2019年12月23日月曜日

12/22こども説教「信じる者と信じない者と」使徒13:44-52


 12/22 こども説教 使徒行伝13:44-52
 『信じる者と信じない者と』

13:45 するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。46 パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。47 主はわたしたちに、こう命じておられる、『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。48 異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた49 こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った。50 ところが、ユダヤ人たちは、信心深い貴婦人たちや町の有力者たちを煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出させた。51 ふたりは、彼らに向けて足のちりを払い落して、イコニオムへ行った。   (使徒行伝13:44-52

 神さまを信じることができますか? 本当に神さまは、生きて働いておられると、あなたにも分かりますか?
神の国の福音が語られるとき、そこではいつも必ず決まって二種類の正反対の人々が現れます。とても喜ぶ人たちと、そうではない人たちと。救い主イエスご自身が語ったときにも、その弟子たちが語り始めても同じことが起きつづけます。二種類の正反対の人々。とても喜ぶ人たちと、そうではない人たち。信じる人たちと、信じない人たち。神の国の福音を語っている人がどういう人間なのか、上手で感動的な話しぶりなのか、そうでもないのか。いいえ、そういうこととはまったく関係なしに、その話を聴いてとても喜ぶ人たちと、そうではない人たちと。信じる人たちと、信じない人たち。ユダヤ人たち皆が腹を立てたわけではなく、外国人たち皆が信じたわけでもありません。ユダヤ人にも外国人にも、それぞれいつも信じる人たちと信じない人たちとが生み出されました。48節の途中から、はっきりとこう書いてあります。「そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた」。定められていた者は、みな信じた。つまり、神さまのほうで「この人と、この人と、この人この人」などと」救いへとあらかじめ選んでくださっている人だけが神を信じることができる。しかも、誰と誰と誰が選ばれているのかは、ただ神さましか御存知ありません。また50節でも、「ところが、ユダヤ人たちは、信心深い貴婦人たちや町の有力者たちを煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出させた」。信心深い貴婦人たちや町の有力者たちのその全員が彼らを追い立て、意地悪をし、その全員が彼らを追い払おうとしたわけではありません。その中にも、やはり2種類の人々がいつづけます。信心深い貴婦人たちの中にも信じる者と信じない者とが、町の有力者たちの中にも信じる者と信じない者とが。そうやってユダヤ人ではなかった外国人たちに、いよいよますます神の国の福音が広められはじめ、一人また一人と神さまを信じて晴れ晴れとして生きる人たちが生み出されつづけます。


        【補足/足の塵を払い落として】
       51節、「足の塵を払い落して~行った」。主イエスが12人の弟子を送り出したとき、72人を送り出したとき、同じ指図を与えています(ルカ福音書9:5,10:11。これが、すべての伝道者とクリスチャンの基本の心得です。今日の私たちも全く同じです。喜び迎えられるときもあり、毛嫌いされ、侮られて追い払われる日々もある。それでもなんの不都合もない。足に付いた塵も心についた失望や落胆も泥汚れもみな払い落として、そこから晴れ晴れとして出てくることができます。遣わして下さった救い主イエスにこそ、それらすべて一切を委ねて。主にこそ信頼して。