2019年6月17日月曜日

6/16こども説教「サウロの回心」使徒9:1-9


 6/16 こども説教 使徒行伝9:1-9
 『サウロの回心』

9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、2 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。   
(使徒行伝9:1-9
 ちょっと前にステパノを人々が石で撃ち殺したとき、殺す人々の服を預かって番をしていた、あのサウロです。
 やがてパウロと呼ばれるようになるサウロは、キリスト教会とクリスチャンたちを迫害し、いじめたり困らせたり、乱暴をして牢獄に閉じ込めたり、追い払ったりしていました。ダマスコに向かう道の途中で、そのサウロに主イエスご自身が語りかけます。4節、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。サウロは、「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねました。すると答がありました、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。サウロは、「え?」と首を傾げたでしょう。だって、救い主イエスを迫害していたわけじゃなく、救い主イエスに従うクリスチャンたちを迫害していました。主イエスは、それを、「わたしは、あなたが迫害しているイエスだ。あなたが迫害している相手は、ただ一人一人のクリスチャンだというだけでなく、この私自身だ」とおっしゃいます。このことを覚えておかなければなりません。主イエスに従う弟子を困らせたり苦しめるとき、それを自分自身のこととして味わってくださる主イエスです。別のことろで、「私の弟子を受け入れる者は私を受け入れ、その弟子を拒む者は私を拒んでいる」(マタイ10:40参照)ともおっしゃいます。こうしてサウロは、それまでは救い主イエスに逆らう者だったのに、信じる者へと変えられてしまいます。私たちもそうでした。
彼の新しい名前『パウロ』は『小さいもの』という意味です(*補足)。やがて口癖のように、「私は小さいものだ。小さいものだ」と彼は言い始めます。何がどう小さいのか。何と比べて、どう小さいのか。神の大きさに比べて自分はとても小さい。クリスチャンは皆、自分の小ささと神の大きさとを習い覚えてゆきます。だから、自分がすべきことを自分で好き勝手に選んで決めるのではなく、父さん母さんやほかの誰彼かに決めてもらうのでもなく 神さまから教えられ、それに従う。そのように、「はい。分かりました」とすべきことをし、してはいけないことをしないでおく人に、だんだんと、少しずつ少しずつ変えられていきます。


        【補足/自分が小さいものだと知ること】
         パウロだけでなく、すべてのクリスチャンは『自分の小ささ』をよく知っている必要があります。やがて彼は、「自分は小さいものだ。小さいものだ」と言い募り、自分に言い聞かせつづけます(コリント手紙(1)15:9,エペソ手紙3:8,テモテ手紙(1)1:15参照)。それが、福音理解の中心部分にある自己認識だからです。神を信じる前には、誰でも「自分が小さくて弱くて、あまり賢くなくて、貧しくて」ということが大嫌いでした。「自分が大きく強く賢く、とても役に立つ人間である」と周囲の人々に示し、分かってもらう必要があると思い込んでいました。そうでなければ、自分は片隅に追いやられ、誰にも相手にされなくなり、いてもいなくても同じような存在と見なされてしまうと恐れて。
         「ほかの誰彼に比べてではなく、神とその贈り物の大きさ、神の豊かさ、強さ、賢さに比べて、自分は小さい」と分かるまでは、自分の小ささを嫌い、恐れつづけるほかありません。体裁を取り繕って、見栄や虚勢を張って、やせ我慢して。神の大きさに比べて自分は小さいと分かって、ようやく一息つくことができました。そこではじめて、神を本気で信じはじめることもできます。救い主イエスご自身がはっきりとおっしゃったではありませんか。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイ福音書18:3。その「幼な子」は、神の大きさ、強さ、慈しみ深さ、その真実、その働きに信頼を寄せる小さな子供です。そうでなければ、私たちの誰一人として神の国に入ることはできません。大きな大人のつもりで、強く賢く能力の高い、とても役に立つ、立派で優秀な人材のつもりでは、神の国に入り損ねてしまいます。しかも、「よく聞いておきなさい」と念入りに、直々に、主イエスご自身から教えられています。「心をいれかえて、小さな子供のようになる」。心を入れ替える。すると、それまで自分の心の中に入っていたものをすっかり全部、ポイとゴミ箱へ投げ捨てて、「小さな子供」という新しい中身と入れ替えねばなりません。できますか? 難しいと分かったなら、「自分では難しいので、どうぞよろしくお願いします」と神さまに願い求めましょう。小さな子供の心で、ね?