2019年6月24日月曜日

6/23「サウロの目が開かれる」使徒9:10-19


 6/23 こども説教 使徒行伝9:10-19
 『サウロの目が開かれる』

9:10 さて、ダマスコにアナニヤ というひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。……13 アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。14 そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。15 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。16 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、19 また食事をとって元気を取りもどした。                   (使徒行伝9:10-19

  救い主イエスと、イエスを信じて生きる人たちをいじめたり苦しめたりしていたサウロは、けれど今までとは正反対に、その救い主イエスを信じて生きる人になろうとしています。そのために三日間、目が見えなくされました。神さまを信じていきはじめるための準備の期間です。神さまはアナニヤという人を使って、サウロが新しく生きはじめるための手助けをさせます。サウロがどんな悪いことをしてきたのかを知っていたので、アナニヤは嫌がります。主がアナニヤに語りかけます。15-16節、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。そこでアナニヤは手をサウロの上に置いて言いました。17節、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。目からうろこのようなものが落ちてサウロの目が見えるようになりました。ただし、「元どおりに」ではなく、今までとは違って、神さまのお働きや御心がよく分かるように、すっかり新しく世界が見え始めます。なぜなら三日間どころではなく 生まれてからほとんどずっと心が鈍くされて、見るべきものが見えないままで暮らしつづけてきたからです。私たちもそうです。たびたび心が鈍くされ、その度毎にウロコのようなものが神さまによって落とされ、見るべきものが見えるようにされつづけて生きる私たちです。見るべき大切なこと。いつもいつも、ちゃんと分かっているべきこと。神さまがたしかに生きて働いておられますことを。その只中に生きる私たちであることをです。





6/23「敵を愛し、憎む者に親切にせよ」ルカ6:27-36

                      みことば/2019,6,23(主日礼拝)  220
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:27-36                  日本キリスト教会 上田教会
『敵を愛し、
憎む者に親切にせよ』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:27 しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。28 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。29 あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。30 あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。31 人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。32 自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。33 自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。34 また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。      (ルカ福音書 6:27-36)


27-31節、「しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」。また、35節、「しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ」。ずいぶん難しいことを命令されます。しかも、キリスト教のことをあまりよく知らない人たちでさえ、「ああ知ってる、知ってる。確かクリスチャンというものは、片方の頬を打たれたら、もう片方の頬も相手に差し出して、好きなだけ相手に殴ったり叩いたりさせてあげるらしいね。それがクリスチャンだと。救い主イエスから直々に『そうしなさい』と命令されているそうじゃないか。君もクリスチャンだと言うなら、その証拠を今ここで見せてくれ。じゃあ試しに、それをやらせてみてくれ。用意はいいかい。」。いやいや、それは困ります。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。どういうことでしょう? ものすごく難しい箇所です。
もうずいぶん前、どういう神さまなのかを先輩が教えてくれました。「神さまから難しい注文をつけられるとき、とうてい出来ないはずのことを突きつけられるとき、それは私たちのことではなくて、ただもっぱら神ご自身のことである。神さまがこの私たちのためにしてくださったことである」と。「~しなさい」と神さまが私たちに一つ命令なさるとき、その神さまはその10倍も20倍も、私たちのためにご自分でそれをしてくださっている。そういう神さまだ、と教えられました。本当のことです(*注)。そのことに気づかせようと、ヒントが書き添えられています。まず31節、「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ」。また35-36節、「しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」。もちろん、自分自身を愛するように、それに負けず劣らず隣人を愛し尊ぶ私たちになるようにと神さまは願ってくださっています。もし、そういう自分になれれば、それに勝る幸いはないからです。けれど、とても難しい。「自分が自分が」と心を狭く貧しくして生きている私たちだからです。自分と家族と、親しい仲間たちのことを思うばかりで、ほかの人たちのことなどほとんど気にも留めないで暮らしている私たちだからです。私たちにしてほしいと望むことを、神さまはこの私たちのために、そのとおりにしてくださいました。父なる神が慈悲深いように、やがてだんだんと、この私たち自身も慈悲深い者となってゆくことができるためにです。なにより神さまを愛し尊び、隣り人を自分自身のように愛すること。そして自分自身をも精一杯に愛すること。これこそが私たちのための格別な幸いだからです。
私たちが神を愛したのではなく、まず神さまのほうが、私たちを愛してくださいました(ヨハネ手紙(1)4:10)。ローマ人への手紙5:6-11は、はっきりと証言していました。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」。敵を愛し、迫害する者のために祈れという箇所も、このローマ手紙56節以下も、私たちは何度も何度も読んできました。分かったつもりになっていました。しかも自分は正しいし、かなり良心的に生きているし、人に親切にするように心がけても来たと思い込んできました。だからその証拠に、たまに薄情で冷淡で自分勝手な人を見かけると眉をひそめて、「あらあら、困った人ね」と見下し、心の中で軽蔑しました。自分に対してはかなり甘い採点をしているくせに、他人のすることには「こんなこともできないのか。なぜそんなことをするのか。これもダメ、これもこれもダメ」などと、ずいぶん手厳しく、辛口で評価をしている私たちです。正しいつもりだった私が、けれど今日はじめて、心が痛みました。私たちのためにキリストが死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示してくださった。ローマ手紙5:6-11。ここで最も大事なのは、神さまから愛を差し出されたそのタイミングです。それは、どういう私たちに対してだったのか――

 (1)私たちがまだ弱かった頃、
 (2)信じようとしてなかなか信じきれない不信心な私たちに、 
 (3)悪人であり罪人だった私たちに、 
 (4)神に敵対し、神さまに逆らってばかりしていたその私たちに。

忘れていました。ああ、そうだったのか。差し出され、受け取ってきたはずの神さまからの愛をすっかり忘れていたせいで、その結果として、私たちは神さまを愛さず、神さまに少しも信頼せず、聴き従って生きることに失敗しつづけました。さてルカ福音書632-34節、「自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである」。ああ本当だ。そのとおりです。たかだかその程度に過ぎない私たちであるのに、ついつい思い上がってしまう私たちです。自分を愛することをさえ自分自身で損ない、歪ませつづけました。隣り人を愛するふりをして、けれど、自分たちにとって好都合な人々や利益をもたらしそうな人々に挨拶をし、役に立ちそうな人々を迎え入れようとするばかり。ただただソロバン勘定をし、自己愛と自己保身に終始し、教会と自分自身と自分の家族の存続と繁栄ばかりを願いつづけました。本当に申し訳ないことです。
 私たちに語りかける声が耳元にいつもありました。「イエスは主であり、イエスを主とする私であり、生きるにも死ぬにも、私は私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものである」(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ13:13,ローマ手紙10:9)と、あなたは言っていたね。まるで口癖のように言っていたじゃないか。そのあなたが、ここで、こんなふうに考え、そういう態度を取り、兄弟や大切な家族に対してそんな物の言い方をするのか。そのあなたが、「~にこう思われている。~と人から見られてしまう。どう思われるか」などと簡単に揺さぶられ、我を忘れ、神さまのことをすっかり忘れ果ててしまっている。《イエスこそ私の主》と言っているくせに、そのあなたが「なにしろ私の考えは。私の立場は。私の誇りと自尊心は」と言い立てている。どういうつもりか。イエスは主なりと魂に刻んだはずのあなたの信仰は、あれは、どこへ消えて無くなったのか。朝も昼も晩も、そうやって私たちに語りかける声があります。呼びかけつづける声があります。あのお独りの方、救い主イエス・キリストが復活し、天の御父の右に座っておられるとは、このことでした。高い山や丘のようにうぬぼれて他人を見下していた私を押し戻すものがあり、薄暗い谷間のように卑屈に身を屈めていた私を高く持ち上げてくれるものがあります。顔を上げさせ、目を見開かせ、小さく縮こまっていた私の背筋をピンと伸ばさせてくれるものがあります。深々と、晴々として息を吸わせ、吐かせてくれるものがあります。
 思い起こしましょう。どんな神であられるのか。どういう救いへと招き入れられたのか。私たちはしばしば、預言者ヨナのように心を狭く貧しくしてしまいました。神さまが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、よくよく知っていたはずでしたのに。「あなたの怒るのは良いことか」と、主なる神さまはたびたび私たちに問いかけます。あなたの怒るのは良いことか、あなたの怒るのは良いことかと。いいえ、ちっとも良くないことでした。なぜなら神は、ニネベの町の人々と家畜のように私たちを愛し、「滅びるままに捨て置くことはできない」と惜しんでやまなかったからです。神があわれんでヨナの頭の上に一夜にしてとうごまの木を生えさせ、心地よく涼しい木陰を贈り与えてくださいました。私たちはほんのひと時、その心地よい涼しい木陰をとても喜び楽しみました。それが枯れて、暑い日差しに照りつけられ、熱風にさらされ、私たちは腹を立てました。「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。神は私たちにおっしゃいました、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(ヨナ書4:1-11。右左をわきまえない数多くの人と家畜。よく弁えているからではなく、正しいからでもなく、心が清くまっすぐだからでもなく、可哀そうだと、ただただ憐れんでくださったからでした。恩を知らない、神にも人々にも逆らってばかりいる、とても悪い私たちにさえ、神は慈悲深くあられました。
『子供は習い覚える』という詩があります――「けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる。とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる。不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる。「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは惨めな気持ちになる。子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる。親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる。叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう。
励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる。広い心で接すれば、キレる子にはならない。誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ。愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ。認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる。見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる。分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ。親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る。子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ。やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ。守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ。和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる」。
(『子供は習い覚える』ドロシー・ロー・ノルト
Children Learn What They Live          by Dorothy Law Nolte
If children live with criticism,They learn to condemn.
If children live with hostility,They learn to fight.
If children live with ridicule,They learn to be shy.
If children live with shame,They learn to feel guilty.
If children live with encouragement,They learn confidence.
If children live with tolerance,They learn to be patient.
If children live with praise,They learn to appreciate.
If children live with acceptance,They learn to love.
If children live with approval,They learn to like themselves.
If children live with honesty,They learn truthfulness.
If children live with security,They learn to have faith in themselves and others.
If children live with friendliness,They learn the world is a nice place in which to live.
(Copyright © 1972/1975 by Dorothy Law Nolte)

 聖書自身から、こうも語りかけられました、「あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」(ペテロ手紙(1)2:10。受け取った神さまからの憐み、それこそが、私たちがクリスチャンであり、神の民であることの中身です。神に敵対していた私たちだったのに、愛され、ずいぶん親切にされました。ゆるされるはずのなかった多くをゆるされました。多く愛されました。慈悲深い扱いをたくさん受けてきました。手柄は、ただただ神さまにだけあります。そのおかげで、私たちは神の子供たちとされました。だからこそこの私たちも、だんだんと少しずつ愛することを習い覚えていきます。なぜなら子供たち、神さまこそが私たちを励まし、広い心で接してくださり、愛し、認め、分かち合うことを教えてくださり、やさしく、思いやりをもって育て、心強く守ってくださいましたから。そのことを、私たちも、よくよく覚えておりますので。

    (*注)ここに気づけなければ、「ごく普通の小中学校の道徳の教科書に載るような、ただの人間的倫理」に成り下がってしまう。気づいたなら、「とても素敵な神ご自身」を知ることになる。超難解箇所だと言ったのは、そういう意味です。


     神さま。私たちははなはだしい苦境の只中に据え置かれています。
     きびしい社会状況とそれぞれの悩みの中で、心を病む人たちが大勢います。それは決して他人事ではなく、誰もが追い詰められ、この私たち自身も孤独と絶望の中でほかの誰かを深く傷つけてしまうかも知れません。どうか神さま、その人たちを憐れんでください。この私たち自身も他人を傷つけた加害者たちをただ憎んだり、軽蔑してののしったり、恐れて排除すようとするだけではなく、決してそうではなく、彼らを憐れみ、思いやって手を指し伸べることもできますように。また、すべての親たちが自分の子供を精一杯に愛することができるようにさせてください。けれど、背負いきれない重荷を負って途方に暮れる前にそれをいったん脇に置いて、助けを求めることができますように。軽々しく決めつけず、互いに慎み思いやりあうことも私たちに覚えさせてください。神さま、私たちを憐れんでください。なぜならこの私たちこそが深く憐れんでいただき、値しないのに手を差し伸べられ、あたたかく迎え入れられた者たちだからです。「神の子供とされた」とは、そういう中身だからです。
     神を信じて生きる私たちのためには、自分自身の肉の思い、腹の思いの言いなりにされるのではなくて、私たちの体の内に住んでくださっている御子イエスの霊に従って歩む新しい希望のうちに毎日の暮らしを生きさせてください。苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


2019年6月17日月曜日

6/16こども説教「サウロの回心」使徒9:1-9


 6/16 こども説教 使徒行伝9:1-9
 『サウロの回心』

9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、2 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。   
(使徒行伝9:1-9
 ちょっと前にステパノを人々が石で撃ち殺したとき、殺す人々の服を預かって番をしていた、あのサウロです。
 やがてパウロと呼ばれるようになるサウロは、キリスト教会とクリスチャンたちを迫害し、いじめたり困らせたり、乱暴をして牢獄に閉じ込めたり、追い払ったりしていました。ダマスコに向かう道の途中で、そのサウロに主イエスご自身が語りかけます。4節、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。サウロは、「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねました。すると答がありました、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。サウロは、「え?」と首を傾げたでしょう。だって、救い主イエスを迫害していたわけじゃなく、救い主イエスに従うクリスチャンたちを迫害していました。主イエスは、それを、「わたしは、あなたが迫害しているイエスだ。あなたが迫害している相手は、ただ一人一人のクリスチャンだというだけでなく、この私自身だ」とおっしゃいます。このことを覚えておかなければなりません。主イエスに従う弟子を困らせたり苦しめるとき、それを自分自身のこととして味わってくださる主イエスです。別のことろで、「私の弟子を受け入れる者は私を受け入れ、その弟子を拒む者は私を拒んでいる」(マタイ10:40参照)ともおっしゃいます。こうしてサウロは、それまでは救い主イエスに逆らう者だったのに、信じる者へと変えられてしまいます。私たちもそうでした。
彼の新しい名前『パウロ』は『小さいもの』という意味です(*補足)。やがて口癖のように、「私は小さいものだ。小さいものだ」と彼は言い始めます。何がどう小さいのか。何と比べて、どう小さいのか。神の大きさに比べて自分はとても小さい。クリスチャンは皆、自分の小ささと神の大きさとを習い覚えてゆきます。だから、自分がすべきことを自分で好き勝手に選んで決めるのではなく、父さん母さんやほかの誰彼かに決めてもらうのでもなく 神さまから教えられ、それに従う。そのように、「はい。分かりました」とすべきことをし、してはいけないことをしないでおく人に、だんだんと、少しずつ少しずつ変えられていきます。


        【補足/自分が小さいものだと知ること】
         パウロだけでなく、すべてのクリスチャンは『自分の小ささ』をよく知っている必要があります。やがて彼は、「自分は小さいものだ。小さいものだ」と言い募り、自分に言い聞かせつづけます(コリント手紙(1)15:9,エペソ手紙3:8,テモテ手紙(1)1:15参照)。それが、福音理解の中心部分にある自己認識だからです。神を信じる前には、誰でも「自分が小さくて弱くて、あまり賢くなくて、貧しくて」ということが大嫌いでした。「自分が大きく強く賢く、とても役に立つ人間である」と周囲の人々に示し、分かってもらう必要があると思い込んでいました。そうでなければ、自分は片隅に追いやられ、誰にも相手にされなくなり、いてもいなくても同じような存在と見なされてしまうと恐れて。
         「ほかの誰彼に比べてではなく、神とその贈り物の大きさ、神の豊かさ、強さ、賢さに比べて、自分は小さい」と分かるまでは、自分の小ささを嫌い、恐れつづけるほかありません。体裁を取り繕って、見栄や虚勢を張って、やせ我慢して。神の大きさに比べて自分は小さいと分かって、ようやく一息つくことができました。そこではじめて、神を本気で信じはじめることもできます。救い主イエスご自身がはっきりとおっしゃったではありませんか。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイ福音書18:3。その「幼な子」は、神の大きさ、強さ、慈しみ深さ、その真実、その働きに信頼を寄せる小さな子供です。そうでなければ、私たちの誰一人として神の国に入ることはできません。大きな大人のつもりで、強く賢く能力の高い、とても役に立つ、立派で優秀な人材のつもりでは、神の国に入り損ねてしまいます。しかも、「よく聞いておきなさい」と念入りに、直々に、主イエスご自身から教えられています。「心をいれかえて、小さな子供のようになる」。心を入れ替える。すると、それまで自分の心の中に入っていたものをすっかり全部、ポイとゴミ箱へ投げ捨てて、「小さな子供」という新しい中身と入れ替えねばなりません。できますか? 難しいと分かったなら、「自分では難しいので、どうぞよろしくお願いします」と神さまに願い求めましょう。小さな子供の心で、ね?


6/16「わざわいとは何か」ルカ6:24-26

                       みことば/2019,6,16(主日礼拝)  219
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:24-26                   日本キリスト教会 上田教会
『なぜ、災いなのか?』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 6:24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。       (ルカ福音書 6:24-26)
この部分はとくに言葉足らずで、分かりにくいと思えます。裕福で富んでいること、満ち足りていること、喜びや幸いを味わって笑っていること、人から誉められること。もちろん、それらは必ずしも悪いことではないでしょう。豊かさも、喜び笑って楽しむことも、人から誉められることさえも、それ自体としても良くも悪くもない。それでもなお神からの律法は、神を心から愛して聞き従うことと共に、「あなたの隣人を自分自身のように愛し、尊びなさい」と命じます。もし、私たちのすぐ傍らに毎日の食べ物にも不自由し、おなかを空かせている人たちがいるなら、どうでしょうか。貧しさや心細さに苦しんでいる人たちがいるなら。自分には関係がないことだと知らんぷりをし、自分と家族と親しい仲間たちだけの楽しみや満足ばかりを求めて、この私たちが暮らしているならば、それは私たちにとって大きな災いとなるでしょう。もし、道端に深手を負って半死半生の旅人が倒れていて、それなのにこの私たちが道の反対側を涼しい顔をして通り過ぎてゆくなら(ルカ10:29-35参照)、そうだとすれば、この私たちは災いです。
 例えば聖晩餐のパンと杯について、コリント人への第一の手紙11章で、「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」27-29節)ときびしく戒められたとき、「なんのことだろうか」と私たちは首を傾げました。そのパンと杯に対して、また神さまご自身に対するこの私たちのふさわしさとは何か。主の体と自分自身の中身をよくよく調べてみて、わきまえるとは、どこをどう吟味すれば良いのか。パンと杯を受け取っている最中の礼儀作法や厳粛さ、そのとき行儀よさそうに真面目そうな顔をしていることなどではありませんでした。いいえ。むしろ、目の前にそのパンと杯がないとき、お互いにどのように相手に接しているのか、互いにどう配慮し、いたわりあい、気遣い合って共に過ごしているのかという普段の付き合い方こそが戒められていました。聖書は厳しく語りかけます。聖晩餐の制定語(コリント手紙(1)11:23-29の直前ですが、「あなたがたをほめるわけにはいかない。というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。まず、あなたがたが教会に集まる時、お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、それを信じている。たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。……それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい」(コリント手紙(1)11:17-22,33-34いがみ合ったり争ったり、互いに陰口を言い合ったり、豊かなものたちが自分たちだけで飲み食いし、満ち足りて好き放題に酔っぱらっている者もいる。その傍らでは、貧しい者たちが飢えたままに捨て置かれて、はずかしめられている。貧しい者たちがあなどられるとき、それは直ちに 神の教会があなどられ、神ご自身が軽んじられ、あなどられていることと同じだ。それでは、聖晩餐を守っていることにならないではないか。自分自身に対する裁きを飲み食いしているとは、このことです。傲慢になって、隣人や兄弟をあなどるとき、神さまからの恵みを受け取るどころか、自分自身に対する罪と裁きを飲み食いするばかりだし、憐みを受けたはずの神の民としてあまりにふさわしくないと。
 最初のクリスマスのとき、救い主イエスの母は神をほめたたえて歌いました、「そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」(ルカ福音書1:51-55。神からの救いと恵みの中身は、神が私たちを憐れんでくださったことの中にありました。だからこそ、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、富んでいる者を空腹のまま帰らせるのです。私たちが、受けた憐みを覚えているために、その憐みの中に据え置かれて、そこに堅く留まっているためにです。
 「クリスチャンは誇りをもってはいけないのか?」と、よく質問されます。申し訳ないんですが、その通りです。聖書自身がはっきりとそれを警告しつづけるからです。自尊心や自負心も、プライドも自信も、できれば無いほうがよい。それらが私たちの心を鈍らせ、道に迷わせ、救いの恵みを受け取らせるために大きな差しさわりとなるからです。「自分を信じる」と書いて、「自信」です。自分やほかの誰彼を信じるくらいなら、神さまを信じるほうが良い。自分自身もほかの頼りになる誰彼も、あまり当てにならず、それほど頼りにもなりません。ついつい意固地になって、強情を張ってしまいたくなりますから、それらはほどほどのことと弁えておかねばなりません。自分を尊ぶ心と書いて「自尊心」です。自分を尊ぶくらいなら、神さまと隣人を尊ぶほうがよい。少なくとも自分を愛し尊ぶことに負けず劣らず、それと同じだけ、神と隣人を愛し尊ぶことができるならそれに勝る幸いはありません。ローマ人への手紙321節以下は救いの本質をはっきりと語ります、「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである」。兄弟姉妹たちよ。どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。キリストの救いの御業によってすっかり取り去られたのであり、日毎に取り去られつづけるからです。だからこそ、人々から誉められたりけなされたりして暮らしていくうちに、どんな神を信じているのか、神からのどんな救いと恵みを受け取ったのかがすっかり分からなくなってしまわないために、ついつい思い上がろうとする自分自身の心を警戒し、よくよく慎んでいなければなりません。できますか? 誰にとっても、それはとても難しいことです。それで、聖書は度々繰り返して、「思い上がってはならない。高ぶった思いを抱かないで、むしろ恐れなさい」とくぎを刺し、また、「後の者は先になり、先の者は後にされる」(ローマ手紙11:20,25,12:16,ルカ13:30と戒めつづけます。ついつい、あのパリサイ人のように、「自分を正しい人間だと思い込んで、他人を見下げたくなる」(ルカ18:9参照)私たちです。お互い同士で互いにトッカエひっかえしながら、そんなつまらないことばかりをして暮らしている私たちです。その傲慢さといじけた卑屈さこそが私たちのための大きな災いでありつづけ、私たちを神の国の福音から転がり落してしまいます。しかも、「まあ素晴らしいわね」と誉めたり、「なんだ。つまらないわね」と私たちが誰かをけなすとき、神さまご自身の御心とはずいぶん違ったところで誉めたりけなしたりもします。神さまが願っておられることとまるで正反対なことを、神に逆らいつづけて得意になってしつづけたりもする。なんということでしょう。
 「ある病人の祈り」という詩が遠い外国の病院の壁に描かれています。こういう詩です、「大きな事を成しとげようとして力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。より偉大で立派なことができるようにと健康を求めたのに、より良きことができるようにと病弱を贈り与えられた。幸せになろうとして富と豊かさを求めたのに、賢明であるようにと貧しさを授かった。世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。人生を喜び楽しもうとあらゆるものを求めたのに、あらゆるものを喜べるようにと生命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ」(ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩    

A  CREED  FOR  THOSE  WHO  HAVE  SUFFERED

I asked God for strength, that I might achieve
I was made weak, that I might learn humbly to obey...
 
I asked for health, that I might do greater things
I was given infirmity, that I might do better things...
 
I asked for riches, that I might be happy
I was given poverty, that I might be wise...
 
I asked for power, that I might have the praise of men
I was given weakness, that I might feel the need of God...
 
I asked for all things, that I might enjoy life
I was given life, that I might enjoy all things...
 
I got nothing that I asked for -- but everything I had hoped for
 
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.
I am among all men, most richly blessed!

 最も豊かな祝福は、神さまに信頼し、神に感謝できることです。貧しさとどんな困窮の中にあっても、助けと幸いをただ神さまにだけ求めて生きることです。あの彼にとっても私たちにとっても。だからこそ、私たちの救い主イエス・キリストこそが低く下って貧しくなってくださり、私たちの弱さを引き受けてくださったではありませんか。私たちの弱さ、貧しさ、心細さと恐れを自分自身のこととして知って、味わい、深く憐れんでくださるために。もし、私たち自身の喜びや悲しみのために、あるいは私たちの賢さや愚かさ、豊かさや貧しさにばかり目がくらんで、救い主イエスのことがよく分からなくなってしまうなら、それこそが私たちのための大きな災いです。救い主イエスは、「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、父なる神さまに従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するため」(ピリピ手紙2:6-11です。神が人となられました。しかも、理想的で上等な人間にではなく、生身の、ごく普通の人間にです。あがめられ、もてはやされる、ご立派な偉い人間にではなく、軽蔑され、見捨てられ、身をかがめる低く小さな人間に。それは、とんでもないことです。あるはずのない、あってはならないはずのことが起りました。私たちの主、救い主イエス・キリストは「かえって自分を無にして、しもべの身分になり、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。自分で自分を無になさったのです。無にされたのではなく、自分から進んで「ぜひそうしたい」と、しもべのかたちと中身を選び取ってくださいました。無理矢理に嫌々渋々されたのではなく、「はい。喜んで」と自分で自分の身を屈めました。しかも徹底して身を屈めつくし、十字架の死に至るまで、父なる神さまへの従順を貫き通してくださいました。なぜ神の独り子は、その低さと貧しさを自ら選び取ってくださったのか。何のために、人間であることの弱さと惨めさを味わいつくしてくださったのでしょう。ここにいる私たちは、知らされています。十二分に、よくよく知っています。兄弟たち。それは、「罪人を救うため」(テモテ手紙(1)1:15)でした。極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる罪人をさえ、ぜひとも救い出したいと神は願ったのです。極めつけの罪人。それがこの私であり、あなたです。キリストは低く下って、やがて高く上げられ、あらゆる名に勝る名を与えられました。それは、低い所に捕われている者たちのためです。神に背いてしまう。神のあわれみの下から、ついうっかりして迷い出て、戻りたいと願いながら戻ることができない。その罪深さと悲惨さのために身を屈め、心をすさませ、胸をかきむしっている1人の小さな罪人。その小ささ。その脆さ、危うさ。その心細さと痛みに、神は御目を留められました。その人を、神は愛して止みませんでした。それが、救いの歴史の出発点です。あのお独りの方と、私たちとの出発点です。足を踏みしめて立っているべき、私たちのいつもの場所です。


     《祈り》
     神さま。私たちははなはだしい苦境の只中に据え置かれています。
         きびしい社会状況とそれぞれの悩みの中で、心を病む人たちが大勢います。それは決して他人事ではなく、誰もが追い詰められ、この私たち自身も孤独と絶望の中でほかの誰かを深く傷つけてしまうかも知れません。どうか神さま、その人たちを憐れんでください。この私たち自身も他人を傷つけた加害者たちをただ憎んだり、軽蔑してののしったり、恐れて排除すようとするだけではなく、決してそうではなく、彼らを憐れみ、思いやって手を指し伸べることもできますように。また、すべての親たちが自分の子供を精一杯に愛することができるようにさせてください。けれど、背負いきれない重荷を負って途方に暮れる前にそれをいったん脇に置いて、助けを求めることができますように。軽々しく決めつけず、互いに慎み思いやりあうことも私たちに覚えさせてください。神さま、私たちを憐れんでください。なぜならこの私たちこそが深く憐れんでいただき、値しないのに手を差し伸べられ、あたたかく迎え入れられた者たちだからです。「神の子供とされた」とは、そういう中身だからです。
     神を信じて生きる私たちのためには、自分自身の肉の思い、腹の思いの言いなりにされるのではなくて、私たちの体の内に住んでくださっている御子イエスの霊に従って歩む新しい希望のうちに毎日の暮らしを生きさせてください。苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



2019年6月12日水曜日

6/9こども説教「エチオピア人の宦官.2」


 6/9 こども説教 使徒行伝8:36-40
 『エチオピア人の宦官.2』

8:36 道を進んで行くうちに、水 のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。37 〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕38 そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。39 ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた。40 その後、ピリポはアゾトに姿をあらわして、町々をめぐり歩き、いたるところで福音を宣べ伝えて、ついにカイザリヤに着いた。(使徒行伝8:36-49

 エチオピア人の宦官が神を信じて生きる者とされました。彼が読んでいた聖書の箇所は、救い主が救いの働きを成し遂げるとあらかじめ告げている箇所(イザヤ書53章)でした。「誰のことを言ってるんですか」と質問しました。そこで主の弟子は、この聖書の箇所から説き起こして、救い主イエスのその救いの出来事を宣べ伝えました。「羊のように命をとられたのは救い主イエスであり、その救いの御業はあなたの救いのためでもあった。それが確かに、あなたのためにも起こった。救い主イエスによって、神があなたを招いておられます」と。すっかり教えてもらい、「ああ本当にそうだ」とよく分かりました。36節。水のある所に来て、「ここに水があります。わたしがバプテスマ(=洗礼)を受けるのに、なんのさしつかえがありますか」と彼は言います。よく分からないので、それで質問して、確かめようとしているわけではありません。そうではありません。ちゃんと分かっていて、だからピリポに話しかけています。だって小さな子供ではないので、自分でちゃんと分かっているし、もう自分でちゃんと判断ができます。「なんの差しさわりもないし、誰にも邪魔できませんよね」と言っています。そのとおりです。しかも、ピリポがいなくなっても大丈夫、なんの心配もありません。ちゃんと手引きしてくれる人が折々に与えられつづけ、なにより神ご自身がその人を生涯ずっと念入りに手引きしつづけてくださるからです(*補足)。これまでと同じ生活が待っているとしても、辛さや心細さが次々とあるとしても、それよりもなお何倍も大きな喜びがあふれつづけます。神さまからの約束です。

 
      【補足/聖書を読むための手引き】
       はじめに「読んでいることが分かるか?」と問われて、31節)「誰かが手引きをしてくれなければ、どうして分るでしょう」と主の弟子ピリポの手引きを求め、彼のためのごく手短な洗礼準備会が始まりました。ピリポが去った後も、その手引きがつづきます。喜びにあふれて旅をつづけるには、聖書を自分の心で読むことと信仰をもっていきるための手引きが不可欠でありつづけるからです。私たちの場合も、まったく同様。生身の教師・伝道者たちの手引きが次々とバトン・リレーのように引き継がれてゆくこと。また、一回一回の礼拝で「そうだったのか」と気づかされた神理解、福音理解、人間理解がほかの聖書箇所を読む場合にも普遍的で大きな尺度となり、手引き・道案内となります。讃美歌の一曲一曲も、聖書からのエッセンスの凝縮でした。
また、「世々の教会がどのように聖書を読んできたのか」という伝統的な手引きがあります。それが教理の学びであり、信仰問答の教育でもあります。「引照つき聖書」がとても役に立ちます。「聖書自身が聖書のためのもっともよい手引書であり、道案内だ」と語り継がれてきた財産の集積でもあります。聖書が互いに響き合い、共鳴し合うからです(少し高額ですが、毎月少しずつお金を貯めるとか、誕生日、洗礼記念日とかに奮発して、あなたも「引照つき聖書」を買い求めることもできます。もし、自分がそれを用いたいと願うなら。本当に役に立ちます。良い家庭教師が傍らに座っているようなものですよ)
また、私たちの教会の信仰告白は、「聖書の中から語っておられる聖霊は主イエス・キリストをあきらかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」と言い表しています。そのとおり。聖書を読むとき、まず聖霊の導きを求めて祈り、神ご自身からの手引きを期待します。聖霊なる神が聖書を用いて「イエス・キリストをあきらかに示す」手引きです。ピリポが宦官のためにした説き明かしもこの同じ一つの流儀でしたね、35節、「この聖句から説き起こして、イエスのことを宣べ伝えた」と。根源的な、いつもの聖書の読み方は、これです。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない(じゃあ 命があると思って調べ、いのちを受け取ろうと救い主イエスのところへ行こうと願いつつ読めばよい)」「しかし、これらのこと(ヨハネ福音書も、聖書66巻すべても)を書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」「そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」(ヨハネ福音書5:39-40,20:31,ルカ福音書24:25-27。あなたも、ちゃんと十分な手引きを与えられつづけてきたことが分かりますか? そのうえで、「どうぞ手引きを」と生涯かけて求め続けます。どうぞ、良い旅を。

6/9「人から憎まれるとき」ルカ6:22-23


                みことば/2019,6,9(聖霊降臨日の礼拝)  218
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:22-23                     日本キリスト教会 上田教会
『人から憎まれるとき』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。       (ルカ福音書 6:22-23)


 憎まれたり、恨まれたり、喜ばれたり、うとんじられたり大歓迎されたり、それは誰でもいろいろあります。また憎まれ恨まれるもっともな理由がある場合と、もっともな理由もなく不当にひどい扱いを受けることもあります。「なぜ、そんなことをする。どうして分かってくれないのか」と心が折れそうになり、落胆して、周囲の人々からどう思われているだろうかとビクビクして臆病になったり、すっかり嫌気がさしてしまうこともありますね。分かってもらえるときもあり、そうではないときもある。周囲の人間たちは何を考えているのだろうかと恐ろしくなって、「誰にも見つからないところに、独りで静かに隠れていたい。誰も知らない遠くのどこかに逃げ出してしまいたい」などと心細くなるときもあります。多分、だれでもそうです。ぼくもそうです。
 22節、「人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ」。「人の子のために」と書いてあります。聖書で「人の子」というとき、それは救い主イエスが御自分のことをそう呼んでいます。ですから救い主イエスを信じる信仰のために、憎まれたり除け者にされたり、ののしられたり、身に覚えのない悪い噂を流されたり、汚名を着せられることはある。だから、それは自分自身の身に引き受けねばならないと諭されています。ごく普通に誰もが味わうはずの喜びや辛さがあり、安らかさや、まるで針の筵(むしろ)のような居心地の悪さがあります。さらに、それらに加えて、主イエスを信じて聞き従って生きる私たちクリスチャンが味わうはずの辛さもある、と主イエスご自身がその弟子である私たちに語りかけます。主イエスを信じ、御心にかなう生き方をしたいと願って、そのために人々から憎まれたり、仲間外れにされたり、ののしられたり、「こんなひどいことをしている。とんでもないロクデナシだ」などと身に覚えのない悪口を言われ、決めつけられ、レッテルを貼られることもある。「そのとき、あなたがたは幸いだ」と私たちのご主人さまであるイエスがおっしゃる。なぜ幸いなのでしょうか。どこがどう幸いですか? それは本当のことでしょうか。
 23節、「その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである」。預言者たちも、そのような扱いを受けました。救い主イエスご自身もそうでした。主イエスに聞き従って生きてゆく私たちも、まったく同じです。喜びと幸いばかりではなく、辛さと悩みもまた、私たちは同じ慈しみの神さまから受け取りましょう。聖書の別の箇所で主の弟子が語りかけます、「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである」(コリント手紙(2)1:3-7。キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれるように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれる。その慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さる。なぜなら、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さっているのだからと。また、「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」(コロサイ手紙1:24と。もちろん、救い主イエス・キリストの苦しみが足りないわけではありません。そのご生涯、その十字架の死、「もし神の子なら十字架から降りてこい。それを見たら信じてやろう」などとあざけり笑われ、鞭うたれ、なぶりものにされて死んでいかれたこと。もちろん十分な苦しみでした。けれどキリストのその苦しみは、まだまだ十分には私たちに届いていない。血となり肉となるほどには。私たちの細胞一つ一つのの隅々にまで生き生きと息づくほどには。だからこそ、私たちが救い主キリストのために苦しむとき、その苦しみを糸口とし、手引きとして、私たちはキリストの苦しみに固く結びつけられ、キリストご自身に固く結び付けられることになります。その苦しみと悩みは、私たちが救い主イエスを信じて生きるために役に立ちます。主の弟子はまたこうも言います、「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである」、また「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」(コリント手紙(2)4:8-11,ローマ手紙6:5-8。「その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから」と約束されています。終わりの日に、この世界の救いが完成するその日に大きな報いを受けて喜ぶというだけではありません。けっして、そうではありません。初めから、これまでずっと、主からの報いを向け、喜びと慰めと支えを主なる神さまの御手から受け取りつづけてきた私たちではありませんか。
やがて主イエスの弟子たちは二人ずつ組にして町々村々へと送りだされてゆきます(ルカ9:1-6,10:1-20を参照)。この私たち一人一人も全く同じです。それぞれの生活の場へと、家族が待っているそれぞれの家庭や、いつもの職場、町内、学校へと主イエスの弟子として、主イエスの使者として送り出されてゆきます。「何の支度もいらない。手ぶらで出かけて行け」と指図されました。「平安がこの家にあるように」。そして、「神の国はあなたがたに近づいた」と伝えなさいとも指図されています。もし平安の子がその家におれば、あなたがたの願う平安はその家に留まる。もしそうでなかったら、願った平安はあなたがたの上に帰ってくる。つまりは、願った平安がその家に、その人たちに受け入れられてもいいし、たとえそうでなくても、私たちはちっとも困らない。かえって、ますます神からの平安が自分自身の中に、そして天にも格別な宝としてどんどんどんどん蓄えられ、積み重ねられてゆくというのです。「神の国はあなたがたに近づいた」という伝言も、それと同じです。神の国とは、神ご自身のお働きであり、神がその力をふるって、その場所を祝福に満ちた場所にしてくださり、また神のお働きのもとに生きる人々は、御心にかなって生きることを願って毎日毎日を生きてゆく。その伝言は相手に受け入れられてもいいし、跳ねのけられても良い。なぜならその伝言は、信じて願った私たちのもとへと必ずきっと帰ってくるからです。「神の国は近づいた」「すでに神の国は私たちの只中にある」と自分の魂に深々と刻みつけながら生きる私たちです。
例えば、体調を崩して病いの床にある家族や友人を見舞う時、私たちは彼らに何を差し出すことができるでしょう。気落ちしてる、心細く暮らす友だちを訪ねるとき、その人に何を手渡してあげることができるでしょう。ちょっとした花や、お菓子を土産にもっていっても良いでしょう。もしそうしたければ。他愛のない雑談や世間話をしあっても良いでしょう。もし、そうしたければ。少しくらいならば。けれど訪ねていって、一緒に過ごそうとする目的と使命は、これです。「平安がこの家にあるように」。そして、「神の国はあなたがたに近づいた」とその人に、心を込めて伝えること。神ご自身のお働きの只中を生きている私であり、こんな私のためにさえ神さまはちゃんと十分に生きて働いておられます。「ああ本当にそうだ」とその人が知るなら、自分の小さな働き、自分の小さな役割などと寂しい気持ちになったり心細くなることが少しずつ減ってゆくかも知れません。もし、そうであるならば、訪ねていった甲斐があったというものです。しかも 私たちが願い求めた「神からの平安。神との平安」、また「神さまがたしかにこの私たちのためにさえ、ちゃんと十分に生きて働いておられます」ことが、主イエスの使者として生きるこの私たち自身の内に、そして天にも格別な宝として、どんどんどんどん蓄えられ、積み重ねられてゆくからです。

               ◇

さて、強がって見せても、誰もがとても心細いそうです。一番やっかいで怖いのは、人間だそうです。そうかも知れません。パソコンや携帯電話、スマートフォンなどのインターネット機器を用いて、人と人とのつながりが広げられ、誰もがそれを利用して、様々なつながりの輪に手軽に加わることができます。それがSMS(社会的ネットワーク)と呼ばれるものです。早い子供は小学生から、また中学生、高校生たちの多くがそれを利用し、その中で、仲間の輪の中の誰かが仲間外れにされたり、きびしい悪口を次々と寄せられたりするいじめが社会問題となっています。よく考えずに遊び半分で書き送った言葉が相手を追い詰め、深く苦しめます。「早くいなくなれば? おまえなんか死ね」「きもい」「うざい」など、そのいじめによって自分で自分の命を絶つ子供たちも多くいます。数日前の新聞報道では、2016年に自殺した中学2年の女子生徒、また、所属していた部活のLINEグループから外されて自殺した2人の男子高校生の事件が紹介されていました。文部科学省の調査によると2017年度に全国の小中高校などで起きたいじめのうち、パソコンや携帯電話などが絡んだものは約1万2600件。3年前より5000件近く増えているそうです。日本だけではないそうです。韓国では無料通信アプリを使ってじわじわと追いつめるいじめが問題(アプリ「カカオトーク」、「カカオトーク監獄」)となっています。米国の調査でも、米国の10代の青少年たちの約6割が「ネット上でいじめや嫌がらせを受けたことがある」と回答しています(「朝日新聞」ネットネイティブ第4部「言葉の刃」2019,6,3朝刊から)子供たちはあまりに恐ろしい世界に暮らしています。大人たちの世界でも、それぞれの職場でも、ほぼ同じようなことが起こります。どうしていいか分かりません。困りました。もし、逃げ道も見いだせず、きびしく追い詰められているその人が自分自身だったら、あるいは愛してやまない大切な息子や娘たちだったら、この私たちはどうするでしょうか(主な相談先;「24時間子供SOSダイヤル」「チャイルドライン」「子供の人権110番」)
神を信じて生きる者たちさえ決して、それらの恐れと無縁ではありませんでした。だからこそ、自分の支えと拠り所に目を凝らし、救いの確信を自分自身の魂に繰り返し何度も何度も言い聞かせつづけます、「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。わたしのあだ、わたしの敵である悪を行う者どもが、襲ってきて、わたしをそしり、わたしを攻めるとき、彼らはつまずき倒れるであろう。たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある」「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます」。しかも救い主イエスご自身が弟子たちに語りかけます、「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(詩27:1-3,24:4,ルカ福音書10:19-20
どうかぜひ、あなたの家に、家族の一人一人に、主なる神さまからの平安がありますように。神の国が私たちに近づいたことを、この私たちは知っていましょう。朝も昼も晩も、よくよく分かりながら一日ずつを暮らすことができます。

     《祈り》
     神さま。私たちははなはだしい苦境の只中に据え置かれています。
     きびしい社会状況とそれぞれの悩みの中で、心を病む人たちが大勢います。それは決して他人事ではなく、誰もが追い詰められ、この私たち自身も孤独と絶望の中でほかの誰かを深く傷つけてしまうかも知れません。どうか神さま、その人たちを憐れんでください。この私たち自身も他人を傷つけた加害者たちをただ憎んだり、軽蔑してののしったり、恐れて排除すようとするだけではなく、決してそうではなく、彼らを憐れみ、思いやって手を指し伸べることもできますように。また、すべての親たちが自分の子供を精一杯に愛することができるようにさせてください。けれど、背負いきれない重荷を負って途方に暮れる前にそれをいったん脇に置いて、助けを求めることができますように。軽々しく決めつけず、互いに慎み思いやりあうことも私たちに覚えさせてください。神さま、私たちを憐れんでください。なぜならこの私たちこそが深く憐れんでいただき、値しないのに手を差し伸べられ、あたたかく迎え入れられた者たちだからです。「神の子
供とされた」とは、そういう中身だからです。
    神を信じて生きる私たちのためには、自分自身の肉の思い、腹の思いの言いなりにされるのではなくて、私たちの体の内に住んでくださっている御子イエスの霊に従って歩む新しい希望のうちに毎日の暮らしを生きさせてください。苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

2019年6月3日月曜日

6/2こども説教「エチオピア人の宦官.(1)」


 6/2 こども説教 使徒8:26-35
 『エチオピア人の宦官.(1)』

8:27 女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼 拝のためエルサレムに上り、28 その帰途についていたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。29 御霊がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。30 そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。31 彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。32 彼が読んでいた聖書の箇所は、これであった、「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、また、黙々として、毛を刈る者の前に立つ小羊のように、口を開かない。33 彼は、いやしめられて、そのさばきも行われなかった。だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、彼の命が地上から取り去られているからには」。34 宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。35 そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。   
(使徒行伝 8:27-35

 エチオピア人の宦官が神を信じる人にされたことを、今日と来週と2回に分けて話します。宦官という仕事はさびしい仕事です。国中のすべての権力を握り、力とお金と名誉を手に入れ、けれども家族をもつことも、子どもを育てて暮らすこともできなくされて、ずっと独りぼっちで暮らさねばならないからです。その彼は神を信じたいと願って、礼拝に通い、帰り道の馬車の中で聖書を読んでいました。通りすがりの人にも聞こえるほど大きな声を出して読んでいました。ぜひ分かりたいと願って、もし神がいるなら、どんな神さまなのかをぜひ知りたいと願って、それで何度も何度も読んでいました。30節、「あなたは読んでいることが分かりますか」と声をかける者がありました。「だれかが手引きをして、ちゃんとよく分かるように教えてくれなければ、どうして分るでしょう。さあ、この馬車に乗って、私に手引きをしてください」。読んでいたのは、救い主が十字架にかかって救いを成し遂げることを書いた箇所(イザヤ書53章)でした。「誰のことを言ってるんですか」と宦官は質問しました。そこで主の弟子ピリポは、この聖書の箇所から説き起こして、救い主イエスのその救いの出来事を宣べ伝えました。「羊のように命をとられたのは救い主イエスであり、その救いの御業はあなたの救いのためでもあった。それが確かに、あなたのためにも起こった。救い主イエスによって、神があなたを招いておられます」と。


6/2「貧しい者のための幸い」ルカ6:20-21


              みことば/2019,6,2(復活節第7主日の礼拝)  217
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:20-21                     日本キリスト教会 上田教会
『貧しい者のための幸い』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
6:20 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。 (ルカ福音書 6:20-21)

 この6章20節から6章の終わりまでは、主イエスご自身によってなされた一かたまりのやや長い説教です。少しずつ区切りながら味わいっていきます。主イエスを信じて生き始めたばかりの弟子たちに向けて語られています。特に、この20-26節はなんだか謎めいていて分かりにくい。なぜ、彼らは幸いなのか。どこがどう幸いなのか。「神の国は彼らのもの」「飽き足りるようになる」「笑うようになる」とは何なのか。また、どうしてそうなのか。神さまから良い贈り物を受け取る善良で、清らかで、高潔な人々が列挙されている、かのように見えます。けれど今日の箇所の「貧しい人たち」「いま泣いている人たち」(20-21)は、どういうことなのかがあいまいで、よく分かりません。「貧しいこと。飢えていること。泣いていること」。「貧しいこと。飢えていること。泣いていること」。それらが果たして良い性質なのか悪い在り方なのか、どっちでもないのか。何か価値があるのかどうかも分かりません。
さて、「貧しい人たち」。このルカ福音書では「貧しい人たち」、マタイ福音書では「心の貧しい人たち」と、主イエスご自身による同じ1つの説教について2種類の報告がなされています。主イエスご自身による同じ1つの説教ですから、1つの中身、1つの真理が語られているはずです。もし、「心の貧しい」という意味であるなら、へりくだった低い心です。ある人はそれを、「道端に座り込んで人々から恵みや施しを受け取ろうとする乞食の在り方であり、乞食の心だ」と言い表しました。そして「神の国」とは、神ご自身が生きて働かれることであり、神の御心とお働きのもとに据え置かれて、神を信じる人たちが毎日毎日の暮らしを生きることです。救い主イエス・キリストが地上に降りて来られ、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書1:15と語りかけました。救い主イエスは、神の御心とお働きを担って、地上に降りて来られ、神の国の福音を宣べ伝えはじめ、救いの御業を着々と成し遂げていかれました。救い主イエスの存在とそのお働きこそが、神の国が近づいたことの中身です。そのお方が、「悔い改めて神へと心を向け返して、福音を信じなさい」と私たちを招きます。だからこそ、へりくだった低い心の者たちは神の招きを受け止め、神と出会い、神を信じて生きることをしはじめます。けれど、もし、「現実生活として、経済的に貧しい」人たちだとするなら、どうなるでしょう? その貧しさと心細さの中で、もしかしたら、打ち砕かれ、へりくだった低い心を与えられて、神を求め、神を信じて生きることをしはじめるかも知れません。毎日の食事にも不自由する切羽詰まった暮らしの中で、周囲の人たちの善意ややさしさに支えられて生きる中で、もしかしたら、神を信じて生きることをしはじめるかも知れません。あるいは逆に、その貧しさと心細さの中でかえって心がいじけて頑固になって、神から離れ去ってゆくかも知れません。

 「いま悲しんでいる人たち」。これも、生活が苦しくて貧乏であることと似ています。どういう理由で、その悲しみや困難、心細さや悩みがあるのかは語られていません。その人たちがどういう人たちなのかも説明されません。むしろ誰もが悲しみや困難、心細さ、悩みの中に置かれます。くりかえし何度も何度も。

             ◇

 それでもなお、よくよく覚えておかねばならない一つのことがあります。自分自身と周囲の人間たちのことばかり思い煩って、そのあまりに、神を思うことができなくなる私たちです。心が鈍くされ、狭い自分だけの世界に閉じ込められて、ますます思い煩い続けます。人間たちを恐れる恐れは、雪だるまのように、どんどんどんどん膨れて大きくなっていきます。だからこそ 思いを向け返さねばなりません。いったい、どんな神を信じてきたのだったか。どんな救いと恵みなのかと。私たち罪人を救いへと招き入れようとして、貧しくなってくださったお独りの方がおられます。飢え渇くように私たちを求めて、私たちのために泣いてくださった、ただお独りの方がおられます。救い主イエス・キリストです。
例えば救い主イエスは、「群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」のです。はらわたがこぼれて地面に流れ出すほどの深い悲しみと憐みです。その憐みは、もちろん、この私たちにも及びます。なぜなら私たち自身も、まるで飼う者のない羊のように度々弱り果て、倒れているからです。本当は良い羊飼いであられる方のもとに戻って、その世話と養いとを必要なだけ十分に受けているはずなのに。
例えば救い主イエスは、死んで墓穴に収められていたラザロに向かって、「ラザロ、出てきなさい」と呼ばわりました。彼とその家族のために、同胞たちのためにです。もちろんラザロとその家族のためだけでなく、主は私たちのためにも「墓から出てきなさい」と呼ばわるでしょう。やがて死ぬというだけではなく、私たちがたびたび生きていても死んでしまった者のように墓穴の中に物寂しく横たわりつづけるからです。この私たち一人一人をも深く愛してくださり、私たちが主イエスを信じて、その信仰によって新しく神の御前に生きる者とされるようにと願ってくださるからです。
例えば救い主イエスは、「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するため」(マタイ9:36,ヨハネ11:33-44,ピリピ手紙2:6-11です。「何をどう信じているんだ」と家族や友人から質問されて、何よりまずこのピリピ手紙2章をこそ開いて、「こういうことですよ。これが、私たちが信じていることの中身だ」と答えます。私たちの主イエス・キリストの地上での30数年に及ぶ生涯、十字架の死、復活が証言されます。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。私たちは、互いに誉めたりけなし合ったりしています。高ぶったり卑屈にいじけたり、「さすがは○○さんだ。たいしたものだ」と祭り上げたり足を引っ張ったり。兄弟姉妹たち。強く大きく高くありたい、という私たちの欲望には切りがありません。「何様のつもりか」と問われ、「私などつまらない者です」と答えながら、その実、殿様や大臣や大先生にでもなったつもりでいます。だからこそ少しでもけなされ、悪口を言われると、「どうせ私なんか」と卑屈にいじけます。そんな私たちだから、《人間がいつの間にか神や仏になった》という話ならあちこちに聞きます。偉大な政治家、権力を握った支配者、魅力的な宗教家は祭り上げられて、やがて《神のように》扱われ、そのように思い込まれ、自分でもまるで《神のように。殿様のように》振る舞いはじめます。けれどそれら一切とはまるで正反対に、神が人間になった。それは、一体どういうことでしょうか?
神が人間になった。「神はどのようにして人間になることができるか? それが果たして可能か? いいえ、私たちには分からないこともあり、出来ることと出来ないことがあります。残念なことですが、私たちは、ただの人間にすぎないのです。けれど私たちの主なる神は、何でもできる神です。初めに問うべきは、《神が果たして存在するのか、どうか》でした。『神は存在する? それとも、いない?』。神はいないと答える人々にとっては、神についての第2、第3の質問はありません。すから、私たちにとっての大問題は、《なぜ神が人間になったのか。なぜ、人間にならねばならなかったのか》です。神は神、私たち人間は人間にすぎません。逆立ちしても滝に打たれても、功徳を蓄え、修行を積んで、悟りを開いて、どんどんどんどん登っていっても、けれどなお人間は人間にすぎません。たとえ死んでも、「英霊」などと称えられても靖国神社に奉られても、人間は神になどなりません。神は神、私たち人間は人間にすぎません。両者の間には決定的な隔たりがあり、飛び越えることの出来ない深い裂け目がありました(創世記32:31,出エジプト3:6,33:20,イザヤ6:5)。神さまの慈しみ深さ、神の真実、その惜しみない愛は、《神が畏れるべき方である》ことと表裏一体でした。「畏怖すべき神。いいや、それは要らない。ニッコリしていて優しくて親切で、慈悲深い神。この都合の良いところだけ貰いたい」というわけにはいかなかったのです。旧約聖書の民は、神への畏れと神からの安らぎと、その両方を受け取っていたのです。身を慎みながら、膝を屈めながら、彼らは、神の慈しみ深さをも喜び味わいました。
兄弟姉妹たち。神が人となられました。しかも、理想的で上等な人間にではなく、生身の、ごく普通の人間にです。あがめられ、もてはやされる、ご立派な偉い人間にではなく、軽蔑され、見捨てられ、身をかがめる低く小さな人間に。それは、とんでもないことです。あるはずのない、あってはならないはずのことが起りました。私たちの主、救い主イエス・キリストは「かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(7-8)自分で自分を虚しくなさったのです。虚しいものにされたのではなく、自分から進んで「ぜひそうしたい」と、しもべの形と中身を選び取ってくださいました。無理矢理に嫌々渋々されたのではなく、「はい。喜んで」と自分で自分の身を屈めました。しかも徹底して身を屈めつくし、十字架の死に至るまで、従順を貫き通してくださいました。なぜ神の独り子は、その低さと貧しさを自ら選び取ってくださったのか。何のために、人間であることの弱さと惨めさを味わいつくしてくださったのでしょう。ここにいる私たちは、知らされています。十二分に、よくよく知っています。兄弟たち。それは、「罪人を救うため」(テモテ手紙(1)1:15)でした。善良な人や高潔で清らかな人々を救うことなら簡単でした。罪人を救うとしても、ほどほどの罪人やそこそこの罪人を救うことなら、まだたやすいことでした。けれども、極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる罪人をさえ、ぜひとも救い出したいと神は願ったのです。極めつけの罪人。それがこの私であり、あなたです。キリストは低く下って、やがて高く上げられ、すべての名に勝る名を与えられました9節,エペソ手紙4:9)
それは、低い所に捕われている者たちのためです。恥を受け、身を屈めさせられ、「誰もいない。誰もちっとも分かってくれないし、助けてもくれない」とつぶやく惨めな者たちのために。「私の孤独。私の痛み。私だけの恐れと絶望」とうつむく者たちのためです。神に背いてしまう。神のあわれみの下から、ついうっかりして迷い出て、戻りたいと願いながら戻ることができない。その罪深さと悲惨さのために身を屈め、心をすさませ、胸をかきむしっている1人の小さな罪人。その小ささ。その脆さ、危うさ。その心細さと痛みに、神は御目を留められました。その人を、神は愛して止みませんでした。それが、救いの歴史の出発点です。あのお独りの方と、私たちとの出発点です。足を踏みしめて立っているべき、私たちのいつもの場所です。
だからこそ、神であられる栄光も尊厳も投げ捨ててすっかりご自分をむなしくなさり、どこまでも貧しくなってくださった救い主イエスのその貧しさこそが、私たちの幸いです。この救い主イエスのものとされ、その御心に従って生きよう、ぜひそうしたいと願って生きることこそが神の国です。それは、私たちの只中にあり、私たちのものです。このお独りの方によって、私たちは神の正しさと憐み深さに満ち足りるようになります。このお独りの方によって、私たちはほがらかに喜び笑うようになるからです。「あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰することになる」と約束されています。それならまず、この私たちこそが膝を屈め、私たちの舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰することになるからです。なんという幸い、なんという恵みでしょうか。

《祈り》
神さま。私たちははなはだしい苦境の只中に据え置かれています。
      きびしい社会状況とそれぞれの悩みの中で、心を病む人たちが大勢います。それは決して他人事ではなく、誰もが追い詰められ、この私たち自身も孤独と絶望の中でほかの誰かを深く傷つけてしまうかも知れません。どうか神さま、その人たちを憐れんでください。この私たち自身も他人を傷つけた加害者たちをただ憎んだり、軽蔑してののしったり、恐れて排除すようとするだけではなく、決してそうではなく、彼らを憐れみ、思いやって手を指し伸べることもできますように。なぜならこの私たちこそが深く憐れんでいただき、値しないのに手を差し伸べられ、あたたかく迎え入れられた者たちだからです。「神の子供とされた」とは、そういう中身だからです。
憐れみ深い神さま。貧しく心細く暮らす子供たちとその家族、年老いた人たち、若者たち、後から来る若い世代に対して、先に生きてきた私たち大人には大きな責任があります。日本人も外国人も、すべての子供たち、若者たちがとても困り果てるとき、それを気にかけてぜひ助けてあげようとする大人たちをその人のすぐ傍らにいさせてください。
      神を信じて生きる私たちのためには、自分自身の肉の思い、腹の思いの言いなりにされるのではなくて、私たちの体の内に住んでくださっている御子イエスの霊に従って歩む新しい希望のうちに毎日の暮らしを生きさせてください。苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン