みことば/2021,2,14(主日礼拝) № 306
◎礼拝説教 ルカ福音書 15:11-19 日本キリスト教会 上田教会
『放蕩息子の回心』
15:11 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。13
それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。15
そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。17
そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19
もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 (ルカ福音書 15:11-19)
2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。24
さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。25
あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。
(1ペテロ手紙2:22-25)
11節、「ある人に二人の息子があった」。この「ある人=父親」は、神様のこと。「2人の息子」は、私たち人間のことです。兄と弟、2種類の別々の人間、別のタイプがあるというよりも、同じ一人の私の中にも2つの心やあり方があります。今日と次週はまず、弟の箇所です。12-16節、「ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった」。このたとえ話の中で最初に目に入るのは、自分自身の心に思うまま、思い通りに生きていこうとする自由な人間の姿です。何にも捕らわれない自由な生き方。それはたいそう好ましくも感じられ、「そのように思う存分に自由に生きてみたい、そうできたらどんなに素晴らしいだろうか」と願う心が誰にでもあるかも知れません。多くの人々が、また私自身も、父の家を出ていったこの一人の放蕩息子のようでした。
私たちは皆、生まれつきとても傲慢であり、あまりに思い上がった自分勝手、自分中心な心を抱えています。あるいは逆に自尊心が低すぎて、自分に自信が持てず、「これでいいんだ」と自分を認めることも自分を十分に愛することもできないで、卑屈に臆病になりました。そうやって嘆いたり怒ったり怖がったりしながら、自分だけの小さな殻に閉じこもっています。ですから、神との交わりのうちに、神のお働きと配慮のもとにその御心に聞き従って生きてゆくことを喜ぶことのできる人間は、ごくわずかかも知れません。私たちの多くは、父の家を出ていったあの一人の息子のように、主なる神に背を向け、その御もとから遠く離れ去ってゆきました。神を抜きにして、まるであたかも神がいない世界に生きているかのように。けれど多くの時間が過ぎ去ったあとで、父の家を出ていったあの一人の息子は、手にいれたはずの多くのものは何の役にも立たない、ただ虚しいだけのものだったと気づかされました。父から多くの財産を分けていただき、多くの良いものを贈り与えられていたはずなのに、すべての財産をただ虚しく使いつぶしてしまった。何かに心を奪われ、自分自身の身勝手な欲望や心の思いの奴隷とされ、贈り与えられた財産をただ虚しく無駄遣いしつづけ、そして結局、私の手元にはもう何一つも残っていない。この息子が陥ってしまった苦境、虚しさ、無意味に使いつぶしてしまった人生、誰にすがることも助けを求めることもできないその惨めさやその心細さを、聖書は「自分自身の罪。その罪によって陥ってしまった悲惨」だと語りかけます。また、「私たちはみな迷い出てしまった一匹の羊のようだ。それぞれに道を踏み外し、それぞれの方角へと迷い出ていってしまった」(イザヤ書53:6参照)と。この一人の息子のふるまいと、陥ってしまったはなはだしい苦境は、神に背を向け、離れ去っていったこの私たち自身の姿をありありと写し出しています。
父の家を出ていったあの息子は、目が見えなくされ、とても大切なことがまったく分からなくされていました。自分自身が何者であるのかを知らないことこそが、最も憐れむべき悲惨さです。自分は何者なのか。すぐに簡単には答えが見つかりません。時間をかけて、少しずつ少しずつ気づかされています。目が見えなくされたまま、あの彼も私たちも、暗闇の中をさ迷い歩きつづけました。そこから光の中へと連れ戻され、自分がいったい何者であるのかをついに知らされた者たちは幸いです。あの父親の子供であり、父の家に父と共に暮らしているはずの自分だったと。「彼らは知らなかったし、理解することもできなかった。そのために、彼らは暗闇の中をさ迷い歩きづけた」(詩82:5参照)。私たち自身のことです。
すべての財産を遣いつぶしてしまう虚しく惨めな体験が、あの息子にはどうしても必要でした。自分自身の乏しさ貧しさを骨身に沁みてしみじみと思い知らされ、飢え渇いて、神の憐みを慕い求めはじめるためには。なぜなら、道に迷いつづけた羊たち。自分自身の傲慢さと、あまりに思い上がった、自分勝手で自分中心な心が、神と自分との間に立って邪魔をしつづけていたからです。それらを粉々に打ち砕いていただけなければ、目が覚めませんでした。だから神は、「渇きを覚えている者は水のところに来なさい」「すべて重荷を負っている者は来なさい」(イザヤ書55:1,マタイ11:28-30)と呼ばわりつづけました。「自分は。自分こそは」という偽りの財産とただ虚しいだけの重荷をすっかり遣いつぶし、ブタ小屋に追いやられ、その餌でも食べて飢えを満たしたいと追い詰められたとき、そのようにして、その人のための神の憐みと祝福のときが近づきました。もし、そうでなければ生涯の最期の最期まで心を頑なにし、傲慢でありつづけ、あるいはいじけて臆病になりつづけ、父の家から遠く離れたままで生命を虚しく終えていたかも知れません。
17-19節、「本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』」。雇人とは、今日では日雇い労働者に似ています。あるいは、いつ解雇されるか分からない非正規雇用の労働者です。あるいは、「技能実習生」という体裁のよい名目のもとに使い捨てにされ、都合よく不当に搾取されつづける外国からの出稼ぎ労働者たちです。そのようなとても不安定で心細い境遇に放置されつづける者たちでさえ、父の家では十分なパンを与えられて安らかに暮らしている。あの彼は、ついにとうとう立ち上がって、父の家へ帰っていこうとしています。そこが自分のいるべき場所だからです。自分は父の息子だと、とうとう思い出したからです。しかも同時に、「そこにいる価値や資格がまったくない者であり、この私自身こそが神にはなはだしく背きづける、最低最悪の罪人ある」と心底から痛感し、認めています。悔い改めて神へと立ち返るとは何でしょうか。神を信じて、その信仰をもって生きてゆくはどういうことでしょう。「それは単なる形式でも儀式もなく、日毎の悔い改めであり、自分の思いと在り方を神へと向け返しづけて生きること」だと宗教改革者は説き明かしました。自分自身では、それはなかなか出来ませんでした。「罪人だ、罪人だ。私たちは罪人の集団にすぎない」と頭の片隅や口先では言いながら、自分自身の心の中ではいつまでたってもとても傲慢でありつづけ、思い上がった、自分勝手で自分中心な心を拭い去ることが出来ませんでした。あるとき、剣で胸を刺し貫かれたような痛みを感じました。「ああ間違っていた。自分は、すっかり思い上がっていた。神に背いてあのは、他の誰でもなくこの自分自身だった」と気づきました。聖霊なる神のお働きが、ついにとうとうその人の中で始まったのです。自分自身のブタ小屋の中でブタが食べる餌を眺めながら、とうとう思い起こさせていだきました。「わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と。とうとう、その一人の罪人のためにも、罪の牢獄の扉が打ち破られました。罪や肉の欲望の手下にされることや、牢獄に閉じ込められづけることを止めにしたいと願いました。父から贈り与えられた財産も命も何もかも虚しくずっかり遣いつぶしてしまうことは、もうイヤだと。あの息子はへりくだった低い心を贈り与えられて、へりくだった祈りをさげはじめました。あるとき心に痛みを覚えさせられ、ついにとうとう、あの彼も私たち一人一人も祈りはじめます、「わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」(詩451:3-4,ルカ18:13)と。これこそが、只一つの救いに至る悔い改めです。
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さて最も大切な最優先事項は、コロナの禍いや自然災害や、どんな社会現象でもありません。どういう神であられ、神が何をなさるのかということです。いつも恐れて警戒しつづけなければならないのは、神を信じる信仰が骨抜きにされ、いつの間にか生命と喜びと希望を失い、中身のない形ばかりのものにされ、二の次、三の次へとどんどん後回しにされつづけることです。どの社会の、どんな時代状況あっても、むしろはなはだしい困窮の只中にあればあるほど、あの人やこの人、また自分自身がどういう人物であるかでもなくて、ただただ神ご自身こそがどういう神であられるのか。救いと幸いをどのように差し出そうとしておられるのか。なんでもおできになり、この私たちのためにさえ確かに生きて働いておられ、しかも憐み深い神です。もし、その神を心底から本気になって信じて生きることができるなら、神を第一として暮らしを建て上げてゆくことができるなら、その人と家族は幸いです。父の家を出ていった息子が帰って来たように、一人の罪人が神のあわれみとゆるしのもとへと立ち返るとき、そのとき直ちにその人は神の憐みとゆるしを受け取りはじめます。なぜなら、不信仰で神に背きつづけていた間から、すでにその人をゆるそうとし、迎え入れようとして、憐みの神が準備万端で待ち構えておられるからです。あの父親のような神が、こんな私たちをさえ今か今かと待ち構えておられました。私たちの主なる神さまは、価なしにただ恵みによって憐れんでくださる慈しみ深い神です。ただその恵みと憐れみによって救われた私たちです。神に逆らい、背いていた、神を信じる心がほんのわずかしかなかった不信仰な私たちのために救い主イエス・キリストが死んでくださいました。死んで、死者の中からよみがえってくださいました。そのことによって、私たちに対する神の愛と憐みが示され、差し出されました(ローマ手紙8:5-11参照)。ついに、とうとう思い出しました。価なしに、ただ恵みによって多く愛され、多くをゆるされつづけてきた私たちです。迷子になったあの一匹の羊のように。あの1枚の銀貨のように。父を見失ってはぐれていたあの息子たちのように。いなくなっていたのに見つけ出していただきました。死んでしまうところだったのに、生き返らせていただきました。その1人の迷い出てしまった貧しく小さい哀れな罪人を思って、神さまご自身がどんなに心を痛め、どんなに深く嘆き悲しむことか。だからこそ、立ち帰ってきたその1人の罪人を思って、神ご自身が大喜びに喜んでくださる。その喜びの大きさと深さは、その人のための神さまご自身の悲しみや嘆きの大きさと一組でした。目を凝らしつづけましょう。1人の羊飼いはその一匹の羊のために大喜びに喜んでいます。「皆さん、いなくなっていた羊をとうとう見つけました。一緒に喜んでください」。あの1人の女もその一枚の銀貨のために喜んでいます。「嬉しい、嬉しい。本当に嬉しい。どうぞ、一緒に喜んでください」と。見つけ出されて生き返ったその一人の罪人のためにも、神さまご自身こそが憐れみの御業を持ち運んで、生きて働いてくださっています。祈り求めましょう。