2020年12月28日月曜日

12/27「救いを見たので」ルカ2:21-35

            みことば/2020,12,27(主日礼拝)  299

◎礼拝説教 ルカ福音書 2:21-35                   日本キリスト教会 上田教会

『救いを見たので』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

2:21 八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。22 それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。23 それは主の律法に「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者と、となえられねばならない」と書いてあるとおり、幼な子を主にささげるためであり、24 また同じ主の律法に、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定めてあるのに従って、犠牲をささげるためであった。25 その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。26 そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。27 この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、28 シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、

29 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに

この僕を安らかに去らせてくださいます、

30 わたしの目が今あなたの救を見たのですから。

31 この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、

32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。

33 父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った。34 するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――35 そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。                                                    (ルカ福音書 2:21-35)


21節、「八日が過ぎ、割礼

(かつれい=神の民とされ、神を信じて生きる者とされたことのしるし。それは、もちろん単なる形式や、儀式・儀礼ではなく、「心の包皮を切り捨てる。心に割礼を行い、もはや強情ではなくなる」霊的な新生の出発点(申命記10:16,30:6,エレミヤ4:4)。のちに、洗礼者ヨハネの活動をきっかけとして、そのしるしは「洗礼(せんれい)」へと転換していく(ルカ3:1-22,マタイ28:16-20,使徒2:36-39,15:1-29)。これらすべて人間の考えによってではなく、神ご自身の御計画とお働きによる)

をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた」。最初のクリスマスの夜、御使いが告げて羊飼いたちが見たとおりに、救い主が生まれました。その赤ちゃんはイエスと名づけられました。イエスとは、「主こそが救いである。主が私たちを救ってくださる」という意味です。あらかじめ御使いから「イエスと名づけなさい」(ルカ1:31と命令されていたとおりに、そう名付けました。

 さて、信仰をもって生きる1人の老人がいました。シメオンという名の人です。このシメオンについては、「神殿で幼子をその腕に抱え、神を讃美し、そして立ち去っていった」こと以外は、私たちには何も知らされません。それ以前に彼がどんなふうに生きてきたのか。また、残されたごく短い時間を彼がどんなふうに使うのかを、聖書は何一つも語りません。

 25-26節、「その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた」。神の御前での信仰深さと、神の御前での正しさ。それは神に信頼を寄せ、聴き従い、隣人を自分自身のように愛する私になりたいと願い求める在り方です。とくに、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいることが、彼の信仰の中身です。救いを待ち望む希望なしには、真実に神を礼拝することはありえません。それは神の約束への信頼であり、とくに救い主イエス・キリストを通して、私たち自身と家族とすべてのキリストの教会と世界と、いのちあるすべての者たちが健やかな在り方を取り戻していただくことへの希望です。クリスマスの季節ばかりでなく、毎週毎週、私たちは救い主を待ち望みつづけます。「主よ、来てください」(1コリント16:22と、かつてひとたび来てくださった救い主が、やがて終わりの日にふたたび来てくださることを私たちは待ち望み、その救い主イエスを日毎に自分自身のいつもの暮らしと自分の心に迎え入れつづけます。だからこそ、私たちは希望をもって忍耐することもできます。彼らが神の救いをその目ではっきりと見るまでは、決してその人々を手放すことなく、見捨てることも見失うことも決してありえないと。もちろん、シメオン1人だけではありません。私たちがその人を親しく知っていようがいまいが、その人たちの顔も名前さえ知らなくたって、けれど私たちの神は、その人たちをよくよく知っていてくださり、ご自身を信じる人々を無数に数限りなくその手に支えつづけておられます。

  27-30節です。「安らかに去ることができる」と彼は言います。神殿を、ではありません。この世界を、この地上の生涯をです。これで、私は安らかに務めを終えて、安心して晴れ晴れとして去ってゆけると。生きることは、いつまでもどこまでも生きることを意味しません。若い日々にも健康で旺盛な日々にも、小さな子供の頃でさえ、生きることは死と隣り合わせ・背中合わせだったではありませんか。限りある、ほんの束の間のごく短い生命のときを、それじゃあ、この私はどうやって使おうか。どのように生きてゆこうか。やがて必ず来る自分自身の死と終りを見据えて、だからこそ、そこで私たちは「じゃあ、この私はどんなふうに生きていこうか」と腹を据えたのでした。年老いてだんだんと衰え、やがて死んでいくことは、きびしく恐ろしいものです。また、「1日でも長く生きて、人生の喜びと楽しみをたっぷりと味わいたい」と願います。自分が果たすべき務めや役割がまだまだ残されているのにと、後ろ髪を引かれながらも立ち去らねばならない日々も来ます。けれども、このシメオンという老人にとっては、そうではありません。この地上のごく短い生涯をやがてそれぞれに終えて、私たちはどこへと向かうのかを、あの彼は知っているのです。し残した仕事や責任や役割を、いったい誰にゆだねることができるのかも。神さまが許してくださる限り、彼は生きます。神が去らせるときに、あの彼は「はい。分かりました」と言って去ってゆきます。しかも、安らかに晴れ晴れとして。

 さらにシメオンは、救い主イエスについて決定的な証言を残します。34-35節。「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。救い主は、神を知らなかった者たちに差し出された《光》です。この救い主イエス・キリストは、なんと「反対を受けるしるし」でもあるといいます。立ち上がらせるだけではなく、打ち倒すこともなさる。確かに、神に従おうとして生きてきたユダヤ人たちの多くは、そこで神につまずきました(ローマ手紙9:30-11:32)いまシメオンがその目で見ている小さな赤ちゃんはあわれむ神であり、罪深い愚かな者を憐れむあまりにご自身が身を屈め、神であることの栄光も尊厳も生命さえすっかり投げ捨ててくださった神です。その憐みを受け取ろうとするとき、どうしたわけか「私たちは心を刺し貫かれ、自分自身の心にある思いがあらわにされる」と予告されています。なぜなら、この救い主イエスこそがご自身に執着せず、神であられることの尊厳も栄光も投げ捨て、へりくだって、ご自身を虚しくなさったからです。このお独りの方が、神の憐みのもとに生きようとする私たちにも、「この私にならって同じように自分に執着せず、へりくだり、自分を虚しくしなさい」と命じておられるからです。

 どうして打ち倒されねばならないのか。なぜ、目には見えない剣で自分自身の胸を刺し貫かれるのか。

(使徒2:36-37「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った」、ヘブル手紙4:12-13「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされている」)

救い主イエスを信じて生きる私たちは、キリストを知る知識のかおりだと聖書は証言しました。「神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。後者(つまり滅びようとする者)にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者(つまり救われる者)にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである」(2コリント手紙2:14-16と。滅びようとしつづける私たちが救われるためには、「私は私は」と自分の肉の欲、罪の思い、心の頑固さを投げ捨て、その「要らない自分」を投げ捨てなければならないからです。「自分を捨てて私に従ってきなさい」とやがてこの救い主イエスが弟子たちを招きます。古い罪の自分を投げ捨て、神の御前で、神に向かって新しく生きはじめるためです。新しく立ち上がるために、古い罪の自分は打ち倒されねばなりません(ルカ9:23,ローマ6:6を参照)。神ご自身がそれをしてくださるので、この私たちにも「自分」を捨てることができます。この方の恵みとゆるしのもとに立つためには、「主よ、どうか罪人の私をあわれんでください」と私たちは呼ばわるだけでよい。それなら、私たちにも出来るかもしれません。

 

             ◇

 

  今日の箇所の冒頭部分、22-24節にも目を留めておきましょう。生まれてきた赤ちゃんのために山鳩2羽か、家鳩のヒナ2羽をささげる。それは主の律法に定められていることで、「その子供が主のために聖別される」ためのしるしだというのです。『聖別(せいべつ)』は、神の者として取り分けられ、神さまのために用いられるということです。その家族の中に最初に生まれた男の子だけが神のものとされるのかというと、決してそうではありません。ですから次男坊も三男坊も女の子たちも、どうぞ安心してください。皆が皆、神にささげられた神のものとして育てられ、そのようにして生きることができます。年配の方々も安心してください。子供たちばかりではなく、子を育てる親たち自身も、神にささげられた神のものとして生きることができます。ですから、その1人の子は、皆がそうであることのしるしです。お父さんお母さんはその子のためにささげものをしながら、《この子は神の恵みの領域の中に生きる人である。神さまこそがこの子に生命を与えることができ、神さまこそがこの子の人生を心強く支え、全責任を負ってくださる。もちろん、他の子供たち皆も私たち自身もまったくそうだ》と改めて心に刻みます。普通は羊や山羊が、生まれてきた赤ちゃんのためにささげられました。けれど、羊や山羊に手が出ないほどに貧しい家庭の場合には、その代りに山鳩2羽をささげます。さらに貧しくて、山鳩2羽を用意できない家もありました。その場合には、家鳩のヒナ2羽でもよい、とされました。けれどそれでも、もっともっと家が貧しくて手が届かない場合には、ほんのわずかな量の小麦粉(レビ5:7-11,11:6-8)でもよいと決められています。――つまりどこの誰でも、どんなに貧しくても、「生まれた赤ちゃんを神にささげられたものとして、親は慎みながら慈しみながら、また願いをこめて育てることができる。また、そうするのが神ご自身の慈しみにかなっている」ということです。子供のいない夫婦もやはり同じく自分たち自身を神さまにささげ、神のものとされて、そのように一日一日を生きることができます。もし、そうしたいと願うのならば。

 その幼子イエスは、神の独り子です。独り子である神です。救い主としてお生まれになった方は、けれども人間のための定めに従って、主のために聖別され、神にささげられたものとされました。やがて、この方は私たちの罪を背負って、私たちの身代わりとなって、十字架の上に献げられます。何のために。この私たちが神にささげられた神のものとして生きることができるためにです。どんなに貧しい者も、ふつつかな者もいたらない者も愚かな者も、どんなに罪深い者も、この救い主によって生命を贈り与えられて喜ばしく生きるようになるためにです。およそ500年ほど前の信仰問答(ハイデルベルグ信仰問答第1問,1563年)は語っていました;「あなたの慰めは何か。あなたを根本の土台のところから支えるものは何か」と問いかけ、こう答えています。「それは、体も魂も、生きているときにも死ぬときにも、旺盛に働くときにも身を横たえて休む季節にも、私が私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものだということです」。神に献げられた者たち。私たちが神さまに何か良い贈り物をして、だから私たちがクリスチャンとされたのではありません。聖書ははっきりと証言しています;「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で」と。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを賜らないはずがありましょうか」(ローマ手紙3:24,8:32)と。素敵な贈り物を、私たちが神へと差し出したからではなく、いいえそうではなく、神さまから受け取ったからこそ、それで、だからこそ私たちはクリスチャンとされ、ここにこうしていることを許されています。自分自身と家族のためにも確かにある主の救いをこの目で見つづけながら。目の前にはっきりと示されながら(ガラテヤ手紙3:1,ヨハネ手紙(1)1:1)

 

  ≪祈り≫

救い主イエス・キリストの父なる神さま。

 あなたの独り子を世界と私たちの救いのためにこの世界に贈り与えてくださって、ありがとうございます。御子イエスを待ち望み、迎え入れ、この御子イエスを信じる信仰によって私たちをあなたの恵みの中に留めてください。

 貧しく心細く暮らす人たちが世界中に、そしてこの日本にもたくさんいます。どうぞ、その人たちの生活が守られますように。病気にかかって苦しんでいる人たちをお守りください。病院や老人施設で働く人たち、保育園、幼稚園の職員の方々の働きとその家族の健康をお支えください。他のさまざまな国から日本に来て暮らす外国人とその子供たち、家族の生活が支えられますように。働きと住む場所を失ったとてもたくさんの人たちの一日一日の暮らしが心強く支えられますように。淋しく苦しい思いを抱えている人たちに、どうか、一日ずつを生き延びてゆくための希望と支えが差し出されますように。

 主なる神さま。私たちの目を開いて、何が美しいことかを教えてください。私たちの心を開いて、何が本当かを教えてください。私たちの中に良い心を呼び起こしてくださって、神さまに喜ばれる良いことを教え、それを選び取らせてください。あなたや周りの人たちを悲しなせ、苦しめるような、してはいけない悪いことが何なのかを教え、この私たちも、自分自身の悪い思いを投げ捨てつづけて生きることができますように。

 救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン