2018年11月27日火曜日

11/25こども説教「神がイエスを救い主として立てた」使徒行伝2:29-36


 11/25 こども説教 使徒行伝2:29-36
 『神がイエスを救い主として立てた』

     2:29 兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。30 彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、31 キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。32 このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。34 ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せになった、35 あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。    
(使徒行伝2:29-36

  36節。「だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」と語りかけられました。「イスラエルのすべての家の家族たちは」。つまり、救われて神の子供たちとして祝福と幸いに招き入れられるはずの者たちは皆と。そして、私たちがしてしまったことと、神が私たちの救いのために成し遂げてくださったことの二つが並べて語られました。まず、「神ご自身である救い主イエスを十字架につけて殺してしまったのは、そのとんでもない極悪人は他の誰でもなく、この自分たち自身だ。この私のことだと」。次に、「けれどなお、神に逆らうその私たちをゆるして救いへと招き入れるために、神は救い主イエスを死なせ、墓に葬らせ、さらに墓からよみがえらせて、私たちのための主、また救い主として立ててくださった」ということ。なんということでしょう。これを聞いて強く心を刺された人々がいました。「私たちはどうしたらいいのか」と問いかけながら、あの彼らは、神によって救われることをついにとうとう心底から激しく願い求めはじめたのです。

    【補足/救われることの入口】
    誰もが救われるわけではありません。救い主イエスを信じて、この方によって救われたいと願う者たちは、救いとい祝福の入口に立っています。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ手紙10:9,ヨハネ福音書3:16)と聖書は証言します。


11/25「自分の父の家にいる」ルカ2:41-52

                       みことば/2018,11,25(主日礼拝)  190
◎礼拝説教 ルカ福音書 2:41-52                     日本キリスト教会 上田教会
『自分の父の家にいる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。42 イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。43 ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。44 そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、45 見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。46 そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。47 聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。48 両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。49 するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。50 しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。51 それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。52 イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。       (ルカ福音書 2:41-52)

 (来週からクリスマスを挟んで一ヶ月間、主イエスがお生まれになった前後の出来事をまとめて読み味わいます。そのため、今日は順序を入れ替えて主イエスが12歳のときに起こった迷子事件のことをお話します。おゆるしください――)
  救い主イエスが神の国を宣べ伝えはじめたのは、およそ30歳になってからでした(ルカ3:23)。主の誕生の前後の様子についてはくわしく報告されました1:26-41。けれど生まれた後から30歳まで、主がどんなふうに生活し、どんなふうに育ったのかを、聖書はほとんどまったく語りません。つまり、この12歳のときの一つの出来事を除いては。41節です。彼らにとって、祭りは礼拝です。毎年毎年のエルサレムの祭りに向かう旅は、ですから礼拝へと、そして神ご自身へと向かう旅でありつづけました。そういえば遠い昔、奴隷にされていたエジプトの地から脱出するとき、モーセと仲間たちはエジプト王パロに、「私たちを荒れ野に向かわせてほしい。それは礼拝へと向う旅であり、主なる神さまを礼拝しつつ生きる旅であり、そのように生きることが私たちにはぜひとも必要なのだ」と要求しました。王は彼らに、「誰と誰が主に仕えるのか」と質問しました。彼らは答えました、「わたしたちは幼い者も、老いた者も行きます。むすこも娘も携え、羊も牛も連れて行きます。わたしたちは皆で共々に主の祭を執り行わなければならないのですから」(出エジプト記10:9)と。その通り。小さな子供も年老いた者も娘も息子も皆共々に、わたしたちは全員で主の祭を執り行わなければならない。主の祭りは我々全員のもの。私たち皆は主のものだからです。しかも、その礼拝の只中で、私たち全員がもはや他の誰のものでもなく、自分自身が好き勝手に用いて良いものでさえなく 主ご自身のものであることがはっきりと明らかにされます。

 さて、その礼拝からの帰り道。12歳の少年イエスが迷子になりました。両親はとても心配し、心を痛めて、あちこち探し回りました。とうとう息子を見つけました。なんということでしょう。あの息子は神殿の中で、教師や学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしていました43-47節)。「心配したじゃないの。なぜ、こんなことを」と問い詰める両親に、しかし少年イエスは不思議な答えをします;49節、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。自分は天の御父の独り子である。だから当然、自分の父の家にいるはずであり、それが当然であることをあなたがたは知らなかったのかと。
 51節です。この出来事を、心におさめて思い巡らせる一人の人がいました。私たちにとっても、心におさめて深く思い巡らせつづけるに足る出来事が起こったのです。主イエスは神の独り子であるから、なるほど、この方にとっては天の父はまったく父であり、神殿はまったく自分の父の家です。あの彼がそこにいることは当たり前のことです。けれど、それだけではありません。神の独り子は救い主としてこの地上に降りてこられました。私たちの主となってくださり、ただこの主イエスを信じることによって、私たちを神の子たちとして迎え入れてくださいました。そうでしたね。ですから、この方にとってだけではなく私たちにとっても、天の父はまったく正真正銘、自分の父であり(ガラテヤ手紙4:5, ローマ手紙8:14-、神殿は自分の父の家ではありませんか。私たちは父の家に迎え入れられ、何の恐れもなく、気兼ねも遠慮もいらず自分の父の家に留まることをゆるされています。
 主イエスがご自分の父の家におられます。しかも、それは驚いて目を見張るべきことです。なぜなら神の独り子イエス・キリストは神であり、地上に住まうはずなどなかったからです。天も、天の天も、この方をお納めすることなどできないはずでした。世界中の有名建築をすべてあわせてもなおまったく不十分で、どんなに荘厳で巨大な神殿もソロモン王の神殿でさえ、それらは皆たかだか人間が建てたにすぎず、神が住まうにはまったく不適格でした(列王記上8:27-。けれども兄弟たち。天におられるはずの神は、私たち人間とすべての生き物たちを深く憐れむ神だったのです。神は、私たちをあわれんでくださいました。天にいまして御目を注ぎ、耳を傾けて祈りを聞き届けてくださるばかりでなく、とうとう、天の高みにおられますことをポイと投げ捨てて、その栄光も尊厳も投げ捨てて、この私たちの地上に降り立ってくださった。やがて神殿から商人たちを追い出して、「私の父の家は祈りの家でなければならない」と厳しく叱ってくださった(ルカ19:46参照)のは、あれは何のためだったでしょう。誰のためだったでしょうか。十字架につけられた主イエスが息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれた(ルカ23:45のは、あれは何のためだったでしょう。誰のためだったでしょうか。天の御父が御父とされるため、御父の家が御父自身の家であるため、ご自身のため、そして私たちのためです。私たちがここで天におられます父なる神と出会い、父なる神の御声を聞き届けるためにです。顔をあげて、恵みの御座に大胆に近づいてゆけるためにです(ルカ18:9-,ヘブル手紙4:16-)。誰でも、どこに住んで何をしている人であっても、大きなものも小さなものも何の恐れも遠慮もなく、父なる神さまの御顔を仰いで祝福と幸いを得るためにです。私たちをあわれむそのあわれみは、天におられる「べきこと」よりも深く、神が神であられ「ねばならないこと」よりも、はるかに大きかったのです。罪人を救うために主イエスは来られました。途方に暮れて心細くさまよっている放蕩息子たち、放蕩の娘たちを再び父の家に迎え入れるためにこそ、主イエスは来てくださいました(テモテ手紙(1)1:15,ルカ15:20-)。どんなに身を持ち崩した息子も、どんなに遠くまで離れ去っていった娘も、一人残らず父の家に迎え入れるために。そのためにこそ。
 主イエスがご自分の父の家におられます。「私は父の家にいる。当たり前だ。そんなことも知らなかったのか」と主はおっしゃいます。もちろん、上田に建てられたこのキリストの教会も、今や《天におられます父なる神さまの家》出張所の一つとされています。ここに、主がおられます。ですから主を探して、あちらこちらと尋ねまわる必要はもうありません。ここもまた《天の父の家》出張所であり、この方がここにおられるのは当たり前だということを、私たちはすでに知っているのですから。しかもさらに、キリストの教会が《天の父の家》出張所とされただけではなく、それに負けず劣らず、あなたが毎日寝起きしているあの家も《天の父の家》出張所とされています。いいえ、それどころか、主イエスを信じて生きる一人一人のクリスチャン自身が神の住まう神殿とされ、天の御父の家とされました。聖書は証言します、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(コリント手紙(1)3:16-17,6:19-20。だからこそ、そこでようやく、あなたや私でさえ父なる神さまの家を離れずに毎日の暮らしを生きることができるのです。本当のことです。私たちは父の家に帰ってきました。私たちは我に返ってこう言いました、「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。けれどもどうか、お願いですから、雇い人の一人にしてください」と。けれど、そんな弁解も詫びも言う暇さえなく、直ちに迎え入れられたのです。家の方角へと眼差しを向け返し、その家へ向かってトボトボと帰りはじめた矢先に、あの父親は早くも私たちを見出してくださいました。「あ、あれだ。あれは、私の大切な大切な息子の一人だ。娘の一人だ」と。なぜなら父親は、いなくなって死んだようだったその私たちを思いつづけ、案じつづけていたからです。「今頃どうしているだろう。今日は帰ってくるだろうか。明日だろうか」と心を痛め、気に病みつづけてくださったからです。「あ、あれか」と私たちを見つけ出すはるか以前に、父のあわれみはすでに満ち溢れていたからです。「この方角から帰ってくるだろうか。それとも」と見渡しつづけ、とうとう待ちきれずに尋ね回り、探しにさえ出ておられたからです。だからです。だから、あの格別な父親は、まだ遠くにいる私たちを見つけ、走り寄って首を抱き、接吻したのです。「お父さん、私は天に対しても……」と私たちは詫びはじめましたけれど、父親は、その謝罪も反省もすでに耳に入らず、聞く余裕さえなく、ひたすら、ただただ喜びにあふれておられました。大喜びしてくださいました。「さあ急いで。急いで急いで急いで。一番良い服をもってきて、この子に。指輪をこの子の手に。履物をこの子の足に。肥えた子牛を屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、ほかの何にも代えがたい、欠けがえのないこの娘は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった。こんなに嬉しいことはない」(ルカ15:24)
 主は今や天におられるばかりでなく、地上の一つ一つの《天の父の家》出張所におられます。遠い昔にヤコブが石を枕にして見た夢が、今日ここで実現しているのです。人里離れた、柱の一本も立っていない荒地も淋しい山の中でさえ神の家とされました(創世記28:16-。日曜日の午前中に父の家にいるだけではなく、月曜日にも火曜日にも父の家に据え置かれています。学校や職場にいても家にいても、誰と一緒のときにも、どこで何をしていても何もしていなくたって、そこで、そのように父の家にいる私たちです。あなたや私がふだん寝起きしているそれぞれの家さえも、素敵で快適な邸宅も、掛け値なく不足なく《天の父の家》出張所とされました。そうでした。しかも憐みを受けて神の子供たちとされた者たちよ、この私たちは、その場所を尊んで父なる神のものである祈りの家とすることもでき、そうではなく強盗の巣に引き下ろしてしまうこともできます。わが物顔でふるまって、自分の好き嫌いを言い立ててて、思い通り思いのままにふるまって強盗の巣にしてしまうことも。あるいは身も心も深く慎んで、天の父なる神さまのものである祈りの家としつづけることも。どうやって? 「私は道である」とおっしゃった主イエスを信じる信仰によってです。「だれでも私によらないでは父の御もとに行くことはできない。私によるなら、私という一本道を通りさえすれば、誰でも必ず父の御もとに辿り着き、父の家に生涯ずっと留まりつづけることができる」(ヨハネ福音書14:6参照)。いつでもどこででも、例えば、あるときから介護施設に入居してその一室にいても、あるいは病院のベッドに何日も何週間も横たわって過ごす日々にも、あなたはこう言いなさい、「ああ本当に。主がこの場所におられるのに、私は知らなかった。私は少しも気づかなかった。ここは、なんと畏れ多い場所だろう。なんと恵みに満ちていることだろう。父の家である。しかも私たちの父の家、正真正銘、この私の父の家である」と。すでに神御自身によって時が満たされ、神の御支配が近づいています。ですから、私たちは今日こそ悔い改めて、福音を信じましょう(マルコ福音書1:15参照)。信じて生きることを改めて積み重ねていきましょう。この自分自身が父の家にかたく据え置かれていることが分かったら、そしたら、そこで私たちは何をしたらいいでしょう。何をおいてもなすべき第一の、最優先の、緊急の務めがあります。主を喜び祝うことです。さあ、良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのないものには、あなたが受け取ってその手に持っている良いものを分けてやりなさい。なにしろ、何をおいても、主を喜び祝うこと。それこそが、私たちのためのいつもの力の源である(ネヘミヤ8:10。「ああ本当に。主がこの場所におられるのに、私は知らなかった。少しも気づかなかった」と驚き、ますます神さまにこそ信頼を寄せて生きることこそ、私たちの力の源である。「ありがとうございます」と主に感謝し、「ゆるしてください。あわれんできださい」 と呼ばわりながら、ゆるしとあわれみを受け取りつづけることこそ、私たちのためのいつもの力の源である。今日は、私たちの主にささげられた聖なる日です。もちろん明日も、私たちの主にささげられた聖なる日です。明後日も、その次の日も。



2018年11月19日月曜日

11/18こども説教「救い主イエスは死んで、よみがえった」使徒2:14-28


 11/18 こども説教 使徒2:14-28
 『救い主イエスは死んで、よみがえった』

2:14 そこで、ペテロが十一人の者 と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。15 今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。16 そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、17 『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。・・・・・・22 イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。23 このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。24 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。  (使徒行伝 2:14-28


  主イエスの弟子たちがとうとう神の国の福音を語り始めます。23-24節、「このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである」。神から知らされて、知らされるままに、神さまの大きな救いの業を語っています。だからぜひ知っていただきたい。ぜひとも耳を傾けてもらいたいと。神さまの大きな救いの業。それはもちろん、救い主イエスの出来事です。神からつかわされ、神ご自身であられる救い主イエス。この方は悪い者たちの手にかかって十字架の上で殺されました。彼らの悪巧みによっただけではなく、十字架の上で罪のないままに救い主が殺されることは神ご自身が定めた救いのご計画によるものでした。だからこそ救い主イエスはただ殺されて、墓に葬られただけではなく、死んだ人たちの中からよみがえらされました。父なる神さまの力によってです。このお独りの方、主イエスを信じて生きる者たちみんなが、神さまの恵みのもとに新しく生きはじめるためにです。あのときの弟子たちと同じく、主イエスの弟子たちは、それからずっと2000年もの間、この同じ一つのことを語りかけつづけてきました。これからもそうです。神の国の福音を。「神から知らされて、知らされるままに、救い主イエスによって成し遂げられた大きな救いの業を。だからぜひ知っていただきたい。ぜひとも耳を傾けてもらいたい」と。


11/18「マリヤから神への讃歌」ルカ1:46-56


                            みことば/2018,11,8(主日礼拝)  189
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:46-56                         日本キリスト教会 上田教会
『マリヤから神への讃歌』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
1:46 するとマリヤは言った、
「わたしの魂は主をあがめ、
47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。
今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、50 そのあわれみは、代々限りなく
主をかしこみ恐れる者に及びます。
51 主はみ腕をもって力をふるい、
心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
52 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、
53 飢えている者を良いもので飽かせ、
富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
54 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、
55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを
とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。
56 マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った。
                             (ルカ福音書 1:46-56)

 救い主となるはずの男の子を産むと告げられたとき、「わたしは主に仕える下っ端の下っ端の下っ端の使用人です」と彼女は言いました。ここでも、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と告白しています(38,48)。つまりは、下っ端の下っ端の下っ端の下っ端の下っ端の、こんなわたしにさえも 神さまの恵み深さと憐れみを喜ぶ感謝が、彼女に、その低いへりくだった心を与えました。うわべだけの社交辞令や口先だけの方便や謙遜などとはまったく違うのです。「ああ。下っ端の下っ端の下っ端の~」と心底から実感しています。けれど、この真実をなかなか受け止められずにいる多くのクリスチャンたちがなお残されつづけます。どうして私やあなたではなく、あのマリアさんだったのか。私たちの周囲にも「この人は。この人の信仰は。この人の素晴らしい働きは」と私たちが感嘆し、ほめたたえ、尊敬するに値する大きな信仰者たちがいました。たしかに。「それに比べて、この私は」と私たちは自分自身を振り返ってガッカリします。なぜ、あのマリアだったのか。聖書そのものは、「ただ恵みによって。ただただ憐れみから」と答えつづけます。けれど、いくらくりかえし聞いても多くの人々は納得しません。「いいや。やっぱり元々、なにかがその人にあったからだろう。見所や心の清さや謙遜さや素直さ、信仰深さが。だからそれで」と好き勝手に、マリアさまを誉めたたえたり、マリアさまに向かって格調高い讃美歌を歌ったり、「まあ素敵」とうっとりため息ついたり、マリアさまに向かって拝んだり祈ったりしつづけています。でも、それは大間違い。しかもその度毎に、神さまご自身の恵みが軽んじられ、捨て去られ、台無しにされつづけています。先週も言いましたが今週も言いましょう。畏れたり拝んだり、それに向かってあがめたり、ひれ伏したりしていい相手は、ただ神さまだけです。
  まさかそれが自分自身のことだとはとうてい信じられないような、びっくり驚くような嬉しい出来事があり、そこで、マリアという名前の一人の女性は言いました。47-48節、「わたしは心の底から、心と体のすべてで、主なる神さまにありがとうと申し上げます。救い主である神さまを喜びたたえます」。不思議です。どうしたことでしょう? 「なんの取り柄もない、つまらないわたしです」と普通は、小さ~く縮まって、ションボリしながら、オドオドビクビクしながら、がっかりして言うものです。あるいは、心にもないゴマすりのつもりで、卑屈にヘラヘラしながら言うものです。それなのに彼女は、本心から、「つまらない、取り柄もないわたし」と言って、しかも嬉しくて嬉しくて仕方がない。他の誰彼にくらべて、ああだとかこうだとか言うのではありません。そんなくだらないドングリの背比べのような、つまらないどうでもいいような競争をしているのではありません。豊かな、とてもとてもとても大きな恵みを受け取りました。受け取った贈り物の大きさ、豊かさに比べてわたしは小さい、わたしは貧しいと言っています。だから心底から、心のすべてで神さまに「ありがとう」と大喜びしながら歌っています。胸を張って、背筋をピンと伸ばして、晴れ晴れしながら歌っています。ありがとうありがとうありがとうと。感謝と喜びにあふれて。
  51-55節。神さまからの憐れみを受けたたくさんの人々がいました。ときには打ち散らされたり、引き下ろされたり、あるいは高く上げられたりしながら。空腹のまま追い返されたり、良い物で満たされたりしながら、やがてついにとうとう神さまからの憐れみを受け取って、感謝と喜びにあふれた無数の人々がいました。「そうか。神の民イスラエル。あの人たちも、このわたしと同じだったのか」と気づきました。とても小さかったのです。見下げられるほどに、ほかの人たちから「なんだ」と侮られるほどに、すごく弱々しかったし貧しかった。「なにもない」とバカにされても仕方がないほどに。おなかをペコペコにして、とても心細かったのです。神さまがその小さな人々にも目を留めて、彼らをとても愛してくださいました。
  わたしたちは折々に、「思い上がるな」「へりくだれ」と命じられつづけてきました。「後の者が先になり、先の者が後になる」と予告されつづけ、なんのことだろうと首を傾げてきました。クリスマスの季節にも、「権力ある者を王座から引き下ろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせます」と語りかけられ、そんな神さまはヘソマガリでアマノジャクだなあとなんだか嫌な気がしました。けれど、それらの神さまのなさりようは、恵みと救いの受け渡しに大いに関係があったのです。「神さまの憐れみ」と告げられるたびに、なんだかピンと来ませんでした。「憐れみ。恵み、恵み、恵み」と耳にタコが出来るほど聞かされつづけて(ルカ福音書1:50,54,78,ローマ手紙11:31-32、けれど私たちは聞き流しつづけました。謙遜にされ、へりくだった低い場所に据え置かれて、そこでようやく私たちは神さまからの良いものを受け取りはじめました(ローマ手紙11:25-32)。なぜならば、救い主イエス・キリストご自身がそのように低く身をかがめて(イザヤ書52:13-53:11,ピリピ手紙2:5-11,エペソ手紙4:8-10)、そこで、すべての恵みを差し出しておられたからでした。低く降り、その後に高く昇っていかれた方ご自身が、この私たちにも、やがて高く引き上げていただくために、同じく低く身を屈めなさいと命じておられるからです。へりくだった、その低い場所こそが、恵みを恵みとして受け取るための、いつもの待ち合わせ場所でありつづけるからです。
  51-53節;「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引き降ろし、卑しい者を引き上げ、飢えている人を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせたまいます」。そのとおり。ですから兄弟たち、主の腕は他の誰に対してよりもまず真っ先に、ここにいるこの私たち自身に対して存分に振るわれるでしょう。もし受け取った憐れみを忘れて思い上がるなら、主なる神さまは、この私たちを打ち散らしてくださるでしょう。モミガラのように吹き飛ばしてくださるでしょう。受け取った憐れみをもし忘れて、私たちが誇るなら、高ぶるなら、そのとき主は、私たちをその座から容赦なく引き下ろしてくださるでしょう。受け取った憐れみを脇に置いて、もし、私たちが豊かさをむさぼるなら、あるいは満ち足りることを知らずに「もっともっと。まだ足りない。まだまだ不足だ」とつぶやき続けるならば、主はふたたび私たちを空腹にし、追い返してくださるでしょう。きっと必ず、そうしてくださるでしょう。なぜなら兄弟たち、そのうぬぼれと思い上がりこそが、私たちに大きな災いをもたらすからです。その権力や誇りが、その高ぶりこそが、私たちの目を見えなくし、私たちの耳を聞こえなくするからです。その豊かさこそが、私たちをかえって貧しくするからです。主は、憐れみによって、そのとき私たちを打ち散らし、引き降ろし、追い返してくださるでしょう。それこそが私たちのための祝福であり、私たちのための幸いです。主は、そのしもべイスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。私たちもまた、受け入れていただいたことを、憐れみを注がれたことを決して忘れないでおきましょう。なにしろ無条件で受け入れていただき、贈り物のように憐れみを受けた私たちです。ただ恵みによって。ただただ憐れみによって。受け入れていただいたことも、憐れみを注がれたことも、それらは、私たちが当然受けるに値するわけでもなく、自分で勝ち取ることもできませんでした。まったくの自由な贈り物として、それは贈り与えられました。

             ◇

  だからこそ慌ただしい季節には、「あれもしなければならない。これもこれも」と我を忘れていそしむ日々には、キリストの教会と私たちクリスチャンはよくよく身を慎まねばなりません。私たちがどこに、どのように足を踏みしめて立っているのか、どこへと向かおうとしているのかと目を凝らさねばなりません。私たちが働く前に、主なる神さまこそが第一に先頭を切って働いてくださった。それこそが、私たちが心強く働くことができる理由であり、私たちの希望でありつづけるからです。だからこそ、とりわけ賢く、まじめで誠実であり、骨惜しみせず働く勤勉な者たちこそは、よくよく身を慎み、私たちがどこにどのように足を踏みしめて立っているのかと、必死に一途に目を凝らさねばなりません。私たちの救い主は、どんな見栄えも華やかさも立派さも、ポイと投げ捨てて、低くくだり、徹底して身を屈めてくださり、家畜小屋のエサ箱の中に身を置いてくださいました。布切れ一枚に包まれただけの裸の姿で。何のためでしょう? それは、どんなに貧しく身を屈めさせられた者も、小さな者も、弱い者も誰一人、この方の御前におじけることも恐ることもないために。安らぐことができるために。救い主キリストもその福音の中身も、私たちが忘れてしまわないために。憐れみを忘れない神を忘れて、その神さまから憐れみを受け取ったことも、私たちがうっかり忘れてしまわないために。私たちがそれ自体で何者かであるかのように勘違いをし、どこまでも高ぶり、どこまでも賢くご立派になり、そのようにしてどこまでも神さまから遠く離れ去ってしまわないために。
  かつては、私たちの誰一人も神の民ではありませんでした。今は、神の民とされています。かつては、私たちは憐れみを受けませんでした。神さまからも人さまからも、どこの誰からも。そんな惨めなことは嫌だと毛嫌いしたからであり、うぬぼれも高すぎたからです。けれど今は、憐れみを受けています。神の憐れみの民とされています(ペトロ手紙(1)2:10)。憐れみを受け取り、受け取った憐れみを差し出し、手渡し、分かち合うために。ともどもに喜び合うために。そうか。神の民とされたイスラエル。私も、あの人たちと同じだ。だから大喜びし、だからニコニコしながら、大きな声で歌った。「恵み。恵み。恵み。憐れみ、憐れみ、憐れみ」と。受け取った贈り物の大きさ、豊かさに比べて、私たちは小さい。あまりにチッポケだ。私たちの小ささと貧しさに比べて、私たちが受け取った贈り物はあまりに大きく、とてもとてもとても豊かだった。胸を張って、背筋をピンと伸ばして、晴れ晴れしながら私たちも歌う。「神さま、ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます」と。なんという幸いか、なんという恵みでしょう。


11/11こども説教「聖霊なる神のお働きによって」使徒行伝2:1-13


 11/11 こども説教 使徒行伝2:1-13
  『聖霊なる神のお働きによって』

2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。5 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。7 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。8 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。・・・・・・あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。12 みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。13 しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。              (使徒行伝 2:1-13

  どうぞ、お聞きください。
ペンテコステと呼ばれる五旬節の祭りの日の出来事です。天の父なる神さまからの約束のとおりでした(使徒1:4-5,ルカ福音書24:45-49を参照)。信じて待っていた弟子たちの上に聖霊なる神がくだってきて、彼らの体の中に宿りました。すると彼らは聖霊なる神さまが語らせるままに、神からの言葉を語り始めました。4節で、「いろいろのヨソの国の言葉で語りだした」と報告されています。ずいぶん長い間、大勢のユダヤ人たちは遠く離れたあちこちのヨソの国々に散り散りに暮らしていました。移り住んでいたそのヨソの国の言葉を使って長く暮らしているうちに、もともとの自分たちの国の言葉を話すことも聞き取ることもできなくなった人々が大勢いて、その人たちが大切な祭りを祝うためにエルサレムの都に集まってきていました。ですから、その人たちによく分かるように話すためには、その人たちがふだん使って慣れ親しんでいる言葉で、つまりそのいろいろなヨソの国の言葉で話さなければなりませんでした。習ったこともない知らない外国の言葉を弟子たちがスラスラと急に話すことができたのは、聖霊なる神さまの力に助けられて語っていたからです。
  さて、それを聞いている人たちの様子は2種類に分かれました。「神さまの大きな働きを話すのを聞いている。なんて不思議なことだろうか」と驚いて耳を澄ませている人たちと、「いやいや、酒でも飲んで酔っ払って、いい加減なデタラメを喋っているだけだよ」とバカにする人々と、まったく正反対の2種類の人々です。





11/11「信じた私の幸い」ルカ1:39-50

                       みことば/2018,11,11(主日礼拝)  188
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:39-50                      日本キリスト教会 上田教会
『信じた私の幸い』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


1:39 そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、40 ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、42 声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。43 主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。44 ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。45 主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。46 するとマリヤは言った、
「わたしの魂は主をあがめ、
47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。
そのみ名はきよく、
50 そのあわれみは、代々限りなく、
主をかしこみ恐れる者に及びます。         (ルカ福音書 1:39-50)

  「聖書によって証言されている神さまを信じる」とは、どういうことでしょうか? 私たちが神さまを信じ、神さまにこそ信頼を寄せ、聴き従い、神さまに感謝し、神さまのお働きを願い求めながら、それぞれの役割を担い、それぞれ精一杯に生きています。それはどういうことでしょうか。どんな神さまを、どのように信じているのでしょうか。日曜ごとにいったい何が告げ知らされ、私たちは何をどのように受け取り、腹に収めて、暮らしを建ててきたのでしょう。クリスチャンとは何者でしょう。キリストの教会であるとは、何でしょうか?

  イエスの母マリヤとその親戚であるエリサベツとの対話です。どうしたわけかエリサベツが、イエスの母マリヤをむやみに崇めたてようとしているかのように見えます。42節で、「女の中で祝福された方」と。43節で、「わたしの主のお母さま」と。確かにマリヤに聖霊がくだり、いと高き方の力が彼女を包みました。彼女は神さまから恵みをいただきました。けれどそれに比べて、エリサベツや私たち一人一人はどうでしょうか。聖霊に満たされていたはずです。エリサベツも私たちも恵みをいただき、いと高き神さまの力に包まれたはずです。そうですね。けれど、マリヤの場合よりも少し格下の聖霊であり、やや程度の劣る小さな恵みや幸いだったのでしょうか。マリヤが一番で、二番目はエリサベツで、三番目四番目は誰それでと。ここが、今日の考えどころです。45節に目を凝らしてください。「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた者は、なんと幸いなことでしょう」。私たち人間が神さまから受け取ることのできる幸いは、これです。じゃあ、誰がどうやってこの同じ一つの幸いを受け取ることができるでしょうか。主のお語りになったことが必ず成就すると信じることによってです。
 そして、直ちに「マリヤから神への讃歌」がつづきます。47節以下、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ心にかけてくださいました。今からのち、代々の人々は私を幸いな女と言うでしょう、力ある方が、わたしに大きな事をしてくださったからです。その御名は清く、その憐れみは代々限りなく、主をかしこみ畏れる者に及びます」。彼女が受け取った幸いの中身はいったい何でしょう。私は身分の低い主の下働きの使用人に過ぎない、と彼女自身ははっきりと言い、とても低い場所にいた私を神さまが高く引き上げてくださった。それはただただ憐れみだったと告げています。それでもなお、立派で偉大な神さまが偉大なことをしてくださったのは、やっぱり彼女自身も立派で偉大だったからに違いないと言わねばならないでしょうか。いいえ、決してそうではありません。このマリアから神への讃歌でも、68-79節の「ザカリヤから神への讃歌」でも、彼らは声をそろえて「憐れみ、憐れみ、憐れみ。ただただ恵み」と神さまをこそ一心に誉めたたえているのに、なお神さまをではなく、たかだか人間にすぎないマリヤさまや他の誰彼を次々と誉めたたえたり、拝んだり、崇め立てたりしていいでしょうか。いいえ。それは、神をこそ信じる信仰から大きくかけ離れており、はなはだしく道を踏み外しています。神を敬う、正しい在り方はどういうものですかと500年も前の信仰問答は問いかけ、こう答えています。「全信頼を神におくこと。そのご意思に服従して、神に仕えまつること。どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めることです」(「ジュネーブ信仰問答 問7」1542年)。はい。まったく、そのとおりです。
 先週のおさらいですが、37節で「神には、何でもできないことはありません」とさらに告げられて、そこでマリヤは屈服し、38節で「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と受け入れました。その37節と38節の間には、どれほどの時間が流れたでしょう。「神には、何でもできないことはありません」と告げられて、「はい。分かりました」と頭を下げるまでは。同じことを告げられ、「はい。分かりました」と頭を下げた人間はたくさんいました。アブラハム、サラ、夫ヨセフ、主イエスの弟子ペトロ、この私もそうですし、多分あなたも。ほかにも、おびただしい数の人々が。けれどもどうしたわけか、なお、「素晴らしい、とても秀でた信仰の、あまりに信仰深いマリヤさんだから、それで救い主イエスの母親として選ばれた」と多くの人々は言うでしょう。救い主イエスが素晴らしい方だったのは、多分そのお母さんも同じく生まれたときから素晴らしい方だったに違いない。ということは、マリヤさんのお母さんも、そのまたお母さんも。いいえ、デタラメの嘘八百です。騙されてはいけません。私たちは信じています。ただただ救い主イエス・キリストを。なぜならこのお方が、「わたしは道、真理、生命である」(ヨハネ福音書14:6)と仰ったからです。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」と主イエスは仰いました。「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と告げられて、トマスが尋ねました「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道が分かるでしょう」。主イエスは仰いました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もし、あなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。ただ一本の、他のどこにもない格別な道があり、その道を通るならば、マリヤさんでなくてもエリサベツさんでなくてもどこの誰でも天の御父のもとに必ずきっと辿り着ける。ただ一つの真理があり、このお独りの方から聴くならば、どこの誰でも必要なことを十分に知って、十分な恵みと幸いのうちに生きて死ぬことができます。ただ一つの格別な生命があって、このお独りの方から受け取るならば、どこの誰でもその生命の中で幸いに生きて死ぬことができます。
  ですから兄弟姉妹たち。「恵まれた方よ。おめでとう。主があなたと共におられます」と告げられて、もう私たちは戸惑ったり、誰のことだろうかとまわりをキョロキョロ見回しつづけなくてもよいのです。他でもないあなた自身のことであり、この私たちのことであるからです。「恐れるな。あなたは神から恵みをいただいている」と告げられて、「ああ、まったくその通りだ」と恐れや心細さをポイと投げ捨ててもよいのです。なぜ? どうしてでしょうか? 聞いて、それを信じたからです。信じて生きることを、今日まで積み重ねてきたからです。これからもそうであるからです。素敵な人々、清らかで正しく高潔でご立派な偉い方々があちこちに山ほどいるのではなく、決してそうではなく よい神さまが、こんな私たちのためにさえ、いてくださるからです。最も大切なこととして伝えられたのは、救い主イエス・キリストの死と復活の証言でした。ただ救い主イエスが死んで生きただけではなくて、この私たちもまたこのお独りの方に率いられて、古い罪の自分と死に別れ、葬り去っていただき、新しい生命に生きる者とされました。それは私たちが洗礼を受けたときから始まり、生涯ずっと続きます。古い罪の自分と死に別れ、葬り去っていただき、新しい生命に生きる。この一日も、次の日もまたその次の日も。コリント手紙(1)15章が、はっきりと証言しています。なぜなら私たちに先立って、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死にました。葬られ、聖書に書いてあるとおり三日目に復活しました。「聖書に書いてあるとおり。聖書に書いてあるとおり」と何度も何度も念を押されつづけましたので、それで私たちは、「じゃあ聖書に実際にどう書いてあるのか。本当だろうか」と目を凝らし続けてきました。これからもそうです。ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなこんな私たちにも、現れたのです(コリント手紙(1)15:5-8参照)。とても小さな者にも、もっと小さな者にもそれよりもっともっと小さな者たちにも。その人自身に資格や値打ちがあろうがなかろうが、というよりも私たちが口癖のように祈っているとおりに、「値打ちのない、価しない、ふさわしくない小さな者」たちにも、その中の最たる者たちにさえ、復活の主イエスが姿を現してくださいました。それが、あの彼女たちであり、彼らであり、ここにいるこの私たちです。神さまの恵みによって今日の私たちがあります。ただただ恵みによって。しかも、その恵みは無駄になりませんでした。その恵みと憐れみを信じる信仰も無駄にはなりません。実を結ばないはずがなかったのです。なぜでしょうか。なぜなら、キリストは死者の中から復活したからです。弟子たちが見ている目の前で天に昇っていかれ、御父の右に座り、今も生きて働いておられ、やがて再び来られるからですし、終わりの日にそうであるというだけでなく、日毎に、信じる者たちのところへと復活の主イエスの御霊が来つづけておられるからです。

              ◇

  思い煩う日々があり、悩みと苦しみの日々があります。心細さと恐れに打ちのめされそうな日々があります。それでもなお順風満帆な日々にも逆境の只中にも、健康で幸せで満ち足りるときもそうでないときにも、ただ一つの格別な慰めと支えと希望がありつづけます。500年も前の古い信仰問答がはっきりと告げ知らせているとおりです。「それは、生きるにも死ぬにも、わたしは体も魂もわたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであるということです。このお方が、その尊い血によってわたしのすべての罪の代償を完全に支払ってくださり、まったく悪魔の権力のもとにあったわたしを解放してくださいました。そしてわたしを守り、天にいますわたしの御父の御心なしには一本の髪もわたしの頭から落ちることなく、実にすべてのことが必ずわたしの祝福に役立つようにさえしていてくださいます。それゆえ彼は聖霊をも贈り与えてくださり、この御方によって、わたしに永遠のいのちの確証を与え、今より後わたしは、救い主イエスのために生きることを心から喜び、その備えをしている者であるようにしてくださるのです」(「ハイデルベルグ信仰問答 問1」,1563年)
  しかも、主であり救い主であるイエスはおっしゃいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ福音書11:25-26参照)。問われつづけているのは、ただ一点です。私たちが生涯をかけて答えつづけようとしているのも、やはり、ただこの一点です。言葉でも行いでも、腹の思いによっても信じていることの中身を答えつづけて、私たちは生きるのです。心に留め、子供たちにも自分自身にも繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きていても、働くときにも休むときにも答えつづけます(申命記6:6-9参照)。主イエスこそ私たちの復活であり、世界とこの私たち自身の命です。このお独りの方を信じる者は、死んでも生きる。生きていてこのお独りの方、救い主イエス・キリストを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを、あなた自身は信じるか? 
ごいっしょに祈り求めましょう。