2021年1月26日火曜日

1/24「わたしたちは地の塩」ルカ14:34-35

             みことば/2021,1,24(主日礼拝)  303

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:34-35                 日本キリスト教会 上田教会

『わたしたちは地の塩』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい。     (ルカ福音書 14:34-35)

                                               

あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。      (マタイ福音書5:13-16

 

あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。

                       (ヨハネ福音書 15:3

 34-35節、「塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。神を信じ、救い主イエスに聴き従って生きるすべてのクリスチャンは、『地の塩』であり、『世のための光』であると主イエスご自身から言い渡されています。別の福音書は、もう少し詳しく報告しています、「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ福音書5:13-16

 救い主イエスから、ご自身を信じて生きる私たちクリスチャンに言い渡されていることがあります。私たちには、この世界で果たすべき役割があり、そのための明らかな性質があるということです。『地の塩』であり、『世のための光』であると。ここでは『塩』のことだけが取りあげられていますが、『地の塩。世のための光』は一組ですから、合わせて思い描くほうが好都合です。また、なぜ、どのようにして塩であり、光であるのか。どう生きることができるのかと思いを巡らせたいと願います。私たちが塩であり光であることの根拠は、ただ神の側にあります。ですから、そうしてくださった神の御心と御計画とを問わねばなりません。

 すべてのクリスチャンは、この世にあって、地の塩のような存在です。さて、塩は他のどんな物質とも違う固有の性質をもっています。他のものと混ぜ合わされると、塩は、その混ぜ合わされたものが変質して腐ってしまうのを防ぎます。塩はつまり、混ぜ合わされるさまざまなものに、そのもの自身を清くして保つ性質を分け与えることができるのです。それが塩の効き目です。地の塩とされた私たちには役割があり、果たすべき責任があります。その場所に置かれていることの大切な意味があります。また私たちは、この世を照らす光ともされています。たとえ真っ暗な部屋であっても、そこで小さな光がまたたくなら、すぐにその光は見つけられます。神によって造られたすべてのものの中で、光はとても役に立ちます。光は私たちの心と生活を豊かにします。光は、暗闇の中で私たちの歩みを導きます。光は、私たちの心を和ませ、元気づけ、励まします。だから神が世界をお造りになったとき、まず最初に「光あれ」とお命じになりました。これが、神によって造られた世界の出発点です。なぜ、私たちが『地の塩。世のための光』でありうるのか。主イエスが語られた言葉によって、私たちがすでに清くされているからです。また、主イエスご自身が世を照らすまことの光であり、その光を私たちが浴び、その光を照り返し続けているからです(ヨハネ福音書15:3,8:12,31-32を参照)

 クリスチャンとは、神の民とされ、救い主イエス・キリストのものとされた人々です。私たちはクリスチャンです。私たちは、神からの恵みを必要なだけ十分に受けているでしょうか。それは目に見えるもので、自分自身にも周囲の人々にも見えて、感じ取ることができるはずのものです。神からの恵みを受けていることは、やがて良い実を結びます。主イエスは何度も何度も、「あなたの信仰があなたを救った」「あなたの信仰があなたを救った」「あなたの信仰があなたを救った」と救われた人々を励まして、それぞれの生活の中へと送り出しつづけました。私たちが神から贈り与えられた信仰と恵みは、もちろん十分なものであり、私たち自身と家族とを救うことのできる信仰です。そうであるならば、心の在り方や、ものの考え方、習慣やそのときどきの判断に、なにかしらの変化が生じたはずです。他の人々とどう違うのかというよりもむしろ、神を信じて生き始める以前の自分とは決定的に違う、新しい何かが、この私たちの中にすでに始まっています。

 

 私たちは、どのように生きることができるでしょうか。

 救い主イエスの教えと、旧約聖書以来ずっと受け継がれてきた律法の教えとは一貫しており、連続して同じ一つのものです。主イエスはおっしゃいました、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ福音書5:17-18。神の律法と預言者たちの言葉を成就するために来た、とおっしゃった主イエスの言葉を私たちは覚えておきましょう。救い主イエスは、預言者たちの預言を成し遂げるためにこの世界に降りて来られました。預言者たちは、やがて救い主が来てくださると預言しつづけました。この救い主イエスは、ご自身が世の罪を取り除くための献げものとなられて、律法を成就なさいました。旧約時代のすべての献げものは、神の独り子がご自身のいのちをささげたただ一回のささげものを指し示しつづけていました(ヘブル手紙7:27-8:19,9:24-28,10:8-14参照)。その十字架の死について、聖書は、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ手紙2:6-8と証言し、それが父なる神さまへのまったき『従順のささげもの』だったと説き明かしています。他の誰にも、そのような従順を神にささげることなど出来ませんでした。私たち罪人を罪から買い戻してくださるためにご自身のいのちというあまりに高価な代価を支払ってくださいました。あがないの血によって、救い主イエスは私たちを罪から清め、神に逆らう罪から贖(あがな)い出してくださいました。他の誰にも、そのような支払いをすることはできませんでした。ただ一度、救い主イエスがご自身をささげることによって、私たちは罪から贖い出されました。

 

では私たちは、どのように生きることができるでしょうか。

 もちろん神から授けられた十の戒めこそが、良いことと悪いことについての神の究極の判断基準でありつづけます。救い主イエスが、その10項目の戒めを2つに要約なさいました、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ福音書22:37-40第一に、神を心から愛し、尊ぶこと。第二に、自分自身を愛するほどに私たちの隣人を愛し、尊ぶこと。この戒めによって、私たちは自分自身がどんなに罪深いかを突きつけられ、つくづくと思い知らされます。神を侮り、二の次、三の次へと後回しにしつづけるからです。また自分のことばかりに執着して、隣人を愛し、慈しみ、思いやる心にはなはだしく欠けているからです。神の憐みを必要とする私たちであることを痛感させられ、私たちは憐みと救いを求めて救い主イエスのもとへと駆け戻ります。救い主イエスは、神のゆるしと憐みを受けた私たちに、改めて、この神からの戒めによって導かれ、教え諭されながら、神への感謝の生活を送るようにと促します。つまり神の律法によって、自分がどんなにふさわしく正しいかを知らされるのではなく、まったく逆に、この自分こそがどんなに罪深い人間であるかを突きつけられ、救い主イエスによるゆるしと憐れみを慕い求めさせる。このように神の律法は、私たち罪人をますます救い主イエスへと向かわせ、このお独りの仲保者によって神との間に平和を受け取るようにと願い求めさせます。このようにして、『神の律法』は『神の福音』に負けず劣らず、神を信じて生きるための最重要の指針でありつづけます。

 自分自身のはなはだしい罪深さをはっきりと知らされ、その罪からのゆるしがどんなに大きな恵みであるのかを知らされれば知らされるほど、それだけ多く、私たちは神を愛することができます。「多くゆるされたから、それだけ多く愛している」(ルカ福音書7:47-48参照)とあの罪深い女性を指し示して、主イエスがおっしゃったようにです。すると、多くをゆるされ、多く愛されていることがあまりよく分からないうちは、この私たちは、神をも家族や隣人をもほんの少ししか愛する子ともゆるすことも出来ません。ただ不平不満をつぶやくばかりで、もの寂しい日々がつづきます。救い主イエスによって私たち自身の罪のゆるしが完全に十分に成し遂げられていることが鮮やかに分かれば分かるほど、それだけますます私たちは、いよいよ神さまをほめ讃え、心から感謝し、神の御声によくよく耳を傾けて聞き従う者たちとされてゆきます。語られ、聞き取りつづけてきた救い主イエスの言葉によってこそ私たちは清くされつづけるからです。その清さには殺菌消毒の強い作用があって、いっしょに生きる者たちとも混じり合い、その彼らを清め、食品が腐ってしまうことを防いで鮮度を保つように、私たちを清く保ちます。世を照らすまことの光であられる救い主イエスを仰ぎ続けている私たちなので、自分自身の中にある薄暗がりをも明るく照らし出されつづけ、身の回りにもその明るさや輝きを照り返して生きることができます。

 この私たちも、『地の塩。世のための光』として生きることができます。その清さと殺菌消毒の効き目は、語られつづけてきたキリストの御言葉から生み出されつづけます。その光は、世を照らすまことの光であられるキリストご自身の光を照り返して、私たち自身とその生活の中で輝きつづけます。


           補足/キリスト教信仰の教え 

 

 ☆あなたは 何を信じますか。

★わたしは、父なる神と、子なる神イエス・キリストと、聖霊なる神を信じます。

                 ⇒ ヨハネ福音書 1:18,コリント手紙(2)13:13

 ☆あなたは なぜ 神のことが分かるのですか。

★神が 聖書によって教えてくださるからです。

           ヨハネ福音書 5:39-40,同20:31,イザヤ書55:10-11,テモテ手紙(2)3:14-17

 ☆神は たくさんおられるのですか。

★いいえ。ただおひとりです。父なる神と子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神という三つの区別があり、思いを一つにして働いてくださいます。

この神を、三位一体(さんみ・いったい)なる神といいます。

          ⇒  マタイ福音書3:17,同11:27,同17:5,コリント手紙(1)12:3

ヨハネ福音書14:26,ヨハネ手紙(1)4:1-3

 ☆あなたは神からの救いとともに、ほかからの救いも望みますか。

★いいえ。神にだけ救いを願い、神にだけ仕えます。

           マタイ福音書 4:8-10,申命記6:13,使徒4:10-12,同4:19-20

 ☆あなたは すでに救われていますか。

★はい、救われています。

☆どうしてですか。あなたは罪人ではないのですか。

★はい。わたしは罪人ですし、いまも神に背きますが、

 主イエスを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われているからです。

             ローマ手紙3:21-28,同5:5-11,ヨハネ福音書3:16,テモテ手紙(1)1:12-17

 ☆神は正しいかたで、罪を憎むのではありませんか。

★そのとおりです。神は罪を憎みますが、罪人であるわたしたちを愛することを決してお止めになりません。

                       創世記4:1-15 ,同8:20-22,申命記31:8

 ☆主イエスは、どんなかたですか。

★まことの神であり、

 どうじに、まことに人間でもあります。

              ⇒  ピリピ手紙2:5-11,ヘブル手紙2:17-18,同4:14-16

 ☆主イエスは、いつから おられますか。

★世界が造られる前から 永遠に おられます。

                 ヨハネ福音書1:1-18,同8:56-58,ヘブル手紙1:1-3

                (当教会「こども交読文3」より)


1/24こども説教「白く塗られた壁よ」使徒23:1-5

 1/24 こども説教 使徒行伝23:1-5

  『白く塗られた壁よ』

 

23:1 パウロは議会を見つめて言 った、「兄弟たちよ、わたしは今日まで、神の前に、ひたすら明らかな良心にしたがって行動してきた」。2 すると、大祭司アナニヤが、パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打てと命じた。3 そのとき、パウロはアナニヤにむかって言った、「白く塗られた壁よ、神があなたを打つであろう。あなたは、律法にしたがって、わたしをさばくために座についているのに、律法にそむいて、わたしを打つことを命じるのか」。4 すると、そばに立っている者たちが言った、「神の大祭司に対して無礼なことを言うのか」。5 パウロは言った、「兄弟たちよ、彼が大祭司だとは知らなかった。聖書に『民のかしらを悪く言ってはいけない』と、書いてあるのだった」。(使徒行伝23:1-5

 

 主イエスの弟子とされたパウロは、ユダヤ人の議会の前に立って語り始めています。「兄弟たちよ、わたしは今日まで、神の前に、ひたすら明らかな良心にしたがって行動してきた」と。すると、ユダヤの神を信じる人々の中で一番偉い、

神に対する責任を担っているはずの大祭司がパウロのそばに立っている者に、「彼の口を打て」といきなり命じました。すべてのクリスチャンは、このパウロのように、神さまを信じる信仰によって話をしたり、働いたりします。そこで口を叩かれたり、乱暴をされることもあるかも知れません。そのとき、ただ殴られたり蹴られたりされるのを我慢しなさいとは神さまから命じられていません。悪いことは悪いと言い、「止めなさい。そんなことはしてはいけない」と立ち向かうことがゆるされています。もちろんです。3節、「そのとき、パウロはアナニヤにむかって言った、『白く塗られた壁よ(マタイ23:27-28「白く塗った墓に似ている」参照)、神があなたを打つであろう。あなたは、律法にしたがって、わたしをさばくために座についているのに、律法にそむいて、わたしを打つことを命じるのか』」。しかもその相手は、神の律法に従って裁きをしなくてはならないはずの人でした。その人が、神の教えに背いて、間違った悪い仕方で口を閉じさせようとしたのです。その間違いと悪さを、その相手にもまわりにいるすべての人々にも、はっきりと知らせなければなりません。みな共々に、神の教えに従う者たちであるためにです。

2021年1月18日月曜日

1/17「主イエスの弟子であること」ルカ14:25-33

                      みことば/2021,1,17(主日礼拝)  302

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:25-33                   日本キリスト教会 上田教会

『主イエスの弟子であること』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 14:25 大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、26 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。27 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。28 あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。29 そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、30 『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。32 もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。33 それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。            (ルカ福音書 14:25-33

 

6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。(マタイ福音書 6:19-21


 25-27節、「大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、『だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない』」。クリスチャンとされ、救い主イエスを信じて生きる弟子とされた者たちは、もしそうすることが必要となった場合には、主であられる救い主イエスのためにはすべてのものを投げ捨てる心積りが必要だと教えられます。きびしいことが語られ始めました。もし誰かが主イエスに付いて行きたいと願うならば、そのために必要であるなら、自分の父親、母親、愛する連れ合い、息子や娘たち、兄弟姉妹を投げ捨て、それどころか自分自身の生命さえも投げ捨てるつもりでなければ、主イエスの弟子であることはできないと。

 分かりにくい、読むのがとても難しい箇所です。なぜなら聖書は、そのどの箇所も言葉の一つ一つも、聖書全体の調和の中で読まねばならないからです。聖書の中の他の箇所と相容れない、矛盾する仕方で読むならば、それはどこかで読み間違えており、神さまの御心にかなわないからです。父や母や、大切な家族を、主イエスのために投げ捨ててしまって良いのかどうか。「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト記20:12と神からの律法によって、はっきりと戒められているからです。困りました。ここで救い主イエスは、主に従って生きていこうとする私たちが、自分自身の最も近しい、また愛して止まない人々に対する愛よりも、さらに自分自身の生命を愛し惜しむよりも、なおそれ以上に深く強い愛で救い主イエスを愛するようにと命じておられます。そうでなければ、この主を信じて、主に従って生きてゆくことなどできないからと。このことです。主は、私たちが自分の大切な家族や親族たち、友人たちとむやみに争ったり仲違いすることが大切だなどとは決して言っておられません。けれど、もし、家族や友人や町内会や職場の同僚、上司などが願い、私たちに要求することと、神さまご自身が私たちに要求することが相容れないとき、両立しないときには、家族や友人や町内会や職場の者たちからの要求を断りなさいと命じられます。どちらか一方を選ぶようにと迫られるとき、私たちの救いのために死んで復活してくださったお独りの方、救い主イエスを嘆かせ、悲しませるよりは、むしろ家族や友人やその地域の人々、職場の上司の要求にさえも逆らうべきときがある。そのことを覚えて生きる必要があります。この私たちが、神を信じる信仰を投げ捨ててしまわないためには。神からの律法である『十戒』を主イエスご自身が要約して、2つにまとめて示してくださいました。「イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ福音書 22:37-40と。神を愛し尊びなさいという第一の戒めと、隣人を自分のように愛しなさいという第二の戒め。第二の戒めも第一と「同様である」とは、まったく同列ではなく、はっきりした区別と優先順位があるという意味です。だからこそ、「まず、一番大切な第一のこと。そして第二に~」とおっしゃった。最も身近で大切な隣人として、父母や連れ合い、子供たちなどの家族が挙げられます。その場合にも、もちろん神を愛し、尊び、神にこそ仕えて聞き従うことが最優先の第一の戒めです。神を中心にするのでなければ、私たちは簡単に、神を二の次、三の次とし、神を愛し尊ぶことをどんどん後回しにして侮りつづけるようになってしまいます。そのことを、私たちは本気で恐れねばなりません。

 救い主イエスからここで差し出されている要求は、とくに厳しく、また私たち自身の心の中に何があるのかと問いかけるものです。だからこそ、この要求は賢く、また私たちにとって必要なものです。どこでどのように生きようとも、神を信じて生きようとするその人の魂にとってのつまずきの石(=妨げとなる障害物)は、しばしばその人自身の家庭の中や家族関係の中に生まれます。あるとき、友人や親しい家族との考え方や意見の衝突が起こり、すると、それは神を信じて生きようとする人々にとって大きな困難となります。そのとき、救い主イエスの御心に背き、逆らってしまうよりは、むしろ家族や周囲の人々の考えや願いに逆らうほうが良いのです。

 私たちが大切に思う人々の考えに同意できないことは、この私たちにとって重い十字架となります。けれども、とくに信仰の事柄においてはこれが真実です。もし、それが道理にかなわない間違ったことであると知りながら、なおその人たちを喜ばせるために自分もその悪いことをしてしまうならば、それは決してその人々を愛し、尊ぶことにはなりません。「あなたの父母を愛し、尊びなさい」。そのとおり。しかも、その父親や母親が間違ったことをしようとするなら、「お父さん、お母さん。それは間違っています。そんなことをしてはいけません」と断固として逆らって立つ必要があります。それこそが、その人々を真実に愛し、尊ぶことになるからです。

28-32節、「あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう」。家を建てる場合と、自分が一国の王であり他の国の王と戦争をしようとする場合と、2つの場合を例にとって、『あらかじめ先の見通しを良く立てておくべきこと』だと勧められています。神を信じて生きることもまた、家を建てることや他の国と戦争をすることに似ている点があるからです。神を信じ、救い主イエスに聴き従って生きてゆくことには、喜びや幸いばかりでなく、苦しく嫌なことも起こります。そのために大きな代償を支払うことや、何かを犠牲にすること、そのために苦しみや悩みを引き受けて、それを耐え忍ばねばならないこともあります。そうしたことも分かった上で、神を信じて生きることを選び取るのです。ただ形ばかり、名ばかりのクリスチャンになって、ただ礼拝に出席しつづけるだけなら、それはたやすいことです。けれども本気になって救い主イエスの御声を聴き、イエスに従い、信じ、救い主イエス・キリストを自分の唯一の主人であると告白し、そのように生きようとするならば、私たちは主であられる救い主イエスご自身から多くの自己否定を要求されます。「自分を捨てて、自分が負うべき十字架を背負って、私に従ってきなさい」(ルカ福音書9:23参照)と主イエスから命じられて、主イエスに聴き従って生きてきた私たちです。捨て去るべき自分とは、私たちの罪深さであり、「自分は正しい、正しい」と言い張る傲慢(ごうまん=思い上がった気持ちになって、むやみに他人を見下すこと)さや自己義認の罪であり、自分の安楽や思い通りの生き方を願う自己中心の思いであり、世間やまわりの人々から良い評価を得て、皆から尊ばれたいと願う世俗性です。それらすべてを、私たちは投げ捨てなければならいし、しかも、そうすることがこの私たちにも必ずできると約束されています。それらすべてが、私たちが闘って打ち破るべき敵対者たちです。『あらかじめ先の見通しを良く立てておくべきこと』だと勧められているのは、このことです。喜びや幸いばかりでなく、苦しく嫌なことも起こります。そのために大きな代償を支払うことや、何かを犠牲にすること、そのために苦しみや悩みを引き受けて、それを耐え忍ばねばならないこともある。それは、このようなことです。

主イエスは、なぜ、こんなことを語りかけるのか。ご自身の弟子たちを最初のうちから落胆させて、神を信じて生きることを諦めようとなさっているのか。永遠のいのちに至る門を、もっともっと狭く見せようとしておられるのか。いいえ、決してそうではありません。主イエスに聞き従って生きようとる私たちが、軽はずみに、あまり考えもなしに新しい生活を生き始めないためにです。誘惑にあう試練の時に、この私たちがごく簡単に、虚しい不信仰へと転げ落ちてまわないためにです。後戻りをしてしまって、いつの間にか、ついつい信仰を失ってまうのは、とても惨めで残念なことだからです。

 33節、「それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない」。古い罪の自分と死に分かれ、財産であり宝物だと思い込まされていた古くて虚しいだけの見せかけだけの財産をことごとく捨て去り、それと物々交換のようにして、新しい財産を神さまから贈り与えられる。本当に価値のあるその新しい財産を天に蓄え続け、そのようにして私たちは生きるのです。痛みが伴います。けれど、とても役に立ち、ぜひとも知っておくべき必要不可欠な教えです。そうすることが私たちもできるし、それこそが神を信じ、救い主イエスの御声と御心に聞き従って生きる私たちのための幸いである。これが神からの約束です。別の箇所で主イエスはおっしゃいました、「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」(マタイ福音書6:19-21

 

               ◇

 

 今日ごいっしょに読み味わったことは、思い巡らせつづけるに価します。救い主イエスに仕え、このお独りの方に聞き従って生きることを恐れなくても良いのです。むしろすでに、その幸いな歩みをはじめ、積み重ねてた自分たちではありませんか。しかも、すでに堅固な家を建て始めている私たちです。その家の土台は救い主イエスご自身であり、その家を建て上げる建築責任者もまたイエスご自身です。「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいない」(1コリント手紙3:10-12,127:1-2,ピリピ手紙1:6と証言され、約束されているとおりです。ですから、私たちが試練や苦しみや悩みも次々と立ち塞がってくる中で、なお耐え忍び、主イエスを信じて生きる道からこぼれ落ちてしまわないように、なによりも神さまからの支えと恵みとを祈り求めましょう。

 

     ≪祈り≫

     父なる神さま。すべてが新しくされ、新しく生きるときがはじまっています。救い主イエスがこの地上に降りてこられたからです。ふたたびこの救い主が来てくださる終わりの日を待ち望みながら生きるときが、そのようにしてはじまっています。主イエスを待ち望む信仰によって、私たちを日毎に新しく生きる者たちであらせてください。その信仰によって、どうか私たちをあなたの恵みの中に据え置いてください。

     貧しく心細く暮らす人たちが世界中に、そしてこの日本にもたくさんいます。どうぞ、その人たちの生活が守られますように。病気にかかって苦しんでいる人たちをお守りください。病院や老人施設で働く人たち、保育園、幼稚園の職員の方々の働きとその家族の健康をお支えください。他のさまざまな国から日本に来て暮らす外国人とその子供たち、家族の生活が支えられますように。働きと住む場所を失ったとてもたくさんの人たちの一日一日の暮らしが心強く支えられますように。淋しく苦しい思いを抱えている人たちに、どうか、一日ずつを生き延びてゆくための希望と支えが差し出されますように。

     主なる神さま。私たちの中に思いやり深く温かい良い心を呼び起こしてくださって、神さまに喜ばれる良いことを教え、それを選び取らせてください。あなたや周りの人たちを悲しなせ、苦しめるような、してはいけない悪いことが何なのかをよくよく教えてくださって、この私たちも、古い罪の自分を投げ捨てつづけて、あなたの御前に新しくされて生きることができますように。

救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン


1/17こども説教「議会での証言へ」使徒22:22-30

 1/17 こども説教 使徒行伝 22:22-30

 『議会での証言へ』

 

22:22 彼の言葉をここまで聞いていた人々は、このとき、声を張りあげて言った、「こんな男は地上から取り除いてしまえ。生かしておくべきではない」。23 人々がこうわめき立てて、空中に上着を投げ、ちりをまき散らす始末であったので、24 千卒長はパウロを兵営に引き入れるように命じ、どういうわけで、彼に対してこんなにわめき立てているのかを確かめるため、彼をむちの拷問にかけて、取り調べるように言いわたした。……するとパウロは言った、「わたしは生れながらの市民です」。29 そこで、パウロを取り調べようとしていた人たちは、ただちに彼から身を引いた。千卒長も、パウロがローマの市民であること、また、そういう人を縛っていたことがわかって、恐れた。30 翌日、彼は、ユダヤ人がなぜパウロを訴え出たのか、その真相を知ろうと思って彼を解いてやり、同時に祭司長たちと全議会とを召集させ、そこに彼を引き出して、彼らの前に立たせた。   (使徒行伝 22:22-30

 

 救い主イエスの弟子とされたパウロは、エルサレムの都で、たくさんの人々の前で、神さまのことを知らせようとして話し始めました。腹を立てた人たちに邪魔をされて、その大切な話は途中で打ち切りにされてしまいました。けれど本当は、神さまご自身が、パウロの話を途中で打ち切りにさせたのです。それは、話すことを止めさせるためではなく、ちゃんと公平に正しいやり方で聴いてもらえる場所で、十分に話させるためにです。パウロはそうやって、裁判にかけられようとしています。ローマの市民だからと、ローマ軍の隊長は怖がって裁判にかけようと考えました。30節、「翌日、彼(=1000人の部下をもつ隊長)は、ユダヤ人がなぜパウロを訴え出たのか、その真相を知ろうと思って彼を解いてやり、同時に祭司長たちと全議会とを召集させ、そこに彼を引き出して、彼らの前に立たせた」。本当は、ローマの市民であっても無くても、誰でも、正しい裁判を受け、正しく公平に取り扱ってもらえる権利があります。大人でも子供でも、どこの国のどんな人間でも、その権利は、誰からも決して奪われてはなりません。なぜならそれは神さまから与えられ、保証されている権利だからです。30節、「翌日、彼は、ユダヤ人がなぜパウロを訴え出たのか、その真相を知ろうと思って彼を解いてやり、同時に祭司長たちと全議会とを召集させ、そこに彼を引き出して、彼らの前に立たせた」。

2021年1月11日月曜日

1/10「主イエスの晩餐」ルカ14:13-24

          みことば/2021,1,10(主日礼拝)  301

◎礼拝説教 ルカ福音書 14:13-24           日本キリスト教会 上田教会

『主イエスの晩餐』 


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 14:13 むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。14 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。15 列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。16 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。17 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。18 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。19 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、20 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。21 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい』。22 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。23 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。24 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。 (ルカ福音書 14:12-14)

                                               

 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。     (ヨハネ福音書 6:53-57)

まず13-17節、「むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。そこでイエスが、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた」と。

主イエスご自身によって語られたとても教育的な、わたしたちを養い育てるたとえ話を、ごいっしょに読みました。あるパリサイ人の家で、主イエスと共に食事の席についていた一人の人が、「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言い出しました。その言葉に促されるように、主イエスはたとえ話を語り始めました。「幸いです」と言い始めたこの彼も私たちも、神の国にぜひ辿り着き、そこで神の御もとで生きる幸いを受け取りたいと心から願っているからです。誰がどのように救われるのか。神の国に迎え入れられるその幸いを、どのようにして手に入れることができるかを、主イエスはたとえ話によって教えようとしておられます。「幸いです」とその人が言い始めたのは、その前に、13-14節で主イエスがおっしゃった言葉によって、もしかしたら大切な何かに気づきはじめていたからかも知れません。

13-14節、主イエスは仰いました、「むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。招かれたことへの返礼ができない。だから、幸いになる? これが最初の大きな手掛かりであり、すでに神の国の福音を告げ知らせるたとえ話が語られはじめていました。宴会を催す人とは、神さまのことです。その宴会は、神の国で催される食事会であり、神によって贈り与えられる救いのすべての中身です。しかもこの宴会に招かれる人々は、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などです。貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人たちの共通点は何でしょう。これらはたとえ話として語られています。つまり、その貧しさはお金や財産がどのくらいあるのかということではありません。足や目、また体のどこかに不自由で不都合なことがあるかどうか、ということでもありません。それぞれの人の心の状態であり、魂の様子です。主イエスは別の時に、「心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものである」(マタイ福音書5:3とおっしゃいました。「心が貧しいとは、ちょうど乞食のような心や在り方だ」とある人たちは受け止めました。仕事を失って、明日の食べ物にも事欠いて、物乞いをする人。乞食は施しを求めても良い。自分の心の貧しさ。何が真実なのかを知らない貧しさ。立ち帰るべきところはどこなのかと追い求める心、それが心の貧しさではないかと説き明かす伝道者がいました(林励三著『マタイ福音書』(小説教集)52節の項を参照)。適切な判断であると思えます。体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人たちとたとえ話で語られる人々も同様です。自分自身ではその自分の不自由さや困難を乗り越えることができず、良い医者に治してもらえることを待ち望み、そこに希望をかけています。そのように、良い医者であられる神に寄り頼む心や在り方です。神は、そのような人々をご自分の御もとへと招きます。「さあ、来てください。もう、あなたのためにも準備ができていますから」と。それは、神さまからの恵みです。その測り知れない恵みに返礼やお返しの出来る人など誰もいません。ただただ感謝して、喜び、主なる神から良い贈り物を受け取りつづけて生きるほかありません。ああ。だから、その人たちは他の誰にもまして、格別に幸いです。ますます幸いにされてゆきます。

16-20節、「そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。ところが」。わたしは土地を買いましたので、と断る人がいました。わたしは五対の牛を買いましたので、と断る人もいました。わたしは妻をめとりましたので、だから、などと断る人もいました。様々な理由や不都合な事情を並べ立てて、みな同じように次々と断りつづけました。あらかじめ神の国での宴会に招かれていた人たち。それは、神の民とされ、救いの約束のもとに招かれていた、ほとんどのユダヤ人たちです。神の国での食事を楽しみにして待ち望んでいたはずの先祖たちは、いつの間にか、神の国での祝宴よりも、他のものを愛し、大切に思うようになってしまっていました。一方を愛し、尊び、他方を疎んじました。神からの救いへの招きを軽んじて、わざとなおざりにしてしまいました。自分から進んで救いからこぼれ落ち、永遠に失われようとしています。なんということでしょう。

21-24節、「僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい』。僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。あらかじめ招かれていた人たちのほとんどが、家の主人(=主なる神)からの招きを断りました。「家の主人」とたとえられているのは神さまのことです。神が、ただ怒って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを招いたのかというと、決してそうではありません。先に招かれて断ってきた人たちに対しても、神はむしろ心を鈍くしてしまったその彼らを憐れんで、彼らのためにも悲しみ嘆いておられます。貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などに対しても、誰でも良いからと手当たり次第に引っ張ってきたわけではありません。特に、この人と、この人と、この人とこの人。狙いを定めて名指しで、願いを込めて招いておられます。そのまま捨て置くことはできないと、憐み、慈しんでおられます。恵みに価しない罪人をなお憐れんで、救おうとなさる神さまです。

さて、まず第一に、神がいのちあるすべての者たちの魂の救いのために盛大な準備を整えておられることを、私たちはこのたとえ話から教えられます。「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた」と。神に背く罪深いものたちを救うために、必要なすべての準備を十分に整えて、いのちあるすべてのものたちを招きます。これが、神の国の福音です。私たちすべては、飢え渇いて救われることを待ち望んでおり、どうしても助けを見出せずにいました。今も、心挫けそうになり、希望を失いそうになりながら、ただただ虚しく日々を過ごす人々が大勢いるでしょう(マタイ福音書20:6-7「なぜ何もしないで、一日中ここに立っていたのか」「だれも私たちを雇ってくれませんから」を参照)。神に背くすべての罪をゆるされ、神さまとの間の平和を与えられ、自分の心を清くされること。それらは皆、神ご自身が私たち罪深い者たちのために用意していてくださる恵みです。ただ救い主イエス・キリストを通して、それら備えられた良いものが贈り与えられます。救い主イエスこそが、用意されていた盛大な晩餐会そのものであり、その中身です。だからこそこのお独りの方が、「わたしはいのちのパンである」と宣言なさり、また、「わたしのもとに来るものはみな飢えることがなく、私を信じるものはみな決して渇くこともない」と、「わたしの体は(あなたがたのための)肉であり、私の血は(あなたがたのための)飲み物である」と、「わたしの体を食べ、わたしの血を飲む者はみな永遠の生命をもつ」(ヨハネ福音書6:35-56とおっしゃいました。

第二に、神の国の福音の備えと招きは、分け隔てなく、誰にでも広く自由に差し出されます。「さあ、来てください。もう、あなたのためにも準備ができていますから」と。恵みに価しない罪深いものたちを救うために、神の側では何の不足もありません。もし、誰かが救われず、そこからこぼれ落ちてしまうとするならば、その落ち度は神の側にはないのです。救い主イエス・キリストを通してご自身のもとに来るすべてのものたちを受け入れようとして、父なる神はすでに準備万端です。独り子なる神・イエス・キリストは、信仰によってご自身に結び合わされたものたちすべてをその罪から清めようとして、すっかり準備を整えておられます。聖霊なる神は、救い主イエスを捜し求めるすべてのものたちを教え、導くために、近づいて来てくださいます。救い主イエスを通して、誰でも、神に近づいてゆくことができます。「さあ、来てください。もう、あなたのためにも準備ができていますから」という招きは、例外なく、誰にでも差し出されています。

 第三に、罪深いものたちを救おうとして、「さあ、わたしのもとへ来なさい」と神が心から願い求めています。熱情の神であり、罪深いものたちを憐れみ、愛して止まない神だからです。「ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます」としもべが戻ってきて報告すると、家の主人がその僕に言いました、「道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい」と。失われようとするものたちに向けられている神の憐みは、嘘偽りでなく、絵空事でもない真実であるからです。いのちあるすべての者たちを愛して止まない、神の憐みの熱情が、すべての小さく貧しい者たちを招きます。この私たち自身と家族をも招きつづけます。

 24節で、「わたしの晩餐」と家の主人がおっしゃいます。主なる神ご自身のものである、パンと杯による聖なる晩餐です。それは、救い主イエスの死と復活によって用意され、救い主イエスの死と復活と、そのすべての恵みにあずからせる食卓です。「さあ、来てください。もう準備ができましたから」という神の国の福音の招きは、最初に、神の民とされたユダヤ人たちに差し出され、いま同じく、この私たちにも差し出されつづけます。朝も昼も晩も、救い主イエスはこんな私たちにさえも呼ばわりつづけます、「さあ、わたしの晩餐に来なさい。わたしのもとへ来なさい」と。

 

 


1/10こども説教「主が私を送り出す」使徒22:17-21

 1/10 こども説教 使徒行伝22:17-21

 『主が私を送り出す』

 

22:19 そこで、わたしが言った、『主よ、彼らは、わたしがいたるとこ ろの会堂で、あなたを信じる人々を獄に投じたり、むち打ったりしていたことを、知っています。20 また、あなたの証人ステパノの血が流された時も、わたしは立ち合っていてそれに賛成し、また彼を殺した人たちの上着の番をしていたのです』。21 すると、主がわたしに言われた、『行きなさい。わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ』」。22 彼の言葉をここまで聞いていた人々は、このとき、声を張りあげて言った、「こんな男は地上から取り除いてしまえ。生かしておくべきではない」。23 人々がこうわめき立てて、空中に上着を投げ、ちりをまき散らす始末であったので、24 千卒長はパウロを兵営に引き入れるように命じ、どういうわけで、彼に対してこんなにわめき立てているのかを確かめるため、彼をむちの拷問にかけて、取り調べるように言いわたした。

                          (使徒行伝22:17-21

 

 救い主イエスを信じて、その弟子とされたパウロは、自分自身が受け取った神の恵みを自分と同じ民族、とても大切な身内であるユダヤ人たちにぜひ伝えたいと願いました(ローマ手紙9:2-3「大きな悲しみ。絶えざる痛み。わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身が呪われて、キリストから離されてもいとわない」参照)。その彼らにも、主イエスを信じる信仰とその恵みとを分け与えたかったからです。はじめにはキリスト教を憎み、クリスチャンたちを困らせたり、いじめたり、牢獄に閉じ込めたりしていたパウロが、まるで正反対に、その救い主イエスを信じる伝道者とされました。驚くようなこの変化は、彼自身の考えや計画ではなく、神によって無理矢理に信じるものとされたのです。これを聞けばユダヤ人たちも救い主イエスを信じるようになるかも知れない、ぜひそうなってほしいと心から願いました。けれども邪魔が入って、ここでその大切な報告は打ち切りにされます。そこにいたユダヤ人たちが腹を立てて邪魔したのですが、実は、そうさせたのは神さまご自身です。伝道者パウロのための実地訓練がつづいています。自分の考えや願いや計画に従ってではなく、神さまにすっかりお委ねして、十分にへりくだって、ただただ神さまのご命令と御心に従って、神さまに仕えて生きる者となるための訓練です(マルコ福音書14:36「しかし私の思いではなく、み心のままになさってください」を参照)。このパウロの手本にならって、すべての伝道者と、主イエスを信じて生きるすべてのクリスチャンが同じく、自分の考えや願いや計画に従ってではなく、へりくだった低い心を与えられるために。神さまにすっかりお委ねして、ただただ神さまのご命令と御心に聞き従って、神さまにこそ従順に素直な心で仕えて生きる者となるためにです。

 

 

2021年1月5日火曜日

1/3「パンと杯を前にして」Ⅰコリント手紙11:23-29

            みことば/2021,1,3(主日礼拝)  300

◎礼拝説教 1コリント手紙 11:23-29         日本キリスト教会 上田教会

『パンと杯を前にして』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

11:23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。27 だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。28 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。               (コリント人への第一の手紙 11:23-29

                                               

10:16 わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。17 パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。    (コリント人への第一の手紙 10:16-17)

 コリントの町に建てられた1つのキリスト教会は、神を信じて生きることの深刻な危機に瀕していました。神の御心にかなわない悪い身勝手な振る舞いがあり、互いの付き合い方も貧しく歪んだものになっていました。この23節の直前、17-22節にかけて、その様子がよく分かるように指摘されます。17節で、「あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっている」と彼は語り始めます。お互いの間に争いがあり、分け隔てをしあい、「食事の際にも、片隅に押し退けられて飢えている者たちがいる一方で、すでに自分たちだけで満たされ、自分勝手に楽しみ、酔っている者もいる」。その貧しく小さな人々をはずかしめることは、神の教会を侮り、神ご自身を軽んじることになるではないかと。同じようなことはどこにでもありえます。この私たち自身も、自分の至らなさや落ち度を棚に上げ、すっかり忘れて、家族や同僚やほかの人たちがしてしまったほんの小さな過ちを許さず、その不始末や至らなさをきびしく咎めだてし、非難しつづけてしまいます。心当たりがありますか。それは、互いに生まれながらの怒りの子たちであるからです。この私たちの日頃の行ないや心の思いの一つ一つに対しても、憐み深い神が悲しんだり、深く嘆いたりしつづけます。

 神さまの憐みの御心に背くそうした在り方を正し、神からの憐みと平和のもとへと立ち戻るためには、神の定めそのものに戻る以外に、ほかの手段はありません。たしかに神が生きて働いておられることを心底から、つくづくと分かるのでなければ、私たちはいつまでたっても気難しく、もしかしたら一生涯ずっと、心がとても頑固なままかも知れません。人間には、自分を新しく変えることなどそう簡単にできることではありませんから。神ご自身がその御力を発揮してくださり、こんな私たちにさえも神の憐みの御心をよくよく習い覚えさせてくださるのでなければ。23-26節、「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」。「主から受けたことを、また、あなたがたに伝えた」と言い切っています。救い主キリストご自身から受けたことを、あなたがたにそのまま手移しに伝えた。主から受け、世々のキリストの教会が受けたままに伝え続けたことを、次の者へ次の者へとバトン・リレーのように手渡し、伝え続けて、このように今、私たちも受けています。そうするのは、いっさいの人間的な掟や、人間的な権威や秩序が退けられ、ただ主であられるキリストの権威だけが確固として堅く立ち続けるためにです。キリストの教会において、世界中のどこにあっても、主ご自身の権威のほかには尊ぶべきどんな権威もないからです。

 主イエスが渡された夜とは、捕まえようとする人々に引き渡され、やがて十字架の上に渡され、ご自身の肉を引き裂かれ、血を流し尽くされようとする夜です。私たちのためにキリストが死んでくださったその恩恵が、私たちの中にも引き渡されて、神ご自身の恵みの秩序こそが確固として立つためです。

 この食卓の様子が報告される時、「主は感謝した」と必ず報告されつづけます。主イエスのこの手本にならって、聖なる晩餐にあずかる私たちにも、「同じく主に対して、あなたがたは感謝をしなさい」と命じられます。救い主イエスは、御父に対して、慈しみとあがないの測り知れない恩恵を感謝します。そして、ご自身の手本をとおして、神が私たちに対して抱いておられる格別な愛を知るように、また神の愛を忘れ果てて、神を侮る者になってしまわないように、むしろ神への感謝によって一日ずつを生きる者とされるようにと招きます。「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」と。「記念する」とは、キリストがなされたあがないの業を魂に刻んで、よくよく覚えることです。覚え続けて、感謝の暮らしをそのように建て上げてゆくためにです。主イエスの血による新しい契約とは、憐みの契約です。その新しさは、「今では、神の憐みを受けた者とされた」と感謝できる新しさです。別の箇所でこう証言されます、「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである」(1テモテ手紙4:5

  「取って食べなさい。これは、私のからだである。飲みなさい。私の血によって立てられる新しい契約である」と主イエスがお命じになるので、だから、そのご命令に従って、私たちはパンを食べ、杯を飲みます。主であられるキリストが一つのパンから分けて弟子たちに与えられました。私たちが等しくそのパンと杯の食事にあずかるのは、みんなの者の間に分け隔てのない、思いやり深く温かな憐みの交わりが、主によって生み出されるためにです。「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである」(1コリント手紙10:16-17と証言されるとおりです。

 「これは、私の体である。私の血による新しい契約である」と主イエスが仰いました。取り分けられ、目の前に差し出されつづけるひとかけらずつのパンを「これは私の体」だと仰り、差し出される小さな杯の中の赤い飲み物をさして、「私の血であり、その血によって立てられる新しい契約」と仰いました。パンであり赤い飲み物ですが、けれどなお主イエスご自身が「私の体。私の血」と仰るので、差し出されるままに私たちは受け取ります。どうしてパンが救い主の体であり、杯の飲み物がその血であるのは、とても分かりにくいことです。もし自分自身の理解力によって分かろうとするなら、それはただ愚かなだけの思い上がりです。神さまを信じる信仰によってだけ、分からせられ、信じさせていただけます。聖霊なる神のお働きによって、私たちの心を神のもとへと高く引き上げられ、現にこうして「キリストの体と血によって養われている私たちである」と信じる者とされます。

 26節、「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」。キリストがこの私たちのためにも死んで、復活してくださった。救い主イエス・キリストの死と復活の力が、私たちの心に深く堅く、よくよく刻みつけられつづけることが必要だからです。その力を知ることによって、私たちは突き動かされ、『目に見えにくい剣』によって自分の胸を刺し貫かれて(使徒:32「人々はこれを聞いて、強く心を刺され~」、ヘブル手紙4:12-13「(神の言は生きていて諸刃の剣よりも鋭く~)」)、主であられる神さまにこそ信頼と感謝をささげて、そのように毎日の暮らしを生きるようになるためにです。こうして、パンと杯による聖なる晩餐は、終わりの日にキリストがふたたび来られて、世界と私たち自身の救いをすっかり成し遂げてくださるときまで、教会のうちに永遠に執り行いつづけられていくべき記念の行ないです。この食卓が主イエスご自身によって定められたのは、イエス・キリストが私たちにご自身と私たちの死と復活を思い起こさせつづけようとなさったからです。また私たち一人一人も、人々の前でも、どこで何をしているときにも、このことで神に感謝して生きる者たちとされるためにです。このように聖晩餐は、世々の教会によって「感謝の行為」と呼ばれつづけます。

 

                ◇

 

 さて27-29節、「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」。ふさわしくないままでパンと杯を飲み食いする者は、主の体と血とを犯し、侮ることになる。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、それによって自分自身に神からの裁きを招くことになる。さあ、困りました。どのようにわきまえることができるでしょう。自分自身の何をどのようにして吟味し、確かめることができるでしょう。第一には、まったくふさわしくない私たちであるということです。あなたも私も誰もかもが、主の体と血にあずかって、その死と復活の力を知り、味わい、その力が自分とそのいつもの暮らしにも及び、家族にも及ぶことになると知りながら生きる者とされる。しかもなお、このような恵みに価するほどふさわしい人間など、どこにもただの一人もいないということです。第二には、神が憐みによって、ふさわしくない私たちをこの食卓に招き、ただ主イエスを信じるという一点によって分け隔てなく、このパンと杯を差し出してくださっているという恵みの現実です。「ふさわしくない私だと知りながら、にもかかわらず神の御前に恐れなく進み出て、そのパンと杯を感謝していただくようにと許され、そのように招かれている」と、そのように自分を知り、主の体であるキリスト教会と兄弟姉妹たちを知ることです。「自分のふさわしくなさを、キリストの御前に差し出すことが、わたしたちにとって最善のふさわしさです。そして、ふさわしさは、ふさわしくない私たちを憐れんで許す神の憐みにこそあったのです。「むしろ自分は貧しい者として、慈しみ深い贈り主のもとに来て、重い病いを患う重病人として良い医者であられる神のもとに来て、とても悪い罪人として義の創始者であられる神のもとに来ること。つまり、すでに死んでいる者として、命を与えて生かしてくださる御方のもとに来るのだ、と考えましょう」J.カルヴァン「キリスト教綱要」41741-42節(1559年)を参照のこと)

  「取って食べなさい。飲みなさい」と主イエスがお命じになるので、私たちは恐れなく心安らかに、この聖なるパンと杯をいただき、そのように恵みとゆるしの只中を生きることができます。「来なさい」と主が招いてくださるので、私たちは主なる神の御もとへと日毎に、朝も昼も晩も向かいつづけます。