みことば/2019,2,24(主日礼拝) № 203
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:9-13 日本キリスト教会 上田教会
『私を支えるかどうか?』
~悪魔の誘惑.3~
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
4:9 それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。10 『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、11 また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。12 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。13 悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。 (ルカ福音書 4:9-13)
主イエスは荒野を40日40夜さまよい、悪魔から誘惑を受けました。その3番目の誘惑です。悪魔は私たちの救い主を神殿の屋根の端に立たせました。そして、こう唆すのです。9-11節「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」(詩91:11-12参照)。なるほど。確かに、もしそのとおりになれば、イエスが神から送られた救い主であるとおおやけに証明できたことになります。もし神殿の庭に見物人たちが大勢いたら、みな拍手喝采して主を褒めたたえるでしょう。テレビ中継でもされたら、世界中の人々がいっぺんにこの方を信じて、キリスト教の黄金時代が到来するでしょう。すごい。これは、とても魅力的な誘惑ですねえ。
例えば、あるとき洗礼式が執り行われ、一人のクリスチャンがそこに誕生します。その人のための祝福と幸いは、どんなものでしょうか。また、すでに洗礼を受けてクリスチャンとされている私たちのための祝福と幸いは、どんなものだったでしょう。「おめでとう。これからは災いや困難が何一つなく、苦しむことも辛い思いをすることも一切ない」と言いたい。けれど、軽はずみにそんなことは言えません。だって重い病気にかかることがあるかも知れません。交通事故にあい、信頼していた友人から騙されるかも知れません。陰口をきかれたり、仲間はずれにされたり、家に泥棒が入り、うっかりして財布を落とすかも知れません。やがて年老いて衰え、弱り、物忘れもひどくなって誰でもみな死んでゆくのです。では、信仰をもって生きることに、私たちは何を期待できるでしょう。この聖書の神は、私たちに何をしてくださるのでしょう。
ずいぶん前から、資本主義の競争社会のやり方がこの世界を覆い尽くしています。それは冷徹で非常な、弱肉強食の論理によって成り立っています。労働者たちはその働きを半年毎に細かく評価・査定されてボーナスと給料が上がったり下がったりし、よく働く役に立つ者はよい地位につき、昇進し、働きの悪いあまり役に立たない者は窓際に追いやられ、クビにされていきました。『会社』の普通のやり方です。だってその会社自体も、良い成績をあげ売り上げを伸ばす強くて良い会社は生き残り、そうでない会社は敗れ去っていったのですから。その仕組みの中では、『会社が私を支えるかどうか』と問う者は誰もいなくて、もっぱら『私が会社を支えるかどうか。お前は、会社にとってどれくらい役に立つ有益な人材か。お前の値段はいくらか』とだけ問われつづけました。それが、数百年あるいは数千年つづいているこの世界の基本ルールです。世界全体をそのルールが支配しているのですから、会社で働くサラリーマンだけではなく、普通の家庭の主婦も舅と姑からそのように労働成績を評価・査定され、その評価次第で優遇されたり冷や飯を食わされたりもしました。小さな子供たちのうちから学校や保育所・幼稚園でそのように教えられ、しつけられてきました。「役に立つ、賢く強い優秀な人材になれ。高い値段がつけられる上等な人間になれ。そうでなければ冷や飯を食わされてしまうぞ」と。ほとんどすべての者たちが、この弱肉強食の社会の中で惨めさと劣等感を植え付けられ、深い痛手を負い、「どうせ私なんか」と卑屈に身を屈める者とさせられたのです。世の中がそうで世間の人々が大抵そう思っているだけでなく、うっかりすると教会の中でさえ「あの役に立つ素敵な彼は250円。この人は120円くらい。それに比べて私なんかは65円」などと。皆さんはどうでしょう? よく観察してみると、この『どうせ私なんか』という劣等感と『私こそは』という自尊心は実は10円玉の裏と表のように1組です。つまらない惨めな私と劣等感に悩んでいるあなたは、同時に、すごく負けず嫌いで自尊心も人一倍強かったのです。そこから抜け出すことは出来ます。肩の荷を降ろして晴れ晴れ広々とすることができます。あなたがもし、そうしたいと望むなら。劣等感と自尊心を、その両方をいっぺんに捨てちゃうのです。だって、せっかくクリスチャンになったのですから。聖書は語りかけます;「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。・・・・・・すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである」(ローマ手紙3:22-28)。人のそれぞれの値札と誇りは取り除かれた。それが信仰の法則だ、これこそ私たちの信仰の中身だ、というのです。どうです? 無いほうがよい余計なものが自分の心の中にドッサリ詰め込まれていました。それを投げ捨てられて、心にポッカリ穴が開きました。おかげで、ようやくそこに広々した場所が出来ました。『私が~を支えるか。私が~を担えるか。私が~を持ち運べるか』という荷物が無くなった場所に、『神が私を担う。神が私を支える。神が私を持ち運んでくださる』と置きましょう。『私が働いて、私が役に立って、私が背負って』という荷物が無くなった場所に、『神こそが生きて働き、神が私を背負ってくださる。神こそが飛びっきりの良い贈り物を与えてくださり、そして私は受け取る。受け取って、感謝し喜ぶ』と。
悪魔が屋根の上で引用したあの詩編の末尾はこう告げていました;「彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう」(詩91:15-16)。すべてのクリスチャンたちは、この同じ約束と保証を受け取っています。洗礼を受けた最初の日に告げられた約束も、これとまったく同じです。誰かの洗礼式を覚えておられますか。また、そのときに交わされた約束を。あなた自身の洗礼式の祈りを。誓約の後で『どうか、この志と決心を与えてくださった方が、これを成し遂げる力をも与えてくださるように』と皆で共々に祈りました。また、『この務めを果たすのに必要な知恵と力を主が与えてくださいますように。慰めと励ましをも与えて、その行うところをすべて祝福してください』と祈りました。主が与え、主が成し遂げ、主なる神ご自身が祝福を与えてくださる。それをこそ、私たちは祈り求めつづけます。あなた自身に対しても「共にいて助け、名誉を与え、満ちたらせ、救いを見せよう」と約束されていることをはっきりと知っておきたい。クリスチャンになったからといって、生活が大きく変わるわけではありません。昨日まで付き合ってきた同じ人々と今日からも同じく付き合うのです。昨日までいた同じ場所に、今日も私たちはいるでしょう。同じ困難と同じ危うさを背負って、私たちはなお今日からの日々を生きてゆきます。それは、「天の父の御心なしには髪の毛一本もむなしく地に落ちることはない」(ハイデルベルグ信仰問答の第1問, ルカ21:16-18)という信頼。そういう人生が保障されている。天の父の御心なしには髪の毛一本もむなしく地に落ちることはない。すると、どういうことになるでしょう。いつまでも黒髪がふさふさしている、と太鼓判を押されているんですか。いいえ。現に、ぼくの髪もあなたの髪も白髪が混じり、頭のテッペン辺りもはげあがり、顔にシワやしみが増え、手首や肘や足腰が痛むようになってきました。階段を降りるときやちょっとした段差にも、私たちの足もとは怪しくなってきました。小さな石ころやちょっとした凸凹道にも簡単につまずくようになりました。「情けない。こんなあわれな私になって」とつぶやきたくもなります。けれど、待ってください。忘れてしまったのですか。それら一切は、髪の毛一本にいたるまで『天の父の御心』の中で、その恵みとゆるしの中でこそ取り扱われているのです。髪の毛が一本また一本と地に落ちてゆくように、私たちもやがて地上の生涯をそれぞれに終えて、やがて土に還ってゆきます。それら一切は天の父の御心の只中で、決してむなしくはなく取り扱われる。それが、私たちのための約束です。その約束を信じて、そこに望みをおいています。だから、私たちはクリスチャンです。
そう言われていても、正直な所、なかなか神さまを十分には信じきれない私たちです。それで、ほんのちょっとしたことで恐ろしくなったり、心細くて心配で仕方がなくなったり、クヨクヨビクビクして暮らしていますね。12節。ここで主イエスは、「あなたの神を試みてはならない」と確かに仰っています。大きな道理があり、「みだりに、軽はずみに無意味に、神を試みてはならない」。これが基本原則です。けれど信仰が危機に瀕した際の緊急時の例外措置があります。だから別の時には、それを何度も何度も神ご自身がゆるしてくださっています。立ち止まって熟慮しましょう;①例えば士師記6章でギデオンは神に信頼できず、臆病で怖がりで「出来ません、出来ません」と尻込みしつづけます。神はギデオンに信じるためのしるしを何度も何度も見せて、試させてあげます。岩の上に置いた肉とパンを焼きこがしたり、羊の毛皮を濡らしたり乾かしたり濡らしたり乾かしたり、またひっくり返したり、もう1回もう1回、もう1回と。②イザヤ書7章、イスラエル存亡のとき、預言者イザヤはアハズ王に「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ」と促します。ところが王は、「いいえ、主を試みることはしません」(イザヤ書7:12)と断り、不信仰の中に頑固に居座ります。王が拒否しても一つの決定的なしるしが与えられます。インマヌエル(=主が共におられる)と唱えられる救い主の誕生として。③さらにヨハネ福音書20章で、疑い深いトマスのためにも信じるためのしるしを見せて、試させてあげようとします。「じゃあ、このてのひらの釘跡にあなたの指を入れ、わたしの脇腹の槍で刺された跡にあなたの手を入れて好きなだけかき回してみなさい。さあさあ、ほらほら」と。信じないあなたでなく、信じるあなたになるために。そこまでしていただいて、するととうとう、指や手を触れてみるまでもなく、やっとあの彼らは神を本気で信じることができる者にしていただきました。「わが主よ、わが神よ」と喜びにあふれてひれ伏しました。(この20章29節は難解です。「見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである」と主イエスから言われましたが、その本意は、トマスの信仰を軽んじたり批判しているわけではありません。誤解してはいけません。見て信じようが、見ないで信じようが、結局は信じることができたのなら上出来です。「信じられない場合」と「信じることができた場合」とを見比べてみてください。神を信じて生きはじめることができたなら、その人は十分に幸いではありませんか)なかなか信じられないで臆病で怖がりで「出来ません、出来ません」と死ぬまでず~っと尻込みしつづけるのはあまりに惨めで、悲しすぎる。神さまに十分に信頼できるほうが千倍も万倍も幸せだからです。信じさせてくださろうとして神さまは準備万端だからです。神さまの憐れみがそれほどに深いのです。ギデオンやトマスに対しても、あなたや私に対しても。そのことを、よくよく覚えておきましょう。
一人の人間であり、一個のクリスチャンであるとは、どういうことでしょう。私たちは願い求めます、「世の中のために、この私も何か少しでも良いことをしたい。この地域のため、この職場のため、この大切な家族のために、私も何かほんの少しでも良いことをし、役に立ち、その助けや支えとなりたい。この教会のためにも、私に出来る何か良いことをしたい」。それはとても尊い気持ちですし、大切な考え方です。また私たちの喜びや生きがいにもなります。それでもなお、それよりももっと遥かに大切なことがあります。とりわけ特にクリスチャンにとって最優先の腹の据え方があり、それなしにはすべてが無駄になってしまうほどの心得があります。『~していただいている。うれしい。ありがとう』という心得です。これが案外むずかしい。『自分に何が出来るか。何をすべきか』という前に、なによりまず『神さまが、この私に、いったい何をしてくださったか。これから何をしてくださるのか』と、よくよく目を凝らしたい。そうでなければ、感謝と喜びから始まったはずのものが、『~しなければならない。それなのに』という恐ろしい強迫観念に成り下がってしまうからです。あまりに簡単に、重苦しい責任や義務や仕事に成り下がってしまうからです。自分自身を責め、そのあまり周りにいる大切な人たちに文句や不平不満を言い続けてしまうからです。あの働き者のマルタや、朝早くからぶどう園で働きはじめた労働者たちや、放蕩息子の兄さんや預言者エリヤのようになって、苛立ったり怒ったりいじけたり、すっかり失望して心を挫けさせたりしてしまいます(ルカ福音書10:38-,15:25-,列王記上19:1-)。それでは、せっかくの神さまからの恵みが台無しです。水の泡です。ですから私たちは、もう二度と決して忘れてはなりません。あなたが何をしてもしなくても、何ができても出来なくても、なにしろ慈しみ深い神さまはそんなあなたに対してさえ、飛びっきりのとてもとても良いことをしてくださっていますよ。これまでもずっとそうだったし、今もこれからも。「あなたがたのうちに良いわざを始められた方が、キリスト・イエスの日までに、それを完成してくださるに違いない」(ピリピ手紙1:6)。私は確信しています。あなたは、どうですか?
【補足/悪魔は何度でも攻めてくる】
13節「悪魔が誘惑の手を止めて、ほんのひととき救い主から離れ去った」と聖書は報告します(新共同訳「時が来るまで」、新改訳「しばらくの間」)。世々の教会は、いつ悪魔が戻ってきて再び攻撃をはじめるのかと熟慮しました。あの十字架の直前のゲッセマネの園と、十字架の真っ最中にです。「もし神の子なら、十字架から降りて自分を救ってみせよ」(マタイ27:40)。ののしり、嘲って笑う人々の中に悪魔が入りました。ユダの中に悪魔が入ったように。その後ずっと悪魔は主イエスの弟子たちを攻撃しつづけていると。「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」。主イエスご自身も、「誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」(エペソ手紙6:10-13,マタイ福音書26:41)と。心も体も、なにもかもとても弱い私たちです。だからこそ、いつでも何が起こっても本当に頼りになる、しっかりした支えと助けが必要です。だからこそ私たちは、神さまを信じて生きることに決めました。「全信頼を神におくこと。神のご意思に服従して、神にこそ仕えて生きること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から贈り与えられることを、心でも口でも認めること」(「ジュネーブ信仰問答」問7 1542年)。