2019年12月16日月曜日

12/15「正しい人の恐れ」マタイ1:18-25

        みことば/2019,12,15(待降節第3主日の礼拝)  245
◎礼拝説教 マタイ福音書 1:18-25                   日本キリスト教会 上田教会
『正しい人の恐れ』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
1:18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。19 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。24 ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。25 しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。              (マタイ福音書 1:18-25)
 まことの神である救い主イエス・キリストが、わざわざ低く身を屈めて人間に過ぎないものの系図の中に組み込まれてくださり、生身の肉体をもって人の子として地上に生まれ、生きて死んで、復活してくださった。それは、『罪人を憐れんで救う』という救いの約束を成し遂げるためでした。1:1が「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」と語り始めるとき、それははじめから「土の塵で造られた者たちに命の息を吹き入れ、生きる者としつづけた」、主であられる神さまからの憐れみとゆるしの系図であり、「心に思い図ることは幼いときから悪い者たち」をその悪と罪から解放するための系図でありつづけます(創世記2:4-7,4:13-16,8:21参照)。アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。19節と23節で、お父さんは「正しい人ヨセフ」で、お母さんは「おとめマリア」だったと書いてあります。「おとめ」という種類の女性は「罪のかけらもない、いつもいつも清らか~なことばかりを考えたりしたりしている天使のように素晴らしい女性」などではありません。そんな人は1人もいません。「正しい人」というのもだいたい同じ。むしろ聖書自身は「正しい人は1人もいない」(ローマ手紙3:9-26,創世8:23参照)とキッパリと言い切っています。この「正しい人は1人もいない」という基本の人間理解、この基本中の基本こそが、神さまを求めて生きてゆくための出発点でありつづけます。婚約中のマリアがまだ式もあげないうちからお腹が大きくなってしまって、正しい人ヨセフは悩みました。困った。このままでは俺様の正しさも面子も体裁も丸つぶれじゃないか。19節を見てください。「夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになるのを好まず、ひそかに離縁しようと決心した」。なにしろ正しい人だったので、マリアと一緒に自分まで人から後ろ指をさされたり、バカにされたくなかった。せめて自分1人だけでも「正しい人」という世間体・体裁を保っておきたかった。僕もそうだし、だいたい皆、ヨセフと同じようです。だからこそ、神さまによって助けていただく必要があります。
  さて、生まれてくるその赤ちゃんはイエスと名付けられます。21節にあるように、「おのれの民をそのもろもろの罪から救うからである」。日本でも他どの国でも、名前には意味がついています。例えば「あきら」という名前の子には、明るい子にぜひ育ってもらいたいという親の願いが込められました。イエスは、「主なる神こそが救ってくださる。神さま、救ってください」という名前です。この当時、イエスという名前の子供がたくさんいました。多くの親が自分の子にイエスと名をつけました。その時代、その社会。とても薄暗い、厳しく過酷な、了見の狭い身勝手でとても薄情な世の中だったからです。青年たちも父さん母さんたちも、年配の方々もそれぞれに不安と心細さを抱えて、生きてゆく希望をどこに見出せばよいか分からない社会だったからです。主なる神こそが救ってくださる。神さま、救ってください。そのひたすらな願いが、人々の間にあふれていました。けれどおびただしい数のイエスという名前の子供たちの中に只一人だけ、特別な意味と中身をもつ子供が生まれました。人々の願いや希望ではなく、そうではなく、神さまご自身の「私こそが自分の民を罪から救い出す」という断固たる決断を身に帯びたただ一人の子供が。やがて、もうしばらく後のことですが、その子が大人になり、こう語りかけ始めます;「取税人や遊女は信じた。あの彼らはあなたがたより先に神の国に入る」。また、「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して神の国に入ることはできない」(マタイ5:20,21:31-32)と。もし万一、私たちが思い描いている正しさ、「私は私は」と言い張りつづけるふさわしさが律法学者やパリサイ人たちが主張する正しさやふさわしさにどことなく似ているなら、どこからどう見てもそっくりなら、ほとんど同じようなものでしかないなら、かなり危うい。救いと祝福から、この私たちは今にも転げ落ちかけている。だから、律法学者やパリサイ人たちが主張する正しさやふさわしさとは似ても似つかない、まったく違う、正反対のふさわしさでなければ話になりません。
  さて、世界の初めには正しさは1種類しかありませんでした。とても単純素朴で、はっきりしていて、誰から見てもあまりに分かりやすいものでした。神さまが「よし」とするものを私たちも「よし」とする。神さまが「いいやダメ。それは悪い」とするものを、私たちも、たとえそれがどんなに気に入っても、大好きでも、欲しくて欲しくてウズウズしても、「いいやダメ。それは悪い」とする。創世記3章からこの只一つの正しさが崩れ始め、世界は神さまへの反逆と不従順の坂を転げ落ちていきました。さて創世記3章。唆されて善悪の知識の木の実を二人で食べてしまったとき、目が開けて彼らが見たものはあまりに貧相な安っぽい現実でした。獲得した善悪判断は、どうしたわけか、あまり正しくなく、むしろ薄汚れて黄ばんでいました。互いに恥ずかしがったり恥じ入らせたり、恐れたり恐れさせたり、それどころか神さまの歩く足音を聞いて「何をされるか分からない」と恐れて身を隠したり。男は上手な言い逃れをしました、「嫌だって断ったんですけど無理矢理に勧められて仕方なく。そもそもあの性悪の女と一緒にさせたのは神さまじゃないですか。そのせいで僕は、これまでもどれだけ迷惑してきたことか」。女も言いました、「だアってェ、蛇が」。ええっ。なんと上っ調子な、なんと軽はずみで浅はかな善悪判断と知恵を身につけてしまったことでしょうか、この私たちは。しかも振り返るなら、それ以前の創世記2章までで、人と妻が善悪を知らず何の弁えもなく、ただただ無知で愚かだったかというと、そうでもない。むしろ必要なだけ十分に賢かったし、幸せでした。神さまに信頼することを知っていました。「その土地を耕し守れ」と命じられて「はい。分かりました」と精一杯に耕し守り、「取って食べよ」と贈り与えられた恵みを受け取って「わあい。ありがとうございます」と喜び、「これだけはしてはいけない」と禁じられた戒めのうちに慎もうとし、だからこそ「この人のためにふさわしい助け手を造ろう」と与えられた助け手を「これこそついに私の骨の骨、肉の肉」と大喜びに喜び迎えました。創世記2章末尾に、晴れ晴れとしてこう報告されています、「二人とも裸であったが恥ずかしがりはしなかった」(創世記2:25)。自分もその人も裸だと十分に知りながら、互いの貧しさといたらなさを分かりながら、なお恥ずかしがらず恥じ入らせもしなかったし、相手をやたらと恐れたり恐れさせたりもせずにいられた。どうしてでしょう? なぜ。ふさわしい助け手を贈り与えようと仰った、そのとおりにしてくださった神さまの慈しみに感謝し、その真実さと慈しみ深さに信頼していたからです。神さまを尊ぶ心で、自分の目の前に立っているその相手を同じく尊び迎え入れたからです。実は2章で、必要な知識も善悪判断もすでに十分に彼らは受け取っていました。3章で失ったのは、エデンの園の居住権ばかりでなく、あるべき必要十分な善悪判断と、神さまへのあるべき信頼と感謝とそれゆえ聴き従う従順さであったのです。だから、その後はとても大変でした。あの3章以降、誰も彼もが『正しい人ヨセフ』に成り下がりました。それぞれに正しい、ほどほどに正しい、自分的には正しい「つもりです」という正しさ、それなりに正しいと言い張りつづける正しさ等々。あのときから、善悪判断と知識と価値は多種多様となり、蜘蛛の子を散らすように様々に枝分かれしました。それぞれの言い分とソロバン勘定と、その土地その土地のしきたりと習わしと、好き嫌いと腹の虫、「なんだか気に入らない、どうしたわけかシャクにさわるという癪(シャク)」という名前の奇妙な虫がどの人の腹の中にも5、6匹ずつ住んでいて、正しいか間違っているかとは何の関係もなく、筋が通っているかいないかでもなく、なにしろ「シャクという虫」に触ると「嫌だ。ダメよ、ダメダメ」と私たちはやたらに頑固になり、強情を張りはじめます。ここにいるこの私たちもそうです。「あなたの御心にかなうことではなく、ただもっぱら私の願いどおりに、私の都合のいいようにさせてください。天の父よ、あなたの御名ではなく、この私の名前を誉めたたえさせてください。私の心を実現してください。あなたの御国も結構ですけれど、むしろ、もしよかったら私の国を来らせて、私を王さま・殿様・ご主人さまにしてください。よろしくおねがいします」。困りました。それは『主の目に悪とされることだった』(列王記下15:24,28歴代誌上20:7,27:24)と聖書は悲しみながら、苦々しく報告しつづけました。つまり、律法学者とパリサイ人の正しさです。この人間中心のモノの考え方は教会の中でも外でも、私たちクリスチャンの中にさえますます幅を効かせ、ますます勢力を拡大し、人々を惑わしつづけます(ローマ手紙10:1-3参照)
  けれど大丈夫。兄弟姉妹たち、どうぞ安心してください。約束どおりに、イエスという名の赤ちゃんが生まれましたから。約束どおりに、「神われらと共にいます」(=インマヌエル。1:23という救い主が地上に降り立ち、救いの御業を成し遂げてくださいましたから。確かに救っていただいたし、救いつづけてくださっています。自分自身とまわりにいる人間たちのことばかり思い煩ってそのおかげで神を思う暇がほんの少しもなかった、あまりに正しすぎて臆病な私たちでした。私たちも、この神さまを信じて生きてきました。自分で選んだんじゃなくて、神さまがこの私たちを選んでくださった、選んでくださったからには必ずきっと実を結ぶ、しかも結んだ実は残ると神さまから約束していただいています。天に私たちの主人がおられます。しかも同時にその主人は、私たちの傍らにいてくださり、片時も離れることなく傍らにいてくださり、誰といるときにも何をしていても、私たちを神さまへの従順へと招き入れ、そこに据え置いてくださるからです。兄弟姉妹たち。もしかしたら! 私たちも神の国に入れるかも知れません。律法学者とパリサイ人の正しさから、罪人と取税人のふさわしさへと180度グルリと方向転換し、すっかり鞍替え(=今までやってきた仕事や行動の対象や在り方を他に転換すること)できるかも知れません。だからもう、私たちは、自分自身の賢さや強さによって生きるのではありません。自分自身の豊かさや正しさや清らかさによって生きるのでもありません。それらはすべてすっかり取り除かれましたし、日毎に取り除かれつづけます。誰を恐れることもなく、誰に遠慮する必要もなく、ただただ神の慈しみ深さと憐みにすがって、そこに信頼し、希望をすっかり丸ごと託すことができます。そのように、晴れ晴れと生きて死ぬことができます。