6/9 こども説教 使徒行伝8:36-40
『エチオピア人の宦官.2』
8:36 道を進んで行くうちに、水 のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。37 〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕38 そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。39 ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた。40 その後、ピリポはアゾトに姿をあらわして、町々をめぐり歩き、いたるところで福音を宣べ伝えて、ついにカイザリヤに着いた。(使徒行伝8:36-49)
エチオピア人の宦官が神を信じて生きる者とされました。彼が読んでいた聖書の箇所は、救い主が救いの働きを成し遂げるとあらかじめ告げている箇所(イザヤ書53章)でした。「誰のことを言ってるんですか」と質問しました。そこで主の弟子は、この聖書の箇所から説き起こして、救い主イエスのその救いの出来事を宣べ伝えました。「羊のように命をとられたのは救い主イエスであり、その救いの御業はあなたの救いのためでもあった。それが確かに、あなたのためにも起こった。救い主イエスによって、神があなたを招いておられます」と。すっかり教えてもらい、「ああ本当にそうだ」とよく分かりました。36節。水のある所に来て、「ここに水があります。わたしがバプテスマ(=洗礼)を受けるのに、なんのさしつかえがありますか」と彼は言います。よく分からないので、それで質問して、確かめようとしているわけではありません。そうではありません。ちゃんと分かっていて、だからピリポに話しかけています。だって小さな子供ではないので、自分でちゃんと分かっているし、もう自分でちゃんと判断ができます。「なんの差しさわりもないし、誰にも邪魔できませんよね」と言っています。そのとおりです。しかも、ピリポがいなくなっても大丈夫、なんの心配もありません。ちゃんと手引きしてくれる人が折々に与えられつづけ、なにより神ご自身がその人を生涯ずっと念入りに手引きしつづけてくださるからです(*補足)。これまでと同じ生活が待っているとしても、辛さや心細さが次々とあるとしても、それよりもなお何倍も大きな喜びがあふれつづけます。神さまからの約束です。
【補足/聖書を読むための手引き】
はじめに「読んでいることが分かるか?」と問われて、(31節)「誰かが手引きをしてくれなければ、どうして分るでしょう」と主の弟子ピリポの手引きを求め、彼のためのごく手短な洗礼準備会が始まりました。ピリポが去った後も、その手引きがつづきます。喜びにあふれて旅をつづけるには、聖書を自分の心で読むことと信仰をもっていきるための手引きが不可欠でありつづけるからです。私たちの場合も、まったく同様。生身の教師・伝道者たちの手引きが次々とバトン・リレーのように引き継がれてゆくこと。また、一回一回の礼拝で「そうだったのか」と気づかされた神理解、福音理解、人間理解がほかの聖書箇所を読む場合にも普遍的で大きな尺度となり、手引き・道案内となります。讃美歌の一曲一曲も、聖書からのエッセンスの凝縮でした。
また、「世々の教会がどのように聖書を読んできたのか」という伝統的な手引きがあります。それが教理の学びであり、信仰問答の教育でもあります。「引照つき聖書」がとても役に立ちます。「聖書自身が聖書のためのもっともよい手引書であり、道案内だ」と語り継がれてきた財産の集積でもあります。聖書が互いに響き合い、共鳴し合うからです(少し高額ですが、毎月少しずつお金を貯めるとか、誕生日、洗礼記念日とかに奮発して、あなたも「引照つき聖書」を買い求めることもできます。もし、自分がそれを用いたいと願うなら。本当に役に立ちます。良い家庭教師が傍らに座っているようなものですよ)。
また、私たちの教会の信仰告白は、「聖書の中から語っておられる聖霊は主イエス・キリストをあきらかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」と言い表しています。そのとおり。聖書を読むとき、まず聖霊の導きを求めて祈り、神ご自身からの手引きを期待します。聖霊なる神が聖書を用いて「イエス・キリストをあきらかに示す」手引きです。ピリポが宦官のためにした説き明かしもこの同じ一つの流儀でしたね、35節、「この聖句から説き起こして、イエスのことを宣べ伝えた」と。根源的な、いつもの聖書の読み方は、これです。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない(じゃあ! 命があると思って調べ、いのちを受け取ろうと救い主イエスのところへ行こうと願いつつ読めばよい)」「しかし、これらのこと(ヨハネ福音書も、聖書66巻すべても)を書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」「そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」(ヨハネ福音書5:39-40,同20:31,ルカ福音書24:25-27)。あなたも、ちゃんと十分な手引きを与えられつづけてきたことが分かりますか? そのうえで、「どうぞ手引きを」と生涯かけて求め続けます。どうぞ、良い旅を。