2019年6月12日水曜日

6/9「人から憎まれるとき」ルカ6:22-23


                みことば/2019,6,9(聖霊降臨日の礼拝)  218
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:22-23                     日本キリスト教会 上田教会
『人から憎まれるとき』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。       (ルカ福音書 6:22-23)


 憎まれたり、恨まれたり、喜ばれたり、うとんじられたり大歓迎されたり、それは誰でもいろいろあります。また憎まれ恨まれるもっともな理由がある場合と、もっともな理由もなく不当にひどい扱いを受けることもあります。「なぜ、そんなことをする。どうして分かってくれないのか」と心が折れそうになり、落胆して、周囲の人々からどう思われているだろうかとビクビクして臆病になったり、すっかり嫌気がさしてしまうこともありますね。分かってもらえるときもあり、そうではないときもある。周囲の人間たちは何を考えているのだろうかと恐ろしくなって、「誰にも見つからないところに、独りで静かに隠れていたい。誰も知らない遠くのどこかに逃げ出してしまいたい」などと心細くなるときもあります。多分、だれでもそうです。ぼくもそうです。
 22節、「人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ」。「人の子のために」と書いてあります。聖書で「人の子」というとき、それは救い主イエスが御自分のことをそう呼んでいます。ですから救い主イエスを信じる信仰のために、憎まれたり除け者にされたり、ののしられたり、身に覚えのない悪い噂を流されたり、汚名を着せられることはある。だから、それは自分自身の身に引き受けねばならないと諭されています。ごく普通に誰もが味わうはずの喜びや辛さがあり、安らかさや、まるで針の筵(むしろ)のような居心地の悪さがあります。さらに、それらに加えて、主イエスを信じて聞き従って生きる私たちクリスチャンが味わうはずの辛さもある、と主イエスご自身がその弟子である私たちに語りかけます。主イエスを信じ、御心にかなう生き方をしたいと願って、そのために人々から憎まれたり、仲間外れにされたり、ののしられたり、「こんなひどいことをしている。とんでもないロクデナシだ」などと身に覚えのない悪口を言われ、決めつけられ、レッテルを貼られることもある。「そのとき、あなたがたは幸いだ」と私たちのご主人さまであるイエスがおっしゃる。なぜ幸いなのでしょうか。どこがどう幸いですか? それは本当のことでしょうか。
 23節、「その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである」。預言者たちも、そのような扱いを受けました。救い主イエスご自身もそうでした。主イエスに聞き従って生きてゆく私たちも、まったく同じです。喜びと幸いばかりではなく、辛さと悩みもまた、私たちは同じ慈しみの神さまから受け取りましょう。聖書の別の箇所で主の弟子が語りかけます、「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである」(コリント手紙(2)1:3-7。キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれるように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれる。その慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さる。なぜなら、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さっているのだからと。また、「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」(コロサイ手紙1:24と。もちろん、救い主イエス・キリストの苦しみが足りないわけではありません。そのご生涯、その十字架の死、「もし神の子なら十字架から降りてこい。それを見たら信じてやろう」などとあざけり笑われ、鞭うたれ、なぶりものにされて死んでいかれたこと。もちろん十分な苦しみでした。けれどキリストのその苦しみは、まだまだ十分には私たちに届いていない。血となり肉となるほどには。私たちの細胞一つ一つのの隅々にまで生き生きと息づくほどには。だからこそ、私たちが救い主キリストのために苦しむとき、その苦しみを糸口とし、手引きとして、私たちはキリストの苦しみに固く結びつけられ、キリストご自身に固く結び付けられることになります。その苦しみと悩みは、私たちが救い主イエスを信じて生きるために役に立ちます。主の弟子はまたこうも言います、「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである」、また「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」(コリント手紙(2)4:8-11,ローマ手紙6:5-8。「その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから」と約束されています。終わりの日に、この世界の救いが完成するその日に大きな報いを受けて喜ぶというだけではありません。けっして、そうではありません。初めから、これまでずっと、主からの報いを向け、喜びと慰めと支えを主なる神さまの御手から受け取りつづけてきた私たちではありませんか。
やがて主イエスの弟子たちは二人ずつ組にして町々村々へと送りだされてゆきます(ルカ9:1-6,10:1-20を参照)。この私たち一人一人も全く同じです。それぞれの生活の場へと、家族が待っているそれぞれの家庭や、いつもの職場、町内、学校へと主イエスの弟子として、主イエスの使者として送り出されてゆきます。「何の支度もいらない。手ぶらで出かけて行け」と指図されました。「平安がこの家にあるように」。そして、「神の国はあなたがたに近づいた」と伝えなさいとも指図されています。もし平安の子がその家におれば、あなたがたの願う平安はその家に留まる。もしそうでなかったら、願った平安はあなたがたの上に帰ってくる。つまりは、願った平安がその家に、その人たちに受け入れられてもいいし、たとえそうでなくても、私たちはちっとも困らない。かえって、ますます神からの平安が自分自身の中に、そして天にも格別な宝としてどんどんどんどん蓄えられ、積み重ねられてゆくというのです。「神の国はあなたがたに近づいた」という伝言も、それと同じです。神の国とは、神ご自身のお働きであり、神がその力をふるって、その場所を祝福に満ちた場所にしてくださり、また神のお働きのもとに生きる人々は、御心にかなって生きることを願って毎日毎日を生きてゆく。その伝言は相手に受け入れられてもいいし、跳ねのけられても良い。なぜならその伝言は、信じて願った私たちのもとへと必ずきっと帰ってくるからです。「神の国は近づいた」「すでに神の国は私たちの只中にある」と自分の魂に深々と刻みつけながら生きる私たちです。
例えば、体調を崩して病いの床にある家族や友人を見舞う時、私たちは彼らに何を差し出すことができるでしょう。気落ちしてる、心細く暮らす友だちを訪ねるとき、その人に何を手渡してあげることができるでしょう。ちょっとした花や、お菓子を土産にもっていっても良いでしょう。もしそうしたければ。他愛のない雑談や世間話をしあっても良いでしょう。もし、そうしたければ。少しくらいならば。けれど訪ねていって、一緒に過ごそうとする目的と使命は、これです。「平安がこの家にあるように」。そして、「神の国はあなたがたに近づいた」とその人に、心を込めて伝えること。神ご自身のお働きの只中を生きている私であり、こんな私のためにさえ神さまはちゃんと十分に生きて働いておられます。「ああ本当にそうだ」とその人が知るなら、自分の小さな働き、自分の小さな役割などと寂しい気持ちになったり心細くなることが少しずつ減ってゆくかも知れません。もし、そうであるならば、訪ねていった甲斐があったというものです。しかも 私たちが願い求めた「神からの平安。神との平安」、また「神さまがたしかにこの私たちのためにさえ、ちゃんと十分に生きて働いておられます」ことが、主イエスの使者として生きるこの私たち自身の内に、そして天にも格別な宝として、どんどんどんどん蓄えられ、積み重ねられてゆくからです。

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さて、強がって見せても、誰もがとても心細いそうです。一番やっかいで怖いのは、人間だそうです。そうかも知れません。パソコンや携帯電話、スマートフォンなどのインターネット機器を用いて、人と人とのつながりが広げられ、誰もがそれを利用して、様々なつながりの輪に手軽に加わることができます。それがSMS(社会的ネットワーク)と呼ばれるものです。早い子供は小学生から、また中学生、高校生たちの多くがそれを利用し、その中で、仲間の輪の中の誰かが仲間外れにされたり、きびしい悪口を次々と寄せられたりするいじめが社会問題となっています。よく考えずに遊び半分で書き送った言葉が相手を追い詰め、深く苦しめます。「早くいなくなれば? おまえなんか死ね」「きもい」「うざい」など、そのいじめによって自分で自分の命を絶つ子供たちも多くいます。数日前の新聞報道では、2016年に自殺した中学2年の女子生徒、また、所属していた部活のLINEグループから外されて自殺した2人の男子高校生の事件が紹介されていました。文部科学省の調査によると2017年度に全国の小中高校などで起きたいじめのうち、パソコンや携帯電話などが絡んだものは約1万2600件。3年前より5000件近く増えているそうです。日本だけではないそうです。韓国では無料通信アプリを使ってじわじわと追いつめるいじめが問題(アプリ「カカオトーク」、「カカオトーク監獄」)となっています。米国の調査でも、米国の10代の青少年たちの約6割が「ネット上でいじめや嫌がらせを受けたことがある」と回答しています(「朝日新聞」ネットネイティブ第4部「言葉の刃」2019,6,3朝刊から)子供たちはあまりに恐ろしい世界に暮らしています。大人たちの世界でも、それぞれの職場でも、ほぼ同じようなことが起こります。どうしていいか分かりません。困りました。もし、逃げ道も見いだせず、きびしく追い詰められているその人が自分自身だったら、あるいは愛してやまない大切な息子や娘たちだったら、この私たちはどうするでしょうか(主な相談先;「24時間子供SOSダイヤル」「チャイルドライン」「子供の人権110番」)
神を信じて生きる者たちさえ決して、それらの恐れと無縁ではありませんでした。だからこそ、自分の支えと拠り所に目を凝らし、救いの確信を自分自身の魂に繰り返し何度も何度も言い聞かせつづけます、「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。わたしのあだ、わたしの敵である悪を行う者どもが、襲ってきて、わたしをそしり、わたしを攻めるとき、彼らはつまずき倒れるであろう。たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある」「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます」。しかも救い主イエスご自身が弟子たちに語りかけます、「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(詩27:1-3,24:4,ルカ福音書10:19-20
どうかぜひ、あなたの家に、家族の一人一人に、主なる神さまからの平安がありますように。神の国が私たちに近づいたことを、この私たちは知っていましょう。朝も昼も晩も、よくよく分かりながら一日ずつを暮らすことができます。

     《祈り》
     神さま。私たちははなはだしい苦境の只中に据え置かれています。
     きびしい社会状況とそれぞれの悩みの中で、心を病む人たちが大勢います。それは決して他人事ではなく、誰もが追い詰められ、この私たち自身も孤独と絶望の中でほかの誰かを深く傷つけてしまうかも知れません。どうか神さま、その人たちを憐れんでください。この私たち自身も他人を傷つけた加害者たちをただ憎んだり、軽蔑してののしったり、恐れて排除すようとするだけではなく、決してそうではなく、彼らを憐れみ、思いやって手を指し伸べることもできますように。また、すべての親たちが自分の子供を精一杯に愛することができるようにさせてください。けれど、背負いきれない重荷を負って途方に暮れる前にそれをいったん脇に置いて、助けを求めることができますように。軽々しく決めつけず、互いに慎み思いやりあうことも私たちに覚えさせてください。神さま、私たちを憐れんでください。なぜならこの私たちこそが深く憐れんでいただき、値しないのに手を差し伸べられ、あたたかく迎え入れられた者たちだからです。「神の子
供とされた」とは、そういう中身だからです。
    神を信じて生きる私たちのためには、自分自身の肉の思い、腹の思いの言いなりにされるのではなくて、私たちの体の内に住んでくださっている御子イエスの霊に従って歩む新しい希望のうちに毎日の暮らしを生きさせてください。苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン