みことば/2019,6,23(主日礼拝) № 220
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:27-36 日本キリスト教会 上田教会
『敵を愛し、
憎む者に親切にせよ』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
6:27 しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。28 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。29 あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。30 あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。31 人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。32 自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。33 自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。34 また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。 (ルカ福音書 6:27-36)
27-31節、「しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」。また、35節、「しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ」。ずいぶん難しいことを命令されます。しかも、キリスト教のことをあまりよく知らない人たちでさえ、「ああ知ってる、知ってる。確かクリスチャンというものは、片方の頬を打たれたら、もう片方の頬も相手に差し出して、好きなだけ相手に殴ったり叩いたりさせてあげるらしいね。それがクリスチャンだと。救い主イエスから直々に『そうしなさい』と命令されているそうじゃないか。君もクリスチャンだと言うなら、その証拠を今ここで見せてくれ。じゃあ試しに、それをやらせてみてくれ。用意はいいかい。」。いやいや、それは困ります。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。どういうことでしょう? ものすごく難しい箇所です。
もうずいぶん前、どういう神さまなのかを先輩が教えてくれました。「神さまから難しい注文をつけられるとき、とうてい出来ないはずのことを突きつけられるとき、それは私たちのことではなくて、ただもっぱら神ご自身のことである。神さまがこの私たちのためにしてくださったことである」と。「~しなさい」と神さまが私たちに一つ命令なさるとき、その神さまはその10倍も20倍も、私たちのためにご自分でそれをしてくださっている。そういう神さまだ、と教えられました。本当のことです(*注)。そのことに気づかせようと、ヒントが書き添えられています。まず31節、「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ」。また35-36節、「しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」。もちろん、自分自身を愛するように、それに負けず劣らず隣人を愛し尊ぶ私たちになるようにと神さまは願ってくださっています。もし、そういう自分になれれば、それに勝る幸いはないからです。けれど、とても難しい。「自分が自分が」と心を狭く貧しくして生きている私たちだからです。自分と家族と、親しい仲間たちのことを思うばかりで、ほかの人たちのことなどほとんど気にも留めないで暮らしている私たちだからです。私たちにしてほしいと望むことを、神さまはこの私たちのために、そのとおりにしてくださいました。父なる神が慈悲深いように、やがてだんだんと、この私たち自身も慈悲深い者となってゆくことができるためにです。なにより神さまを愛し尊び、隣り人を自分自身のように愛すること。そして自分自身をも精一杯に愛すること。これこそが私たちのための格別な幸いだからです。
私たちが神を愛したのではなく、まず神さまのほうが、私たちを愛してくださいました(ヨハネ手紙(1)4:10)。ローマ人への手紙5:6-11は、はっきりと証言していました。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」。敵を愛し、迫害する者のために祈れという箇所も、このローマ手紙5章6節以下も、私たちは何度も何度も読んできました。分かったつもりになっていました。しかも自分は正しいし、かなり良心的に生きているし、人に親切にするように心がけても来たと思い込んできました。だからその証拠に、たまに薄情で冷淡で自分勝手な人を見かけると眉をひそめて、「あらあら、困った人ね」と見下し、心の中で軽蔑しました。自分に対してはかなり甘い採点をしているくせに、他人のすることには「こんなこともできないのか。なぜそんなことをするのか。これもダメ、これもこれもダメ」などと、ずいぶん手厳しく、辛口で評価をしている私たちです。正しいつもりだった私が、けれど今日はじめて、心が痛みました。私たちのためにキリストが死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示してくださった。ローマ手紙5:6-11。ここで最も大事なのは、神さまから愛を差し出されたそのタイミングです。それは、どういう私たちに対してだったのか――
(1)私たちがまだ弱かった頃、
(2)信じようとしてなかなか信じきれない不信心な私たちに、
(3)悪人であり罪人だった私たちに、
(4)神に敵対し、神さまに逆らってばかりしていたその私たちに。
忘れていました。ああ、そうだったのか。差し出され、受け取ってきたはずの神さまからの愛をすっかり忘れていたせいで、その結果として、私たちは神さまを愛さず、神さまに少しも信頼せず、聴き従って生きることに失敗しつづけました。さてルカ福音書6章32-34節、「自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである」。ああ本当だ。そのとおりです。たかだかその程度に過ぎない私たちであるのに、ついつい思い上がってしまう私たちです。自分を愛することをさえ自分自身で損ない、歪ませつづけました。隣り人を愛するふりをして、けれど、自分たちにとって好都合な人々や利益をもたらしそうな人々に挨拶をし、役に立ちそうな人々を迎え入れようとするばかり。ただただソロバン勘定をし、自己愛と自己保身に終始し、教会と自分自身と自分の家族の存続と繁栄ばかりを願いつづけました。本当に申し訳ないことです。
私たちに語りかける声が耳元にいつもありました。「イエスは主であり、イエスを主とする私であり、生きるにも死ぬにも、私は私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものである」(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ13:13,ローマ手紙10:9)と、あなたは言っていたね。まるで口癖のように言っていたじゃないか。そのあなたが、ここで、こんなふうに考え、そういう態度を取り、兄弟や大切な家族に対してそんな物の言い方をするのか。そのあなたが、「~にこう思われている。~と人から見られてしまう。どう思われるか」などと簡単に揺さぶられ、我を忘れ、神さまのことをすっかり忘れ果ててしまっている。《イエスこそ私の主》と言っているくせに、そのあなたが「なにしろ私の考えは。私の立場は。私の誇りと自尊心は」と言い立てている。どういうつもりか。イエスは主なりと魂に刻んだはずのあなたの信仰は、あれは、どこへ消えて無くなったのか。朝も昼も晩も、そうやって私たちに語りかける声があります。呼びかけつづける声があります。あのお独りの方、救い主イエス・キリストが復活し、天の御父の右に座っておられるとは、このことでした。高い山や丘のようにうぬぼれて他人を見下していた私を押し戻すものがあり、薄暗い谷間のように卑屈に身を屈めていた私を高く持ち上げてくれるものがあります。顔を上げさせ、目を見開かせ、小さく縮こまっていた私の背筋をピンと伸ばさせてくれるものがあります。深々と、晴々として息を吸わせ、吐かせてくれるものがあります。
思い起こしましょう。どんな神であられるのか。どういう救いへと招き入れられたのか。私たちはしばしば、預言者ヨナのように心を狭く貧しくしてしまいました。神さまが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、よくよく知っていたはずでしたのに。「あなたの怒るのは良いことか」と、主なる神さまはたびたび私たちに問いかけます。あなたの怒るのは良いことか、あなたの怒るのは良いことかと。いいえ、ちっとも良くないことでした。なぜなら神は、ニネベの町の人々と家畜のように私たちを愛し、「滅びるままに捨て置くことはできない」と惜しんでやまなかったからです。神があわれんでヨナの頭の上に一夜にしてとうごまの木を生えさせ、心地よく涼しい木陰を贈り与えてくださいました。私たちはほんのひと時、その心地よい涼しい木陰をとても喜び楽しみました。それが枯れて、暑い日差しに照りつけられ、熱風にさらされ、私たちは腹を立てました。「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。神は私たちにおっしゃいました、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(ヨナ書4:1-11)。右左をわきまえない数多くの人と家畜。よく弁えているからではなく、正しいからでもなく、心が清くまっすぐだからでもなく、可哀そうだと、ただただ憐れんでくださったからでした。恩を知らない、神にも人々にも逆らってばかりいる、とても悪い私たちにさえ、神は慈悲深くあられました。
『子供は習い覚える』という詩があります――「けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる。とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる。不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる。「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは惨めな気持ちになる。子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる。親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる。叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう。
励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる。広い心で接すれば、キレる子にはならない。誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ。愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ。認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる。見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる。分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ。親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る。子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ。やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ。守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ。和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる」。
(『子供は習い覚える』ドロシー・ロー・ノルト
Children Learn What They Live by Dorothy Law Nolte
If children live with criticism,They learn to condemn.
If children live with hostility,They learn to fight.
If children live with ridicule,They learn to be shy.
If children live with shame,They learn to feel guilty.
If children live with encouragement,They learn
confidence.
If children live with tolerance,They learn to be patient.
If children live with praise,They learn to appreciate.
If children live with acceptance,They learn to love.
If children live with approval,They learn to like
themselves.
If children live with honesty,They learn truthfulness.
If children live with security,They learn to have faith
in themselves and others.
If children live with friendliness,They learn the world
is a nice place in which to live.
(Copyright © 1972/1975 by Dorothy Law Nolte)
聖書自身から、こうも語りかけられました、「あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」(ペテロ手紙(1)2:10)。受け取った神さまからの憐み、それこそが、私たちがクリスチャンであり、神の民であることの中身です。神に敵対していた私たちだったのに、愛され、ずいぶん親切にされました。ゆるされるはずのなかった多くをゆるされました。多く愛されました。慈悲深い扱いをたくさん受けてきました。手柄は、ただただ神さまにだけあります。そのおかげで、私たちは神の子供たちとされました。だからこそこの私たちも、だんだんと少しずつ愛することを習い覚えていきます。なぜなら子供たち、神さまこそが私たちを励まし、広い心で接してくださり、愛し、認め、分かち合うことを教えてくださり、やさしく、思いやりをもって育て、心強く守ってくださいましたから。そのことを、私たちも、よくよく覚えておりますので。
(*注)ここに気づけなければ、「ごく普通の小中学校の道徳の教科書に載るような、ただの人間的倫理」に成り下がってしまう。気づいたなら、「とても素敵な神ご自身」を知ることになる。超難解箇所だと言ったのは、そういう意味です。
神さま。私たちははなはだしい苦境の只中に据え置かれています。
きびしい社会状況とそれぞれの悩みの中で、心を病む人たちが大勢います。それは決して他人事ではなく、誰もが追い詰められ、この私たち自身も孤独と絶望の中でほかの誰かを深く傷つけてしまうかも知れません。どうか神さま、その人たちを憐れんでください。この私たち自身も他人を傷つけた加害者たちをただ憎んだり、軽蔑してののしったり、恐れて排除すようとするだけではなく、決してそうではなく、彼らを憐れみ、思いやって手を指し伸べることもできますように。また、すべての親たちが自分の子供を精一杯に愛することができるようにさせてください。けれど、背負いきれない重荷を負って途方に暮れる前にそれをいったん脇に置いて、助けを求めることができますように。軽々しく決めつけず、互いに慎み思いやりあうことも私たちに覚えさせてください。神さま、私たちを憐れんでください。なぜならこの私たちこそが深く憐れんでいただき、値しないのに手を差し伸べられ、あたたかく迎え入れられた者たちだからです。「神の子供とされた」とは、そういう中身だからです。
神を信じて生きる私たちのためには、自分自身の肉の思い、腹の思いの言いなりにされるのではなくて、私たちの体の内に住んでくださっている御子イエスの霊に従って歩む新しい希望のうちに毎日の暮らしを生きさせてください。苦しみや悩みや辛さの只中にあっても、そこで神様に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めつづける私たちであらせてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン