2019年2月25日月曜日

2/24こども説教「もし、神から出たものならば」使徒5:33-42


 2/24 こども説教 使徒5:33-42
 『もし、神から出たものならば』

5:33 これを聞いた者たちは、激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思った。34 ところが、国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、35 一同にむかって言った、「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。・・・・・・37 そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。38 そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。39 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、40 使徒たちを呼び入れて、むち打ったのち、今後イエスの名によって語ることは相成らぬと言いわたして、ゆるしてやった。41 使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。42 そして、毎日、宮や家で、イエスがキリストであることを、引きつづき教えたり宣べ伝えたりした。      (使徒行伝 5:33-42

 小さな子供も大人の方々も、どうぞよく聴いてください。
  「人間に従うよりは神に従うべきだ」(使徒5:29と救い主イエスの弟子たちは議会で証言しました。人々は激しく怒って、彼らを殺そうとしました。それを諌めて、「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい」と皆に語りかける人がいました。後で分かりますが、このガマリエルという律法学者は主の弟子パウロに信仰を教えた先生です(使徒23:2を参照。ここでも道理にかなった、誰にでも分かる、とてもきちんとしたことを語っています。38-39節、「そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。その通りです。この一つのキリスト教会と、自分自身と家族の暮らしのこととしても十分にはっきりと分かるなら、私たちはとても幸いです。神から出たものか、それとも人間から出たものなのかと考えてみてください。もし、「神さまがこの教会を建て、私たちの信仰の歩みを始めさせてくださり、神さまご自身が支え、養い、保ってくださっている。本当にそうだ」と知るならば、その人には、どんな心配も恐れもありません。もし、それがちっとも分からなければ、するとその人には、恐ろしいことだらけで心細くて心配で仕方がないでしょう。


2/24「私を支えるかどうか?」ルカ4:9-13


                        みことば/2019,2,24(主日礼拝)  203
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:9-13                       日本キリスト教会 上田教会
『私を支えるかどうか?』
                                                   ~悪魔の誘惑.3~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
4:9 それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。10 『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、11 また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。12 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。13 悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。     (ルカ福音書 4:9-13)

  主イエスは荒野を4040夜さまよい、悪魔から誘惑を受けました。その3番目の誘惑です。悪魔は私たちの救い主を神殿の屋根の端に立たせました。そして、こう唆すのです。9-11節「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」(91:11-12参照)。なるほど。確かに、もしそのとおりになれば、イエスが神から送られた救い主であるとおおやけに証明できたことになります。もし神殿の庭に見物人たちが大勢いたら、みな拍手喝采して主を褒めたたえるでしょう。テレビ中継でもされたら、世界中の人々がいっぺんにこの方を信じて、キリスト教の黄金時代が到来するでしょう。すごい。これは、とても魅力的な誘惑ですねえ。
  例えば、あるとき洗礼式が執り行われ、一人のクリスチャンがそこに誕生します。その人のための祝福と幸いは、どんなものでしょうか。また、すでに洗礼を受けてクリスチャンとされている私たちのための祝福と幸いは、どんなものだったでしょう。「おめでとう。これからは災いや困難が何一つなく、苦しむことも辛い思いをすることも一切ない」と言いたい。けれど、軽はずみにそんなことは言えません。だって重い病気にかかることがあるかも知れません。交通事故にあい、信頼していた友人から騙されるかも知れません。陰口をきかれたり、仲間はずれにされたり、家に泥棒が入り、うっかりして財布を落とすかも知れません。やがて年老いて衰え、弱り、物忘れもひどくなって誰でもみな死んでゆくのです。では、信仰をもって生きることに、私たちは何を期待できるでしょう。この聖書の神は、私たちに何をしてくださるのでしょう。
  ずいぶん前から、資本主義の競争社会のやり方がこの世界を覆い尽くしています。それは冷徹で非常な、弱肉強食の論理によって成り立っています。労働者たちはその働きを半年毎に細かく評価・査定されてボーナスと給料が上がったり下がったりし、よく働く役に立つ者はよい地位につき、昇進し、働きの悪いあまり役に立たない者は窓際に追いやられ、クビにされていきました。『会社』の普通のやり方です。だってその会社自体も、良い成績をあげ売り上げを伸ばす強くて良い会社は生き残り、そうでない会社は敗れ去っていったのですから。その仕組みの中では、『会社が私を支えるかどうか』と問う者は誰もいなくて、もっぱら『私が会社を支えるかどうか。お前は、会社にとってどれくらい役に立つ有益な人材か。お前の値段はいくらか』とだけ問われつづけました。それが、数百年あるいは数千年つづいているこの世界の基本ルールです。世界全体をそのルールが支配しているのですから、会社で働くサラリーマンだけではなく、普通の家庭の主婦も舅と姑からそのように労働成績を評価・査定され、その評価次第で優遇されたり冷や飯を食わされたりもしました。小さな子供たちのうちから学校や保育所・幼稚園でそのように教えられ、しつけられてきました。「役に立つ、賢く強い優秀な人材になれ。高い値段がつけられる上等な人間になれ。そうでなければ冷や飯を食わされてしまうぞ」と。ほとんどすべての者たちが、この弱肉強食の社会の中で惨めさと劣等感を植え付けられ、深い痛手を負い、「どうせ私なんか」と卑屈に身を屈める者とさせられたのです。世の中がそうで世間の人々が大抵そう思っているだけでなく、うっかりすると教会の中でさえ「あの役に立つ素敵な彼は250円。この人は120円くらい。それに比べて私なんかは65円」などと。皆さんはどうでしょう? よく観察してみると、この『どうせ私なんか』という劣等感と『私こそは』という自尊心は実は10円玉の裏と表のように1組です。つまらない惨めな私と劣等感に悩んでいるあなたは、同時に、すごく負けず嫌いで自尊心も人一倍強かったのです。そこから抜け出すことは出来ます。肩の荷を降ろして晴れ晴れ広々とすることができます。あなたがもし、そうしたいと望むなら。劣等感と自尊心を、その両方をいっぺんに捨てちゃうのです。だって、せっかくクリスチャンになったのですから。聖書は語りかけます;「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。・・・・・・すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである」(ローマ手紙3:22-28)。人のそれぞれの値札と誇りは取り除かれた。それが信仰の法則だ、これこそ私たちの信仰の中身だ、というのです。どうです? 無いほうがよい余計なものが自分の心の中にドッサリ詰め込まれていました。それを投げ捨てられて、心にポッカリ穴が開きました。おかげで、ようやくそこに広々した場所が出来ました。『私が~を支えるか。私が~を担えるか。私が~を持ち運べるか』という荷物が無くなった場所に、『神が私を担う。神が私を支える。神が私を持ち運んでくださる』と置きましょう。『私が働いて、私が役に立って、私が背負って』という荷物が無くなった場所に、『神こそが生きて働き、神が私を背負ってくださる。神こそが飛びっきりの良い贈り物を与えてくださり、そして私は受け取る。受け取って、感謝し喜ぶ』と。
 悪魔が屋根の上で引用したあの詩編の末尾はこう告げていました;「彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう」(91:15-16)。すべてのクリスチャンたちは、この同じ約束と保証を受け取っています。洗礼を受けた最初の日に告げられた約束も、これとまったく同じです。誰かの洗礼式を覚えておられますか。また、そのときに交わされた約束を。あなた自身の洗礼式の祈りを。誓約の後で『どうか、この志と決心を与えてくださった方が、これを成し遂げる力をも与えてくださるように』と皆で共々に祈りました。また、『この務めを果たすのに必要な知恵と力を主が与えてくださいますように。慰めと励ましをも与えて、その行うところをすべて祝福してください』と祈りました。主が与え、主が成し遂げ、主なる神ご自身が祝福を与えてくださる。それをこそ、私たちは祈り求めつづけます。あなた自身に対しても「共にいて助け、名誉を与え、満ちたらせ、救いを見せよう」と約束されていることをはっきりと知っておきたい。クリスチャンになったからといって、生活が大きく変わるわけではありません。昨日まで付き合ってきた同じ人々と今日からも同じく付き合うのです。昨日までいた同じ場所に、今日も私たちはいるでしょう。同じ困難と同じ危うさを背負って、私たちはなお今日からの日々を生きてゆきます。それは、「天の父の御心なしには髪の毛一本もむなしく地に落ちることはない」(ハイデルベルグ信仰問答の第1問, ルカ21:16-18)という信頼。そういう人生が保障されている。天の父の御心なしには髪の毛一本もむなしく地に落ちることはない。すると、どういうことになるでしょう。いつまでも黒髪がふさふさしている、と太鼓判を押されているんですか。いいえ。現に、ぼくの髪もあなたの髪も白髪が混じり、頭のテッペン辺りもはげあがり、顔にシワやしみが増え、手首や肘や足腰が痛むようになってきました。階段を降りるときやちょっとした段差にも、私たちの足もとは怪しくなってきました。小さな石ころやちょっとした凸凹道にも簡単につまずくようになりました。「情けない。こんなあわれな私になって」とつぶやきたくもなります。けれど、待ってください。忘れてしまったのですか。それら一切は、髪の毛一本にいたるまで『天の父の御心』の中で、その恵みとゆるしの中でこそ取り扱われているのです。髪の毛が一本また一本と地に落ちてゆくように、私たちもやがて地上の生涯をそれぞれに終えて、やがて土に還ってゆきます。それら一切は天の父の御心の只中で、決してむなしくはなく取り扱われる。それが、私たちのための約束です。その約束を信じて、そこに望みをおいています。だから、私たちはクリスチャンです。
 そう言われていても、正直な所、なかなか神さまを十分には信じきれない私たちです。それで、ほんのちょっとしたことで恐ろしくなったり、心細くて心配で仕方がなくなったり、クヨクヨビクビクして暮らしていますね。12節。ここで主イエスは、「あなたの神を試みてはならない」と確かに仰っています。大きな道理があり、「みだりに、軽はずみに無意味に、神を試みてはならない」。これが基本原則です。けれど信仰が危機に瀕した際の緊急時の例外措置があります。だから別の時には、それを何度も何度も神ご自身がゆるしてくださっています。立ち止まって熟慮しましょう;①例えば士師記6章でギデオンは神に信頼できず、臆病で怖がりで「出来ません、出来ません」と尻込みしつづけます。神はギデオンに信じるためのしるしを何度も何度も見せて、試させてあげます。岩の上に置いた肉とパンを焼きこがしたり、羊の毛皮を濡らしたり乾かしたり濡らしたり乾かしたり、またひっくり返したり、もう1回もう1回、もう1回と。②イザヤ書7章、イスラエル存亡のとき、預言者イザヤはアハズ王に「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ」と促します。ところが王は、「いいえ、主を試みることはしません」(イザヤ書7:12と断り、不信仰の中に頑固に居座ります。王が拒否しても一つの決定的なしるしが与えられます。インマヌエル(=主が共におられる)と唱えられる救い主の誕生として。③さらにヨハネ福音書20章で、疑い深いトマスのためにも信じるためのしるしを見せて、試させてあげようとします。「じゃあ、このてのひらの釘跡にあなたの指を入れ、わたしの脇腹の槍で刺された跡にあなたの手を入れて好きなだけかき回してみなさい。さあさあ、ほらほら」と。信じないあなたでなく、信じるあなたになるために。そこまでしていただいて、するととうとう、指や手を触れてみるまでもなく、やっとあの彼らは神を本気で信じることができる者にしていただきました。「わが主よ、わが神よ」と喜びにあふれてひれ伏しました。(この2029節は難解です。「見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである」と主イエスから言われましたが、その本意は、トマスの信仰を軽んじたり批判しているわけではありません。誤解してはいけません。見て信じようが、見ないで信じようが、結局は信じることができたのなら上出来です。「信じられない場合」と「信じることができた場合」とを見比べてみてください。神を信じて生きはじめることができたなら、その人は十分に幸いではありませんか)なかなか信じられないで臆病で怖がりで「出来ません、出来ません」と死ぬまでず~っと尻込みしつづけるのはあまりに惨めで、悲しすぎる。神さまに十分に信頼できるほうが千倍も万倍も幸せだからです。信じさせてくださろうとして神さまは準備万端だからです。神さまの憐れみがそれほどに深いのです。ギデオンやトマスに対しても、あなたや私に対しても。そのことを、よくよく覚えておきましょう。
  一人の人間であり、一個のクリスチャンであるとは、どういうことでしょう。私たちは願い求めます、「世の中のために、この私も何か少しでも良いことをしたい。この地域のため、この職場のため、この大切な家族のために、私も何かほんの少しでも良いことをし、役に立ち、その助けや支えとなりたい。この教会のためにも、私に出来る何か良いことをしたい」。それはとても尊い気持ちですし、大切な考え方です。また私たちの喜びや生きがいにもなります。それでもなお、それよりももっと遥かに大切なことがあります。とりわけ特にクリスチャンにとって最優先の腹の据え方があり、それなしにはすべてが無駄になってしまうほどの心得があります。『~していただいている。うれしい。ありがとう』という心得です。これが案外むずかしい。『自分に何が出来るか。何をすべきか』という前に、なによりまず『神さまが、この私に、いったい何をしてくださったか。これから何をしてくださるのか』と、よくよく目を凝らしたい。そうでなければ、感謝と喜びから始まったはずのものが、『~しなければならない。それなのに』という恐ろしい強迫観念に成り下がってしまうからです。あまりに簡単に、重苦しい責任や義務や仕事に成り下がってしまうからです。自分自身を責め、そのあまり周りにいる大切な人たちに文句や不平不満を言い続けてしまうからです。あの働き者のマルタや、朝早くからぶどう園で働きはじめた労働者たちや、放蕩息子の兄さんや預言者エリヤのようになって、苛立ったり怒ったりいじけたり、すっかり失望して心を挫けさせたりしてしまいます(ルカ福音書10:38-,15:25-,列王記上19:1-。それでは、せっかくの神さまからの恵みが台無しです。水の泡です。ですから私たちは、もう二度と決して忘れてはなりません。あなたが何をしてもしなくても、何ができても出来なくても、なにしろ慈しみ深い神さまはそんなあなたに対してさえ、飛びっきりのとてもとても良いことをしてくださっていますよ。これまでもずっとそうだったし、今もこれからも。「あなたがたのうちに良いわざを始められた方が、キリスト・イエスの日までに、それを完成してくださるに違いない」(ピリピ手紙1:6)。私は確信しています。あなたは、どうですか?


      【補足/悪魔は何度でも攻めてくる】

13節「悪魔が誘惑の手を止めて、ほんのひととき救い主から離れ去った」と聖書は報告します(新共同訳「時が来るまで」、新改訳「しばらくの間」)。世々の教会は、いつ悪魔が戻ってきて再び攻撃をはじめるのかと熟慮しました。あの十字架の直前のゲッセマネの園と、十字架の真っ最中にです。「もし神の子なら、十字架から降りて自分を救ってみせよ」(マタイ27:40。ののしり、嘲って笑う人々の中に悪魔が入りました。ユダの中に悪魔が入ったように。その後ずっと悪魔は主イエスの弟子たちを攻撃しつづけていると。「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」。主イエスご自身も、「誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」(エペソ手紙6:10-13,マタイ福音書26:41と。心も体も、なにもかもとても弱い私たちです。だからこそ、いつでも何が起こっても本当に頼りになる、しっかりした支えと助けが必要です。だからこそ私たちは、神さまを信じて生きることに決めました。「全信頼を神におくこと。神のご意思に服従して、神にこそ仕えて生きること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から贈り与えられることを、心でも口でも認めること」(「ジュネーブ信仰問答」問7 1542年)

2019年2月19日火曜日

2/17こども説教「神にこそ従う」使徒5:20-32


 2/17 こども説教 使徒5:20-32
 『神にこそ従う』

     5:20 「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。21 彼らはこれを聞き、夜明けごろ宮にはいって教えはじめた。・・・・・・25 そこへ、ある人がきて知らせた、「行ってごらんなさい。あなたがたが獄に入れたあの人たちが、宮の庭に立って、民衆を教えています」。26 そこで宮守がしらが、下役どもと一緒に出かけて行って、使徒たちを連れてきた。しかし、人々に石で打ち殺されるのを恐れて、手荒なことはせず、27 彼らを連れてきて、議会の中に立たせた。すると、大祭司が問うて28 言った、「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」。29 これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、31 そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。32 わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。              
(使徒行伝 5:20-32

  神さまの使いが主イエスの弟子たちを牢獄から出して、「神の言葉を漏れなく人々に語りなさい」と命令しました。それで弟子たちは、命じられたとおりに人々に語りました。あのときもそうですし、今もこれからも、主イエスの弟子たちは伝えられ、教えられた神の言葉を人々に語りつづけます。大祭司と議会と長老たち一同と宮守がしらと下役たちは、それを止めさせようとしました。語られる神の言葉が怖かったし、自分たちにはとても不都合だったからです。けれど脅かすだけで、乱暴なことはできませんでした。どうして? まわりにいる人々が自分たちに何をするかと怖かったからです。この私たちにも彼らとよく似たところがあります。神さまのことがよく分からず、あまり信じられないでいる間は、その信じられない分だけ、まわりのアレコレやまわりの人間たちのことがやたらに怖くて仕方がなくなります。何をされるだろうかとビクビク、ソワソワしつづけます。弟子たちは答えます。29-32節「人間に従うよりは、神に従うべきである。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。救い主イエスがよみがえったこと、救い主とされたこと。「この私たちと神さまご自身がそれらの証人だ」と臆病な彼らに伝えてあげました。「神にこそ本気で従う」ととうとう腹をくくったので、それでとうとう、もう他のどんなものも怖くなくなったからです。


2/17「権力と栄華を」ルカ4:5-8,申命記8:17-18

                      みことば/2019,2,17(主日礼拝)  202
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:5-8,申命記 8:17-18     日本キリスト教会 上田教会
『権力と栄華を』
~荒野の誘惑.2~


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


4:5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。(ルカ福音書 4:5-8)

8:17 あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。18 あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。(申命記 8:17-18)


 救い主イエスが荒野で悪魔から受けた2つ目の誘惑です。悪魔は、世界の国々を見せて、こう誘います。6-7節、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」と。この世界には、さまざまな種類の権力と繁栄とがあります。とても大きな権力や驚き呆れるほどの贅沢で華やかな繁栄があり、また、ささやかで小さな小さな権力と繁栄もあるでしょうね。一国の大統領や王様が握るような巨大な権力や繁栄があります。また、ごくささやかな権力と繁栄があります。どんなに小規模な集団やサークルの中にもボスがおり、小さな子供たちの世界にも、例えば保育所や幼稚園の子供たちの中でさえ、彼らなりの彼らのためのこじんまりとした、ささやかで小さな権力と繁栄があります。驚くべきことです。私たちはこうして権力と繁栄を望む世界の只中に生きており、そういう意識は、職場にも、一軒の家の中にも、そしてキリストの教会の現実的な営みの中にも忍び込んできます。さまざまな豊かさがあり、美しいものがあり、多くの楽しみや喜びをここで受け取ることもできました。その一方で、私たちのこの世界には罪と悲惨もあり、片隅へ片隅へと押しのけられて惨めさや心細さを噛みしめる小さな人々も沢山いるのです。悪魔の眼差しは、けれども、この世界が背負っている罪深さや悲惨さには向けられません。目に入らないのかも知れません。見て見ぬふりをしているのかも知れません。
 けれど、兄弟姉妹たち。この世界の権力と繁栄とは悪魔に任されているのでしょうか。本当に? もしそうであるならば、私たちは、この世界で豊かさや喜びを手にしようとするなら、よい評判や地位をえたいと願うならば、悪魔に魂を売らなければならないことになります。あるいは妥協して、ほんの少しは、悪魔やほかの様々なものを拝むことや、ひれ伏して誰かの言いなりにされたり、人の顔色をうかがってビクビクすることも、仕方がないと我慢しなければならないですね。そうでしょうか? いいえ、決してそうではありません。なぜなら私たちの救い主は、世界とこの私たちの罪を取り除くために来られました(マタイ福音書1:21。このお独りの方は、やがて私たちをご自分のものとし、私たちの主となってくださいました。けれど、悪魔にひれ伏し拝むことによってではなく、十字架の苦しみと死をもって、死から新しい生命に復活することによって、悪魔の支配を退け、打ち倒してです。だからこそ、キリストの教会よ。主イエスの弟子たちよ。ここにも他のどこでも、小さな親分たちや小さな小さな子分たちを作ってはいけません。誰も、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶったりいじけたり、恥じたり恥じ入らせたりしてはなりません。そうそうもちろん、あなたは今ではとても優れているし、とても強くて大きい。なかなか賢い。いろんなことを習い覚えて、たくさんのことを知っています。けれど、あなたをほかの者たちよりも優れた者としたのは誰です。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もし、神さまからいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして、高ぶったりいじけたりできるのですか(コリント手紙(1)4:6-。「そっちは上座。下々の者はこっち」という一見へりくだっているように聞こえる言い方に、その都度その都度目くじらを立ててきました。それは、とても悪い考え方だからです。ただ単に座席やイスを格付けするだけではなく、人間そのものを互いに格付けし、値踏みしあっています。「ご立派な上等の者たち。中くらいの者。レベルも格式も低い下々の者たち」というふうに、たかだか人間にすぎない者たち同士で互いに見上げたり見下げたりするのは愚かなだけでなく、あまりに俗っぽくて生臭いだけではなく、なにしろ主イエスの福音に背いています。私たちの主は「仕えられるためではなく仕えるために来た」「誰でも偉くなりたい者は皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は皆のしもべになりなさい」とおっしゃったではありませんか。「自分を低くして、この子供のようになる人が天の国でいちばん偉い。このような一人の子供を受け入れる者は私を受け入れている」とおっしゃったではありませんか。「よく聞きなさい。心を入れ替えて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできない」とおっしゃったではありませんか(マタイ福音書20:26-,18:3-と。例えば牧師や長老や執事は、任職式の際に、「(他の誰でもなく)主イエスこそがこの務めに召してくださった」と確信するのかと問い、彼らは「はい」と答えました。だから、他の誰のためでもなく誰の考えや意見に従ってでもなく、ただただ主イエスの御心にかなう歩みをしようと腹を据えました。もちろんそれは具体的ないつもの一つ一つの判断です。例えば、「うちの教会の牧師がこう言う。それで私たちは」。それはとんでもない大間違いです。「教会員の皆がこう言う。だから私は」。それも間違っています。たとえ牧師や長老が「こうだ。こうやりたい」と強く主張しても、熱心に勧めても、それが主の御心にかなうことなら従う。もし御心にかなわないと分かったならば、決して従ってはなりません。皆が「こうだ。こうしたい」と言っても、それが主の御心にかなうなら従う。かなわないなら、「いいえ。違います」とたとえたった一人でも反対しましょう。誰も皆、生身の人間にすぎないからです。御心にかなう正しいことを言うときもあれば、はなはだしく主に背く悪いことを心に思うこともあります。もちろん。だから自分や誰彼がぜひしたいと思っても、主の御心にかなわないなら、それをしてはいけない。気が進まなくても渋々嫌々でも、それが御心にかなったことなら、それをすべきです。難しいことですし、苦しいことです。でも、ぜひそうありたいと願い求めて生きる価値がある。執事や牧師や長老の腹の据え方であるだけでなく、これは一個のクリスチャンの腹の据え方です。教会の中だけでなく、家に居ても学校にいても職場でも。『主の祈り』に含まれる六つの願いのうち最初の三つは神さまご自身についての願い、残りの三つは私たち自身について。その最初の三つの願いが私たちの腹の据え方を方向づけます。なにしろ、「私が願うことでなく、他の誰彼の希望や願いどおりではなく、むしろただ天の父の御心こそがこの地上になされますように。私の国ではなく、他の誰彼の国でもなく、天の父の御国こそが来ますように」と願い求めている私たちですから。なにしろ、「私が尊敬されたりあがめられるのでなく、他の誰彼が誉めたたえられるのでもなく、天の父の御名をこそあがめ、そこに信頼と感謝を寄せる私たちであらせてください」と願う私たちだったはずです。地上のボスや目の前の主人の言いなりにされるとき、強い者や大勢の声に押し流されてゆくとき、「天に主人がおられる」ことは片隅に押しのけられています。「二人また三人が集まるとき、私もその中にいる」という主の約束は踏みつけにされています(コロサイ手紙4:1, マタイ18:20)
 それぞれの、荒野の旅を思い起こしましょう。荒野を旅するように生きてきた日々を。悩みの蛇に咬まれたり、トゲに刺されたりしながら(民数記21:4-9,コリント手紙(2)12:7-11参照)、たびたび飢え渇きました。乏しさに悩みました。さまざまな恐れに捕われました。私たちは、それぞれに豊かさを願い、喜びやよい評判や地位の向上を求めました。そのために努力もしてきました。数的・物質的な成長や拡大をも私たちは願います。もちろん、それは願っても良いし、求めてもいいのです。それでも、それら一切は悪魔の手にゆだねられているのではありません。私たちの働きと努力いかんに掛かっているのでもありません。どこかのご立派そうな誰かの手に握られているのでもなく、主イエスご自身こそがその手に握っていてくださる。ですから私たちは、悪魔や力を持つ様々なものにひれ伏し、頼みとするのでもなく、「自分次第。最後の最後は、結局はやっぱり自分が頼りだ」というのでもなく、主にこそひれ伏し、主イエスご自身を頼みとします。主への信頼と従順をもってこそ、私たちの幸いを願い求めます。こう書かれているからです;「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる」(マタイ福音書6:33。ほか一切は添えて与えられる。皿の上の肉やハンバーグの脇に添えてある人参やポテトフライのように。焼き魚の脇に添えてある大根おろしのようにです。なにしろ私たちの天の御父は、これらのものが皆私たちに必要なことをよくよく知っていてくださり、ぜひ与えたいと願い、備えていてくださるのですから。
 例えば子供たちは、今の社会がとても不安定な危うい土台の上に築かれていることを見て取って、それで、がむしゃらに必死に受験勉強に励んでいるでしょうか。学歴や成績の優秀さやさまざまな能力、特技、取り柄こそが自分を最後のところで支えてくれることを期待して、それで、不安に思いながら恐れながら、励んでいるのでしょうか。例えば年老いたものたちは、だんだんと目がかすみ、足腰が弱り、体力が衰えてゆくことを嘆き恐れているでしょうか。体の弱い人々は、「よい医者とよい薬さえあれば」と見回しているでしょうか。あるいは私たち自身は? 実は、同じ一つのことが問われています。私たちは、いったい何を支えとして、なにを頼みの綱として、日々を心強く生きることが出来るだろうか。何があれば十分だろうか、と。

             ◇

 今日ご一緒に読んだもう一つの箇所は、申命記8:17-18でした。「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである」。神さまが私たちを守っていてくださることも心強く支えてくださることも、それらはごく簡単に、当たり前のようになってしまいます。『喉もと過ぐれば熱さを忘るる』と昔の人は言いました。辛かったことや苦しかったことをすぐに忘れてしまうだけではなく、喜びも感謝も驚きも、私たちはすぐに簡単に忘れてしまうのです。申命記8:17、「自分の力と手の働きでこの富を築いた、などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」。そして同じ8:10、「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」。この戒めの言葉は、聖書の信仰に生きる人々のお茶の間の食卓テーブルの祈りとされました。私たちも、これを自分の家の茶の間のいつもの食卓テーブルに置きたいのです。冷蔵庫のドアにも貼っておきたいのです。十分な食事をして満ち足りたときに、主を思いたい。お茶を飲んで、暖かい家でくつろいでいるときに主を思いたい。毎月の給料がいつも通りに通帳に振り込まれているのを見たとき、そこで主を思いたい。家族がいつものように平穏に安心して暮らしているのを眺めて、そこで、主なる神さまを思いたい。
 だからこそ、主イエスはおっしゃいました;「あなたの神である主を拝み、ただ主にこそ仕えよ」(ルカ福音書4:8,申命記6:13,10:20)。拝むことも仕えることも、それは第一に礼拝を意味します。なにをおいても、その一回の礼拝です。しかも、拝むことは『それに必要なだけ十分に信頼を寄せ、よくよく聞き従い、それをこそ頼みの綱とする』ことです。主に仕えることも、主を拝むことも、一回の祈りから始まり、一回の礼拝から、ここから始まります。主に仕え、主を頼みの綱とする生活は月曜日から土曜日まで、自由に、のびやかに広がってゆくでしょう。いつでも、誰と一緒のときにも、どこで何をしているときにも何もしていなくたって、そこでそのようにして主に仕えている私たちです。見なさい。あなたには天に主人がおられるのです(コロサイ手紙3:22-。こう祈り求めましょう。「主よ、どうか私たちの手の働きを確かなものとしてください」(90:17)。私たちの手の働き。あなたはどんな手を持っていますか。私たちの手が大きくても小さくても、強くても弱くても、私たちが賢くても愚かであっても、忍耐深くても疲れやすくても。それでも何しろ、主なる神さまこそが確かなものとしてくださって、主ご自身が喜ばしく用いてくださるならば。なにしろ、ただ主の恵みと真実さによってこそ、私たちを持ち運んでいってくださるならば。ぜひ、そうであっていただきたいのです。しかも、必ずきっとそうしてくださる、と私たちも確信しているからです。

         

2019年2月12日火曜日

2/10こども説教「留置場の戸が開かれる」使徒5:12-20


2/10 こども説教 使徒行伝5:12-20
 『留置場の戸が開かれる』

     5:12 そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた。そして、一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた。13 ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。14 しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた。15 ついには、病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、そのうちのだれかにかかるようにしたほどであった。16 またエルサレム附近の町々からも、大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まってきたが、その全部の者が、ひとり残らずいやされた。17 そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ちあがり、18 使徒たちに手をかけて捕え、公共の留置場に入れた。19 ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、20 「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。          (使徒行伝 5:12-20


  神さまを信じて生きていても、それでもやっぱり苦しいことや困ったことは次々に起こります。けれども、助けや支えがきっと必ず神さまのもとから送られてきます。あの彼らもそうでした。私たちも同じです。ムチで打たれたり、脅かされたり、ひどく殴られたり蹴られたり、牢獄に閉じ込められたりもします。それでも大丈夫。なんの心配もありません。このことをよく知っている必要があるので、この5章と12:1-1116:23-34と、合わせて3回、牢獄の戸が神さまの力で開かれたことが報告されています。5章と12章は弟子たちを助け出すために、16章は牢獄の看守とその家族をクリスチャンにしてあげて、神を信じて生きる新しい人生へと招き入れてあげるためにです。そのことは、いつか別のときに話しましょう。もちろん、あなたにも私にもものすごく困ることが起きますよ。次から次へと。けれど、どんな苦しみや悩みや困ったことが起きた時にも、助けが神さまから来ると信じることのできる人たちはとても幸いです。恐ることなく、どこへでも安心して出て行って、神さまに仕えて晴れ晴れと生きることができるからです。

  【補足/神さまに信頼すること】
   信仰問答は語ります、「神を敬う、正しいあり方はどういうものですか?」全信頼を神におくこと、その御意志に服従して、神に仕えまつること、どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めることです(「ジュネーブ信仰問答」 問7 1541年)。


2/10「石をパンに変えてみせろ」ルカ4:1-13


                       みことば/2019,2,10(主日礼拝)  201
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:1-4                        日本キリスト教会 上田教会
『石をパンに変えてみせろ』
                          荒野の誘惑. 1

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

4:1 さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、2 荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。3 そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。9 それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。10 『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、11 また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。12 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。13 悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。     (ルカ福音書 4:1-13)

 ヨルダン川で洗礼を受けた後、救い主イエスは荒れ野を4040夜さまよい歩き、そこでサタンから誘惑をお受けになりました。三つの誘惑ですから、それらを三回に分けて大事に読み味わっていきます。今日は、その第一回目。主イエスに対して、「あなたは私の愛する子、わたしの心にかなう者である」(3:22)と、まず父なる神ご自身からの証言が鳴り響きました。つづいて直ちに、それをあざ笑うかのように悪魔が問いかけます;「もし、あなたが神の子であるなら」(3,9)と。このとき、そこには悪魔と主イエスしかいませんでした。悪魔と主イエスしか、この出来事を知りません。それなのに、こんなにていねいに報告されているのは、主イエスご自身が「あのとき、まず彼はこう言って、すると私は」などと弟子たちに直々に伝えてくださったからです。あの弟子たちと、そして私たちのために。
  ところで、あなたは神さまを信じているのですか? かなり本気で信じているんですか。それとも、だいたいなんとなく。アレコレといくつか信じたり信頼を寄せているモノがあり、その中で、その何番目くらいで? ――こんなことを言われて腹が立つかも知れません。勘弁してください。けれど、「この私は神様に信頼している。けれどそれは何番目くらいにだろうか」と、つくづく思いめぐらせてみましょう。きびしい試練や悩みにさらされる日々には特に、そうする価値があります。もし、『神がおられます。心の中にあるだけでなく、そのお方が生きて働いていてくださる』と知るならば、同時に私たちは、『悪魔もまた在る。心の中で漠然と思い描いたり想像するだけでなく、現実に、悪魔もまた生きて働いている』と認めないわけにはいかないでしょう。悪魔を絵空事とし、単なる想像上の産物としてしまうなら、同時にまったく、あなたは神さまご自身をも絵空事としてしまうでしょう。悪魔は在ります。決してあなどってはなりません。あの彼はとてもずる賢く、手強いのです。やがて間もなく、あなたが悪魔の策略の中にもてあそばれ、手厳しく誘惑を受けるときが来ます。しかも何度も繰り返して。もしかしたら、もう何年も何年も、ずっとそうなのかも知れません。そのとき、「なぜ、選りにも選ってこの私に」と意外なことのように驚いてはなりません。救い主イエスご自身が誘惑を受けたのです。主に従って日々を生きる私たちも、また悪魔の誘惑にさらされます。恐るべき悪魔のワナと悪だくみにからめとられそうになります。嵐の日々がすぐ目の前に迫ってきているからです。強い風が吹き渡り、川の水があふれて、あなたの家に今にも押し寄せようとしています。本当のことですよ。だからこそ、「目を覚ましていなさい。目覚めているためにこそ、必死に一途に祈れ。あなたの体も心も弱いのだから。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、あなたは神の武具を身に着けなさい」と命じられます(マタイ26:41,ルカ22:31,エペソ手紙6:11-,ヤコブ手紙4:7
  さて、救い主イエスに対するその最初の誘惑です。3節。「もしあなたが神の子であるなら、この石にパンになれと命じてごらんなさい」。父なる神さまは私たちに何が必要なのかをよく知っていてくださり、その必要なものの一つ一つを用意して、贈り与えてくださいます(マタイ,6:11,31-,121:1)。私たちのための助けと備えは、この慈しみの神さまから来ます。だからこそ悪魔の攻撃は、まず第一に、神へのこうした信頼に向けられます。『神さまに信頼できない私たち』にさせたいのです。「何に聞き従い、誰に信頼したらいいだろう。いったい何を頼りとできるだろうか」と、悪魔は私たちに右往左往させたいのです。とても苦しくて辛い日々に、ぜひとも祈るべきその時に、けれど「苦しくて苦しくて、とても祈ってなどいられない。それどころじゃない」などと私たちに言わせたいのです。私たちに襲いかかろうとして、悪魔はまず初めに、私たちの主人に襲いかかりました。つまり救い主イエスに。主イエスは荒れ野を4040夜引き回され、何も食べず、空腹を覚えておられました。飢え渇いて疲れ果て、心も体もすっかり弱ったところで、悪魔はささやきかけました。「腹が減って腹が減って、苦しくて仕方がないだろう。え、じゃあ、ここに転がっている石をパンに変えたらどうだ」と。
 4,8,12節「~と書いてある。~と言われている」。主イエスは悪魔の攻撃に抵抗して、『聖書にこう書いてある。聖書は、こう語っている』と断固としておっしゃいます。それこそが彼の唯一最善の武器であり、同時に、この私たち自身のための最善の武具です。例えば、「新聞やテレビでこう言っていた」。けれど新聞もテレビも、学校の教科書さえ間違うことはあります。「立派でしっかりしている△△先生がこう言っていた。だから」。いいえ、立派でしっかりしたとても物知りの大先生であっても間違うことがあります。それらは人間の言葉にすぎず、その立派そうに見える、頼りがいのあるように見える格別な人物もまた、たかだか人間にすぎないのです。けれど、「聖書がこう語っている」。それだけは別格です(ヨハネ5:39-40,20:30-31,テモテ(2)3:15-17コリント(1)15:3-。誘惑と試練に立ち向かうための最善最大の、有効な武具は、神の言葉であり、神の言葉に一途に信頼を寄せ、本気になって聞き従うことです。主イエスはそれをお用いになりました。この私たちも用いたいのです。だって、せっかく神さまを信じて生きはじめたのですから。せっかく、聖書を1人1冊ずつ持っている。本棚のどこかに並べてあるだけじゃなく、その言葉を聞き届けつづけてきたのですから。
 けれどなぜ、主イエスは悪魔から誘惑を受けたのでしょうか? 悪魔には、救い主を誘惑する必要がありました。それだけではありません。救い主には、悪魔の誘惑を受け、それを受けとめて、打ち破る必要があったのです。なぜならこの救い主は、罪人を救うために世に来られたのですから(テモテ手紙(1)1:15)。救い主イエスを信じる人々よ。考えてみていただきたいのです。もし仮に、正しい者や、見所のある者や力強く賢い者たちを救うためになら、もっと簡単で手軽なやり方ができたでしょう。もしそうなら、わざわざ地上に降りてくる必要もなく、低く貧しく身を屈める必要もなく、恥と苦しみの只中で十字架のむごたらしい死を味わう必要もなかったことでしょう。けれど兄弟たち。私たちを救うためには、それらがどうしても必要でした。救い主イエス・キリストは、罪人を救うために世に来られました。もっぱら、そのためにこそ来てくださったのです。弱い者、貧しい者、ついつい神に背き、敵対さえしてしまう愚かでかたくなな者たちのために、それら罪深い者たちをあわれむ神です(ローマ手紙5:5-,コリント手紙(1)1:25-)。神さまが私たちを愛する愛し方は、この世界の普通一般のやり方や考え方とはずいぶん違っています。この世界では、多くの場合、取り柄や特技や見所があって、そこではじめて人は愛され、受け入れられ、認められます。ほとんどの場合がそうです。子供の頃からそういう扱いを受けてきた私たちには、そうではなく、まったく違うやり方で愛してくださる神だといくら説明しても、なかなか受け入れられません。しかも、ほとんどの人たちは、そんな愛された方や受け入れられ方はあまり好きではないのです。だから今まで生きてきた通りに、「見所や良い働きがあって、だから認められ、だから受け入れられている」と思いたいのです。・・・・・・兄弟姉妹たち。神のあわれみを受け取るには、私たちはあまりに自惚れが強すぎます。神さまの慈しみ深さを喜び祝うには、私たちは自尊心が高すぎます。生きて働いておられます神ご自身の力強さを知るには、私たちは、自分自身と周囲の人間たちのことで心が一杯で、そわそわキョロキョロしつづけて、あまりに気分散漫すぎるのです。
  さてもう一度、パンのことを語りましょう。「人はパンだけで生きるのではない」(ルカ4:4,申命記8:3)と、主イエスは石をパンに変えることを拒みました。パンだけで生きるのではない。それはどういう意味でしょう? もちろん誰一人も、一切れのパンもなしに、仙人のように雲や霞を食べて生きられるわけではありませんね。私たちは現実には、主の口から恵みによって与えられる一つ一つの言葉によって、そしてまた同時に、主が恵みによって与えてくださるパンによっても、生きてきました(ルカ11:3,出エジプト記16:1-,箴言30:7-9。言葉だけではなく、パンも水も肉も、不足なく十二分に与えられてきました。これまでもそうでしたし、今もこれからもそうです。主の口から出る言葉と、主の御手から差し出されるパンと、その両方ともによって、私たちは生きる。それがこの箇所と申命記8:3-の真意です。石をパンに変えること。ほか様々な苦難や厄介事を解決してくれるようにと私たちが神にアレコレ願い求めることも、正しい良いことです。やがて救い主イエスは、石どころか、ご自分の体を『天からの恵みのパン』として私たちに贈り与えてくださるのですから。十字架上の苦しみと死をもって、格別な生命のパンを贈り与えてくださるのですから(ヨハネ6:47-58)。パンに変えることはOKです。けれど『近道をして、ここで手軽に』ではなく、『あの時に、あの丘の上で、あの十字架の木の上で。救い主のあの苦しみと死をもって』。

  一つのことに目を留めましょう。今日の報告の冒頭部分です。1-2節、「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた」。主イエスは聖霊に導かれて、ヨルダン川から帰り、聖霊なる神さまに引き回されて荒れ野をさまよいました。つまり荒野を引き回されたのは、悪魔の仕業や悪だくみではなく、神の御霊によってでした。ときどき私たちは誤解してしまいます。「もし聖霊なる神さまが私たちを導いてくださっており、神の恵みと支えのもとに置かれているとするならば、苦しいことや困ったことは何も起こらないはずだ。乏しいことも恐れも、何一つないはずじゃなかったのか」と。苦しむ友だちからこう問われたとき、あなたは何と答えることができるでしょう? あなたの息子や娘がこう問うとき、あるいはあなた自身が苦しみと悩みの只中で自分自身にこう問いかけるときに、あなたは何と答えることが出来るでしょう?
 苦しみ悩む日々は確かにあります。信仰を持っていてもそうでなくても、同じように苦難と災いが襲いかかります。豊かに満ち足りるときがあり、乏しい日々もあります。喜びと幸いばかりでなく、悩みも辛さも次々とあります。例えば神ご自身が、パウロに苦しくて苦しくて、とても痛くてたまらないトゲを刺しました。取り除けてください取り除けてください、どうかお願いします、取り除けてくださいと彼は30回も300万回も祈り求めつづけました。けれど、トゲは抜いていただけませんでした。なぜでしょう。分かりません。それでもなおあの彼は不思議な仕方で、喜びに満たされました。とうていありえない仕方で、ついにとうとう習い覚えたのでした。「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(コリント手紙(2)12:9-10。弱いときにこそ強い。つまり、私たちは自分自身が強すぎた間、神さまの恵みを門前払いしつづけていました。賢すぎた間、自分とその腹の思いこそが主人でありつづけて、神ご自身の働きを押しのけ、棚上げし、邪魔しつづけていました。重い病気にかかり、困難な状況に直面して頭を抱えるときに、むしろ、そこで主なる神に願い求めましょう;「主よ、この試練と悩みを取り除けてください。けれどもし、今しばらく苦しまねばならないのでしたら、この試練に耐えることができるように、私を守ってください。どうぞ、私をお支えください。そのように願い求めることができるほどに、どうか私たちを弱くしてください。あなたご自身の強さ、賢さ、豊かさに信頼することができるほどに、どうぞ、私たちを弱く愚かに乏しくしてください」と。
兄弟姉妹たち。主が私たちを導いてくださったそれぞれの荒野の旅を思い起こしましょう。荒野を旅するようにして生きてきた日々を。たびたび飢え渇きました。乏しさに悩みました。さまざまな恐れと疑いに捕われました。なお続くこれからの旅路も、まったくそのようです。主の口から出る一つ一つの言葉によって生き、天からの恵みのパンによって養われつづけてきました。『天からの恵みの~』ではないパンなど、実は一かけらもありませんでした。どうぞご覧ください。私たちの手の中には、天からの恵みの米と味噌と醤油があり、天からの恵みの兄弟と隣人と大切な大切な家族があり、天からの恵みの職場と居場所とを、慈しみ深い神さまからの憐れみによって贈り与えられています。そして一日分ずつの、天からの恵みの生命と寿命を。だからこそ、ご覧なさい。目を凝らして、よくよく見てご覧なさい。私たちのまとう着物は古びず、私たちの足もほんの少しも腫れていません(申命記8:4)。なんという恵み、なんという喜びでしょう。


《礼拝の予告》
2月17日 権威と繁栄を」        ルカ4:5-8
             24日 「神を試みてはならない」  ルカ4:9-13