2021年2月27日土曜日

2/27&3/27 FEBC 交わりの言葉「あなたはどういう神を信じているのか?」

 

          ** もし関心があり必要となさるなら、この原稿を自由にコピーしてお手元に置いてくださっても結構です。「後篇」配信の3月27日の一週間後くらいまで掲載し、引き下げる予定です。他HP内の「大人向け説教メッセージ」「キリスト教入門講座」などもコピーして、自由に用いてくださって結構です。 そうそう。疑問や感想などをHP冒頭のアドレスで伝えてくださると僕の励みになり、すごく嬉しいです。  金田聖治

 

■日本FEBC 交わりの言葉 2021年2月27日(土)&3月27日(土)(再放送)

『賢いおとめと愚かなおとめ マタイ福音書251-13』         

(前篇) あなたは どういう神を信じているのか?

                                                      金田聖治×長倉崇宣 (日本FEBC) 

 25:1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。    (マタイ福音書251-13節)

長倉崇宣(日本FEBCスタッフ) この箇所を読んで、まず、「とても怖いたとえ話だなあ」という感じがしてしまいました。

金田聖治 おそろしいですよね。

長倉 5人のおとめたちはずいぶん薄情で冷淡な人たちだなあと思ったし、このたとえ話を語っておられる主イエスの意図は一体どこにあるんだろうかと、悩ましい気持ちにもなる。正直なところ、どんどん分からなくなっていきます。

金田 良かった。それは好都合です。「なんだろう?」と思って、ここで、「わあ困った、困った」と頭を抱えなくちゃね。これが、『聖書』探偵の捜査の、いつもの第一歩。

長倉 ええっ、聖書探偵ですか。じゃあ、ぼくはワトソン君かな。先生はこの箇所をどんなふうに読んでこられたのかなあ、と思いました。

金田 うん、そうですねえ。少し話しましょう。まず1節で、「そこで天国は~に似ている」と始まっていました。よくご存知の方もいるでしょうけど、聖書では「天国」とか「神の国」などと言っています。それは、神さまが生きて働いておられて、その働きと力を及ぼしている恵みの領域です。それを、「天国」「神の国」などと遠回しに言い表しています。このマタイ福音書では、24章とこの25章の全部を使って『終わりの日』のことがていねいに、また様々な角度からくわしく説き明かされつづけます。ですから、『終りの日』とはこういうことだとよく分かっていることがとても大切だということです。とくに救い主イエスが2度目にこの世界に来られて、世界の救いを成し遂げることに、たとえ話のすべてが集中して語られます。やがてふたたび来られる救い主イエスは、例えば「家に帰ってくる主人」として描かれ、またここでは、「花嫁と結婚の祝いをする花婿」として描かれます。旧約時代から、神と私たちとの親しく愛情深い関係は夫婦や恋人同士にたとえられつづけ、その土台の上に立って、花婿である主イエス、その花嫁とされたキリスト教会。キリスト教会がそうだというだけじゃなくて、私たちクリスチャンの一人一人が花婿イエスと添い遂げて、共に家庭を築いて生きるその花嫁なんだと告げ知らされます。大切な教えです。

  それなのに、この花婿と花嫁候補者たちは、どうしたわけか、とてもギスギスした緊張感と危機感の中に置かれている。花婿の到着が遅れた。とても遅れて、到着が真夜中すぎになってしまった。ですから花婿をちゃんと待っているためには、それぞれに明かりを持っている必要があるし、その灯火が長持ちするためには予備の油の蓄えも必要だという。そこで、10人の花嫁候補者たちのうちの5人と5人が分けられてしまう。思慮深い賢い者たちと、思慮の足りなかった浅はかで愚かな者たちとが。さて、花婿を待つための長い長い夜が続くとして、でも、「花婿を忍耐して待ち続けるための明かりや油とは、いったい何なのだろう」と考えさせられます。花婿の到着がとても遅れて、10人全員が居眠りしてしまうでしょ。独り残らず。

長倉 はい。結局、全員が眠り込んでしまっていますよね。

金田 そうそう。この点では、賢いか愚かかと問われなかったし、全員がぐっすりと眠り込んでしまう。また、「どうして、ちゃんと起きていないで、居眠りなんかしてしまったのか」などと叱られることもない。

長倉 なあんだ。眠っちゃってもいいのかァ。

金田 ………。

長倉 だから、居眠りそのものについてではなく、予備の油を用意してあったかどうかだけが問われます。

金田 はい。ついつい居眠りしちゃう私たちです。そしてもちろん、「1日24時間。365日、ずっと目を覚まして休まず働きつづけなさい」などと無茶なことを要求なさる神ではない。「目を覚まして、ちゃんと祈って待っていなさい」と、ここでも命じられているのかとつい思ってしまいます。が、必ずしもそうではない。むしろ、「神さまが生きて働いておられて、この世界や隣人のため、また私たち自身のためにも神さまがちゃんと力を発揮し、神さまのお働きを及ぼしてくださっている世界に暮らしている」と、そのことをよく覚えて、心に留めて暮らしていく必要があります。「目を覚まして、いつも祈って待っていなさい」とは、そのことなんだなあ。安心して、安らかに私たちが暮らすためです。

長倉 ブラック企業の、過酷な経営者みたいな神さまじゃないんですね。ああ良かった。

金田 そうですよお。ただ、やっぱり本当に困り果てたのは、6-9節です。賢い花嫁候補者たちと愚かな者たちとのやりとりです。「油を分けてください。もう明かりが消えかかっています。大変なんです。お願いします」。すると賢い花嫁候補者たちは薄情なことを言い出します。「あらあ、自分のための分なら十分にあるけど、あなたがたにあげる分は全然ありません。どこかヨソに行って、お店で自分で買ってらっしゃい。じゃあ、また」って、追い払ってしまう。

長倉 「あんたのことは知らん」みたいにね。

金田 あちこち捜し回って戻ってきてみると、家のドアが閉められてしまっている。ここまで読み進んできて、「ああ。これは何だろうか?」と、すごく呆れて、驚いてしまったわけです。……実はですね。ぼくは伝道者になって、この大問題個所についてすでに何回か説き明かしてきました。「受け皿の中の油は、受け取ってきた神さまからの恵みであり、きっと必ず私を救ってくださるという救いの確信。主への信頼、主に対する感謝と喜び、神にこそ聞き従って生きようとする願い。だからこそ、この私自身の受け皿に一滴また一滴と受け取り、溜まってゆくほかない。そうでなければ、それは私自身の信仰の灯火を明るく燃やす油とはならない。これこそが人に分けてあげられない理由だ」と語ってきました。ですから、ぼくの最初の頃の説教を聴いた人たちには本当に申し訳なかったです。この賢いおとめと愚かなおとめのたとえ話について、この5~6年ほども悩み続けていました。なんかおかしいなあ、腑に落ちないなあと。ここにはもちろん正しい真理が含まれているんですけれど、でも大切な何かが抜け落ちているんじゃないか。「目を覚まして、気づきなさい。まだ分からないのか」とささやきかけられているような。「ここを読んで、書いてある言葉どおりの神だと思いますか。これが、あなたが信じてきた神の姿ですか?」と問われているような。自分の心と信仰が試され、激しく揺さぶられているような気がして仕方がなかったんです。確かに、最後の最後には神さまご自身によって「戸が閉められる」。箱舟の扉がノアの後ろで閉められたように。油や明かりを分けてもらったり、あげたりできなくなる『〆切。門限』の時が定められている。それは厳粛に受け止めなければならない。そうだけれど、でも、今はどうなのか?

長倉 ああ、はい。そうか。「戸が閉められる」前の、いま現在の私たちですね?

金田 まだ残り時間があって、油を分けてあげたり、もらったりできるじゃないか。まだ間に合うんじゃないか、と思い始めました。普段着の話し方をしますけど、例えば現にそういうことを日常的にいつもし合って暮らしているじゃないですか。隣近所の人たちと、「すみませんけど醤油や油、お米を少し分けていただけませんか」とか。

長倉 私が小さい子供だった頃、ちょうどお隣さんにも同じような年頃の小さい子供がいたんですよ。家庭のことで困ったことが起きたとき、子供が風邪をひいて熱を出したとか、転んでケガをしたとか。「すみません。うちの子を病院に連れてってもらえませんか」などと。そういう付き合いや助け合いなどが普通にありましたね。助けてあげたり、助けてもらったりと。

金田 ねえ。子供の普段の世話や、醤油や味噌を分けてあげたり、もらったり。しかも、この『明かりや油』が何なのかというと、神さまを信じて生きてゆくための明かり、その油の蓄えです。ですから、「油を分けてください」という頼みは、生きるか死ぬかを分けるような、ものすごく切実で切羽詰まった訴えなんです。例えば、ここで思い巡らせてみます。油と明かりを求めて、「すいません、すいません」と頼んで、泣きついてくるその相手が、もし、生涯ずっと添い遂げると誓った自分の連れ合いだったら、果たしてこの自分はどうするだろう。例えばもし、いっしょに長く暮らして苦労や悲しみを分け合った愛するわが息子、娘たちだったらどうするのか。自分のための分だろうが、最後の一滴さえも分けてあげますよ。いいから全部、持って行ってくれと。「自分の分は十分ある。けれど、あなたがたに分けてあげるには足りない。はい、残念でした」などと冷たく追い払うだろうか。——それは、あまりにケチ臭く、安っぽく、薄情で無慈悲。そんなことを「賢い」などと言うのか? そういう『明かり。油』を神の恵みだとか、無償の愛などというのか。「自分のためには十分ある。けれど、分けてあげるほどはない」というあまりに貧しい考え方は、むしろパリサイ人や律法学者たちのいつもの了見の狭さや偽善的な態度にとてもよく似ている。まるで、その油や明かりが自分自身の信仰深さ、善い行い、清らかで高潔な生活、礼拝にいつも欠かさず出席して必ず熱心に祈っているとか、まるでいかにも、そういうことで自分自身で獲得し、勝ち取ってきた自分の功績であるかのような。でも、決してそうではなかった。ただ恵みだったし、救われるのはただただ神からの憐みによる他なかった。恵みに値しない私たちが、憐みを受け、ゆるされて救われるほかなかった。

長倉 そうかァ。この私が自分で予備の油を整えて、ちゃんと蓄えておいたのかどうか、ということではなかったんですね。

金田 そうなんです。ですから、習い覚えてきたはずの私たちの福音理解、『こういう神さまであり、こういう恵み、こういう救いである』という思いやり深さ、温かさや感謝や、神からの慈しみという福音の本質が、ここではすっかり隠されてしまっている。こんな薄情な神ではなかったはずなのに。

長倉 はい、そうです。そうです。

金田 そして、神の恵みの只中に喜び感謝して生きるはずの幸いな人々が、「私の分はありますけど、あなたにあげる分はありませんよお~」なんて、そんなケチ臭く意地悪なことを言えるはずがない。口に出した途端に、その唇からビリビリと体全部が真っ二つに引き裂かれますよ。本当に。

長倉 確かにそうですよね。主イエスのたとえ話で言いますと、語られてきた内容や人間の常識をひっくり返すような話が多い。例えば、「愚かな娘と賢い娘がいる。けれどフタを開けてみると実は逆で、神に招かれていたのは愚かだと思われていた娘のほうだった」などと。でも今回はそうじゃない。では、なんのためにこのたとえ話が語られ、聖書の中に記録されているんでしょう?

金田 定期健康診断や、一日人間ドックみたいなものじゃないかな。十分に心と信仰が健康かどうか、いつの間にか悪性腫瘍や、恐ろしいデキモノが出来ていないか、血管やあちこちの管が目詰まりしていないかどうかと検査されている感じです。いままで聴いてきた礼拝の言葉、教えられてきた神の国の福音と、このたとえ話がどう関わるのかと厳しく問われます。良い医者である神さまがこの健康検査に当たっておられます。だから、どういうことなんだろうと私たちは悩みます。「肝心要のことを、あなたはちゃんと分かっていますか」と神さまから試みられ、テストを受けているみたいな気がしてなりません。さて、習い覚えてきたのは、とても憐み深い神さまだし、私たちが受け取ってきた恵みはただ価なしの、無償の慈しみでした。救いは、その恵みをこそ唯一の土台としています。神の憐みのもとにある賢さは「あなたの分はありませんよお」なんていうものじゃなく!  っと広々としていて、気前が良い。とても心安らかだったはずです。しかも神から憐れんでいただいた者たちは、家族や仲間たちにも、見ず知らずの隣人にも、むしろ自分のための最後の油の数滴でさえ、喜んで贈り与えることができる私たちです。「じゃあ、あなたにあげますよ。はい、どうぞ」と惜しみなく。なにより救い主イエスご自身こそが、この私たちのためにさえそのようにご自身のすべてを投げ出し、差し出してくださった。数時間分の灯油油どころか、ご自身のすべて一切を捨てて、ご自分を無になさった(ピリピ手紙2:5-11参照)。だからこそ、この彼女たちのやりとりは私たちの心を激しく揺さぶります。どう受け止めることが出来るのか?最後の最後に戸が閉められた。そして(花婿ご自身である)主人が、「わたしはあなたがたを知らない」と言う。戸が閉められることは、大洪水のときのノアの箱舟で、同じシーンが記録されています。神の招きに応じたものたちがみな箱舟に入り、最後にノアが入り、主なる神さまご自身がノアの後ろの戸を閉めた(創世記7:16。神さまが最後に戸を閉める。神さまにすべてを委ねて従うほかない。厳しいことですけれど、決定的なときが待ち構えている。そのことを知りながら一日ずつを生きるのは、とても大切なことです。『門限がある。〆切期限がある』と知らされるのでなければ、いつまででも虚しく眠りをむさぼってしまう私たちだからです。それでは、つかの間の限りある短い生命がもったいない。そうだ。「花婿の到着が遅れた」でしょう。1つ前の24章では、「家の主人が長い間、その家を留守にした」(マタイ24:45-51参照)。似ていますね。たしかに、「最初のクリスマスのときに主イエスが一度目にこの世界に降りて来られた。終わりの日に、もう一度ふたたび主イエスは来られる」と聖書は証言します。その通りなんだけど、もう1つの、決して忘れてはならない真実があります。『私たちといつも一緒にいる』とちゃんと約束してくださったじゃないですか(マタイ1:23(インマヌエル=いつも共にいる神),18:20,28:20,ヨハネ12:26,14:3,17:24,使徒15:10,創世記28:15,出エジプト3:12,申命記31:8)ヨシュア1:9。だから、「来てください」と待ち望みながら、同時に「いつも一緒にいてくださる」と確信し、守られ、支えられつづけながら、だから安心して生活し、神さまにお仕えしながら晴れ晴れと生きることができる。ですから、主を待ち望みながら希望をもっていきるための明かり、そのために蓄えられている油、それは救い主イエスご自身であると言えるでしょう(ヨハネ8:12,イザヤ60:1-2改めて驚かされますが、『片時も離れずいつも共にいてくださる主イエスご自身』こそが、この世界と私たち自身を明るく照らすまことの明かりであり、その蓄えの十分な油です。私たちを照らす光がすでに昇っており、汲んでも汲んでもなくならず湧き出しつづける生命の水・生命の油を贈り与えられているからです(ヨハネ4:14参照)。一度目に来られて神の国を宣べ伝しはじめたとき、主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた」また、「神の国はあなたがたの只中にある」(マルコ1:15,ルカ17:21と仰った。神の救いの御心と働きを背負って、救い主イエス自身が地上に降り立ったからです。その方によって、終りの日に、いよいよ神の御支配が地上に成し遂げられます。

長倉 ちょうど今、先生が話して下さったことですけど、やがて来てくださる救い主がどういうお方なのか、終りの日とはどういうものなのかということでもあります。そこでは、『門限』と言われた厳しさもあり、正しいことと正しくないことがはっきりさせられる裁きのときでもあります。今回、この箇所を読んでまず直感的に感じてしまったのが、高校生のときの部活の顧問のような存在です。本当に厳しい先生で、するとその先生がいるときの部活は厳しくなり、いないときには監視の目がないので緩んで、ちょっと楽ができるみたいな。つい、それを思い出しちゃいました。「今日は、顧問の先生がいるかな、どうだろう」と、ちょっとピリピリ、ビクビクしてしまうような。もし、そういう存在として救い主を待つんだとしたら、「嫌だな、来てほしくないなア。どうせ嫌でも来ちゃうなら、ず~~~っと後になって、ゆっくり来てほしい」とか。

金田 そうなってしまうでしょう。できたら、いつまででも永遠に来ないでほしいとか。

長倉 はい。そうなってしまいます。ごめんさない。

金田 終りの日を楽しみにして、ワクワクして待てるのかどうかは、やがて来られる救い主イエスがどんなお方かにかかっているわけです。「審判がある。裁きがある」と語られますね。その最後の審判のとき、最高裁判所法廷の首席裁判官の席にどなたがお座りになるのか。救い主イエス・キリストです。これは聖書に、はっきりと書いてあります(1コリント手紙4:1-5,15:22-25,マタイ福音書11:27,25:31-4528:18-20。そのお方は私たちの罪を背負って、それを全部ご自身の身に負って、十字架にかかり罪の贖いを成し遂げてくださったかたです。だから終りの日の審判の法廷で、罪状認否やら証人喚問、厳しい取り調べやらがあるはずがない。

長倉 私自身もそうだし、番組を聴いてくださっている方々も、そうかも知れない。「世界の救いを完成してくださる方を待ち望んでいるのか」と問われれば、あまりよく分からず、ただ漠然と思い描いていた気がします。信仰者として忍耐しながら、この自分はどういうお方を待ち望んでいるのか。「マラナ・タ。主よ、来てください」(1コリント手紙16:22と、どんな心で祈りをささげているのか。救いの完成、祝福と平和をもたらしてくださる方として思い描いているのかと、案外にそうでもない。自分の粗探しをされるんじゃないか、厳しく叱られるかもとか。

金田 「〇月〇日に、あなたは▽▽▽さんにこんな薄情な意地悪をしましたね」とか、「□月△日には〇〇さんに」などと一つ一つ問い正されるわけがない。善いことをどれだけ行い、悪いことをどれだけしでかしたかなどということではない。問われるのは、ただ一点です。「主イエスを信じて、生きて死ぬことができた。ああ良かった。おめでとう」と、それだけです。信仰が問われるとして、やはりその中身は『どんな神さまを、どんなふうに信じているのか。どういう救い主だと習い覚えてきたのか』、大事なのはそのことです。

                       (前篇 日本FEBC 2021,2,27再放送・配信)

 

 

 

(後篇) 終りの日をワクワクしながら待つために

                 金田聖治×長倉崇宣 日本FEBC) 

 25:1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。25:11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。   (マタイ福音書251-13

金田聖治 やっぱり信仰の中身が問われるとして、どういう神を信じているのか、どういう救い主だと習い覚えてきたのか。そのことなんです。500年前の宗教改革者、マルティン・ルターもそうでした。彼は信仰のことでとても悩んで、怖ろしい救い主だとずっと思い込んでいました。その彼の先生だったシュタウピッツが彼に、聖書を教える教師の務めを譲ってあげた。そこでルターは特に詩篇とローマ人への手紙をよくよく読みました。すると、救い主についての彼の理解がガラリと変わりました。「恵み深い、憐み深い神。そういう救い主である」と。そこでようやく、ルターの信仰の目が開かれました。

  怖い、厳しいだけの神など、誰も信じられません。その神に期待したり、信頼を寄せたり、喜んで聞き従ったりなど誰一人もできるはずがない。だからね、この『終わりの日についての学び』であるマタイ福音書2425章でよく分かっているべきなのは、世界のはじまりと、その終わりです。それこそが、神を信じて生きるための生命線でありつづけます。まず最初に、神さまが天と地とその中にあるすべてのものをお造りになった。そして、この世界をお造りになる前から、私たちを救いのうちへと選び取ってくださっている。まず、このこと。そして終わりの日に、救い主イエスによる審判をへて、神の永遠の御国へと迎え入れてくださると約束してくださっていること。この2つが、神を信じて生きてゆくための私たちの信仰の大黒柱です。だから怖れてビクビクするのではなく、「さあ大丈夫だ」と慰められ、支えられつづけて、一日ずつを喜んで生きることができます。「イエス・キリストのおかげで神との間に平和を得ている」(ローマ手紙5:10参照)と書いてあります。本当のことです。だから神さまを思うとき、心安らかになって、「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」と感謝し、喜び、信頼することができる。もし仮に、そうではないとしたら、キリスト教の信仰を教える先生たちが何か間違ったことを教えてきたのかも知れない。そう思います。この箇所は、そのことを問われる箇所です。「どんな神をどのように信じてきたのか」と。

長倉崇宣(日本FEBCスタッフ) マルティン・ルターの話をしてくださいましたけど、ルター自身も真面目な信仰者としてそれまで神を信じて生きてきた。にもかかわらず、そういう厳しく怖い裁きの神を、怖ろしい神の御姿をずっと見てきたわけですね。あるときを境に、恵みの神、愛なる神というところへ認識を転換してゆく。同じ聖書を読みながら、本当の神の御姿を見出し、新しい読み方と理解を発見してゆく。私たちにとって、どこでそういう新しい神の御姿を見出すことができるのか。例えば、こういう聖書箇所を読んでさえも、その恵み深い愛なる神の御姿を見出すことができるのかどうかということは、すごく大事なことだと思えます。

金田 ルターはね、師匠のシュタウピッツから、「あなたは聖書を教える博士になりなさい」と励まされ、背中を押してもらい、聖書を一所懸命に読み始めた。読みながら、つくづくと考えた。そして発見しました。ただしい神であるだけでなく、とても憐み深い、慈しみ深い神だと聖書を学ぶ中でとうとう分かった。僕たちもそれぞれの人生の中で出会ってきた大切な聖書箇所がありますね。例えばルカ福音書15章の放蕩息子のたとえ話など、「ああ。こういう神さまなのか」と心に刻んできた。その発見や驚き、手掛かりが他の聖書箇所を読むときにもモノサシになり、道案内になります。また例えば、大切に親しんできた讃美歌がいくつもあるはずです。「慈しみ深き友なるイエス」「飼い主わが主よ」「主われを愛す」(讃美歌312354461番)など、心に刻んできた神の御姿、イメージが、聖書を自分で読むとき、特にこういう厳しい箇所を読むときに私たちを導く道案内になる。

長倉 そうか、道案内。先ほども、神を信じて生きるための大黒柱とおっしゃっていましたね。もし、それが失われてしまうなら、屋台骨がなくなってしまって、全部が崩れ落ちてしまう。だから、私たちがどんな大黒柱、屋台骨を持たされているのかによって、その立っている家の形や姿、耐震強度も、ずいぶん違ってしまうかも知れませんね。

金田 大事なところですよね。僕はね、しばらく神さまからもキリスト教会からも離れて、背を向けて生きていました。高校半ばから30歳まで、自分は無宗教で生きていこうと思い、神を信じないで暮らしていました。キリスト教会に戻ってきて最初に教わったのは、ノアの時代のあの大洪水の直後のことでした。箱舟から出てきた人々と生き物たちは、まず初めに神さまに礼拝をささげました。そこで神ご自身からとんでもない言葉を聞きます、「人が心に思い図ることは幼い時から悪い。けれども、この度したように滅ぼすことは二度としない」(創世記8:21。心に思い図ることは幼い時から悪いと断言された中に、あのノアも子供たち、孫たちも皆入っている。そういう悪者たちばかりを集めての再出発だったと知らされて、30歳の僕はものすごく嬉しかった。

長倉 え、嬉しかった?

金田 はい。それなら、その再出発する悪者たちの中に、こんな僕さえ一緒にいることができると。大洪水のときの神の最初の計画どおりに、悪いことを思い図る悪者どもを残らず滅ぼしてしまって、そして再出発。善人たち、清らかで親切な心の者たちだけを残しての世界の再創造であるとするならば、こんな僕なんかの居場所はあるはずがないと思った。でも、そうじゃなかった。もう1つは、ルカ福音書15章の放蕩息子のたとえ話です。家を出て行った息子が落ちぶれて父の家に帰ってくる。身を持ち崩し、見るかげもなくボロボロになって。父さんは、その息子がずっと遠くにいるうちに、「あ、うちの息子だ」と、別人のように変わり果てた息子を見つける。駆け寄って、抱きしめる。息子は父さんへのお詫びや言い訳を道々考え、詫びる練習もしながら帰ってきた。「父よ、わたしは天に対しても、あなたに向かっても罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格は……」。父さんは話半分どころか、ろくに息子の詫びの言葉を聞きもせず、ギュッと抱きしめ、接吻し、もう嬉しくて嬉しくてしかたがない。履物を履かせ、上等な晴れ着を着せ、指輪をはめてやり、「さあ早く早く、着物を、祝いの宴会の支度をして。急いで急いで」と。あの光景です。「わあ、この放蕩息子、オレと同じだ」。惨めに身を持ち崩して、腹が減って豚のエサでも食べたい。それほどに追い詰められて。もう父さんの息子と呼ばれる資格なんか無い。でも帰りたい。けれど、あの父さんは、詫びの言葉を聞くまでもなく、諸手を挙げ、大喜びで家に迎え入れてくれた。「そうか。こういう神さまだったのか」と思った。最初に受け取った、神を知るためのモノサシは僕にとって、大洪水後の神のあの衝撃発言と、放蕩息子を喜び迎えるあの父さんの姿でした。それ以来、聖書のどの箇所を読むときにも、あのモノサシを忘れない。だから、このマタイ福音書25章の花嫁候補者たちのたとえ話を読みながら、「なんだかおかしい、おかしい。どこかが違う」と何年も何年も苦しみ悩み続けました。薄情な神さまではありませんよ。とんでもない。良い行いをし、親の言うことを良く聞く良い子だから。だから愛してくれるという、そういう親ではありません。『親である神。私たちを御自分の子供たちとして迎え入れてくださった神』(ルカ福音書6:36,11:1-7,ヨハネ福音書8:41,ローマ手紙8:14-17,103:13,申命記8:5ってこのことです。「うるせー。金。飯―。ざけんなよオ」とか親に反抗する乱暴な不良の子供だとしても、苦楽を分かち合って一緒に生きてきた我が子なので、愛して止まない親です。なにしろ愛してくれる神です。どんな悪いことをしても、ひねくれていても、その子を決して見捨てない。そういう神さまです。

長倉 そうかあ。

金田 だから、ここで、「油もほんの少ししか無い。その蓄えも十分に整えていなかった。じゃあ失格」なんて、そんな神ではありません。

長倉 はい。じゃあ、この天国のたとえ話というのは、救い主イエスから私たちへのチャレンジ(挑戦)のような、「あなたがたが信じている神はどういう神なのか」と揺さぶられ、問いかけられているのでしょうか?

金田 そうですねえ。「ちゃんと分かっていますか?」という、そういう試験だと思います。

長倉 もし、良いことをした人間が救われ、悪いことをした人が滅ぼされる、そういう神さまだと私たちがちょっとでも思い込んでしまうなら、「それは大間違いじゃないですか。自分を何様だと思っているんですか?」と言われてしまうような。

金田 もし、そうならば、だいぶん悪い、とても間違った教えを受けてきたことになるでしょう。だって、「罪人を憐み、その罪をゆるして救うために、そのためにこそ救い主イエス・キリストはこの世に降りてきてくださった」(1テモテ手紙1:15参照)と書いてあるでしょう? それを証言した主イエスの弟子は、「しかも、この私こそが罪人の頭であり、罪人の最たる者、私こそが最低最悪のロクデナシの罪人です」と告白しています。これこそが根源的な福音理解だし、その中心部分でありつづけます。「良いことをして救われる」という間違った教えは、それと相容れないし、決定的に喰い違っている。

長倉 先生の話を伺いながら、今年はじめに起きた出来事を思い起こしたんです。正月の3日か4日くらいでしたか、自宅でおトソ気分で良い気持ちになっていました。ピンポーンって玄関チャイムが鳴ってドアを開けたら、キリスト教系の某カルト宗教集団の勧誘の人たちが立っていた。「裁きの日、ハルマゲドンが近づいています」という彼らの話を聴いているうちに、何かがかなり違うなあと感じました。その方はとても真面目で、真剣に語りかけてくるんです。僕はだんだんととても嫌な、いたたまれない気持ちになっていきます。「私が信じている神は、どういう神じゃないなあ」と思った。「じゃあ、私が信じている神はどういう神さまだっただろうか」と自問させられ、自分への問いかけになった。それを思い出しました。

金田 そのことですね。終わりの日を思い描くとき、そこで、どういう神をどのように信じてきたのかが露わにされる。品行方正な優等生の気分で、「正しく信仰深い、何の落ち度もない、ふさわしい私です」と暮らしてゆくならば、それはずいぶん歪んでいる。神の間違ったイメージを吹き込まれ、騙されてしまったかも知れません。

  憐み深い神なんです。そのうえで、正しくあられる神です。神のただしさは本当に心優しい、慈しみ深いただしさです。「罪人をゆるして救う」と神ご自身がはっきりと決めておられるんですからね。「救われるためには一所懸命に信仰深く正しくあらねばならない。そうでなければ、神に見捨てられるかも知れない」という生真面目な心得は、ですから大間違いです。神の本来の御姿をすっかり見失ってしまったことになるでしょう。「正しい人は一人もいない」(ローマ手紙3:9-18,3:23-24,創世記8:21と聖書はキッパリと証言します。「そこにはなんらの差別もない。すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」と。みんな失格、全員落第。だから、ただ恵みによってなのです。だから救われるために、私たち人間の側には何の差別も区別も分け隔てもない。ただ救い主イエスを信じるという一点で、価なしに、ただ神の恵みによってだけ救われます。これが分からなくなってしまえば、すべて水の泡です。

  この同じ一つの真理が、終わりの日を考えるためにも目印となり、道案内となります。

長倉 そうかあ。終わりに日に、「もう一度来る。来て、この世界の祝福と救いを完成する」と救い主イエスが約束してくださったことを待ち望む私たちです。私たちのその待ち望み方は、どういう救い主を待っているのかによって、すっかり変わってしまう。

金田 そうです。そしてね、内心ビクビクして終わりの日を待っている人たちは、自分に対してだけじゃなく、まわりの他の家族や隣人に対しても、ついつい厳しい眼差しになり、「30点、15点、この人も失格、この人もこの人も失格」とつける点数がどんどん辛くなります。自分自身がきびしい審査委員、冷酷な裁判官に成り下がってしまいます。他人のいたらなさや欠点をあげつらい、きびしく非難しつづけ、腹を立ててその相手を容赦なく攻撃しつづけるようになります。なぜ、そうなってしまうのか。憐み深い神さまからゆるしていただいてきた私たちだということを、もうすっかり忘れてしまっているからです。だから、このマタイ福音書25章は本当に試金石でありつづけます。

長倉 金田牧師にとっても、試金石ですか?

金田 そう ぼく自身にとっても。知らないうちに、ぼく自身こそが冷酷な審査委員や薄情でやたら厳しいだけの、偉そうな裁判官に成り下がってしまう。しかも何度も何度も。

長倉 ……本当に、私たちが受け取ってきた恵みや憐みさえも、惜しみなく隣人に差し出してあげることもゆるされる。そういう生き方へと招かれている。この恵みを神さまからいただいているなら、私たちも新しく変わってゆけるはずですね。

金田 うん。そうそう。多分、この油も不思議な生命の水で、誰かに分けてあげればあげるほど、ますます増えてゆく。どんどんどんどんあげて、「すっかり全部あげますよ」と水や油をあげてしまった途端に、自分の水ガメや油壺があふれるほど満杯になっている。逆に、薄情に押しのけて、ケチ臭く邪険に人を扱いつづけると、その不思議な水も油もどんどんどんどん減って、無くなってしまう。

長倉 はははは、本当だ。ああ。こういうことって、この世の理屈じゃ有りえないことじゃないですか。馬鹿にされて、笑われるだけだ。

金田 うん。

長倉 自分のものは自分のもの、あんたのものはあんたのもの。自分の面倒は自分で責任をもってみなさい。私たちは関係がないとか。それがこの世の理屈だし、自己責任だというふうに、学校でも社会でもしつけられ、習い覚えさせられてきてしまった。そういうことと正反対のことが、神の国の福音として語られる。

金田 そうそう。神の国は、神ご自身が生きて働いておられ、その力と働きを及ぼしておられる憐みと恵みの国です。この世界で僕たちが人と付き合うときの道理や理屈とはまったく違う福音の道理と真理がある。けれども社会人として暮らしてゆくうちに、この世界の理屈や処世術がついつい身に沁みてしまった僕たちでもある。だからこそ、この聖書箇所ををまず読んで、「自分の分はちゃんとあるけど、あなたがたに分けてあげるほどは有りません」。「ああ。そうだよなあ」と、うっかり納得してしまいたくなる。危ない、危ない。

長倉 今の話を聴きながら、『5000人の給食』(マタイ福音書14:13-21の出来事もちょうど思い出しました。

金田 ねえ よく似ていて、そっくり同じだ。裏返したら同じものだった。人里離れた場所に大勢の人たちが集まって、夕暮れが迫る。「あなたたちが彼らに食べ物をあげなさい」と主イエスから命令され、弟子たちは困り果てて、やや不機嫌にもなる。「パン5つと魚2匹しかありません。これじゃあ、何も無いのと同じじゃないですか。無理です、無茶です」。弟子たちは不信仰に陥り、心が鈍くされ、神の恵みもその働きもすっかり分からなくなる。だから、あの出来事の最後に、魚とパンの残り屑を12カゴ集めさせた。12個のカゴがすべて満杯になった。12カゴとは、あの12人の弟子たちの人数分で、ひとりカゴずつ背負って集めさせた。わざわざあの彼らに食べ物の残り屑を集めさせ、神の恵みを覚えさせる実地訓練でした。「自分で集めて、何が起こったのかを確かめてみなさい」という授業です。遠い昔に荒野で、神の民とされたイスラエルの人々に天からのパンと天からの肉と水を集めさせ、一日分ずつ神が彼らを養ってくださったように(出エジプト記16章)。あまりに不信仰で鈍くされた目と心では食料は足りないかのように見えたが、皆が満ち足りるほどに十分にあった。しかも12カゴ満杯のおまけ付き。花嫁候補10人のための油も、もちろん同様です。「私の分でもギリギリなほどなのに、あなたたちに分けてあげる分なんて有るはずないでしょ。どこかヨソに行きなさい。しっしっ」。それは薄情すぎる。おかしいし、ケチ臭すぎる。神の恵みの現実とは正反対のところに、あのケチで冷淡な花嫁候補者たち5人は立っていました。

長倉 そういう意味では、今日の私たちに神さまが贈り与えてくださっている日毎の糧と恵みは十分にあるわけですが、そこになかなか気づけない。乏しくて貧しくて、とても足りないような気もしてしまう。「これだけしかない」と心細く思ってしまうことがほとんどです。私たちの隣人、救いと助けを求めている人たちがたくさんいます。これをその人たちに分けてあげてしまったら、自分と家族の分はどうなるだろうかと思いもする。自分の時間、自分の労力をささげていくとき、先刻おっしゃったように、なぜか不思議に増えていく。皆で喜んで、満ち足りて感謝できるときがある。

金田 生命の水、花婿を待つための明かりの油、日毎の糧。そして『光』関係では、「救い主イエスこそが世を照らすまことの光。その光に照らされ、光を反射して、私たちもこの世界を明るく照らすはずの光とされている」(ヨハネ福音書8:12,マタイ福音書5:14,イザヤ書60:1-7。だから、まず家の中を明るく照らすように灯火を燭台の上に置こうじゃないか。しかも、その光も水も油もちっとも減りません。むしろ、出し惜しみして隠していたら、薄暗くなって、くすぶって、消えてしまいます。もし、自分の信仰深さと努力で搔き集めた油だなどと誤解するなら、油はただちに虚しく減っていく。悪くなって、嫌な生臭いにおいがしてきて、すぐにも腐ってしまうでしょう。

長倉 ああ、そうか。うっかりすると、私自身もそういうことをしているなあと気づかされます。度々やっている。「もう、これしか無いから」と溜め込んで、ムダ遣いしないようにと隠しておくうちにカビが生えたり、せっかくの生命の水も油も腐ってしまったり。

金田 そうだね。いつの間にか、神さまご自身やその光、その様々な恵みの贈り物も、貧しく見なしてしまいやすい。神さまを侮りながら、神さまに対して文句や不平不満をつぶやきながら。「これだけしかない。貧しい、乏しい、粗末でとても足りない」などと。そこを問われていると思えます。「分けてあげるほどは有りません」。本当ですかア? と問われている。

長倉 神の国の福音って何だろうと、広い視野から見渡してみるときに、こういう救い主イエスの物言いですらも、私たちは神の御心を感じ取ることができる。問いかけを受け止めることができる、そんな気がします。この箇所の末尾の、「目を覚ましていなさい。その日その時が、あなたがたには分からないからである」11節)も、怖ろしい言葉として最初は聞いていました。けれど、喜びをもって救い主とその日を待つこともできる。「マラナ・タ(主よ、来てください)」(1コリント手紙16:22,黙示録22:20,ピリピ手紙4:5と。そうか、聖書ってこうやって読むんだという気がします。

金田 とても素敵な花婿なんですよ。大好きです。だから、ワクワクしながら楽しみにしてあのお独りの方を待ち望むことができます。花婿である救い主イエスは私たちのことを本当に大切に思ってくださっている。もし、そうでなければ、この花婿を待ち望むことなど誰にもできなかったはずです。祈りましょう――

 

救い主イエス・キリストの父なる神さま。

主イエスを信じて生きる私たちの毎日の生活を、また主を信じるその信仰をあなたがお支えくださって、確かな堅いものとしてください。その土台の上に立って、心強く希望をもって生きる私たちであらせてください。

        主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン
















(後篇) 『終りの日をワクワクしながら待つために』

日本FEBC、ラジオとインターネットで配信。「FEBC」で検索。土曜日「交わりの言葉」

前篇・後篇  各28分間。         (絵は、Wブレイク「賢い乙女と愚かな乙女」)


2021年2月23日火曜日

2/21「父の家に帰る」ルカ15:11-24

 

       みことば/2021,2,21(受難節第1主日の礼拝)  307

◎礼拝説教 ルカ福音書 15:11-24                  日本キリスト教会 上田教会

『父の家に帰る』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 15:11 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。17 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。     (ルカ福音書 15:11-24)

11節、「ある人に息子が2人いた」。この「ある人=父親」は、神様のことです。「2人の息子」は、私たち人間のこと。兄と弟、2種類の別々の人間、別のタイプというよりも、同じ一人の私の中にも2つの心やあり方があります。先週と今日はまず、弟の箇所です。まず、12-16節。父の家を出て、放蕩のかぎりを尽くし、やがて身を持ち崩してしまうまで、あまりに足早に、大急ぎで語られます。「財産を分けてくれ」と言われれば、あの父親は言われるままに分けてやります。「出て行く」と言われれば、あの父親は言われるままに送り出します。まるで、息子が家に留まろうが出て行こうがあの父親にはどうでもいいかのように見えてしまいます。あまりに無口な父親です。ですから、『父の家を出て行くことが一体どういうことなのか。あの父親が、息子のことをどんなふうに思っていたのか。何を感じていたのか』は、このときにはよく分かりません。それは、帰ってきてギュッと抱きしめられたときに、そこで初めて分かります。父の家を出ていった息子の心が分かりますか? 独りで、誰の世話にもならず、自由に思い通りに生きてみたい。神様に対してもそうです。『神なんかオレには必要ない。オレはオレの力で生きる。自分の目で見て、自分の腕で切り開き、自分の足で歩いて行く。思い通りに自由に生きてやる』;それが、放蕩息子の正体であり中身です。ぼく自身も、さ迷い歩いた放蕩息子たちの1人だったので、この正体が分かりました。世界中に、何万人、何億人という数の放蕩息子たちがあふれています。すでに家に帰り着いた放蕩息子たちがおり、まだ放蕩途中の息子たちや娘たちがおり、これから父の家を出て行こうかと荷物をまとめはじめている息子や娘たちがいるでしょう。そのうちの何人かは、例えば明日の朝にも、「あなたの財産のうちで私がいただく分をください。さあ早く早く」と言い出すかも知れません。

自分のことです。長い間さ迷いつづけた後で、ようやくキリスト教会に、つまり父の家に戻ってきたとき、導いてくれた牧師が語ってくれました;「神を見失って、神ナシで生きるとき、人は何か別のものを『神・神のようなもの』とし、支えや誇りとしてしまう。周囲の人々やモノが『神のようなもの』になってしまう。あるいは、自分自身を『神のようなもの』としてしまう。『どうだ。オレ様はこんなにすごい』と思い上がり、傲慢になり、かと思うと『自分は何も出来ないダメ人間だ。生きていても仕方がない』。高ぶりと絶望。傲慢に思い上がったかと思うと、次の瞬間には卑屈にいじけている。その繰り返しです。上がったり下がったりしつづけて、心の休まる時がない」と。その通りでした。神さまを捨てて背を向けることは、別のところに別の『神ではない、偽りの神々』を作ることになってしまう。知らないうちに、何かを『自分の神。神のようなもの』にしてしまいます。しかも、ご覧ください。この世界は『まるで神であるかのようなもの』であふれています。お金や地位や名誉を、自分のための神とすることができます。ただの生身の人間だろうがイワシの頭だろうが、社会のしきたりだろうが誰かが決めたルールだろうが、何でも手当たり次第にあがめて、まるで神のように祭り上げることもできます。それは、これがあるから安心という支えや頼みの綱でした。あなたはどうでしょう。何をあなたの支えや頼みの綱とし、何を拠り所とするあなたなのかと問われています。

  さて、あの息子は財産を使い果たし、身を持ち崩してしまいます。飢饉が起こりました。食べるにも困りました。その頃の社会では、豚を飼う仕事が一番恥ずかしい一番人に嫌われる仕事と思われていました。彼は、その豚を飼う者になり、腹が減って腹が減って、その自分が飼っている豚のエサでも食べて空腹を癒したいと願うようになりました。どん底です。そこで彼はハッと我に返ります。17節。それまで、がむしゃらに夢中になって生きる中で、彼もやはり「我を忘れて」いたのです。「そういえば、父のところでは、あんなに大勢の雇い人の一人一人に、ちゃんと有り余るほどのパンが与えられていた」。我に返って、まず気づいたのはそのことでした。大勢の雇い人。雇い人は、今のサラリーマンとはずいぶん違って、日雇い労働者に似ています。その日暮らしの、仕事があったりなかったりして、とても不安定な心細い生活をしている貧しい人々。今日では、非正規雇用や派遣された労働者。また技能実習生などと体裁のよい名目で、けれども実態は、ただただ都合よく無責任に使い捨てにされ、不当に搾取されつづける数多くの外国からの出稼ぎ労働者たち。聖書の中の別のたとえ話では、雇ってくれる人がなくて広場で一日中あてもなく立っているたくさんの人たちの姿(マタイ20:1-がありました。それが、あの当時の雇い人です。そういう雇い人でさえも、「有り余るほどのパンが与えられている」。まして父の子である私は、この父親から、どんなに手厚い親身な、愛情深い扱いを受けつづけていたことか。その父に対して自分は、どんなに身勝手で、どんなに独りよがりな考えだったことか。彼は、やっと気づきました。我に返ったのです。

 この父親は、神様のことです。私たちの神さまがどんな神さまなのかを、それをこそ、ここで見つめたいのです。この父の姿を、よくよく味わっておきましょう。20-24節。まだ遠く離れていたのに、「あ、あの子だ。とうとう帰ってきた」と直ちに見つける父です。たまたま見つけたのではありません。目がとても良いわけでもありません。「あの子はいつ帰ってくるだろう。今日だろうか明日だろうか」と、いつもいつも目を凝らして見渡している、片時も私たちから目を離さない父だからこそ、はるか遠く離れていたのに、すっかり変わり果てて別人のようになっていたのに、それでも「あ。あの子だ」と見つける父です。そのような神さまです。息子を見つけて、あわれに思いました。「あわれに思う」とは、『かわいそうでかわいそうで、悲しくて、はらわたが掻きむしられる』という意味です。神さまが私たち人間を、こうやって見ていてくださる。豚を飼う仕事をしながら、豚のエサを眺めて身もだえする息子のような、そういう私たちです。苦しくて困って悩んで、どうしていいか分からずしばしば途方にくれている私たちを見て、私たちの主なる神は、かわいそうでかわいそうで悲しくて、はらわたが掻きむしられるのです。

 あの父親は息子を見つけて、見つけた途端あわれに思い、走り寄ってギュッと首を抱き、接吻しました。変わり果てた情けない姿で遠くからトボトボトボトボ歩いてくる私たちを見て、神さまの心は、私たちへと一目散に飛んできます。走り寄ってきて、私たちの首に倒れかかるようにして、ギュッときつく抱きしめてきます。抱きしめられながら、私たちは、あのお詫びの言葉を言おうとします。道々考え、歩きながら何度も何度も言う練習をしてきたお詫びの言葉を。「お父さん。わたしは天に対しても、またお父さんに対しても」。でも、なんという父親でしょうか。せっかく考えて、道々せっかく練習してきた侘びの言葉を、この父親はろくに聞きもしません。「お父さん。わたしは天に対してもまた」。父親は最後まで言わせません。最後まで聞かなくてももうすっかりよく分かっているというよりも、私たちが謝罪や弁明や侘びの言葉を話しかける途中で、いいえそのずっと前から、「あ。あの子だ」と見つけた瞬間から、あの父親は、もう嬉しくて嬉しくてたまらない。居ても立ってもいられない。ここです。この父を見てください。見失っていた一人の息子が戻ってきたことで、我を忘れて、こんなにも大喜びに喜んでくださる父親の姿を見なさい。あなたは、この父親の姿にこそ目を凝らしなさい。私たちの神は、こういう神です。「さあ、急いで急いで。一番上等な服を持ってきて、この子に着せてやってくれ。指輪もはめてやってくれ。いいか、靴も忘れるな。さあ早く早く」。上等な服は、父のもとに戻ってきた祝いの晴れ着です。そして、この人を父が手厚く守っていてくれることのしるしです。指輪は、あの父親の大切な子供であることのしるしです。靴は、もう奴隷ではない自由な人間であることのしるしです。大喜びのパーティーが始まります。24節。この子は、今まではいなくなっていた。とうとう見つかった。今までは死んでいた。今からは生きるのです。主なる神さまを一途に仰ぎながら、父から愛されている大切な息子、娘として、色あせることのない本当の喜びの只中を、この子は生きることをしはじめます。 

 最後に、もう一つのことを考えましょう。どこで何をしていても、父の御心を見失わず、自分が父の息子であり娘であることを腹に据えて、父に背を向けずに生きることもできるはずです。旅立って、出かけてゆき、けれどその後で度々帰ってきたらいい。できれば毎週毎週。惨めにボロボロなって、なにもかも使い果たして、それで、そのまま家に帰ってくることさえできます。ちょうど、あの放蕩息子のように。なぜなら、家の中でただ心配して、ただ待っている父ではありません。「どうだ大丈夫か」とどこまでも探しに出てきて、私たちがずっと遠くに離れているうちから、私たちのどんな失敗も、どんな惨めさ苛立ちも失望も、どんな嘆きもため息にも、目を凝らし耳を傾けつづけてくださる父でした(出エジプト記3:7,創世記4:10,8:1,16:13参照)。父のものである財産をたくさん贈り与えられ、それを山ほど抱えて、私たちは旅に出ます。けれど兄弟たち、息子や娘であることを忘れたどこかの馬の骨としてではありません。天の父の家から、父の息子たち娘たちとして遣わされてゆくのです。父の御心から離れずに、父に背を向けずに、私たちは父から遣わされて生きるのです。それぞれの町や村へと。それぞれの家庭や職場へと。家族や同僚たちの只中へと。ずっと語りかけられてきた父の御声と言葉を思い起こし思い起こし、『わたしは天の父の息子。娘である』と肝に銘じながら一日一日を生きる。もし、そうであるなら、私たちはどんな遠くへでも、どんな悩みや乏しさや困難の只中へも、恐れず勇気をもって出かけてゆくことができます。一つ所に腰を据えて、じっと留まることも出来ます。一週間、また一週間、また次の一週間と七日ずつ区切られた私たちの旅路です(♪「七日の旅路」56)。送り出され、そこに腰をすえて留まり、日曜日ごとに、また父の家に帰ってきます。












レンブラント「放蕩息子の帰還」1668-69年制作

2/21こども説教「総督への手紙」使徒23:23-30

 2/21 こども説教 使徒行伝 23:23-30

 『総督への手紙』

 

23:23 それから彼は、百卒長ふたりを呼んで言った、「歩兵二百名、騎兵七十名、槍兵二百名を、カイザリヤに向け出発できるように、今夜九時までに用意せよ。24 また、パウロを乗せるために馬を用意して、彼を総督ペリクスのもとへ無事に連れて行け」。25 さらに彼は、次のような文面の手紙を書いた。26 「クラウデオ・ルシヤ、つつしんで総督ペリクス閣下の平安を祈ります。27 本人のパウロが、ユダヤ人らに捕えられ、まさに殺されようとしていたのを、彼のローマ市民であることを知ったので、わたしは兵卒たちを率いて行って、彼を救い出しました。28 それから、彼が訴えられた理由を知ろうと思い、彼を議会に連れて行きました。29 ところが、彼はユダヤ人の律法の問題で訴えられたものであり、なんら死刑または投獄に当る罪のないことがわかりました。30 しかし、この人に対して陰謀がめぐらされているとの報告がありましたので、わたしは取りあえず、彼を閣下のもとにお送りすることにし、訴える者たちには、閣下の前で、彼に対する申立てをするようにと、命じておきました」。         

(使徒行伝 23:23-30

 

 救い主イエスを信じる者とされたパウロは、あやうく悪者たちの手にかかって殺されるところでした。けれども悪者たちの手を逃れて、ローマから送られてきていた総督の前で、やがて神について、その救いのできごとについて語ることになります。神さまの救いの御計画が、このように着々と進んでいきます。パウロのためにも私たちにためにも、神ご自身こそが味方であって下さって、たしかに生きて働いておられるからです。大事なのは、このことです。兵隊1000人を率いる隊長は、パウロを送り出す手はずを整え、総督に当てて手紙を書き送ります。26-30節、「クラウデオ・ルシヤ、つつしんで総督ペリクス閣下の平安を祈ります。本人のパウロが、ユダヤ人らに捕えられ、まさに殺されようとしていたのを、彼のローマ市民であることを知ったので、わたしは兵卒たちを率いて行って、彼を救い出しました。それから、彼が訴えられた理由を知ろうと思い、彼を議会に連れて行きました。ところが、彼はユダヤ人の律法の問題で訴えられたものであり、なんら死刑または投獄に当る罪のないことがわかりました。しかし、この人に対して陰謀がめぐらされているとの報告がありましたので、わたしは取りあえず、彼を閣下のもとにお送りすることにし、訴える者たちには、閣下の前で、彼に対する申立てをするようにと、命じておきました」。

 

 

2021年2月15日月曜日

2/14「放蕩息子の回心」ルカ15:11-19

            みことば/2021,2,14(主日礼拝)  306

◎礼拝説教 ルカ福音書 15:11-19               日本キリスト教会 上田教会

『放蕩息子の回心』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

15:11 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。17 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。                                  (ルカ福音書 15:11-19)

                                                

2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。25 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。

     (1ペテロ手紙2:22-25)

 11節、「ある人に二人の息子があった」。この「ある人=父親」は、神様のこと。「2人の息子」は、私たち人間のことです。兄と弟、2種類の別々の人間、別のタイプがあるというよりも、同じ一人の私の中にも2つの心やあり方があります。今日と次週はまず、弟の箇所です。12-16節、「ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった」。このたとえ話の中で最初に目に入るのは、自分自身の心に思うまま、思い通りに生きていこうとする自由な人間の姿です。何にも捕らわれない自由な生き方。それはたいそう好ましくも感じられ、「そのように思う存分に自由に生きてみたい、そうできたらどんなに素晴らしいだろうか」と願う心が誰にでもあるかも知れません。多くの人々が、また私自身も、父の家を出ていったこの一人の放蕩息子のようでした。

 私たちは皆、生まれつきとても傲慢であり、あまりに思い上がった自分勝手、自分中心な心を抱えています。あるいは逆に自尊心が低すぎて、自分に自信が持てず、「これでいいんだ」と自分を認めることも自分を十分に愛することもできないで、卑屈に臆病になりました。そうやって嘆いたり怒ったり怖がったりしながら、自分だけの小さな殻に閉じこもっています。ですから、神との交わりのうちに、神のお働きと配慮のもとにその御心に聞き従って生きてゆくことを喜ぶことのできる人間は、ごくわずかかも知れません。私たちの多くは、父の家を出ていったあの一人の息子のように、主なる神に背を向け、その御もとから遠く離れ去ってゆきました。神を抜きにして、まるであたかも神がいない世界に生きているかのように。けれど多くの時間が過ぎ去ったあとで、父の家を出ていったあの一人の息子は、手にいれたはずの多くのものは何の役にも立たない、ただ虚しいだけのものだったと気づかされました。父から多くの財産を分けていただき、多くの良いものを贈り与えられていたはずなのに、すべての財産をただ虚しく使いつぶしてしまった。何かに心を奪われ、自分自身の身勝手な欲望や心の思いの奴隷とされ、贈り与えられた財産をただ虚しく無駄遣いしつづけ、そして結局、私の手元にはもう何一つも残っていない。この息子が陥ってしまった苦境、虚しさ、無意味に使いつぶしてしまった人生、誰にすがることも助けを求めることもできないその惨めさやその心細さを、聖書は「自分自身の罪。その罪によって陥ってしまった悲惨」だと語りかけます。また、「私たちはみな迷い出てしまった一匹の羊のようだ。それぞれに道を踏み外し、それぞれの方角へと迷い出ていってしまった」(イザヤ書53:6参照)と。この一人の息子のふるまいと、陥ってしまったはなはだしい苦境は、神に背を向け、離れ去っていったこの私たち自身の姿をありありと写し出しています。

 父の家を出ていったあの息子は、目が見えなくされ、とても大切なことがまったく分からなくされていました。自分自身が何者であるのかを知らないことこそが、最も憐れむべき悲惨さです。自分は何者なのか。すぐに簡単には答えが見つかりません。時間をかけて、少しずつ少しずつ気づかされています。目が見えなくされたまま、あの彼も私たちも、暗闇の中をさ迷い歩きつづけました。そこから光の中へと連れ戻され、自分がいったい何者であるのかをついに知らされた者たちは幸いです。あの父親の子供であり、父の家に父と共に暮らしているはずの自分だったと。「彼らは知らなかったし、理解することもできなかった。そのために、彼らは暗闇の中をさ迷い歩きづけた」(詩82:5参照)。私たち自身のことです。

 すべての財産を遣いつぶしてしまう虚しく惨めな体験が、あの息子にはどうしても必要でした。自分自身の乏しさ貧しさを骨身に沁みてしみじみと思い知らされ、飢え渇いて、神の憐みを慕い求めはじめるためには。なぜなら、道に迷いつづけた羊たち。自分自身の傲慢さと、あまりに思い上がった、自分勝手で自分中心な心が、神と自分との間に立って邪魔をしつづけていたからです。それらを粉々に打ち砕いていただけなければ、目が覚めませんでした。だから神は、「渇きを覚えている者は水のところに来なさい」「すべて重荷を負っている者は来なさい」(イザヤ書55:1,マタイ11:28-30と呼ばわりつづけました。「自分は。自分こそは」という偽りの財産とただ虚しいだけの重荷をすっかり遣いつぶし、ブタ小屋に追いやられ、その餌でも食べて飢えを満たしたいと追い詰められたとき、そのようにして、その人のための神の憐みと祝福のときが近づきました。もし、そうでなければ生涯の最期の最期まで心を頑なにし、傲慢でありつづけ、あるいはいじけて臆病になりつづけ、父の家から遠く離れたままで生命を虚しく終えていたかも知れません。

 17-19節、「本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』」。雇人とは、今日では日雇い労働者に似ています。あるいは、いつ解雇されるか分からない非正規雇用の労働者です。あるいは、「技能実習生」という体裁のよい名目のもとに使い捨てにされ、都合よく不当に搾取されつづける外国からの出稼ぎ労働者たちです。そのようなとても不安定で心細い境遇に放置されつづける者たちでさえ、父の家では十分なパンを与えられて安らかに暮らしている。あの彼は、ついにとうとう立ち上がって、父の家へ帰っていこうとしています。そこが自分のいるべき場所だからです。自分は父の息子だと、とうとう思い出したからです。しかも同時に、「そこにいる価値や資格がまったくない者であり、この私自身こそが神にはなはだしく背きづける、最低最悪の罪人ある」と心底から痛感し、認めています。悔い改めて神へと立ち返るとは何でしょうか。神を信じて、その信仰をもって生きてゆくはどういうことでしょう。「それは単なる形式でも儀式もなく、日毎の悔い改めであり、自分の思いと在り方を神へと向け返しづけて生きること」だと宗教改革者は説き明かしました。自分自身では、それはなかなか出来ませんでした。「罪人だ、罪人だ。私たちは罪人の集団にすぎない」と頭の片隅や口先では言いながら、自分自身の心の中ではいつまでたってもとても傲慢でありつづけ、思い上がった、自分勝手で自分中心な心を拭い去ることが出来ませんでした。あるとき、剣で胸を刺し貫かれたような痛みを感じました。「ああ間違っていた。自分は、すっかり思い上がっていた。神に背いてあのは、他の誰でもなくこの自分自身だった」と気づきました。聖霊なる神のお働きが、ついにとうとうその人の中で始まったのです。自分自身のブタ小屋の中でブタが食べる餌を眺めながら、とうとう思い起こさせていだきました。「わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」と。とうとう、その一人の罪人のためにも、罪の牢獄の扉が打ち破られました。罪や肉の欲望の手下にされることや、牢獄に閉じ込められづけることを止めにしたいと願いました。父から贈り与えられた財産も命も何もかも虚しくずっかり遣いつぶしてしまうことは、もうイヤだと。あの息子はへりくだった低い心を贈り与えられて、へりくだった祈りをさげはじめました。あるとき心に痛みを覚えさせられ、ついにとうとう、あの彼も私たち一人一人も祈りはじめます、「わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」(詩451:3-4,ルカ18:13と。これこそが、只一つの救いに至る悔い改めです。

 

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 さて最も大切な最優先事項は、コロナの禍いや自然災害や、どんな社会現象でもありません。どういう神であられ、神が何をなさるのかということです。いつも恐れて警戒しつづけなければならないのは、神を信じる信仰が骨抜きにされ、いつの間にか生命と喜びと希望を失い、中身のない形ばかりのものにされ、二の次、三の次へとどんどん後回しにされつづけることです。どの社会の、どんな時代状況あっても、むしろはなはだしい困窮の只中にあればあるほど、あの人やこの人、また自分自身がどういう人物であるかでもなくて、ただただ神ご自身こそがどういう神であられるのか。救いと幸いをどのように差し出そうとしておられるのか。なんでもおできになり、この私たちのためにさえ確かに生きて働いておられ、しかも憐み深い神です。もし、その神を心底から本気になって信じて生きることができるなら、神を第一として暮らしを建て上げてゆくことができるなら、その人と家族は幸いです。父の家を出ていった息子が帰って来たように、一人の罪人が神のあわれみとゆるしのもとへと立ち返るとき、そのとき直ちにその人は神の憐みとゆるしを受け取りはじめます。なぜなら、不信仰で神に背きつづけていた間から、すでにその人をゆるそうとし、迎え入れようとして、憐みの神が準備万端で待ち構えておられるからです。あの父親のような神が、こんな私たちをさえ今か今かと待ち構えておられました。私たちの主なる神さまは、価なしにただ恵みによって憐れんでくださる慈しみ深い神です。ただその恵みと憐れみによって救われた私たちです。神に逆らい、背いていた、神を信じる心がほんのわずかしかなかった不信仰な私たちのために救い主イエス・キリストが死んでくださいました。死んで、死者の中からよみがえってくださいました。そのことによって、私たちに対する神の愛と憐みが示され、差し出されました(ローマ手紙8:5-11参照)。ついに、とうとう思い出しました。価なしに、ただ恵みによって多く愛され、多くをゆるされつづけてきた私たちです。迷子になったあの一匹の羊のように。あの1枚の銀貨のように。父を見失ってはぐれていたあの息子たちのように。いなくなっていたのに見つけ出していただきました。死んでしまうところだったのに、生き返らせていただきました。その1人の迷い出てしまった貧しく小さい哀れな罪人を思って、神さまご自身がどんなに心を痛め、どんなに深く嘆き悲しむことか。だからこそ、立ち帰ってきたその1人の罪人を思って、神ご自身が大喜びに喜んでくださる。その喜びの大きさと深さは、その人のための神さまご自身の悲しみや嘆きの大きさと一組でした。目を凝らしつづけましょう。1人の羊飼いはその一匹の羊のために大喜びに喜んでいます。「皆さん、いなくなっていた羊をとうとう見つけました。一緒に喜んでください」。あの1人の女もその一枚の銀貨のために喜んでいます。「嬉しい、嬉しい。本当に嬉しい。どうぞ、一緒に喜んでください」と。見つけ出されて生き返ったその一人の罪人のためにも、神さまご自身こそが憐れみの御業を持ち運んで、生きて働いてくださっています。祈り求めましょう。