2019年12月23日月曜日

12/22「救い主を仰ぎ見る日々に」マタイ2:1-12


              みことば/2019,12,22(クリスマス礼拝)  246
◎礼拝説教 マタイ福音書 2:1-12                    日本キリスト教会 上田教会
『救い主を仰ぎ見る日々に』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。4 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。5 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、6 『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。       マタイ福音書 2:1-12
  1-2節、「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、『ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました』」。救い主を尋ね求めたあの博士たちがどこに住んでいて、何という名前の、どんな人たちだったのかを、私たちは知りません。彼らは東のほうから来た、とだけ聖書は語る。東のほう? ほんの少し東なのか、ずっとずっと遠く離れた東のほうなのかも分かりません。インドや中国や、アジアのどこかの国から来たのかも知れない。もしかしたら、まさかこの日本や韓国や台湾あたりから? いいえ、それは分かりません。
 あの博士たちのように、神を探し求める人々がいます。この世界に無数に、まだ長い旅をしつづけて、神を求めつづけている人々がいるでしょう。光を求めるその旅人たちは、砂漠を渡り、荒地を越え、危険な長い旅を歩んでいます。神の約束のとおりにこの地上に生身の生まれたはずの救い主を見つけ出し、その方の前にひざまずき、拝むために。そう確かに危険な旅です。その旅は、とても長くつづくかも知れません。けれども、その価値がある、と彼らは思ったのでした。私たちもそうです。「いくつもの砂漠を渡り、荒地を乗り越え、死の陰の谷を次々に渡って、けれど本気になって探し求めてみる価値がある。そうする甲斐がある」と。あの彼らだけではありません。東のほうにも西のほうにも、丸子や長瀬地区、佐久、小諸、真田のあたりやこの上田界隈にも、どの町々にも、主の民が大勢いるのです。あなたのその職場にも、その町内会にも、あなたのその家族の中にさえ、主の民が隠されてあります。だからこそ「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。あなたには私がついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。しかも、この町にも私の民がいる」(使徒18:9-)と主なる神さまが私たちを励まします。あの彼らは耳にしました。いったいどこで、彼らは神の言葉に触れたんでしょう。自分の父さん母さん、おじいちゃんおばあちゃんから、長年連れ添った連れ合いから折々に聴かされてきたかも知れません。幼いころに通っていた幼稚園で耳にしたり、口ずさんでいたかも知れません。ともかく彼らは聞きました。「あなたを照らす格別な光が昇った。だから起き上がりなさい。たとえ闇が全世界を覆い、暗黒とさえ思えるようなきびしく苛酷な現実が小さな子供たちの上にも、小学生・中学生、高校生たちの上にも、若い父さん母さんたちや年配の人々の上にさえ、容赦なく重く厚く圧しかかっているとしても、それでもなお。いいえ、それだからこそ、あなたの上には主が輝き出ている。あなたの上に、確かにちゃんと現れているのだから」(イザヤ書60:1-2参照)と。
 それならば、どうしましょうか? へこたれて、なんだかくすぶっているあなたも、その光を探し求めてもいいのです。物淋しく、なんだか心細い、このごろ溜め息ばかりつくようになったあなたも、もし、輝く一つの光を見つけたならば、よっこらしょと起き上がって、その光を追いかけてもいいのです。その光を求めて、長い長い道のりを歩きはじめてもいいのです。あの、とても賢い博士たちのように。彼らの賢さは、輝く光を願い求めて、それを手に入れようと探しはじめる賢さでした。彼らの賢さは、見つけたその一つの光にじっと目を凝らしつづけて、たとえ暗がりの中であっても「よっこらしょ」と起き上がる賢さでした。輝く素敵な光をぜひ自分のこの手に掴み取りたい、と願う賢さでした。今この瞬間にも、あの賢い博士たちのように、輝く光を求めて旅をする大勢の人たちがいるかも知れません。よっこらしょと起き上がって。じっと目を凝らして。ぜひ自分のこの手に掴み取りたいと心から願い求めて。その人の兄弟も父さん母さんも、友だちも、世界中の誰一人も、光を求めるその人の旅にちっとも気づかないかも知れません。誰も、見向きもしないかも知れません。けれど大丈夫。なにしろ神さまは、その人の切なる願いを、そのじっと見据えた眼差しを、そのよっこらしょと起き上がったことを、よくよく知っていてくださるからです。まことの光であられる神さまこそが、その危険な旅路を守り、支えとおし、その歩みを心強く導き抜いてくださるからです。
  ところで、《救い主がお生まれになった》と告げられて、二種類のまったく違う反応が湧き起こりました。一方には、その方をぜひとも探し出し、その方の前にひざまずいて拝もうとする者たち。また他方には、不安と恐れを抱く者たちです。ヘロデ王は、しかし、《新しい王さま。救い主が生まれた》という知らせに、恐れと不安を抱きました。彼は、いま現に王様です。2人の王様が1つの国を治めることなどできません。新しい王様が生まれた。それは、古い王様であるヘロデがお払い箱になるということです。彼の地位も身分も、その踏みしめて立っている足元の地盤が脅かされています。4節です。ヘロデ王は、「民の祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて」、聖書では救い主のことをどんなふうに預言しているのか、どこで生まれることになっているのかと問い正します。また、占星術の学者たちには、「それはいつのことか。何月何日くらいなのか」(7節を参照)と質問します。恐れと不安を抱く王様が救い主をこのように探すのは、その御前にひれ伏して拝むためではありません。《救い主が生まれた》;それは、私たちの存在の根本を問う危険な問いかけです。その方を探し出し、出会い、ひざまずくこともできます。あの博士たちのように。あるいはまた、「救い主など、私には関係ない。放っておいてくれ」と、そっぽを向くことも出来る。自分の住む世界からまったく締め出してしまうこともできるのです。そう、二人の王様が一つの国を治めることはできません。新しい王様を迎え入れるためには、新しい王様のための真ん中のイスは空けてなければならないのです。あなたにとって誰が王様なのか。あなたは、いったい誰を自分にとっての王様やご主人さまとするつもりなのかと。それは直ちに、《あなたは何を拠り所とし、どこにどう足を踏みしめて立っているのか。何を願い、何を見据えて生きているのか》と、私たちの存在の根本を問う危険な問いかけだったのです。例えば1組の夫婦は、どんなふうに寄り添って生きることができるでしょうか。妻はその夫を文字通りに《主人》として、自分はそのしもべであるいとして、「私の主人がこう考え、こうしたいと言っているから」とその命令と判断にただただ「はい。分かりました」と従うこともできます。あるいは、そうではないあり方もできます。例えば親と子供たちは、どんなふうに一つ屋根の下に暮すことができるでしょう。父親かあるいは母親を一家の主人、大黒柱であるとして、文字通りに、その主人であり大黒柱である者の命令や判断にただただ「はい。分かりました」と従うこともできます。子供たちは、「だって、私のお父さんがこう言うので」と、そんなふうに育っていくこともできるでしょう。けれど、そうではないあり方もできます。会社や何かの組織でも、まったく同じ事情ですね。職場の上司や主任や管理職を、《私たちの王様》とすることもできます。「なにしろ上司がそう言うのだから。上司の考え方ややり方に従うほかない。口答えしてクビにでもされたら大変だ。ただただ「はい。分かりました。お言葉の通りにいたします」と。子供たちや若者たちはどんなふうに育ってゆくでしょうか? 彼らは、いったい誰を自分のための王様やご主人さまとして選ぶでしょうか? 自分自身を自分のための王様とすることもできます。自分のやり方、自分の判断。自分がしたいことし、したくないことはしないと。あるいは、ほかの誰彼を自分のための王様として、その者に仕えて生きることもできます。父さん母さんを自分の王様とし、就職したらその職場の上司や主任や管理職を自分のための王様とし、家に帰れば自分の夫を自分のための王様とし、そのようにして「なにしろあの人がそう言うのだから。あの人の考え方ややり方に従うほかない。口答えしてクビにでもされたら大変だ。ただただ「はい。分かりました。お言葉の通りにいたします」と。けれど、そうではない新しいあり方もできるのです。
 9-11節、「彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた」。博士たちに戻りましょう。あの彼らは、救い主を探し出し、喜びに溢れました。ひれ伏して拝み、その王様に贈り物をしました。宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を。彼らが宝の箱を開けて黄金、乳香、没薬をささげたように、私たちも、私たちの宝を王様の御前に置きます。例えば黄金は権力を動かし、生活を支配します。それは良くも悪くも用いられます。「何も持っていない。貧しい私だ」などとあなたは言ってはなりません。「それに比べて、豊かな恵まれたあの人は」などと恨みがましく不平不満をつぶやいてはなりません。だって、私たちもそれぞれ十分に与えられているではありませんか。私たちの生活を満たし、豊かに潤す宝物が、まるで贈り物のように与えられ、一日一日、一つまた一つと満たされてきました。
 乳香は、礼拝の道具です。私たちはひれ伏し、只一人の飛びっきりに素敵な王様を拝みます。「どうか私たちのささげる礼拝と祈りと讃美の歌を真実なものにしてください。私たちを通して、あの素敵な王様の香りを人々にもたらすことができるようにしてください。私たちの働きと、私たち自身を、あなたへのうれしい献げものにしてください」と願って。没薬は、死んだ人たちの葬りのために用います。病気や貧困があり、戦争があり、今もなおたくさんの人々が苦しみ、死んでいきます。私たちには悩みが絶えません。強がって見せても、誰でも皆それぞれにとても心細いのです。深く苦しんでいる人々がいます。いいえ。没薬は、「死んでいった多くの者達があった」と語るだけではありません。「罪人のために尊い生命をささげてくださった1人の救い主がおられる」と、そのことをこそ語るのです。「やがていつか死んでしまうことや病気があり、苦しみと悩みが絶えない。私たちには哀しみや恐れや心細さや惨めさがいつもある」と語るだけではありません。「やがて誰でも年を取り、衰えて死んでしまうことを乗り越えさせる確かな希望があり、それが、この私のためにも差し出されている」と、むしろ、そのことを語ります。
 あの博士たちは、ぜひ出会いたいと願って砂漠を渡り、けわしい荒地を越えて、長く危険な旅をし、探し出し、そのお方を礼拝し、喜びに溢れました。その後、彼らはどうなったでしょう。・・・・・・自分の国へと帰っていきました。いいえ、がっかりしてはいけません。「それなら、喜びに溢れ、そのお独りの方を礼拝したことはどうなったか。消えて無くなったのか」などと見くびってはなりません。その喜びは確かであり、その一回の礼拝は魂に刻まれました。むしろ、その喜び、その刻まれたはずの確信は、自分たちの国で、それぞれの普段の生活の中で、そこで本当の価値を発揮するからです。月曜日から土曜日までの毎日毎日の悪戦苦闘の中で、そこでこそ生きて働くからです。いろいろな苦しさや辛さを乗り越えさせる確かな希望があり、それが差し出され、受け取られました。それなら、ずっとずっと遠い東のほうにあっても、自分の家でも学校でも職場でも、どんな所にいても誰といっしょでも、ただ独りでいても大丈夫。彼らはやがて、あのお独りの王様のもとに立ち戻ってきます。喜びに溢れて王様を拝み、出かけてゆき、それぞれ自分の国で精一杯に生きて、また戻ってきてお独りの王様の前に触れ伏して拝み、また出かけていって、その自分の国で生きる。そのように一週間、また一週間と区切られながら、ここから、私たちの地上のごく短い、あっという間に過ぎ去ってゆく生涯の新しい旅路が始まってゆきます。私たちはだんだんと年老いて衰え、けれども死んでそれで終わりではありません。死の川波を乗り越えて、やがて神さまの永遠の御国へと辿り着く、とても幸いな、晴れ晴れした旅路です。祈りましょう。