クリスチャンとは何者でしょう。キリストの福音とは、そもそも一体どんな福音だったのでしょうか。それは、救い主イエス・キリストと共にあわれみの食卓につくことです。あわれみの良い肉を食べ、あわれみの甘い飲み物を飲み、共々に分かち合いながら、「肉も飲み物も、食事のための晴れ着も、何の備えもなかった私たちだ」と喜び祝うことです。あの格別なお独りの羊飼いと共に。見つけ出され、連れ戻していただいた羊たちと共に。『救い主と共に食卓につく』のに誰がふさわしいだろうかと、私たちは、まだなお問わねばならないでしょうか。誰がふさわしいのか。そのふさわしさはどんなものかと。いいえ、主イエスを信じて生きる私たちには、それより千倍も万倍も大切なことがあった。私たちは主の群れ。主に養われる羊たちです。道を誤り、それぞれの方向に逸れて迷い出ていった私たちを、この格別に良い羊飼いであられるお独りの主こそが、ただ憐みによって連れ戻してくださった。喜んでください。今日は、食べて祝う日です。今日は『いなくなっていたのに見つかった』という記念日です。『死んでいたのに生き返った』という聖なる日です。だから嘆かなくても良いのです。悲しまなくてもよい。主を喜び祝うことこそ、私たちの力と幸いの源なのですから(ネヘミヤ記8:10)。