2018年11月19日月曜日

11/11「信じた私の幸い」ルカ1:39-50

                       みことば/2018,11,11(主日礼拝)  188
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:39-50                      日本キリスト教会 上田教会
『信じた私の幸い』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


1:39 そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、40 ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、42 声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。43 主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。44 ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。45 主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。46 するとマリヤは言った、
「わたしの魂は主をあがめ、
47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。
そのみ名はきよく、
50 そのあわれみは、代々限りなく、
主をかしこみ恐れる者に及びます。         (ルカ福音書 1:39-50)

  「聖書によって証言されている神さまを信じる」とは、どういうことでしょうか? 私たちが神さまを信じ、神さまにこそ信頼を寄せ、聴き従い、神さまに感謝し、神さまのお働きを願い求めながら、それぞれの役割を担い、それぞれ精一杯に生きています。それはどういうことでしょうか。どんな神さまを、どのように信じているのでしょうか。日曜ごとにいったい何が告げ知らされ、私たちは何をどのように受け取り、腹に収めて、暮らしを建ててきたのでしょう。クリスチャンとは何者でしょう。キリストの教会であるとは、何でしょうか?

  イエスの母マリヤとその親戚であるエリサベツとの対話です。どうしたわけかエリサベツが、イエスの母マリヤをむやみに崇めたてようとしているかのように見えます。42節で、「女の中で祝福された方」と。43節で、「わたしの主のお母さま」と。確かにマリヤに聖霊がくだり、いと高き方の力が彼女を包みました。彼女は神さまから恵みをいただきました。けれどそれに比べて、エリサベツや私たち一人一人はどうでしょうか。聖霊に満たされていたはずです。エリサベツも私たちも恵みをいただき、いと高き神さまの力に包まれたはずです。そうですね。けれど、マリヤの場合よりも少し格下の聖霊であり、やや程度の劣る小さな恵みや幸いだったのでしょうか。マリヤが一番で、二番目はエリサベツで、三番目四番目は誰それでと。ここが、今日の考えどころです。45節に目を凝らしてください。「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた者は、なんと幸いなことでしょう」。私たち人間が神さまから受け取ることのできる幸いは、これです。じゃあ、誰がどうやってこの同じ一つの幸いを受け取ることができるでしょうか。主のお語りになったことが必ず成就すると信じることによってです。
 そして、直ちに「マリヤから神への讃歌」がつづきます。47節以下、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ心にかけてくださいました。今からのち、代々の人々は私を幸いな女と言うでしょう、力ある方が、わたしに大きな事をしてくださったからです。その御名は清く、その憐れみは代々限りなく、主をかしこみ畏れる者に及びます」。彼女が受け取った幸いの中身はいったい何でしょう。私は身分の低い主の下働きの使用人に過ぎない、と彼女自身ははっきりと言い、とても低い場所にいた私を神さまが高く引き上げてくださった。それはただただ憐れみだったと告げています。それでもなお、立派で偉大な神さまが偉大なことをしてくださったのは、やっぱり彼女自身も立派で偉大だったからに違いないと言わねばならないでしょうか。いいえ、決してそうではありません。このマリアから神への讃歌でも、68-79節の「ザカリヤから神への讃歌」でも、彼らは声をそろえて「憐れみ、憐れみ、憐れみ。ただただ恵み」と神さまをこそ一心に誉めたたえているのに、なお神さまをではなく、たかだか人間にすぎないマリヤさまや他の誰彼を次々と誉めたたえたり、拝んだり、崇め立てたりしていいでしょうか。いいえ。それは、神をこそ信じる信仰から大きくかけ離れており、はなはだしく道を踏み外しています。神を敬う、正しい在り方はどういうものですかと500年も前の信仰問答は問いかけ、こう答えています。「全信頼を神におくこと。そのご意思に服従して、神に仕えまつること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めることです」(「ジュネーブ信仰問答 問7」1542年)。はい。まったく、そのとおりです。
 先週のおさらいですが、37節で「神には、何でもできないことはありません」とさらに告げられて、そこでマリヤは屈服し、38節で「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と受け入れました。その37節と38節の間には、どれほどの時間が流れたでしょう。「神には、何でもできないことはありません」と告げられて、「はい。分かりました」と頭を下げるまでは。同じことを告げられ、「はい。分かりました」と頭を下げた人間はたくさんいました。アブラハム、サラ、夫ヨセフ、主イエスの弟子ペトロ、この私もそうですし、多分あなたも。ほかにも、おびただしい数の人々が。けれどもどうしたわけか、なお、「素晴らしい、とても秀でた信仰の、あまりに信仰深いマリヤさんだから、それで救い主イエスの母親として選ばれた」と多くの人々は言うでしょう。救い主イエスが素晴らしい方だったのは、多分そのお母さんも同じく生まれたときから素晴らしい方だったに違いない。ということは、マリヤさんのお母さんも、そのまたお母さんも。いいえ、デタラメの嘘八百です。騙されてはいけません。私たちは信じています。ただただ救い主イエス・キリストを。なぜならこのお方が、「わたしは道、真理、生命である」(ヨハネ福音書14:6)と仰ったからです。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」と主イエスは仰いました。「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と告げられて、トマスが尋ねました「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道が分かるでしょう」。主イエスは仰いました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もし、あなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。ただ一本の、他のどこにもない格別な道があり、その道を通るならば、マリヤさんでなくてもエリサベツさんでなくてもどこの誰でも天の御父のもとに必ずきっと辿り着ける。ただ一つの真理があり、このお独りの方から聴くならば、どこの誰でも必要なことを十分に知って、十分な恵みと幸いのうちに生きて死ぬことができます。ただ一つの格別な生命があって、このお独りの方から受け取るならば、どこの誰でもその生命の中で幸いに生きて死ぬことができます。
  ですから兄弟姉妹たち。「恵まれた方よ。おめでとう。主があなたと共におられます」と告げられて、もう私たちは戸惑ったり、誰のことだろうかとまわりをキョロキョロ見回しつづけなくてもよいのです。他でもないあなた自身のことであり、この私たちのことであるからです。「恐れるな。あなたは神から恵みをいただいている」と告げられて、「ああ、まったくその通りだ」と恐れや心細さをポイと投げ捨ててもよいのです。なぜ? どうしてでしょうか? 聞いて、それを信じたからです。信じて生きることを、今日まで積み重ねてきたからです。これからもそうであるからです。素敵な人々、清らかで正しく高潔でご立派な偉い方々があちこちに山ほどいるのではなく、決してそうではなく よい神さまが、こんな私たちのためにさえ、いてくださるからです。最も大切なこととして伝えられたのは、救い主イエス・キリストの死と復活の証言でした。ただ救い主イエスが死んで生きただけではなくて、この私たちもまたこのお独りの方に率いられて、古い罪の自分と死に別れ、葬り去っていただき、新しい生命に生きる者とされました。それは私たちが洗礼を受けたときから始まり、生涯ずっと続きます。古い罪の自分と死に別れ、葬り去っていただき、新しい生命に生きる。この一日も、次の日もまたその次の日も。コリント手紙(1)15章が、はっきりと証言しています。なぜなら私たちに先立って、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死にました。葬られ、聖書に書いてあるとおり三日目に復活しました。「聖書に書いてあるとおり。聖書に書いてあるとおり」と何度も何度も念を押されつづけましたので、それで私たちは、「じゃあ聖書に実際にどう書いてあるのか。本当だろうか」と目を凝らし続けてきました。これからもそうです。ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなこんな私たちにも、現れたのです(コリント手紙(1)15:5-8参照)。とても小さな者にも、もっと小さな者にもそれよりもっともっと小さな者たちにも。その人自身に資格や値打ちがあろうがなかろうが、というよりも私たちが口癖のように祈っているとおりに、「値打ちのない、価しない、ふさわしくない小さな者」たちにも、その中の最たる者たちにさえ、復活の主イエスが姿を現してくださいました。それが、あの彼女たちであり、彼らであり、ここにいるこの私たちです。神さまの恵みによって今日の私たちがあります。ただただ恵みによって。しかも、その恵みは無駄になりませんでした。その恵みと憐れみを信じる信仰も無駄にはなりません。実を結ばないはずがなかったのです。なぜでしょうか。なぜなら、キリストは死者の中から復活したからです。弟子たちが見ている目の前で天に昇っていかれ、御父の右に座り、今も生きて働いておられ、やがて再び来られるからですし、終わりの日にそうであるというだけでなく、日毎に、信じる者たちのところへと復活の主イエスの御霊が来つづけておられるからです。

              ◇

  思い煩う日々があり、悩みと苦しみの日々があります。心細さと恐れに打ちのめされそうな日々があります。それでもなお順風満帆な日々にも逆境の只中にも、健康で幸せで満ち足りるときもそうでないときにも、ただ一つの格別な慰めと支えと希望がありつづけます。500年も前の古い信仰問答がはっきりと告げ知らせているとおりです。「それは、生きるにも死ぬにも、わたしは体も魂もわたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであるということです。このお方が、その尊い血によってわたしのすべての罪の代償を完全に支払ってくださり、まったく悪魔の権力のもとにあったわたしを解放してくださいました。そしてわたしを守り、天にいますわたしの御父の御心なしには一本の髪もわたしの頭から落ちることなく、実にすべてのことが必ずわたしの祝福に役立つようにさえしていてくださいます。それゆえ彼は聖霊をも贈り与えてくださり、この御方によって、わたしに永遠のいのちの確証を与え、今より後わたしは、救い主イエスのために生きることを心から喜び、その備えをしている者であるようにしてくださるのです」(「ハイデルベルグ信仰問答 問1」,1563年)
  しかも、主であり救い主であるイエスはおっしゃいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ福音書11:25-26参照)。問われつづけているのは、ただ一点です。私たちが生涯をかけて答えつづけようとしているのも、やはり、ただこの一点です。言葉でも行いでも、腹の思いによっても信じていることの中身を答えつづけて、私たちは生きるのです。心に留め、子供たちにも自分自身にも繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きていても、働くときにも休むときにも答えつづけます(申命記6:6-9参照)。主イエスこそ私たちの復活であり、世界とこの私たち自身の命です。このお独りの方を信じる者は、死んでも生きる。生きていてこのお独りの方、救い主イエス・キリストを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを、あなた自身は信じるか? 
ごいっしょに祈り求めましょう。