2019年12月23日月曜日

コラム「プレゼントやケーキやサンタよりも、もっと大切」


コラム
『プレゼントやケーキやサンタよりも、もっと大切』
~罪人を憐み、ゆるして救う神~

                                  金田聖治


















 クリスマスよりも、素敵なクリスマス・プレゼントやモミの木やケーキやごちそうやサンタなどよりも千倍も万倍も大切な、耳より情報、最優先の緊急事態案件がある。だって救い主が何月何日にお生まれになったか、聖書のどこにも記録されていません。どこの戸籍謄本や歴史資料にも一言も書かれていません。けれど祝う必要と都合があったので、キリスト教会が判断して何月何日頃と決めました(古代ローマにあった諸宗教の1つは1225日を「不滅の太陽が生まれる日」とし、太陽神を祝う冬至の祭りがあった。これを転用したのではなど諸説ある。いずれにせよ不明確)。むしろ、神でありながら人として生まれてくださった救い主イエス・キリストが、私たちの救いのために何を、どうやって成し遂げてくださったのか。どういう救いと幸いが約束されているのか。どういう神であり、神を信じて、どのように幸いに生きて死ぬことが出来るのか、それこそが私たちにとっては飛びっきりの肝心要でありつづけるじゃないですか。ねえ。
 聖書は証言します、「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない」(ローマ手紙3:22-27。憐み深く、また正しくある神が、神に逆らいつづける罪人である私たちを神の御もとへと呼び戻し、救おうとなさる。差別も区別も何の条件づけもなく、ただ救い主イエスを信じるという一点で、その罪人を憐んで救う。なぜ差別も区別もないのかというと、すべての人が独りの例外もなく皆、失格だからです。救われるに値しない者たちばかりだからです。だからこそ、「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって」と念を押し、それ以外に何一つ付け加えてはならないと釘を刺します。ただただ神からの恵みであり、だからこそ私たちの誇りも見栄も、体裁を取り繕うことも、すべてすっかり取り除かれたと晴れ晴れして告げ知らされます。誇りとは、「これがあるから私は安心だ」という支えであり、頼みの綱であり、拠り所です。例えば職人は腕一本を誇りとして頼みの綱として生きていきます。大切な腕を大怪我でもして失ってしまったら、その人は絶望して死を願うかも知れません。「誇りが取り除かれたし、そんなものは要らない」と言われたら、腹も立つでしょうし、心細くもなるでしょう。「そんな馬鹿な」と聞き流したくもなるでしょう。自分自身の根性も努力も才能も当てにはなりません。どこまでも支えや頼みの綱とできる確かな安心材料など、どこを探しても誰にも見当たりません。どうしましょうか? 神を頼りとし支えとして、神を頼みの綱として生きることができます。それこそが、神ご自身からの贈り物です。「誇る者は主を誇れ」(1コリント手紙131と聖書に書いてあるとおりに生きて死ぬことができます。それを自分自身の現実とすることができるのです。どうぞ、良い日々を。
               (当教会の機関誌「信濃のつのぶえ」、巻頭言を改題  2019,12,22


12/22「救い主を仰ぎ見る日々に」マタイ2:1-12


              みことば/2019,12,22(クリスマス礼拝)  246
◎礼拝説教 マタイ福音書 2:1-12                    日本キリスト教会 上田教会
『救い主を仰ぎ見る日々に』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。4 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。5 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、6 『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。       マタイ福音書 2:1-12
  1-2節、「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、『ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました』」。救い主を尋ね求めたあの博士たちがどこに住んでいて、何という名前の、どんな人たちだったのかを、私たちは知りません。彼らは東のほうから来た、とだけ聖書は語る。東のほう? ほんの少し東なのか、ずっとずっと遠く離れた東のほうなのかも分かりません。インドや中国や、アジアのどこかの国から来たのかも知れない。もしかしたら、まさかこの日本や韓国や台湾あたりから? いいえ、それは分かりません。
 あの博士たちのように、神を探し求める人々がいます。この世界に無数に、まだ長い旅をしつづけて、神を求めつづけている人々がいるでしょう。光を求めるその旅人たちは、砂漠を渡り、荒地を越え、危険な長い旅を歩んでいます。神の約束のとおりにこの地上に生身の生まれたはずの救い主を見つけ出し、その方の前にひざまずき、拝むために。そう確かに危険な旅です。その旅は、とても長くつづくかも知れません。けれども、その価値がある、と彼らは思ったのでした。私たちもそうです。「いくつもの砂漠を渡り、荒地を乗り越え、死の陰の谷を次々に渡って、けれど本気になって探し求めてみる価値がある。そうする甲斐がある」と。あの彼らだけではありません。東のほうにも西のほうにも、丸子や長瀬地区、佐久、小諸、真田のあたりやこの上田界隈にも、どの町々にも、主の民が大勢いるのです。あなたのその職場にも、その町内会にも、あなたのその家族の中にさえ、主の民が隠されてあります。だからこそ「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。あなたには私がついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。しかも、この町にも私の民がいる」(使徒18:9-)と主なる神さまが私たちを励まします。あの彼らは耳にしました。いったいどこで、彼らは神の言葉に触れたんでしょう。自分の父さん母さん、おじいちゃんおばあちゃんから、長年連れ添った連れ合いから折々に聴かされてきたかも知れません。幼いころに通っていた幼稚園で耳にしたり、口ずさんでいたかも知れません。ともかく彼らは聞きました。「あなたを照らす格別な光が昇った。だから起き上がりなさい。たとえ闇が全世界を覆い、暗黒とさえ思えるようなきびしく苛酷な現実が小さな子供たちの上にも、小学生・中学生、高校生たちの上にも、若い父さん母さんたちや年配の人々の上にさえ、容赦なく重く厚く圧しかかっているとしても、それでもなお。いいえ、それだからこそ、あなたの上には主が輝き出ている。あなたの上に、確かにちゃんと現れているのだから」(イザヤ書60:1-2参照)と。
 それならば、どうしましょうか? へこたれて、なんだかくすぶっているあなたも、その光を探し求めてもいいのです。物淋しく、なんだか心細い、このごろ溜め息ばかりつくようになったあなたも、もし、輝く一つの光を見つけたならば、よっこらしょと起き上がって、その光を追いかけてもいいのです。その光を求めて、長い長い道のりを歩きはじめてもいいのです。あの、とても賢い博士たちのように。彼らの賢さは、輝く光を願い求めて、それを手に入れようと探しはじめる賢さでした。彼らの賢さは、見つけたその一つの光にじっと目を凝らしつづけて、たとえ暗がりの中であっても「よっこらしょ」と起き上がる賢さでした。輝く素敵な光をぜひ自分のこの手に掴み取りたい、と願う賢さでした。今この瞬間にも、あの賢い博士たちのように、輝く光を求めて旅をする大勢の人たちがいるかも知れません。よっこらしょと起き上がって。じっと目を凝らして。ぜひ自分のこの手に掴み取りたいと心から願い求めて。その人の兄弟も父さん母さんも、友だちも、世界中の誰一人も、光を求めるその人の旅にちっとも気づかないかも知れません。誰も、見向きもしないかも知れません。けれど大丈夫。なにしろ神さまは、その人の切なる願いを、そのじっと見据えた眼差しを、そのよっこらしょと起き上がったことを、よくよく知っていてくださるからです。まことの光であられる神さまこそが、その危険な旅路を守り、支えとおし、その歩みを心強く導き抜いてくださるからです。
  ところで、《救い主がお生まれになった》と告げられて、二種類のまったく違う反応が湧き起こりました。一方には、その方をぜひとも探し出し、その方の前にひざまずいて拝もうとする者たち。また他方には、不安と恐れを抱く者たちです。ヘロデ王は、しかし、《新しい王さま。救い主が生まれた》という知らせに、恐れと不安を抱きました。彼は、いま現に王様です。2人の王様が1つの国を治めることなどできません。新しい王様が生まれた。それは、古い王様であるヘロデがお払い箱になるということです。彼の地位も身分も、その踏みしめて立っている足元の地盤が脅かされています。4節です。ヘロデ王は、「民の祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて」、聖書では救い主のことをどんなふうに預言しているのか、どこで生まれることになっているのかと問い正します。また、占星術の学者たちには、「それはいつのことか。何月何日くらいなのか」(7節を参照)と質問します。恐れと不安を抱く王様が救い主をこのように探すのは、その御前にひれ伏して拝むためではありません。《救い主が生まれた》;それは、私たちの存在の根本を問う危険な問いかけです。その方を探し出し、出会い、ひざまずくこともできます。あの博士たちのように。あるいはまた、「救い主など、私には関係ない。放っておいてくれ」と、そっぽを向くことも出来る。自分の住む世界からまったく締め出してしまうこともできるのです。そう、二人の王様が一つの国を治めることはできません。新しい王様を迎え入れるためには、新しい王様のための真ん中のイスは空けてなければならないのです。あなたにとって誰が王様なのか。あなたは、いったい誰を自分にとっての王様やご主人さまとするつもりなのかと。それは直ちに、《あなたは何を拠り所とし、どこにどう足を踏みしめて立っているのか。何を願い、何を見据えて生きているのか》と、私たちの存在の根本を問う危険な問いかけだったのです。例えば1組の夫婦は、どんなふうに寄り添って生きることができるでしょうか。妻はその夫を文字通りに《主人》として、自分はそのしもべであるいとして、「私の主人がこう考え、こうしたいと言っているから」とその命令と判断にただただ「はい。分かりました」と従うこともできます。あるいは、そうではないあり方もできます。例えば親と子供たちは、どんなふうに一つ屋根の下に暮すことができるでしょう。父親かあるいは母親を一家の主人、大黒柱であるとして、文字通りに、その主人であり大黒柱である者の命令や判断にただただ「はい。分かりました」と従うこともできます。子供たちは、「だって、私のお父さんがこう言うので」と、そんなふうに育っていくこともできるでしょう。けれど、そうではないあり方もできます。会社や何かの組織でも、まったく同じ事情ですね。職場の上司や主任や管理職を、《私たちの王様》とすることもできます。「なにしろ上司がそう言うのだから。上司の考え方ややり方に従うほかない。口答えしてクビにでもされたら大変だ。ただただ「はい。分かりました。お言葉の通りにいたします」と。子供たちや若者たちはどんなふうに育ってゆくでしょうか? 彼らは、いったい誰を自分のための王様やご主人さまとして選ぶでしょうか? 自分自身を自分のための王様とすることもできます。自分のやり方、自分の判断。自分がしたいことし、したくないことはしないと。あるいは、ほかの誰彼を自分のための王様として、その者に仕えて生きることもできます。父さん母さんを自分の王様とし、就職したらその職場の上司や主任や管理職を自分のための王様とし、家に帰れば自分の夫を自分のための王様とし、そのようにして「なにしろあの人がそう言うのだから。あの人の考え方ややり方に従うほかない。口答えしてクビにでもされたら大変だ。ただただ「はい。分かりました。お言葉の通りにいたします」と。けれど、そうではない新しいあり方もできるのです。
 9-11節、「彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた」。博士たちに戻りましょう。あの彼らは、救い主を探し出し、喜びに溢れました。ひれ伏して拝み、その王様に贈り物をしました。宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を。彼らが宝の箱を開けて黄金、乳香、没薬をささげたように、私たちも、私たちの宝を王様の御前に置きます。例えば黄金は権力を動かし、生活を支配します。それは良くも悪くも用いられます。「何も持っていない。貧しい私だ」などとあなたは言ってはなりません。「それに比べて、豊かな恵まれたあの人は」などと恨みがましく不平不満をつぶやいてはなりません。だって、私たちもそれぞれ十分に与えられているではありませんか。私たちの生活を満たし、豊かに潤す宝物が、まるで贈り物のように与えられ、一日一日、一つまた一つと満たされてきました。
 乳香は、礼拝の道具です。私たちはひれ伏し、只一人の飛びっきりに素敵な王様を拝みます。「どうか私たちのささげる礼拝と祈りと讃美の歌を真実なものにしてください。私たちを通して、あの素敵な王様の香りを人々にもたらすことができるようにしてください。私たちの働きと、私たち自身を、あなたへのうれしい献げものにしてください」と願って。没薬は、死んだ人たちの葬りのために用います。病気や貧困があり、戦争があり、今もなおたくさんの人々が苦しみ、死んでいきます。私たちには悩みが絶えません。強がって見せても、誰でも皆それぞれにとても心細いのです。深く苦しんでいる人々がいます。いいえ。没薬は、「死んでいった多くの者達があった」と語るだけではありません。「罪人のために尊い生命をささげてくださった1人の救い主がおられる」と、そのことをこそ語るのです。「やがていつか死んでしまうことや病気があり、苦しみと悩みが絶えない。私たちには哀しみや恐れや心細さや惨めさがいつもある」と語るだけではありません。「やがて誰でも年を取り、衰えて死んでしまうことを乗り越えさせる確かな希望があり、それが、この私のためにも差し出されている」と、むしろ、そのことを語ります。
 あの博士たちは、ぜひ出会いたいと願って砂漠を渡り、けわしい荒地を越えて、長く危険な旅をし、探し出し、そのお方を礼拝し、喜びに溢れました。その後、彼らはどうなったでしょう。・・・・・・自分の国へと帰っていきました。いいえ、がっかりしてはいけません。「それなら、喜びに溢れ、そのお独りの方を礼拝したことはどうなったか。消えて無くなったのか」などと見くびってはなりません。その喜びは確かであり、その一回の礼拝は魂に刻まれました。むしろ、その喜び、その刻まれたはずの確信は、自分たちの国で、それぞれの普段の生活の中で、そこで本当の価値を発揮するからです。月曜日から土曜日までの毎日毎日の悪戦苦闘の中で、そこでこそ生きて働くからです。いろいろな苦しさや辛さを乗り越えさせる確かな希望があり、それが差し出され、受け取られました。それなら、ずっとずっと遠い東のほうにあっても、自分の家でも学校でも職場でも、どんな所にいても誰といっしょでも、ただ独りでいても大丈夫。彼らはやがて、あのお独りの王様のもとに立ち戻ってきます。喜びに溢れて王様を拝み、出かけてゆき、それぞれ自分の国で精一杯に生きて、また戻ってきてお独りの王様の前に触れ伏して拝み、また出かけていって、その自分の国で生きる。そのように一週間、また一週間と区切られながら、ここから、私たちの地上のごく短い、あっという間に過ぎ去ってゆく生涯の新しい旅路が始まってゆきます。私たちはだんだんと年老いて衰え、けれども死んでそれで終わりではありません。死の川波を乗り越えて、やがて神さまの永遠の御国へと辿り着く、とても幸いな、晴れ晴れした旅路です。祈りましょう。 





12/22こども説教「信じる者と信じない者と」使徒13:44-52


 12/22 こども説教 使徒行伝13:44-52
 『信じる者と信じない者と』

13:45 するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。46 パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。47 主はわたしたちに、こう命じておられる、『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。48 異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた49 こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った。50 ところが、ユダヤ人たちは、信心深い貴婦人たちや町の有力者たちを煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出させた。51 ふたりは、彼らに向けて足のちりを払い落して、イコニオムへ行った。   (使徒行伝13:44-52

 神さまを信じることができますか? 本当に神さまは、生きて働いておられると、あなたにも分かりますか?
神の国の福音が語られるとき、そこではいつも必ず決まって二種類の正反対の人々が現れます。とても喜ぶ人たちと、そうではない人たちと。救い主イエスご自身が語ったときにも、その弟子たちが語り始めても同じことが起きつづけます。二種類の正反対の人々。とても喜ぶ人たちと、そうではない人たち。信じる人たちと、信じない人たち。神の国の福音を語っている人がどういう人間なのか、上手で感動的な話しぶりなのか、そうでもないのか。いいえ、そういうこととはまったく関係なしに、その話を聴いてとても喜ぶ人たちと、そうではない人たちと。信じる人たちと、信じない人たち。ユダヤ人たち皆が腹を立てたわけではなく、外国人たち皆が信じたわけでもありません。ユダヤ人にも外国人にも、それぞれいつも信じる人たちと信じない人たちとが生み出されました。48節の途中から、はっきりとこう書いてあります。「そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた」。定められていた者は、みな信じた。つまり、神さまのほうで「この人と、この人と、この人この人」などと」救いへとあらかじめ選んでくださっている人だけが神を信じることができる。しかも、誰と誰と誰が選ばれているのかは、ただ神さましか御存知ありません。また50節でも、「ところが、ユダヤ人たちは、信心深い貴婦人たちや町の有力者たちを煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出させた」。信心深い貴婦人たちや町の有力者たちのその全員が彼らを追い立て、意地悪をし、その全員が彼らを追い払おうとしたわけではありません。その中にも、やはり2種類の人々がいつづけます。信心深い貴婦人たちの中にも信じる者と信じない者とが、町の有力者たちの中にも信じる者と信じない者とが。そうやってユダヤ人ではなかった外国人たちに、いよいよますます神の国の福音が広められはじめ、一人また一人と神さまを信じて晴れ晴れとして生きる人たちが生み出されつづけます。


        【補足/足の塵を払い落として】
       51節、「足の塵を払い落して~行った」。主イエスが12人の弟子を送り出したとき、72人を送り出したとき、同じ指図を与えています(ルカ福音書9:5,10:11。これが、すべての伝道者とクリスチャンの基本の心得です。今日の私たちも全く同じです。喜び迎えられるときもあり、毛嫌いされ、侮られて追い払われる日々もある。それでもなんの不都合もない。足に付いた塵も心についた失望や落胆も泥汚れもみな払い落として、そこから晴れ晴れとして出てくることができます。遣わして下さった救い主イエスにこそ、それらすべて一切を委ねて。主にこそ信頼して。




2019年12月16日月曜日

12/15こども説教「救い主イエスによって義とされる」使徒13:38-43


 12/15 こども説教 使徒行伝13:38-43

13:38 だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、39 信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。40 だから預言者たちの書にかいてある次のようなことが、あなたがたの身に起らないように気をつけなさい。41 『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである』」。42 ふたりが会堂を出る時、人々は次の安息日にも、これと同じ話をしてくれるようにと、しきりに願った。43 そして集会が終ってからも、大ぜいのユダヤ人や信心深い改宗者たちが、パウロとバルナバとについてきたので、ふたりは、彼らが引きつづき神のめぐみにとどまっているようにと、説きすすめた。
(使徒行伝13:38-43) 

 誰が、どんなふうに救われるのかということが話されました。これが、一番大切です。38-39節、「だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである」。モーセの律法では義とされない、と語られました。そして、罪のゆるしの福音と。正しく良い行いをし、それを十分に積み重ねて、それで救われるわけではありません。ゆるされて、恵みに値しない者たちが救われるし、ただ神さまからの恵みによって救われる。誰も彼もが皆、神に逆らって罪を積み重ね、滅びるほかない薄暗がりに閉じ込められていました。その罪をただゆるしてくださって、ただ神の恵みによって救われるほか、私たちには救われる道はありません。その罪のゆるしは、救い主イエスを信じるというただ1点で、誰にでも分け隔てなく与えられます。価なしに、ただ恵みによって、ただ救い主イエスキリストによる罪のあがないとゆるしによって救われる。これが、神さまから贈り与えられる救いの中身です(ローマ手紙3:21-27,1テモテ手紙1:15。ムズカシイことは一つも言っていません。とても単純で簡単です。でもどうしたわけか、それを分かって信じることはとても難しい。だから41節で、「人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないようなことだ」と。つまり、神さまご自身がその人に分からせ、信じさせてくださるのでなければ、誰も分からないし、罪人をゆるして救うなどと信じられないはずです。ですから、この通りに聴いて信じることのできる人たちは、とても幸いです。






12/15「正しい人の恐れ」マタイ1:18-25

        みことば/2019,12,15(待降節第3主日の礼拝)  245
◎礼拝説教 マタイ福音書 1:18-25                   日本キリスト教会 上田教会
『正しい人の恐れ』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
1:18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。19 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。24 ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。25 しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。              (マタイ福音書 1:18-25)
 まことの神である救い主イエス・キリストが、わざわざ低く身を屈めて人間に過ぎないものの系図の中に組み込まれてくださり、生身の肉体をもって人の子として地上に生まれ、生きて死んで、復活してくださった。それは、『罪人を憐れんで救う』という救いの約束を成し遂げるためでした。1:1が「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」と語り始めるとき、それははじめから「土の塵で造られた者たちに命の息を吹き入れ、生きる者としつづけた」、主であられる神さまからの憐れみとゆるしの系図であり、「心に思い図ることは幼いときから悪い者たち」をその悪と罪から解放するための系図でありつづけます(創世記2:4-7,4:13-16,8:21参照)。アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。19節と23節で、お父さんは「正しい人ヨセフ」で、お母さんは「おとめマリア」だったと書いてあります。「おとめ」という種類の女性は「罪のかけらもない、いつもいつも清らか~なことばかりを考えたりしたりしている天使のように素晴らしい女性」などではありません。そんな人は1人もいません。「正しい人」というのもだいたい同じ。むしろ聖書自身は「正しい人は1人もいない」(ローマ手紙3:9-26,創世8:23参照)とキッパリと言い切っています。この「正しい人は1人もいない」という基本の人間理解、この基本中の基本こそが、神さまを求めて生きてゆくための出発点でありつづけます。婚約中のマリアがまだ式もあげないうちからお腹が大きくなってしまって、正しい人ヨセフは悩みました。困った。このままでは俺様の正しさも面子も体裁も丸つぶれじゃないか。19節を見てください。「夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになるのを好まず、ひそかに離縁しようと決心した」。なにしろ正しい人だったので、マリアと一緒に自分まで人から後ろ指をさされたり、バカにされたくなかった。せめて自分1人だけでも「正しい人」という世間体・体裁を保っておきたかった。僕もそうだし、だいたい皆、ヨセフと同じようです。だからこそ、神さまによって助けていただく必要があります。
  さて、生まれてくるその赤ちゃんはイエスと名付けられます。21節にあるように、「おのれの民をそのもろもろの罪から救うからである」。日本でも他どの国でも、名前には意味がついています。例えば「あきら」という名前の子には、明るい子にぜひ育ってもらいたいという親の願いが込められました。イエスは、「主なる神こそが救ってくださる。神さま、救ってください」という名前です。この当時、イエスという名前の子供がたくさんいました。多くの親が自分の子にイエスと名をつけました。その時代、その社会。とても薄暗い、厳しく過酷な、了見の狭い身勝手でとても薄情な世の中だったからです。青年たちも父さん母さんたちも、年配の方々もそれぞれに不安と心細さを抱えて、生きてゆく希望をどこに見出せばよいか分からない社会だったからです。主なる神こそが救ってくださる。神さま、救ってください。そのひたすらな願いが、人々の間にあふれていました。けれどおびただしい数のイエスという名前の子供たちの中に只一人だけ、特別な意味と中身をもつ子供が生まれました。人々の願いや希望ではなく、そうではなく、神さまご自身の「私こそが自分の民を罪から救い出す」という断固たる決断を身に帯びたただ一人の子供が。やがて、もうしばらく後のことですが、その子が大人になり、こう語りかけ始めます;「取税人や遊女は信じた。あの彼らはあなたがたより先に神の国に入る」。また、「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して神の国に入ることはできない」(マタイ5:20,21:31-32)と。もし万一、私たちが思い描いている正しさ、「私は私は」と言い張りつづけるふさわしさが律法学者やパリサイ人たちが主張する正しさやふさわしさにどことなく似ているなら、どこからどう見てもそっくりなら、ほとんど同じようなものでしかないなら、かなり危うい。救いと祝福から、この私たちは今にも転げ落ちかけている。だから、律法学者やパリサイ人たちが主張する正しさやふさわしさとは似ても似つかない、まったく違う、正反対のふさわしさでなければ話になりません。
  さて、世界の初めには正しさは1種類しかありませんでした。とても単純素朴で、はっきりしていて、誰から見てもあまりに分かりやすいものでした。神さまが「よし」とするものを私たちも「よし」とする。神さまが「いいやダメ。それは悪い」とするものを、私たちも、たとえそれがどんなに気に入っても、大好きでも、欲しくて欲しくてウズウズしても、「いいやダメ。それは悪い」とする。創世記3章からこの只一つの正しさが崩れ始め、世界は神さまへの反逆と不従順の坂を転げ落ちていきました。さて創世記3章。唆されて善悪の知識の木の実を二人で食べてしまったとき、目が開けて彼らが見たものはあまりに貧相な安っぽい現実でした。獲得した善悪判断は、どうしたわけか、あまり正しくなく、むしろ薄汚れて黄ばんでいました。互いに恥ずかしがったり恥じ入らせたり、恐れたり恐れさせたり、それどころか神さまの歩く足音を聞いて「何をされるか分からない」と恐れて身を隠したり。男は上手な言い逃れをしました、「嫌だって断ったんですけど無理矢理に勧められて仕方なく。そもそもあの性悪の女と一緒にさせたのは神さまじゃないですか。そのせいで僕は、これまでもどれだけ迷惑してきたことか」。女も言いました、「だアってェ、蛇が」。ええっ。なんと上っ調子な、なんと軽はずみで浅はかな善悪判断と知恵を身につけてしまったことでしょうか、この私たちは。しかも振り返るなら、それ以前の創世記2章までで、人と妻が善悪を知らず何の弁えもなく、ただただ無知で愚かだったかというと、そうでもない。むしろ必要なだけ十分に賢かったし、幸せでした。神さまに信頼することを知っていました。「その土地を耕し守れ」と命じられて「はい。分かりました」と精一杯に耕し守り、「取って食べよ」と贈り与えられた恵みを受け取って「わあい。ありがとうございます」と喜び、「これだけはしてはいけない」と禁じられた戒めのうちに慎もうとし、だからこそ「この人のためにふさわしい助け手を造ろう」と与えられた助け手を「これこそついに私の骨の骨、肉の肉」と大喜びに喜び迎えました。創世記2章末尾に、晴れ晴れとしてこう報告されています、「二人とも裸であったが恥ずかしがりはしなかった」(創世記2:25)。自分もその人も裸だと十分に知りながら、互いの貧しさといたらなさを分かりながら、なお恥ずかしがらず恥じ入らせもしなかったし、相手をやたらと恐れたり恐れさせたりもせずにいられた。どうしてでしょう? なぜ。ふさわしい助け手を贈り与えようと仰った、そのとおりにしてくださった神さまの慈しみに感謝し、その真実さと慈しみ深さに信頼していたからです。神さまを尊ぶ心で、自分の目の前に立っているその相手を同じく尊び迎え入れたからです。実は2章で、必要な知識も善悪判断もすでに十分に彼らは受け取っていました。3章で失ったのは、エデンの園の居住権ばかりでなく、あるべき必要十分な善悪判断と、神さまへのあるべき信頼と感謝とそれゆえ聴き従う従順さであったのです。だから、その後はとても大変でした。あの3章以降、誰も彼もが『正しい人ヨセフ』に成り下がりました。それぞれに正しい、ほどほどに正しい、自分的には正しい「つもりです」という正しさ、それなりに正しいと言い張りつづける正しさ等々。あのときから、善悪判断と知識と価値は多種多様となり、蜘蛛の子を散らすように様々に枝分かれしました。それぞれの言い分とソロバン勘定と、その土地その土地のしきたりと習わしと、好き嫌いと腹の虫、「なんだか気に入らない、どうしたわけかシャクにさわるという癪(シャク)」という名前の奇妙な虫がどの人の腹の中にも5、6匹ずつ住んでいて、正しいか間違っているかとは何の関係もなく、筋が通っているかいないかでもなく、なにしろ「シャクという虫」に触ると「嫌だ。ダメよ、ダメダメ」と私たちはやたらに頑固になり、強情を張りはじめます。ここにいるこの私たちもそうです。「あなたの御心にかなうことではなく、ただもっぱら私の願いどおりに、私の都合のいいようにさせてください。天の父よ、あなたの御名ではなく、この私の名前を誉めたたえさせてください。私の心を実現してください。あなたの御国も結構ですけれど、むしろ、もしよかったら私の国を来らせて、私を王さま・殿様・ご主人さまにしてください。よろしくおねがいします」。困りました。それは『主の目に悪とされることだった』(列王記下15:24,28歴代誌上20:7,27:24)と聖書は悲しみながら、苦々しく報告しつづけました。つまり、律法学者とパリサイ人の正しさです。この人間中心のモノの考え方は教会の中でも外でも、私たちクリスチャンの中にさえますます幅を効かせ、ますます勢力を拡大し、人々を惑わしつづけます(ローマ手紙10:1-3参照)
  けれど大丈夫。兄弟姉妹たち、どうぞ安心してください。約束どおりに、イエスという名の赤ちゃんが生まれましたから。約束どおりに、「神われらと共にいます」(=インマヌエル。1:23という救い主が地上に降り立ち、救いの御業を成し遂げてくださいましたから。確かに救っていただいたし、救いつづけてくださっています。自分自身とまわりにいる人間たちのことばかり思い煩ってそのおかげで神を思う暇がほんの少しもなかった、あまりに正しすぎて臆病な私たちでした。私たちも、この神さまを信じて生きてきました。自分で選んだんじゃなくて、神さまがこの私たちを選んでくださった、選んでくださったからには必ずきっと実を結ぶ、しかも結んだ実は残ると神さまから約束していただいています。天に私たちの主人がおられます。しかも同時にその主人は、私たちの傍らにいてくださり、片時も離れることなく傍らにいてくださり、誰といるときにも何をしていても、私たちを神さまへの従順へと招き入れ、そこに据え置いてくださるからです。兄弟姉妹たち。もしかしたら! 私たちも神の国に入れるかも知れません。律法学者とパリサイ人の正しさから、罪人と取税人のふさわしさへと180度グルリと方向転換し、すっかり鞍替え(=今までやってきた仕事や行動の対象や在り方を他に転換すること)できるかも知れません。だからもう、私たちは、自分自身の賢さや強さによって生きるのではありません。自分自身の豊かさや正しさや清らかさによって生きるのでもありません。それらはすべてすっかり取り除かれましたし、日毎に取り除かれつづけます。誰を恐れることもなく、誰に遠慮する必要もなく、ただただ神の慈しみ深さと憐みにすがって、そこに信頼し、希望をすっかり丸ごと託すことができます。そのように、晴れ晴れと生きて死ぬことができます。




2019年12月9日月曜日

12/8こども説教「救い主イエスの復活によって」使徒13:31-39


 12/8 こども説教 使徒行伝13:31-39

13:31 イエスは、ガリラヤからエルサレムへ一緒に上った人たちに、幾日ものあいだ現れ、そして、彼らは今や、人々に対してイエスの証人となっている。32 わたしたちは、神が先祖たちに対してなされた約束を、ここに宣べ伝えているのである。33 神は、イエスをよみがえらせて、わたしたち子孫にこの約束を、お果しになった。……35 だから、ほかの箇所でもこう言っておられる、『あなたの聖者が朽ち果てるようなことは、お許しにならないであろう』。36 事実、ダビデは、その時代の人々に神のみ旨にしたがって仕えたが、やがて眠りにつき、先祖たちの中に加えられて、ついに朽ち果ててしまった。37 しかし、神がよみがえらせたかたは、朽ち果てることがなかったのである。38 だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、39 信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである(使徒行伝1331-39

 救い主イエスは神の約束どおりに、つまり聖書に書かれているとおりに、十字架につけられて殺され、葬られ、死人の中からよみがえらされ、その復活の姿を多くの人々に見せてくださり、やがて弟子たちが見ている前で天にあげられました。主イエスを信じるすべての弟子たちは、つまりこの私たちも、主イエスのこの死と復活が確かに起こったことの証人とされました。だから私たちも、他の人たちにこのとても良い格別な知らせを知らせてあげます、「おーい、皆さあん。神が約束された救いの出来事を成し遂げてくださいましたヨオ。主イエスと共に私たちも、やがて死んだ後で、新しい生命によみがえることになっているし、生きている間も、自分勝手でわがままで頑固な古い罪の自分と死に別れつづけて、毎日毎日、神さまに従って新しい生命に生きる者とされたんですよ~」と。さて38-39節、「だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである」。信じる者はもれなく、ですって そのとおりです。「信じる者はもれなくイエスによって神に喜んでいただけるし、イエスによって罪をゆるされる」。ただ救い主イエスを信じるという一点で、信じる人たち皆が神にさからって生きる罪から救い出していただけます。神に逆らって生きることを止めて、神に素直に従って生きる者たちとされます。これが、死んで復活した救い主イエスによる罪のゆるしの福音です。


12/8「一人の男の子が生まれる」イザヤ書7:10-17


       みことば/2019,12,8(待降節第2主日の礼拝)  244
◎礼拝説教 イザヤ書7:10-17                       日本キリスト教会 上田教会
『一人の男の子が生まれる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
7:10 主は再びアハズに告げて言われた、11 「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。12 しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。13 そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。14 それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。15 その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる。16 それはこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れているふたりの王の地は捨てられるからである。17 主はエフライムがユダから分れた時からこのかた、臨んだことのないような日をあなたと、あなたの民と、あなたの父の家とに臨ませられる。それはアッスリヤの王である」。         (イザヤ書 7:10-17)
                                               

1:20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。    (マタイ福音書1:20-23)

まず10-14節。「主は再びアハズに告げて言われた、『あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ』。しかしアハズは言った、『わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません』。そこでイザヤは言った、『ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』」。まず、冒頭の10節。「主は再びアハズに告げて言われた」。再び、2回目にです。では1回目にはアハズ王に対して何とおっしゃったのか? 4節、「気をつけて、静かにし、恐れてはならない」と。気をつけて、静かにし、恐れない(イザヤ書30:15,14:13-14,申命記31:8,列王記上19:11-12,ヨハネ福音書19-23参照)。神さまにちっとも信頼できないアハズ王は、まわりの国々と人々のことが恐くて恐くて、アタフタビクビクしつづけます。まわりの強そうな人々を恐れないで、静かに安心しているためには、神さまにこそよくよく信頼している必要があります。では、どうしたら神さまによく信頼できるでしょうか。どんな神さまだろう、神さまはどんな御心で、なんて仰っているかと耳を傾け、語られるその言葉によくよく気をつけていることです。もし、気をつけることも静かにしていることもできずにアタフタソワソワしつづけるなら、小さくなって、ビクビクビクビク恐れ続け、いつまでも臆病で心細いまま、惨めに淋しく暮らすことになります。主なる神さまはアハズ王の心があまりによこしまで、ねじ曲がっており、神の救いの約束を信じようとはしないだろうと分かっていました。そこで預言者イザヤに命じて、しるしを与えることによってアハズ王が神の言葉を信じることが出来るように手助けさせようとしました。ですから神を信じて生きる私たちは、『しるし』がどのように用いられるのかをよくよく注意して見ておかねばなりません。主であられます神は先祖と私たちのために、数々のしるしを差し出し続けました。私たちが神に十分に信頼を寄せて、聞き従い、信じて心安らかに生きることができるためにです。それこそが、神が多くの奇跡を行ったことの理由です。それら一つ一つは、先祖と私たちが神ご自身とその言葉に堅く信頼を寄せて生きるためのしるしです。先祖と私たちが神の言葉をなかなか信じられず、ためらい迷うとき、神の力が私たちの前に現わされ、なされて、この目で見た出来事の一つ一つが私たちの疑いを取り除きます。神の言葉に添えられて現わされた神の驚くべき奇跡の御業は、しるしとなり、私たちが神を信じて生きるための封印とされます。
11節、「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。心を貧しく鈍くしてしまったアハズ王に対して、神はどんなしるしでも奇跡でも見せてあげようと招きます。それによって、信じられないあなたではなく、神を信じることのできるあなたとならせてあげようと。天にあるものでも、この地上にあるものでも、どんなものでも。とくに、「陰府のように深い所に」と語りかけながら、「私の支配はこの世界のなによりも高くあり、どんな深みにさえも及ぶのであり、墓穴にくだった者たちをさえ喜んでそこから連れ戻すこともできる」と。私たちが何をどう疑っても、神さまは疑う私たちを受け入れ、その疑いや迷いから連れ戻すことができる神です。言葉だけでなく、出来事をとおしても私たちの疑いや迷いを取り除いてくださいます。神を信じて生きようとする人々ばかりでなく、アハズ王のようなあまりに不信仰な者に対してさえ、「信じるあなたにならせてあげよう」と。
 12-14節、「しかしアハズは言った、『わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません』。そこでイザヤは言った、『ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』」。わたしはしるしを求めて、主を試みることをいたしません。なんと皮肉なことでしょう。「いいえ、結構です。わたしは主を試みることを決してしませんから」(ルカ福音書4:12,申命記6:16参照)。賞賛すべき気高く信仰深い言葉を用いて、彼は神の申し出を跳ねのけます。これこそが、アハズ王の不信仰と心の鈍さの中身です。信仰深く敬虔なふりを装いながら、神の憐みを拒み、神に逆らいつづけ、薄暗がりの中に頑固に居座りつづける。サタンが彼の心を鈍くさせ、彼の目を曇らせつづけています。なぜなら、大事なのは主を試みないことではなく、主なる神に必要なだけ十分に信頼を寄せ、神に聴き従うことだからです。「しるしを求めなさい」という神の招きを跳ねのけたアハズ王の不信仰は、先週読んだ預言者イザヤの姿と見比べてみる中で、さらに明らかです。万軍の主なる神の聖なる御姿の前に恐れおののき、自分自身の罪と汚れとつくづくと思い知らされ、「ああ、わざわいだ。私は滅びるばかりだ。この私は死ぬほかない」と自覚させられたイザヤに対して、主なる神は一方的な恵みを差し出します。祭壇の上から取った燃え盛る炭火をイザヤの口に触れさせ、罪のゆるしを宣言し、彼を新しく生まれさせられました(イザヤ書6:1-7参照)。「しるしを求めなさい」とアハズ王に迫る神は、ここで預言者イザヤに対してしたのと同じことをしています。「神に信頼せよ」と求める言葉は、両刃の剣であって、罪と汚れに満ちたアハズに悔い改めをこそ激しく迫っています。「古い罪の自分」とキッパリ死に別れることを。けれどアハズは、信仰深いふりを装って、のらりくらりと不信仰の中になお居座ろうとし、神を押しのけ、神に背を向けて、罪を悔い改めようとしない頑固な心にどこまでもしがみついています。ああ。
 また例えば士師記6章のギデオンは、「本当ですか、本当ですか。確かに神を信じられるというしるしと証拠を私に見せてください。もう一度、もう一度もう一度」と言い募ったではありませんか。岩の上に置いたパンと肉を焼き尽くしていただいたり、羊の毛を地面の上に置いて羊の毛だけが濡れて地面が乾いているようにしてもらったり、逆に羊の毛が乾いていて地面を濡れさせていただいたり、もう一度もう一度と。また例えば、復活なさった救い主イエスは疑い深いトマスのためだけに、わざわざもう一度来てくださって、「さあ、あなたの指を私のてのひらの釘跡に差し入れ、わたしの脇腹の槍で刺された跡に差し入れて、気のすむまで何度でも何度でも、よくよく確かめてみなさい。信じないあなたではなく、信じるあなたとなりなさい」と彼に詰め寄ります。そこでようやく十分でした。手を伸ばしててのひらとわき腹の傷跡に差し入れてみるまでもなく、トマスは救い主イエスの御前にひれ伏して、「わが主よ、わが神よ」と喜びにあふれました(士師記6:17-40,ヨハネ福音書20:24-29。私たちの信仰を堅く強いものにしてくださろうとして神ご自身が支えの手を差し伸べてくださろうとするとき、その神の配慮を軽んじたり、侮ってはなりません。なによりも、私たちが主をこそ信じて生きるためには。
 主であられます神は弱く不確かである私たちを憐れんで、信仰のうちに堅く守り支えてくださるために、支えと助けの手段をいくつも用意しておられます。例えば、洗礼と聖晩餐という二つの礼典は、私たちを神のもとに据え置いて養い支えるための憐みの手段です。一人一冊ずつもっています聖書、讃美歌が恵みの手段の一つです。信仰の友が傍らに置かれていることが恵みの手段の一つです。キリストの教会自体もまた、私たちを神の恵みのもとに据え置いて守るための手段であり、恵みの道具とされています。神の救いの約束を信じるために差し出されようとした神からのしるしをアハズ王が拒んで退けたとき、あの彼は、自分が神に対してどんなに強情を張って恩知らずになっているのか、神の恵みをどんなに侮っているのかを、これでもかこれでもかと見せつけていました。
ですから、神はアハズ王が拒んでも、先祖と私たちが度々神に背くとしてもなお、憐みの手を差し伸べつづけます。13-14節、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」と。
 15-17節、「その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる。それはこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れているふたりの王の地は捨てられるからである。主はエフライムがユダから分れた時からこのかた、臨んだことのないような日をあなたと、あなたの民と、あなたの父の家とに臨ませられる。それはアッスリヤの王である」。少し説明します。小さな子供が悪を退け、善を選ぶ能力、つまり物心つくのがおよそ2、3歳頃なので、預言者はごく近い将来にその男の子の誕生を考えていたと思えます。「凝乳」は酸っぱくなりかけた乳で、しばしば皮袋の中で振って製造されました。「凝乳」と「蜂蜜」が幼いこどもたちの主食となるのは、戦争や略奪が横行して国が荒れ果て、人々がとても貧しくなった結果です。やがてこの数年後にシリヤが、次いで北イスラエル王国が滅ぼされます。他の何によってでもなく、神ご自身の手によってです。預言者は、神の御言葉のとおりに救いのときがすぐ目前に近づいたと実感しました。他方でアハズ王は、預言者の言葉が成就しようとしているとはまったく考えませんでした。かえって、自分がアッスリヤの王に使いをやって助けを求めたことがうまく運んで、危うい状況をまんまと切り抜けることができたと思い込み、ますます神の言葉からも神ご自身からも遠く離れ去り、周囲の人間たちや強い国により頼む姿勢を強めます。ますます心を頑なに頑固にして、不信仰と愚かさの中に座り込みつづけます。けれども神は、アハズ王が信頼するそのアッスリヤの王によって南王国ユダに大きな災いを及ぼします。やがて長い長い年月をへて、ヨセフと婚約していたマリヤが身ごもり、ヨセフがマリヤとひそかに離縁しようと思い巡らしていたとき、主の使いが夫ヨセフに現れてこう語りかけます。「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。福音書記者は預言者イザヤに告げられていたあの預言がここにこうして実現していると語りかけます。つまり、「すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』」(マタイ福音書1:20-23。それについては、来週ごいっしょに読み味わうことになります。

            ◇

さて、「インマヌエル」は「神が私たちと共におられます」、あるいは「神が私たちと深く結びついてくださった」という意味です。この言葉こそ、疑いもなく救い主イエス・キリストを指し示しています。神の独り子であられる神ご自身が低くくだって来られました。私たちの肉体を身にまといました。私たちの人間性を受け取って本当に人間となることによって、私たちとご自身とを深く堅く結び付けてくださったのです。まことの神であり、同時にまことに人間でもある救い主となられたことをもって、救い主イエス・キリストこそがインマヌエル、私たちと共におられる神であられます。
私たちの教会の信仰告白は、「われらが主と崇むる神の独子イエス・キリストは、まことの神にして、まことの人」と信仰を言い表します。まことの神であり、同時にまことに人間でもあられるという二つの本質が、私たちの主イエス・キリストという一個の人格の中に結びついてある。このことによくよく注意を傾けつづけなければなりません。「インマヌエル」、神が私たちと共におられます、神が私たちと深く結びついてくださった。「罪は犯されなかったが、それ以外のすべてのことにおいて、私たちと同じように試練に会われた」(ヘブル手紙4:15と聖書は証言します。私たちと同じ人間の肉体と血をもって私たちと共におられ、しかも同時に、このお独りのお方はまことの神であられます。福音書を読むとき、私たちの救い主イエス・キリストは弱り果て、喉をカラカラに渇かせ、空腹に耐えたと知らされます。私たちと同じように、涙を流して悲しみ、呻き、苦しみや痛みを味わいました。彼は私たち人間の心を知っておられ、私たちの弱さ、惨めさ、心細さを思いやることができるお方です。
しかもなお、それだけでなく、ご自身のためにもこの私たち一人一人のためにも、悪魔のあらゆる誘惑や攻撃を退けることができるお方です。弟子のトマスがご自分に、「わが主よ、わが神よ」と呼びかけることをお許しになり、「アブラハムの生まれる前から私はいるのである」と、また「私と天の御父とは一つである」(ヨハネ福音書8:58,10:30,20:28と断言なさいました。このお独りの方こそ万物の上にいます神であり、御父から天と地のすべて一切の権威を授けられた永遠の神の御子です。彼の御手の中から私たちを奪い取ることのできる者など誰もおらず、もし、この救い主イエスを信じて生きることができるなら、私たちは、もはや誰をも、またどんな困ったことをも恐れなくてよいし、だから晴れ晴れと暮らして、生きて死んでゆくことさえできるのです。

2019年12月2日月曜日

12/1こども説教「救い主イエスイエスの死と復活」使徒13:26-30


  12/1 こども説教 使徒行伝13:26-30

13:26 兄弟たち、アブラハムの子孫のかたがた、ならびに皆さんの中の神を敬う人たちよ。この救の言葉はわたしたちに送られたのである。27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めずに刑に処し、それによって、安息日ごとに読む預言者の言葉が成就した。28 また、なんら死に当る理由が見いだせなかったのに、ピラトに強要してイエスを殺してしまった。29 そして、イエスについて書いてあることを、皆なし遂げてから、人々はイエスを木から取りおろして墓に葬った。30 しかし、神はイエスを死人の中から、よみがえらせたのである。
(使徒行伝13:26-30

 会堂でのパウロの説教がつづいています。救い主イエスが裁判にかけられ、正しい理由もなく死刑にされ殺され、墓に葬られました。けれども父なる神さまが、そのイエスを死人の中かららよみがえらせてくださいました。
27節で、「イエスを刑に処し、それによって預言者の言葉が成就した」と書いてあります。また29節でも、「イエスを殺してしまいました。イエスについて書いてあることを皆なし遂げて」と。「預言者の言葉」とは、旧約聖書のことです。「イエスについて書いてあること」とは、どこに書いてあるかと言えば、聖書にそれが書いてある。聖書にそれが書いてあるということは、神ご自身がそうすることにあらかじめ決めておられた、という意味です。このように、ただ悪者どもの悪だくみにあって殺されたというのではなく、その死と復活こそが神さまご自身の救いの計画でした。救い主イエスに率いられて、主イエスを信じるすべての者たちも、つまりこの私たち一人一人も、新しく生きる者とされます。神に逆らう古い罪の自分を殺していただき、その悪い心や在り方と死に別れ、墓に葬っていただき、それと引き換えのようにして、神さまに従って生きる新しい命に生きる者とされます。それが救いの中身です。「一日ずつの、毎日毎日の日毎の悔い改めだ」と教えられてきました。毎日毎日、神に逆らう自分の悪い心と在り方を殺していただき、墓に葬っていただき、それと引き換えのようにして、毎日毎日、神さまに従って新しく生きはじめる生活です。なんという恵み、なんという喜びでしょう。

12/1「切り株からの希望」イザヤ書6:1-13


     みことば/2019,12,1(待降節第1主日の礼拝)  243
◎礼拝説教 イザヤ書6:1-13                     日本キリスト教会 上田教会
『切り株からの希望』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:1 ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。2 その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、3 互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。4 その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。6 この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、7 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。9 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。10 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。
11 そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、12 人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。13 その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。聖なる種族はその切り株である。     (イザヤ書 6:1-13)

 まず1-7節。「ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、……互に呼びかわして言った。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ』。その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。その時わたしは言った、『わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから』。この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、わたしの口に触れて言った、『見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた』」。およそ2760年ほど前。預言者イザヤが神と出会い、主なる神に仕えて働く働き人として立てられたときのことです。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」と神に仕える生き物たちが互いに呼び交わしていました。神が聖であられますことを、まず彼は知らされました。だからこそ直ちに彼は自分自身の汚れと罪深さを思い知らされて、恐れにとりつかれます。5節、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」と。その通りです。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者である。ここに彼が預言者であり、一個の伝道者であることの本質と中身が言い表される。くちびるとそこから出る言葉が汚れているのは、心の中にとても汚れた悪いものが積み重なっているからである(ヤコブ手紙3:9-12。しかも私がそうであるだけでなく、私の民、同胞たちも皆が皆、汚れたくちびるの者たちであり、罪と悲惨をそれぞれの腹の中に溜め込んでいる者たちです。では、どうしたら、その彼らに神の言葉を届けることができるでしょうか。神ご自身が燃える炭火を持ち運んできてくださって、私にも仲間たち一人一人にも、そのくちびると心に炭火の炎をジュージューと押し当てて、焼き清めてくださるほかありません。そのようにして伝道者が立てられ、神の民の一人一人もまた神に従って新しく生きる者たちとされていきます。くちびると心に押し当てられる燃える炭火の炎。それこそが聖霊なる神のお働きであり、私たちそれぞれのあの最初の洗礼のときから注がれつづけ、私たちのくちびると心に押し当てられつづけています(ローマ手紙6:1-23,12:20参照)
8節、「わたしはまた主の言われる声を聞いた、『わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか』。その時わたしは言った、『ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください』」。兄弟姉妹たち。心を鎮めてどうぞお聴きください。彼もまた神さまと一対一の対話をしています。『わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか』。『ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください』。神に仕えて働く働き人たちは、一人の例外もなく、皆この通りです。牧師、長老、執事、何かの係、どんな働きの場合にも、それは誰に無理強いされてでもなく自発的な、感謝と願いのささげものでなければならなず、自分自身を神にささげて生きるしるしです。「そのことが自分や家族にとっても、とても幸いである、そこにこそ私のための幸いがある。ああ本当にそうだ」と分かった者たちこそが、その務めに用いられねばなりません。もし、そうでなければ、主なる神さまに対して大変に申し訳ないことです。それは、ただただ自由で自発的な信仰の判断であり、誰かに押し付けられて嫌々渋々することではなく、また神ご自身は「道端の石ころからさえアブラハムの子らを必要なだけいくらでも生み出すことのできる神だ」と弁えていましょう。ささげものが乏しくても、主に仕えて働く働き人がほんのわずかしかいなくても、神はほんの少しも困りません。なぜなら兄弟姉妹たち、生きて働かれる神であり、先頭を切って進んでいかれる神であり、いけにえを喜ばず、ただただ砕けた悔いた心を喜んで受け入れてくださる神だからです。
 さて、9-13節。預言者イザヤに託された神の言葉は、『心を頑なにさせるメッセージ』です。あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。なんということでしょう。くりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。くりかえし見るがよい、しかしわかってはならない。神ご自身が先祖と私たちの心を鈍くさせ、耳を聞こえにくくさせ、目を閉ざす。それは先祖と私たちがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためであると。「主よ、いつまでですか」と預言者は問いかけます。主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。
 すべての預言者たちが同じ一つのメッセージを語りつづけてきました。主イエスご自身こそが、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と。「悔い改めて、神のもとへと立ち戻れ」と主イエスのすべての弟子たちも。すべての預言者たちは、「切り株、切り株、切り株」と一途に切り株からの希望をこそ語りつづけます。世の罪を取り除く神ご自身の切り株を。わたしたちは切り株からの若枝である救い主イエス・キリストを信じました。他のどんな人間や被造物に聴き従ってでもなく、自分の腹の思いやその時その時の気分に従ってでもなく、ただただイエス・キリストにだけ聴き従いはじめました。しかもなお、私たち自身の古い罪の自分が、まるで古い大きな大きな木のように残っている。切り倒されもせず、地面に深く根を伸ばしたままで。そこで私たちは、いったいどんな慰めと救いを聞き分けることができるでしょう。キリストが確かに十字架につけられ、死んで復活なさったからには、このわたしたち自身の内にある古い罪の自分もまたキリストと共に十字架につけられ、滅ぼされ、そのようにして新しいいのちに生きる。それ抜きにして、どんな慰めや救いがありうるでしょう? いいえ。そこには、どんな慰めも救いもあるはずがなかった。このイザヤ書6:9-13こそがこの最後の秘密を打ち明けていました。「主よ、いつまでですか?」「大きな木が切り倒され、切り株からの若枝が芽生えて伸びるまで」と。これが聖書自身からの唯一の答えです。世界と私たち自身の罪を取り除く神の切り株。切り株からの若枝。そこにだけ、救いと平安があります。レバノンの大きな木が根元から切り倒されたように、神ご自身の手にかかって、救い主イエスが切り倒されてくださったからです。
 木の根元に斧が置かれています。その斧によって、この私たち一人一人もまた自分自身の古い罪の木を根元からバッサリと切り倒していただくためにです。そこから、いよいよ新しい若枝が生え伸びてくるために。しかも親である神、その子供としていただいた私たちです。あなたは父さん母さんからどんなふうに育てられましたか。あるいは、自分自身がやがて子供の親になってどのように育てて来ましたか。何をしても、どんなに道を踏み外しても「いいよいいよ、愛しているからね」とただニコニコしているなら、その父さん母さんは子供をあまり愛していません。ときには厳しく叱りつけ、「悪いことだからしてはいけない。帰ってこい」と諌め、必死になって諭すではありませんか。たとえ、あなたの子供が親に背き、放蕩のかぎりを尽くす子であっても、なおその子を愛することを決してやめられない親です。親である神です。可哀想で可哀想で、滅びるままに捨て置くことなど決してできないと。いのちと慰めへと連れ戻すために、道に迷ったわが愛する子を必死に諭しつづける親。親であってくださる神です。
どうか聴いてください、神の民イスラエルよ。主イエスの弟子たちよ。一個のキリスト教会は何をもって揺るぎなく立ち、支えられつづけるでしょう。一人のクリスチャンとその家族は、どのように救われるでしょう。救われ、揺るぎなく立ち、支えられつづけるためには、神からの新しい生命を受け取りつづけるためには、この私たちには、どんな慰めと希望が必要でしょう。「もっと慰めの言葉を聞きたい」と言われつづけます。「もっと人を活かす喜びの言葉を」と。奇妙なことです。キリスト教会と伝道者たちはそうした要望に応えようと慰めと癒しの言葉を何十年も何百年も語りつづけてきました。いいえ神ご自身こそが私たち人間を癒し、人間とすべての生き物を活かそうとしてきたのではなかったでしょうか。聖書をとおし、また主の働き人たちを用いて、慰めと癒しの言葉を神ご自身が語りつづけてきたはずではありませんか。それなのに、今日の私たちの苦しみと行き詰まりはどうしたことでしょう。立ち止まって真に問うべきだったのは、いったい誰からの、どんな慰めなのか。どこから出てきた癒しなのか。神ご自身からの慰めと救いなのか。神ご自身からのいのちと平安なのか。あるいは、別のところから出てきた、別の慰めと救いなのか。わたしたちが思い描き、それぞれに願い求めている「慰め」や「癒し」は、どこへと向かわせる慰めなのか。偽りの預言者たちがかつても今も、神を忘れさせようとして、神から離れ去らせようとして虚しい慰めをささやきつづけているからです。「悔い改めて癒されることがないため」と主なる神が預言者に語りかけたその真意は、『ぜひ、なんとしても悔い改めさせ、この人もこの人もぜひ癒してあげたい』という神ご自身の熱情です。しかも悔い改めは、腹の思いと在り方をグルリと180度向け直し、神へと立ち返ることです。癒しを必要とする私たちですが、それはこの私たちが死に至る重い病いにかかっているからです。その真実な癒しは、良い医者である神ご自身を渇望させ、神へと立ち帰らせるはずだからです。もしここで、「いいよいいよ、自分の望むまま、自分が願うとおりに好きなように暮らしていきなさい」とゆるされてしまうなら、私たち自身もまた虚しいものに成り下がり、信じたことすべて一切が水の泡となります。主から懲らしめを受けることは罰ではなく、むしろ生命を回復させ、主のもとにある慰めを私たちに取り戻させるためです。救いと平安は主のもとにあるからです。主イエスはご自分の弟子たちの口を用いて、それを主の口から出る主ご自身の言葉として語りかけつづけます。ローマ手紙6章です。「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。・・・・・・すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」。

「もし、わたしたちが死んだのなら、~生きることになる。もし、わたしたちがキリストと共に死んだのなら」とクドクドと語りかけます。つまり、「もし、死ななかったのならば、~生きることには決してならない」と。聖書自身が告げるところの『救い』の中身は、罪のゆるしです。罪あるままにいいよいいよと放置することではなく、平安平安と気安めを告げるのでもなく、罪の奴隷状態からの解放でありつづけます。罪から解放された者が神への従順に、具体的に現実的に新しく生きはじめることです。主の言葉は決して虚しくは語られない。語られたからには必ず成し遂げられます。主の言葉を信じることこそ、私たちのための慰めと希望の出発点でありつづけます。しかも、救い主イエスご自身が仰います。繰り返し、何度も何度も。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。「神の国は今やあなたがたの只中にある」。それは、いったいなぜでしょうか。この私たちのためにも、救い主イエスが、そこにおられるからです。