2019年6月17日月曜日

6/16「わざわいとは何か」ルカ6:24-26

                       みことば/2019,6,16(主日礼拝)  219
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:24-26                   日本キリスト教会 上田教会
『なぜ、災いなのか?』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 6:24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。       (ルカ福音書 6:24-26)
この部分はとくに言葉足らずで、分かりにくいと思えます。裕福で富んでいること、満ち足りていること、喜びや幸いを味わって笑っていること、人から誉められること。もちろん、それらは必ずしも悪いことではないでしょう。豊かさも、喜び笑って楽しむことも、人から誉められることさえも、それ自体としても良くも悪くもない。それでもなお神からの律法は、神を心から愛して聞き従うことと共に、「あなたの隣人を自分自身のように愛し、尊びなさい」と命じます。もし、私たちのすぐ傍らに毎日の食べ物にも不自由し、おなかを空かせている人たちがいるなら、どうでしょうか。貧しさや心細さに苦しんでいる人たちがいるなら。自分には関係がないことだと知らんぷりをし、自分と家族と親しい仲間たちだけの楽しみや満足ばかりを求めて、この私たちが暮らしているならば、それは私たちにとって大きな災いとなるでしょう。もし、道端に深手を負って半死半生の旅人が倒れていて、それなのにこの私たちが道の反対側を涼しい顔をして通り過ぎてゆくなら(ルカ10:29-35参照)、そうだとすれば、この私たちは災いです。
 例えば聖晩餐のパンと杯について、コリント人への第一の手紙11章で、「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」27-29節)ときびしく戒められたとき、「なんのことだろうか」と私たちは首を傾げました。そのパンと杯に対して、また神さまご自身に対するこの私たちのふさわしさとは何か。主の体と自分自身の中身をよくよく調べてみて、わきまえるとは、どこをどう吟味すれば良いのか。パンと杯を受け取っている最中の礼儀作法や厳粛さ、そのとき行儀よさそうに真面目そうな顔をしていることなどではありませんでした。いいえ。むしろ、目の前にそのパンと杯がないとき、お互いにどのように相手に接しているのか、互いにどう配慮し、いたわりあい、気遣い合って共に過ごしているのかという普段の付き合い方こそが戒められていました。聖書は厳しく語りかけます。聖晩餐の制定語(コリント手紙(1)11:23-29の直前ですが、「あなたがたをほめるわけにはいかない。というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。まず、あなたがたが教会に集まる時、お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、それを信じている。たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。……それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい」(コリント手紙(1)11:17-22,33-34いがみ合ったり争ったり、互いに陰口を言い合ったり、豊かなものたちが自分たちだけで飲み食いし、満ち足りて好き放題に酔っぱらっている者もいる。その傍らでは、貧しい者たちが飢えたままに捨て置かれて、はずかしめられている。貧しい者たちがあなどられるとき、それは直ちに 神の教会があなどられ、神ご自身が軽んじられ、あなどられていることと同じだ。それでは、聖晩餐を守っていることにならないではないか。自分自身に対する裁きを飲み食いしているとは、このことです。傲慢になって、隣人や兄弟をあなどるとき、神さまからの恵みを受け取るどころか、自分自身に対する罪と裁きを飲み食いするばかりだし、憐みを受けたはずの神の民としてあまりにふさわしくないと。
 最初のクリスマスのとき、救い主イエスの母は神をほめたたえて歌いました、「そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」(ルカ福音書1:51-55。神からの救いと恵みの中身は、神が私たちを憐れんでくださったことの中にありました。だからこそ、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、富んでいる者を空腹のまま帰らせるのです。私たちが、受けた憐みを覚えているために、その憐みの中に据え置かれて、そこに堅く留まっているためにです。
 「クリスチャンは誇りをもってはいけないのか?」と、よく質問されます。申し訳ないんですが、その通りです。聖書自身がはっきりとそれを警告しつづけるからです。自尊心や自負心も、プライドも自信も、できれば無いほうがよい。それらが私たちの心を鈍らせ、道に迷わせ、救いの恵みを受け取らせるために大きな差しさわりとなるからです。「自分を信じる」と書いて、「自信」です。自分やほかの誰彼を信じるくらいなら、神さまを信じるほうが良い。自分自身もほかの頼りになる誰彼も、あまり当てにならず、それほど頼りにもなりません。ついつい意固地になって、強情を張ってしまいたくなりますから、それらはほどほどのことと弁えておかねばなりません。自分を尊ぶ心と書いて「自尊心」です。自分を尊ぶくらいなら、神さまと隣人を尊ぶほうがよい。少なくとも自分を愛し尊ぶことに負けず劣らず、それと同じだけ、神と隣人を愛し尊ぶことができるならそれに勝る幸いはありません。ローマ人への手紙321節以下は救いの本質をはっきりと語ります、「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである」。兄弟姉妹たちよ。どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。キリストの救いの御業によってすっかり取り去られたのであり、日毎に取り去られつづけるからです。だからこそ、人々から誉められたりけなされたりして暮らしていくうちに、どんな神を信じているのか、神からのどんな救いと恵みを受け取ったのかがすっかり分からなくなってしまわないために、ついつい思い上がろうとする自分自身の心を警戒し、よくよく慎んでいなければなりません。できますか? 誰にとっても、それはとても難しいことです。それで、聖書は度々繰り返して、「思い上がってはならない。高ぶった思いを抱かないで、むしろ恐れなさい」とくぎを刺し、また、「後の者は先になり、先の者は後にされる」(ローマ手紙11:20,25,12:16,ルカ13:30と戒めつづけます。ついつい、あのパリサイ人のように、「自分を正しい人間だと思い込んで、他人を見下げたくなる」(ルカ18:9参照)私たちです。お互い同士で互いにトッカエひっかえしながら、そんなつまらないことばかりをして暮らしている私たちです。その傲慢さといじけた卑屈さこそが私たちのための大きな災いでありつづけ、私たちを神の国の福音から転がり落してしまいます。しかも、「まあ素晴らしいわね」と誉めたり、「なんだ。つまらないわね」と私たちが誰かをけなすとき、神さまご自身の御心とはずいぶん違ったところで誉めたりけなしたりもします。神さまが願っておられることとまるで正反対なことを、神に逆らいつづけて得意になってしつづけたりもする。なんということでしょう。
 「ある病人の祈り」という詩が遠い外国の病院の壁に描かれています。こういう詩です、「大きな事を成しとげようとして力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。より偉大で立派なことができるようにと健康を求めたのに、より良きことができるようにと病弱を贈り与えられた。幸せになろうとして富と豊かさを求めたのに、賢明であるようにと貧しさを授かった。世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。人生を喜び楽しもうとあらゆるものを求めたのに、あらゆるものを喜べるようにと生命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ」(ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩    

A  CREED  FOR  THOSE  WHO  HAVE  SUFFERED

I asked God for strength, that I might achieve
I was made weak, that I might learn humbly to obey...
 
I asked for health, that I might do greater things
I was given infirmity, that I might do better things...
 
I asked for riches, that I might be happy
I was given poverty, that I might be wise...
 
I asked for power, that I might have the praise of men
I was given weakness, that I might feel the need of God...
 
I asked for all things, that I might enjoy life
I was given life, that I might enjoy all things...
 
I got nothing that I asked for -- but everything I had hoped for
 
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.
I am among all men, most richly blessed!

 最も豊かな祝福は、神さまに信頼し、神に感謝できることです。貧しさとどんな困窮の中にあっても、助けと幸いをただ神さまにだけ求めて生きることです。あの彼にとっても私たちにとっても。だからこそ、私たちの救い主イエス・キリストこそが低く下って貧しくなってくださり、私たちの弱さを引き受けてくださったではありませんか。私たちの弱さ、貧しさ、心細さと恐れを自分自身のこととして知って、味わい、深く憐れんでくださるために。もし、私たち自身の喜びや悲しみのために、あるいは私たちの賢さや愚かさ、豊かさや貧しさにばかり目がくらんで、救い主イエスのことがよく分からなくなってしまうなら、それこそが私たちのための大きな災いです。救い主イエスは、「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、父なる神さまに従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するため」(ピリピ手紙2:6-11です。神が人となられました。しかも、理想的で上等な人間にではなく、生身の、ごく普通の人間にです。あがめられ、もてはやされる、ご立派な偉い人間にではなく、軽蔑され、見捨てられ、身をかがめる低く小さな人間に。それは、とんでもないことです。あるはずのない、あってはならないはずのことが起りました。私たちの主、救い主イエス・キリストは「かえって自分を無にして、しもべの身分になり、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。自分で自分を無になさったのです。無にされたのではなく、自分から進んで「ぜひそうしたい」と、しもべのかたちと中身を選び取ってくださいました。無理矢理に嫌々渋々されたのではなく、「はい。喜んで」と自分で自分の身を屈めました。しかも徹底して身を屈めつくし、十字架の死に至るまで、父なる神さまへの従順を貫き通してくださいました。なぜ神の独り子は、その低さと貧しさを自ら選び取ってくださったのか。何のために、人間であることの弱さと惨めさを味わいつくしてくださったのでしょう。ここにいる私たちは、知らされています。十二分に、よくよく知っています。兄弟たち。それは、「罪人を救うため」(テモテ手紙(1)1:15)でした。極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる罪人をさえ、ぜひとも救い出したいと神は願ったのです。極めつけの罪人。それがこの私であり、あなたです。キリストは低く下って、やがて高く上げられ、あらゆる名に勝る名を与えられました。それは、低い所に捕われている者たちのためです。神に背いてしまう。神のあわれみの下から、ついうっかりして迷い出て、戻りたいと願いながら戻ることができない。その罪深さと悲惨さのために身を屈め、心をすさませ、胸をかきむしっている1人の小さな罪人。その小ささ。その脆さ、危うさ。その心細さと痛みに、神は御目を留められました。その人を、神は愛して止みませんでした。それが、救いの歴史の出発点です。あのお独りの方と、私たちとの出発点です。足を踏みしめて立っているべき、私たちのいつもの場所です。


     《祈り》
     神さま。私たちははなはだしい苦境の只中に据え置かれています。
         きびしい社会状況とそれぞれの悩みの中で、心を病む人たちが大勢います。それは決して他人事ではなく、誰もが追い詰められ、この私たち自身も孤独と絶望の中でほかの誰かを深く傷つけてしまうかも知れません。どうか神さま、その人たちを憐れんでください。この私たち自身も他人を傷つけた加害者たちをただ憎んだり、軽蔑してののしったり、恐れて排除すようとするだけではなく、決してそうではなく、彼らを憐れみ、思いやって手を指し伸べることもできますように。また、すべての親たちが自分の子供を精一杯に愛することができるようにさせてください。けれど、背負いきれない重荷を負って途方に暮れる前にそれをいったん脇に置いて、助けを求めることができますように。軽々しく決めつけず、互いに慎み思いやりあうことも私たちに覚えさせてください。神さま、私たちを憐れんでください。なぜならこの私たちこそが深く憐れんでいただき、値しないのに手を差し伸べられ、あたたかく迎え入れられた者たちだからです。「神の子供とされた」とは、そういう中身だからです。
     神を信じて生きる私たちのためには、自分自身の肉の思い、腹の思いの言いなりにされるのではなくて、私たちの体の内に住んでくださっている御子イエスの霊に従って歩む新しい希望のうちに毎日の暮らしを生きさせてください。苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン