みことば/2020,12,20(クリスマス礼拝) № 298
◎礼拝説教 ルカ福音書 2:8-21 日本キリスト教会 上田教会
『救い主が生まれた』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。9
すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。11
きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。13
するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。15
御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。17
彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。20
羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。21 八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。
(ルカ福音書
2:8-21)
まず8節、「この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた」と報告されます。およそ2000年も前のことです。救い主がお生まれになったことをその目で見る証人として、神さまはわざわざとくに羊飼いたちを選びました。その当時、羊飼はまわりの人々から「どうしているかなあ」と心にかけてもらうこともほとんどない、その生活も不安定で心細く生きる、とても貧しい人々でした。野山を移動し、羊たちと共に野宿もし、襲ってくるものたちに備えて交替交替(こうたいこうたい。かわり番こ)で夜通し寝ずの番もしつづける彼らの日々が思い浮かびます。夜中に、そのほんのわずかな人々に、神さまの偉大な出来事が知らされました。神さまから贈り与えられて、この世界に1人の救い主がお生まれになったことをです。この救い主がやがて人々から捨てられ、罪人として十字架につけられて惨めに殺されます。地上の生涯の終わりばかりでなく、人としてこの世界に生まれ落ちたそもそもの最初から、救い主イエスはへりくだって身を屈めた慎ましい姿でありつづけました。「ご自分を虚しくして、しもべのかたちをとった。十字架の死に至るまで(御父に対して)従順であられた」(ピリピ手紙2:6-8)と聖書は証言します。この赤ちゃんは家畜小屋のエサ箱の中に布切れ一枚にくるまって横たえられており、その姿を最初に見るのはほんの数人の貧しい羊飼いたちです。このように、生まれたときから十字架の上の死に至るまで、ご自分を虚しくしつづけてくださいました。そのおかげで、ほんの数名の貧しい羊飼いたちと神さまとの喜ばしい出会いのときが与えられました。
9-10節、「すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える』」。御使たちが現れ、「恐れるな」と告げました。このときばかりでなく、この羊飼いたちに対してばかりではなく、聖書は「恐れるな。恐れるな。大丈夫だから、安心して落ち着きなさいね」と励ましつづけてきました。もし誰かが「大丈夫だよ、怖がらなくてもいい。大丈夫、大丈夫。本当に」と心配して、何度も何度も精一杯に語りかけつづけているとしたら、語りかけられ、励まされつづけているその人たちはとても怖がっているからです。心配で心細くて、どううやって生きていっていいか分からないと途方に暮れているからです。つまり、恐れつづけた彼らだったし、恐れるべきことが山ほどありました。今日の私たちの間でもまったく同じです。強がって見せても誰でも本当はとても心細かったし、恐れや不安をいくつも抱えて生きています。小さな子供たちも、若者たちにもそれぞれの心細さや恐れがあり、子育て真っ最中の若いお父さんお母さんたちも、ずいぶん長く生きて経験を積み重ねてきた年配の方々も、やはりそれぞれに心細さや恐れを抱えて生きています。私たちの願いや計画どおりではなく、主なる神さまの御心こそが成し遂げられますように。神さまの御心を願い求め、信頼し、その御心にこそ素直に聴き従って生きる私たちとなることができますように。なぜなら神さまに信頼できなくなるとき、この私たちは神ではない様々なモノを恐れはじめます。病気や厄介事、周囲の人間たちなど様々なモノを恐れ、その恐れが高じてくるとき、それと引き換えのようにして、神さまへの信頼がどんどんどんどん目減りしていきます。気がつくと、朝から晩までただただ人間のことばかり思い煩い、神さまを思う暇がほんの少しもなくなっています(マルコ福音書8:33参照)。「恐れるな」;それは、『恐れないあなたとしてあげよう。最初のクリスマスの夜に家畜小屋のエサ箱の中に生まれた1人の赤ちゃんによって。あの小さな、裸の赤ちゃんによって、恐れないあなたとしてあげよう』という招きです。
しかも、それは「大きな喜び」であると太鼓判を押されています。民全体に与えられる大きな喜び。大きな喜びというのは、けれどどれくらい大きいのでしょう。ほんの一握りの何人かが喜ぶだけでは、その喜びは大きくはありません。喜び楽しむ人々がいる一方で、片隅に押し退けられた人が淋しい惨めな思いをしているようでは、喜びは大きくも豊かでもありません。置き去りにされた人たちが「どうせ私は」と下を向いているようでは、その喜びは安っぽすぎます。みんなのための喜び。しかもそれは、あなたのためにも用意されています。『神を知ること』は、もはやただユダヤ人だけの専売特許ではなくなり、すべての人々に差し出され、それまでは神を知ることもなかった人にも明け渡されます。教会の脇の案内板には、『誰でも自由に来てみてください』と、いつも書き添えられています。教会の人々がそのように招いているというだけではなく、実は、神ご自身がそのように招いておられるのです。だから、今日はよく来てくださいました。誰であれ、どんな職業の、どこに住んで何をしている人であっても、救い主を受け入れることができるほどに低い心の持ち主なら、あなたもぜひ、と招いておられます。なにかの条件や資格が必要なのでもなく、そのまま手ぶらで来なさいと招きます。
13-14節、「するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、 『いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように』」。神さまが大切に思われることと、この地上に平和があふれることとは、実は一つのことです。自分たちを遥かに越えた大きな豊かな存在を思うことの出来ない人は、しばしばとてもわがままになり、自分勝手になってしまいます。まるで自分が神さまや殿様や主人にでもなったかのように乱暴に振舞ったり、冷たくしたり、目の前の誰かを見下したり、思うままに手荒に扱ったりしてしまいます。誰かに手枷足枷をはめ、思いのままに誰かを従わせて操ろうとしたり。小さな子供たちの間でも、大人たちの世界でも、そういう陰湿で悲惨なようすは広く深く根を張っています。苦しいことです。御使たちは言いました、「あなたがたは、小さな赤ちゃんが布切れに包まれて家畜小屋のエサ箱の中に寝かしてあるのを見つけるだろう」(12節)と。それがあなたがたのための救い主であり、幸いな暮らしのためのしるしだというのです。今日こそは、この1人の赤ちゃんについて思い巡らせるための日です。このお独りの方の誕生と30数年の地上の生涯と死と復活、天に昇っていまも生きて働いてくださっていることと、やがて裁き主として再び来られますことを。この方が死んで、葬られ、復活なさったように、この方に率いられて私たもまた古い罪の自分自身と死に別れ、それを葬り去っていただき、そのようにして新しい生命に生きる者とされたことを。神さまは、私たちのことが大好きです。あなたのことも大好きで、心にかけつづけ、とても大切に思っておられます。だから、どんどんどんどん近づいてきてくださった。分かりますか。友だち同士も同じです。仲良しで大好きなら、いっしょにいることができればどんなに嬉しいでしょう。神さまは私たちに近づいてきて、一緒にいようと願ってくださった。ぜひ一緒にいたいと。それで低くくだって、生身の赤ちゃんの姿で来てくださったのです。例えば1人の小さな人はつぶやきます、「私には価値がない。なんの取り柄もなく、特別何かの役に立つというわけでもなく、目を引くような長所もない」と。淋しい1人の人は言います、「ほかの人が何を考えているのか、さっぱり分からない。私の思いを誰も分かってくれない。誰も私のそばにいてくれず、支えてくれず、私は独りぼっちだ」と。貧しい1人の人は言います、「私は嫌われてしまいそうだ。居場所をなくし、みんなから見捨てられるかもしれない。それが恐ろしくて仕方がない私だ。うわべを必死に取り繕い、愛想笑いを浮かべ、自分を隠してビクビクして生きている」と。けれど主はおっしゃるのです、「あなたは大切な人だ。あなたの価値に私は気づいている。ちゃんと認めている。誰にも理解されず、誰もそばにいてくれず何の支えも見出せない孤独は、確かにある。これまでにもあったし、今もこれからもある。その通りだ。けれども私はあなたを理解し、あなたのすぐ傍らに立ち、あなたを支える。あなたがどんなに遠くに離れていっても、見なさい、そこに私はいる」。「あなたを見放すことも見捨てることも、私はしない」(詩篇139:1-24,申命記31:8、ローマ手紙8:31以下を参照)と主はおっしゃいます。
――思い浮かべてみてください。家畜小屋のエサ箱の中に寝かされた1人の赤ちゃんを。最初のクリスマスの夜のあの1人の格別な赤ちゃんを。弱い人が強い人を恐れるように、その弱い人は強い神をも恐れるのです。小さな人が大きく豊かな人の前で惨めさを味わうように、その小さな貧しい人は大きく豊かな神様の前でも、惨めに身をかがめるかも知れません。周りにいる強くて豊かで立派な人々によって打ち砕かれ、身を屈めさせられてきた人は、神の威厳やその力強さや栄光によっても、打ち砕かれてしまうかも知れません。「人様の前でも神さまの前でも恐れ多くて」などと、その人をますます怯えさせるかも知れません。いいえ。そんなことがあってはなりません。だからこそ、この救い主は、小さな1人の赤ちゃんの姿で、ただ布切れ一枚にくるまれただけの裸の姿で来てくださいました。家畜小屋の惨めなエサ箱の中に、だからこそわざわざ布切れ一枚に包まれて身を置いてくださいました。裸の小さな赤ちゃんを見て、恐ろしくてビクビク震える人はいません。そのニッコリ笑ったり泣いたりスヤスヤ眠っている寝顔を見て、いじけたりすねたりする人はいません。とても心の優しい愛情深い神さまは、私たちを打ち砕きたくはないのです。私たちに惨めな思いをさせたり、恐れおののかせたくはない。むしろ、愛と恵みによって慰めてあげたいと願っておられます。ぜひ力づけてあげたいと願って、そのために、1人の赤ちゃんの姿で来られました。
15-20節、「御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは『さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか』と、互に語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った」。羊飼いたちは神をあがめ、讃美しながら帰っていきました。どこへでしょう。自分の家へ。自分のいつものあの働き場所へ。一緒に生きるべき人々の所へと。つまり、あの羊たちの所へ。帰っていったそれぞれの場所で、そこでいよいよ、神をたたえて生きるための悪戦苦闘がはじまります。ただお独りの主に仕えて生きるための、月曜から土曜日までの働きが。しかも一人の女性は、「これらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらし」つづけます。神さまがその人の心にご自身の出来事を刻み込み、それでその人は思い巡らせはじめます。もし、神がそれをなさったのなら、それは必ずきっと実を結びます。その1つの出来事は自分のごく短い人生の時間になにを与え、何を造り出してくれるだろうか。もしかしたら、その一人の人に、神を信じ、救い主を待ち望みながら生きる心強く幸いな日々を与えてくれるかも知れません。
救い主イエス・キリストの父なる神さま。
あなたの独り子を世界と私たちの救いのためにこの世界に贈り与えてくださって、ありがとうございます。御子イエスを待ち望み、迎え入れ、この御子イエスによって私たちをあなたの恵みの中に留めてください。
貧しく心細く暮らす人たちが世界中に、そしてこの日本にもたくさんいます。どうぞ、その人たちの生活が守られますように。病気にかかって苦しんでいる人たちをお守りください。病院や老人施設で働く人たち、保育園、幼稚園の職員の方々の働きとその家族の健康をお支えください。他のさまざまな国から日本に来て暮らす外国人とその子供たち、家族の生活が支えられますように。働きと住む場所を失ったとてもたくさんの人たちの一日一日の暮らしが心強く支えられますように。淋しく苦しい思いを抱えている人たちに、どうか希望と思いやりが差し出されますように。
私たち自身と家族も、あなたからの助けと支えを待ち望みます。私たちの口に、あなたの思いやりと愛をほめたたえさせてください。あなたの御心を行うことを願い、あなたの御足のあとに従って生きる私たちとならせてください。
救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
アーメン