詩127篇の葬儀説教 (2020,12,28 故・金田孝子の葬儀式)
127:1 主が家を建てられるのでなければ、
建てる者の勤労はむなしい。
主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
2 あなたがたが早く起き、おそく休み、
辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。
主はその愛する者に、眠っている時にも、
なくてならぬものを与えられるからである。
3 見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、
胎の実は報いの賜物である。
4 壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。
5 矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。
彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。 (詩篇127篇)
聖書が、どうしたわけか「むなしい、むなしい、それは虚しい」と奇妙なことをクドクドとしつこく語りかけてきました。そんなことを聖書から、神さまから語りかけられるなんて、いったいどうしたわけでしょう。ぶっきらぼうな、言葉足らずで無口な友だちのように、しばしば聖書はとても分かりにくい、なかなか通じずらい言い方をします。ここもそうです。「むなしい、むなしい。主である私が愛する者たちに必要なものをいつも与えるからである」と、どういうことでしょう。本当は、「虚しくない。虚しくない。ちっとも虚しくなんかない」と、神さまは、この私たちを励ましたいのです。私たちを勇気づけ、安心させたいのです。強がってみせても誰でも皆、とてもとても心細く生きているので、そういう人たちが心配で心配で仕方がなく、十分な安心材料を私たちになんとしても手渡したい。それで、神さまが呼びかけてくださっています。
「私こそがすべての町や村を、国々を、ちゃんと建て、しっかりと守りつづけているじゃないか。どの家も、どの家族の毎日毎日の暮らしも、人生もなにもかも、私こそがその土台をしっかりと据えて、建て上げ、支え続け、守りつづけているじゃないか。だから川の水があふれても、地震や津波が起こっても、泥水が堤防を乗り越えて、私たちの目の前にまで迫る日々にさえ、あなたは大丈夫だ。この私が、あなたのための町や家の人生の建築者であり、設計者であり、すべての責任を最期の最期まで背負い通す現場責任者であるじゃないか。大丈夫だ、大丈夫だ。だから、あなたの苦労や悩みや、朝早くから夜遅くまで頭を抱えながら精一杯に働きつづけているすべての営みは、決して虚しくはない。良い実を結ぶ。いいや、この私があなたのためにさえ良い実を必ずきっと結ばせる」(ローマ手紙8:31-,詩篇27:1-,ピリピ手紙1:6,申命記31:8など)という神さまの憐みの御心です。生きて死んだこの一人の彼女(金田孝子)のためにも、悩みのなかで心細がっているすべての小さく弱い者たちのためにも、この神こそが味方でありつづけます。
だから、この私たちもみんなも、困ったときに耐え忍ぶことができ、苦しくて辛くて恐ろしくて仕方がない夜にも、「助けてください」と呼ばわって、差し出されつづけていたその支えの手をつかみ、しっかりと握り返して生きることもできます(*)。祈りましょう。
(*)Q 神を敬う、正しい在り方は、どういうものですか?
A すべての信頼を神に置くこと。その御意志に服従して、神にお仕えすること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めることです。(「ジュネーブ信仰問答」問7 J.カルヴァン)