みことば/2021,1,3(主日礼拝) № 300
◎礼拝説教 1コリント手紙 11:23-29 日本キリスト教会 上田教会
『パンと杯を前にして』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
11:23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。27 だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。28 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。 (コリント人への第一の手紙 11:23-29)
コリントの町に建てられた1つのキリスト教会は、神を信じて生きることの深刻な危機に瀕していました。神の御心にかなわない悪い身勝手な振る舞いがあり、互いの付き合い方も貧しく歪んだものになっていました。この23節の直前、17-22節にかけて、その様子がよく分かるように指摘されます。17節で、「あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっている」と彼は語り始めます。お互いの間に争いがあり、分け隔てをしあい、「食事の際にも、片隅に押し退けられて飢えている者たちがいる一方で、すでに自分たちだけで満たされ、自分勝手に楽しみ、酔っている者もいる」。その貧しく小さな人々をはずかしめることは、神の教会を侮り、神ご自身を軽んじることになるではないかと。同じようなことはどこにでもありえます。この私たち自身も、自分の至らなさや落ち度を棚に上げ、すっかり忘れて、家族や同僚やほかの人たちがしてしまったほんの小さな過ちを許さず、その不始末や至らなさをきびしく咎めだてし、非難しつづけてしまいます。心当たりがありますか。それは、互いに生まれながらの怒りの子たちであるからです。この私たちの日頃の行ないや心の思いの一つ一つに対しても、憐み深い神が悲しんだり、深く嘆いたりしつづけます。
神さまの憐みの御心に背くそうした在り方を正し、神からの憐みと平和のもとへと立ち戻るためには、神の定めそのものに戻る以外に、ほかの手段はありません。たしかに神が生きて働いておられることを心底から、つくづくと分かるのでなければ、私たちはいつまでたっても気難しく、もしかしたら一生涯ずっと、心がとても頑固なままかも知れません。人間には、自分を新しく変えることなどそう簡単にできることではありませんから。神ご自身がその御力を発揮してくださり、こんな私たちにさえも神の憐みの御心をよくよく習い覚えさせてくださるのでなければ。23-26節、「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」。「主から受けたことを、また、あなたがたに伝えた」と言い切っています。救い主キリストご自身から受けたことを、あなたがたにそのまま手移しに伝えた。主から受け、世々のキリストの教会が受けたままに伝え続けたことを、次の者へ次の者へとバトン・リレーのように手渡し、伝え続けて、このように今、私たちも受けています。そうするのは、いっさいの人間的な掟や、人間的な権威や秩序が退けられ、ただ主であられるキリストの権威だけが確固として堅く立ち続けるためにです。キリストの教会において、世界中のどこにあっても、主ご自身の権威のほかには尊ぶべきどんな権威もないからです。
主イエスが渡された夜とは、捕まえようとする人々に引き渡され、やがて十字架の上に渡され、ご自身の肉を引き裂かれ、血を流し尽くされようとする夜です。私たちのためにキリストが死んでくださったその恩恵が、私たちの中にも引き渡されて、神ご自身の恵みの秩序こそが確固として立つためです。
この食卓の様子が報告される時、「主は感謝した」と必ず報告されつづけます。主イエスのこの手本にならって、聖なる晩餐にあずかる私たちにも、「同じく主に対して、あなたがたは感謝をしなさい」と命じられます。救い主イエスは、御父に対して、慈しみとあがないの測り知れない恩恵を感謝します。そして、ご自身の手本をとおして、神が私たちに対して抱いておられる格別な愛を知るように、また神の愛を忘れ果てて、神を侮る者になってしまわないように、むしろ神への感謝によって一日ずつを生きる者とされるようにと招きます。「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」と。「記念する」とは、キリストがなされたあがないの業を魂に刻んで、よくよく覚えることです。覚え続けて、感謝の暮らしをそのように建て上げてゆくためにです。主イエスの血による新しい契約とは、憐みの契約です。その新しさは、「今では、神の憐みを受けた者とされた」と感謝できる新しさです。別の箇所でこう証言されます、「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである」(1テモテ手紙4:5)。
「取って食べなさい。これは、私のからだである。飲みなさい。私の血によって立てられる新しい契約である」と主イエスがお命じになるので、だから、そのご命令に従って、私たちはパンを食べ、杯を飲みます。主であられるキリストが一つのパンから分けて弟子たちに与えられました。私たちが等しくそのパンと杯の食事にあずかるのは、みんなの者の間に分け隔てのない、思いやり深く温かな憐みの交わりが、主によって生み出されるためにです。「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである」(1コリント手紙10:16-17)と証言されるとおりです。
「これは、私の体である。私の血による新しい契約である」と主イエスが仰いました。取り分けられ、目の前に差し出されつづけるひとかけらずつのパンを「これは私の体」だと仰り、差し出される小さな杯の中の赤い飲み物をさして、「私の血であり、その血によって立てられる新しい契約」と仰いました。パンであり赤い飲み物ですが、けれどなお主イエスご自身が「私の体。私の血」と仰るので、差し出されるままに私たちは受け取ります。どうしてパンが救い主の体であり、杯の飲み物がその血であるのは、とても分かりにくいことです。もし自分自身の理解力によって分かろうとするなら、それはただ愚かなだけの思い上がりです。神さまを信じる信仰によってだけ、分からせられ、信じさせていただけます。聖霊なる神のお働きによって、私たちの心を神のもとへと高く引き上げられ、現にこうして「キリストの体と血によって養われている私たちである」と信じる者とされます。
26節、「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」。キリストがこの私たちのためにも死んで、復活してくださった。救い主イエス・キリストの死と復活の力が、私たちの心に深く堅く、よくよく刻みつけられつづけることが必要だからです。その力を知ることによって、私たちは突き動かされ、『目に見えにくい剣』によって自分の胸を刺し貫かれて(使徒:32「人々はこれを聞いて、強く心を刺され~」、ヘブル手紙4:12-13「(神の言は生きていて諸刃の剣よりも鋭く~)」)、主であられる神さまにこそ信頼と感謝をささげて、そのように毎日の暮らしを生きるようになるためにです。こうして、パンと杯による聖なる晩餐は、終わりの日にキリストがふたたび来られて、世界と私たち自身の救いをすっかり成し遂げてくださるときまで、教会のうちに永遠に執り行いつづけられていくべき記念の行ないです。この食卓が主イエスご自身によって定められたのは、イエス・キリストが私たちにご自身と私たちの死と復活を思い起こさせつづけようとなさったからです。また私たち一人一人も、人々の前でも、どこで何をしているときにも、このことで神に感謝して生きる者たちとされるためにです。このように聖晩餐は、世々の教会によって「感謝の行為」と呼ばれつづけます。
◇ ◇
さて27-29節、「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」。ふさわしくないままでパンと杯を飲み食いする者は、主の体と血とを犯し、侮ることになる。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、それによって自分自身に神からの裁きを招くことになる。さあ、困りました。どのようにわきまえることができるでしょう。自分自身の何をどのようにして吟味し、確かめることができるでしょう。第一には、まったくふさわしくない私たちであるということです。あなたも私も誰もかもが、主の体と血にあずかって、その死と復活の力を知り、味わい、その力が自分とそのいつもの暮らしにも及び、家族にも及ぶことになると知りながら生きる者とされる。しかもなお、このような恵みに価するほどふさわしい人間など、どこにもただの一人もいないということです。第二には、神が憐みによって、ふさわしくない私たちをこの食卓に招き、ただ主イエスを信じるという一点によって分け隔てなく、このパンと杯を差し出してくださっているという恵みの現実です。「ふさわしくない私だと知りながら、にもかかわらず神の御前に恐れなく進み出て、そのパンと杯を感謝していただくようにと許され、そのように招かれている」と、そのように自分を知り、主の体であるキリスト教会と兄弟姉妹たちを知ることです。「自分のふさわしくなさを、キリストの御前に差し出すことが、わたしたちにとって最善のふさわしさです。そして、ふさわしさは、ふさわしくない私たちを憐れんで許す神の憐みにこそあったのです。「むしろ自分は貧しい者として、慈しみ深い贈り主のもとに来て、重い病いを患う重病人として良い医者であられる神のもとに来て、とても悪い罪人として義の創始者であられる神のもとに来ること。つまり、すでに死んでいる者として、命を与えて生かしてくださる御方のもとに来るのだ、と考えましょう」(J.カルヴァン「キリスト教綱要」4篇17章41-42節(1559年)を参照のこと)。
「取って食べなさい。飲みなさい」と主イエスがお命じになるので、私たちは恐れなく心安らかに、この聖なるパンと杯をいただき、そのように恵みとゆるしの只中を生きることができます。「来なさい」と主が招いてくださるので、私たちは主なる神の御もとへと日毎に、朝も昼も晩も向かいつづけます。