2021年1月11日月曜日

1/10「主イエスの晩餐」ルカ14:13-24

          みことば/2021,1,10(主日礼拝)  301

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:13-24           日本キリスト教会 上田教会

『主イエスの晩餐』 


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 14:13 むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。14 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。15 列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。16 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。17 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。18 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。19 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、20 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。21 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい』。22 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。23 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。24 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。 (ルカ福音書 14:12-14)

                                               

 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。     (ヨハネ福音書 6:53-57)

まず13-17節、「むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。そこでイエスが、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた」と。

主イエスご自身によって語られたとても教育的な、わたしたちを養い育てるたとえ話を、ごいっしょに読みました。あるパリサイ人の家で、主イエスと共に食事の席についていた一人の人が、「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言い出しました。その言葉に促されるように、主イエスはたとえ話を語り始めました。「幸いです」と言い始めたこの彼も私たちも、神の国にぜひ辿り着き、そこで神の御もとで生きる幸いを受け取りたいと心から願っているからです。誰がどのように救われるのか。神の国に迎え入れられるその幸いを、どのようにして手に入れることができるかを、主イエスはたとえ話によって教えようとしておられます。「幸いです」とその人が言い始めたのは、その前に、13-14節で主イエスがおっしゃった言葉によって、もしかしたら大切な何かに気づきはじめていたからかも知れません。

13-14節、主イエスは仰いました、「むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。招かれたことへの返礼ができない。だから、幸いになる? これが最初の大きな手掛かりであり、すでに神の国の福音を告げ知らせるたとえ話が語られはじめていました。宴会を催す人とは、神さまのことです。その宴会は、神の国で催される食事会であり、神によって贈り与えられる救いのすべての中身です。しかもこの宴会に招かれる人々は、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などです。貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人たちの共通点は何でしょう。これらはたとえ話として語られています。つまり、その貧しさはお金や財産がどのくらいあるのかということではありません。足や目、また体のどこかに不自由で不都合なことがあるかどうか、ということでもありません。それぞれの人の心の状態であり、魂の様子です。主イエスは別の時に、「心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものである」(マタイ福音書5:3とおっしゃいました。「心が貧しいとは、ちょうど乞食のような心や在り方だ」とある人たちは受け止めました。仕事を失って、明日の食べ物にも事欠いて、物乞いをする人。乞食は施しを求めても良い。自分の心の貧しさ。何が真実なのかを知らない貧しさ。立ち帰るべきところはどこなのかと追い求める心、それが心の貧しさではないかと説き明かす伝道者がいました(林励三著『マタイ福音書』(小説教集)52節の項を参照)。適切な判断であると思えます。体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人たちとたとえ話で語られる人々も同様です。自分自身ではその自分の不自由さや困難を乗り越えることができず、良い医者に治してもらえることを待ち望み、そこに希望をかけています。そのように、良い医者であられる神に寄り頼む心や在り方です。神は、そのような人々をご自分の御もとへと招きます。「さあ、来てください。もう、あなたのためにも準備ができていますから」と。それは、神さまからの恵みです。その測り知れない恵みに返礼やお返しの出来る人など誰もいません。ただただ感謝して、喜び、主なる神から良い贈り物を受け取りつづけて生きるほかありません。ああ。だから、その人たちは他の誰にもまして、格別に幸いです。ますます幸いにされてゆきます。

16-20節、「そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。ところが」。わたしは土地を買いましたので、と断る人がいました。わたしは五対の牛を買いましたので、と断る人もいました。わたしは妻をめとりましたので、だから、などと断る人もいました。様々な理由や不都合な事情を並べ立てて、みな同じように次々と断りつづけました。あらかじめ神の国での宴会に招かれていた人たち。それは、神の民とされ、救いの約束のもとに招かれていた、ほとんどのユダヤ人たちです。神の国での食事を楽しみにして待ち望んでいたはずの先祖たちは、いつの間にか、神の国での祝宴よりも、他のものを愛し、大切に思うようになってしまっていました。一方を愛し、尊び、他方を疎んじました。神からの救いへの招きを軽んじて、わざとなおざりにしてしまいました。自分から進んで救いからこぼれ落ち、永遠に失われようとしています。なんということでしょう。

21-24節、「僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい』。僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。あらかじめ招かれていた人たちのほとんどが、家の主人(=主なる神)からの招きを断りました。「家の主人」とたとえられているのは神さまのことです。神が、ただ怒って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを招いたのかというと、決してそうではありません。先に招かれて断ってきた人たちに対しても、神はむしろ心を鈍くしてしまったその彼らを憐れんで、彼らのためにも悲しみ嘆いておられます。貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などに対しても、誰でも良いからと手当たり次第に引っ張ってきたわけではありません。特に、この人と、この人と、この人とこの人。狙いを定めて名指しで、願いを込めて招いておられます。そのまま捨て置くことはできないと、憐み、慈しんでおられます。恵みに価しない罪人をなお憐れんで、救おうとなさる神さまです。

さて、まず第一に、神がいのちあるすべての者たちの魂の救いのために盛大な準備を整えておられることを、私たちはこのたとえ話から教えられます。「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた」と。神に背く罪深いものたちを救うために、必要なすべての準備を十分に整えて、いのちあるすべてのものたちを招きます。これが、神の国の福音です。私たちすべては、飢え渇いて救われることを待ち望んでおり、どうしても助けを見出せずにいました。今も、心挫けそうになり、希望を失いそうになりながら、ただただ虚しく日々を過ごす人々が大勢いるでしょう(マタイ福音書20:6-7「なぜ何もしないで、一日中ここに立っていたのか」「だれも私たちを雇ってくれませんから」を参照)。神に背くすべての罪をゆるされ、神さまとの間の平和を与えられ、自分の心を清くされること。それらは皆、神ご自身が私たち罪深い者たちのために用意していてくださる恵みです。ただ救い主イエス・キリストを通して、それら備えられた良いものが贈り与えられます。救い主イエスこそが、用意されていた盛大な晩餐会そのものであり、その中身です。だからこそこのお独りの方が、「わたしはいのちのパンである」と宣言なさり、また、「わたしのもとに来るものはみな飢えることがなく、私を信じるものはみな決して渇くこともない」と、「わたしの体は(あなたがたのための)肉であり、私の血は(あなたがたのための)飲み物である」と、「わたしの体を食べ、わたしの血を飲む者はみな永遠の生命をもつ」(ヨハネ福音書6:35-56とおっしゃいました。

第二に、神の国の福音の備えと招きは、分け隔てなく、誰にでも広く自由に差し出されます。「さあ、来てください。もう、あなたのためにも準備ができていますから」と。恵みに価しない罪深いものたちを救うために、神の側では何の不足もありません。もし、誰かが救われず、そこからこぼれ落ちてしまうとするならば、その落ち度は神の側にはないのです。救い主イエス・キリストを通してご自身のもとに来るすべてのものたちを受け入れようとして、父なる神はすでに準備万端です。独り子なる神・イエス・キリストは、信仰によってご自身に結び合わされたものたちすべてをその罪から清めようとして、すっかり準備を整えておられます。聖霊なる神は、救い主イエスを捜し求めるすべてのものたちを教え、導くために、近づいて来てくださいます。救い主イエスを通して、誰でも、神に近づいてゆくことができます。「さあ、来てください。もう、あなたのためにも準備ができていますから」という招きは、例外なく、誰にでも差し出されています。

 第三に、罪深いものたちを救おうとして、「さあ、わたしのもとへ来なさい」と神が心から願い求めています。熱情の神であり、罪深いものたちを憐れみ、愛して止まない神だからです。「ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます」としもべが戻ってきて報告すると、家の主人がその僕に言いました、「道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい」と。失われようとするものたちに向けられている神の憐みは、嘘偽りでなく、絵空事でもない真実であるからです。いのちあるすべての者たちを愛して止まない、神の憐みの熱情が、すべての小さく貧しい者たちを招きます。この私たち自身と家族をも招きつづけます。

 24節で、「わたしの晩餐」と家の主人がおっしゃいます。主なる神ご自身のものである、パンと杯による聖なる晩餐です。それは、救い主イエスの死と復活によって用意され、救い主イエスの死と復活と、そのすべての恵みにあずからせる食卓です。「さあ、来てください。もう準備ができましたから」という神の国の福音の招きは、最初に、神の民とされたユダヤ人たちに差し出され、いま同じく、この私たちにも差し出されつづけます。朝も昼も晩も、救い主イエスはこんな私たちにさえも呼ばわりつづけます、「さあ、わたしの晩餐に来なさい。わたしのもとへ来なさい」と。