2018年10月3日水曜日

9/30「罪人をあわれむ神」ヨナ3:1-4:11


                      みことば/2018,9,30(主日礼拝)  183
◎礼拝説教 ヨナ書 3:1-4:11                     日本キリスト教会 上田教会
『罪人をあわれむ神』
    ~あなたの怒るのは良くない~

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


 4:1 ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、2 主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。3 それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。4 主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。・・・・・・8 やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。9 しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。10 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。11 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。                       (ヨナ書 3:1-4:11)


 まず31-9節です。ヨナは主の命令どおり、都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言いました。「40日を経たらニネベは滅びる』。ソドムの町の場合とよく似ています。似ているけれど、あのときとは違う取り扱いです。神さまは、はなはだしく悪い彼らの心をねじ曲げ、組み伏せようとなさるのです(創世記18:16-33,エゼキエル書18:23,30-32)。すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまといました。王は王座から立ち上がって衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、ニネベに断食を命じました。7-9節、『人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」。なんということでしょう。自分たちの死と滅びを告げる預言を聞いて、嫌な気分になっただけでなく、ただ恐れて右往左往しただけではなく、あの彼らは人も獣も悔い改めて主なる神さまを信じました。預言者は元気づける慰めや喜びをではなく、ただただきびしい裁きを語りました。「あなたは今にも滅びる。あなたに対して、神さまは激しく怒っておられる。どうして分からないのか」。けれども、そのきびしい裁きの言葉こそが彼らに信仰を生み出しました。だからこそ耳障りのよい、今風で心地よい、流行りの癒しの言葉ではなく、神さまご自身からの真実な言葉こそがかつても今も語られねばなりません。
  40日を経たら」(34)。例えば、全世界を飲み尽くす大洪水がまもなく起ころうとして4040夜雨が降り続いた日々。モーセと仲間たちが荒野を旅した40年間。シナイ山に登ったモーセを待って神の民イスラエルが山の麓で過ごした4040夜。救い主イエスが試練と誘惑を受けた荒れ野の40日間。預言者エリヤが主の山ホレブを目指して歩いた4040夜の道のり。強大な圧倒的多数のペリシテ軍と谷を隔てて向かい合いながら、こわごわビクビクしてイスラエル軍が過ごした4040(創世記7:12,民数記14:34,出エジプト記24:18,マルコ福音書1:13,列王記上19:8,サムエル記上17:16)。それらは、祈るための日々でした。ひざまずき、神の御前にひれ伏すべきときでした。主なる神さまの御前に背筋をピンと伸ばし、襟を正し、深く慎んで神さまを思い、神のみもとへと立ち返るべきときです。ニネベの人々のためにも、ここにいるこの私共のためにも。ニネベの人々は、「あなたがたはこのままでは滅びる」と告げる預言者の声を聴きつづけ、心に痛みを覚え、つくづくと自分を振り返り、悔い改めました。身分の高い者も低い者も、貧しい者も裕福な者たちも、年寄りも子供も、人間ばかりでなく牛や羊に至るまで。「荒布を身にまとい、灰の上に座し、断食する(5-7)ことは、その当時の祈りの形、祈りの作法でした。しかも、その祈りと願いは具体的な行動や在り方へと結びつき、彼らを促しました。つまり、「悪の道を離れ、その手から人を虐げたり踏みつけにする行いを捨て去る」こと。悪の道にどっしりと腰を降ろし、その手に不法とむさぼりを後生大事に抱え込んだままならば、荒布をかぶることも、灰をかぶり地面にひれ伏すことも、つつましい厳かな祈りも断食もなんの意味もないし、まったく無駄です。後悔と痛みのしるしに着ている衣服を引き裂くだけではなく、あなた自身の心をこそビリビリと引き裂けと促されます。10節、私たちの主なる神さまは思い直し、宣告した災いをくだすことを中止なさいました。神さまのただしさの本質がここにあります。そこに正しい人が10人いてもいなくても、そこに憐れみとゆるしを乞い願う心優しい人がいてもいなくても、なにしろ深く憐れむ神です。
  41-4節。「ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、主に祈って言った、『主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです』。主は言われた、『あなたの怒るのは、よいことであろうか』」。1節で、ヨナが「これを非常に不快として、激しく怒り」と報告されています。元々の言葉ではこの「非常に不快」という言葉は、ニネベの人々の「悪の道」(3:8,10)と同じ言葉が用いられています。面白いことです。ニネベの人々が悪の道を離れ、神さまが彼らを憐れんでゆるす。ヨナがそれを「非常に不快として、激しく怒り、腹が立って腹が立って仕方がない」。ニネベの人々と預言者ヨナが、ここでいきなり、立場をすっかり入れ替えています。今やニネベの人々は悪の道を離れ、ヨナは逆に妬みと憎しみに飲み込まれ、首までどっぷりと『悪』に浸かっている。神さまの憐れみと寛大さとを、けれどあの彼はなぜ喜べないのでしょうか。もちろん、不満に思うことや怒ることそれ自体が悪いのではありません。ぜひとも怒ったり、腹を立てねばならないときはあります。けれどそのとき、何に対して、なぜ怒っているのかと、自分自身の心の中をよくよく見詰めねばなりません。
 主はヨナに向かって言われます。4節、「あなたの怒ることは、よいことであろうか」と。9節でも、再び同じことが問いかけられます、「あなたの怒るのは、よくない」。神さまに仕える奉仕や働きの只中で、神さまへの献げものをささげる際に、そこで腹を立ててプンプン怒っている人たちのことが聖書の中でいくつも報告されています(ルカ福音書10:38-42,15:25-32,マタイ福音書20:1-16,創世記4:1-7。この私たち自身も神さまに対してもその隣人や家族や兄弟に対しても腹を立てたり、妬んだり拗ねたりイジケたり、八つ当たりしたくなったり。精一杯に働いたり献げたりしながら、けれどなんだか満たされない。正直なところ、喜びも感謝もちっとも湧いてこない。物寂しくて、腹立たしくて、虚しくて。誰かに文句を言ったり、グチをこぼしたり、顔をしかめたくなります。そのとき、この私たち自身こそが危ない分かれ道に立たされ、滅びの危機に瀕しています。神さまが私たちに問いかけます、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(創世記4:6-7)。神さまに背こうとする罪の思いが、もしかしたら私たちを慕い求めて、門口で待ち伏せています。
  それ以前に2-3節の、主なる神さまへのヨナの訴えこそが驚きです。「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。いよいよ私たちは事柄の核心部分に迫っています。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主に仕えるこの働き人は、主なる神さまがどういう神であられるのかをよくよく分かっていました。十分に、ちゃんと知らされていました。恵みと憐れみの神であると。だからこそ、大いに不満で仕方がない。私が労苦した仕事の結果はどうなるんだ。私の立場は。面子丸つぶれじゃないか。ヨナは、「死んだほうがましだ」と激しく怒ります。自分がただしくあることを追い求め、自分の正しさを何としてでも打ち立てようとしています(ローマ手紙10:2-3参照)。そこに、私たちを閉じ込めてガンジガラメにしてしまう深い罪があり、悪があります。「私は正しい」と言い立てて止まない私たちは今、罪と悲惨さの深みにどっぷりと身を沈めています。ヨナの罪は、いつものこの私たち自身の罪深さではありませんか。
 旧約聖書を3ヶ月、つづけて読み味わってきました。この3ヶ月も今もこれからも、いつも大問題でありつづけるのは、神を信じて生きる私たちはいったい何者なのかということです。何者でもありません。その私たちがどんな幸いと祝福を約束され、どんな希望と支えがあり、どんなふうに感謝にあふれ、晴れ晴れ清々として生きて死ぬことができるのかということです。例えば、7月初めから8月下旬頃まで、世界のはじまりから創世記12章までの歴史を振り返ってきました。創世記3章で芽生えた神への反逆と悪の心は4章のカインの罪、6~8章の大洪水、11章のバベルの塔へと坂道を転げ落ちて、そのドン底が12章。世界を救い、ふたたび祝福のもとへと呼び戻すために、神さまはほんのひとにぎりの人々を選び出しました。12章、アブラハムとサラにつづく神の民の出発点です(創世記12:1-4)けれども直ちに、選ばれた人々はとんでもなく誤解しました。「優秀だから、正しいから、取り柄と見所があって、だから選ばれた」。神によって選ばれた私たちは清く正しく、とても上等で格式が高いなどと。これが、選民主義です(=「神によって選ばれた優れた民族(と、自分たち自身で勝手に思い込むこと)。~意識」;申命記7:6-8,8:11-18,9:4-7,ヨハネ福音書15:16-17,ローマ手紙11:17-32)。誤解した私たちは了見が狭くなり、独り善がりになり、うぬぼれつづけました。他の人々を見下し、批判し、軽々しく裁きたてて分け隔てをしつづけました。なんと恥かしいことでしょう。神に対しても人様に対しても、なんと申し訳ないことでしょう。預言者ヨナもまた、わけもなく思い上がって自惚れた人々の一人です。事の成り行きを見届けようとして、ニネベの都の東のはずれに座り込みました。小屋を建てましたが強い暑い日射しが彼を苦しめました。主なる神さまは彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させ、木は伸びて彼の頭の上に心地よい日陰を作りました。ヨナは喜びました。主なる神さまは翌日の明け方、虫に命じて木を食い荒らさせました。木は枯れ、焼けつくような東風に吹きつけさせました。太陽もジリジリとヨナの頭上に照りつけました。ヨナはぐったりとなり、「生きているよりも死ぬ方がましです」とつぶやきました。神さまはヨナを再び諭します。「あなたの怒るのはよくない」。ヨナの心の移り変わりに目を向けましょう。日射しの厳しさに嘆き苦しみ、つかの間の涼しい木陰を喜び、木が枯れた後の焼けつくような東風と日差しに死を願うほどに腹を立てる6-8)。彼の思いは乱れ、コロコロコロコロと移り変わってゆきます。あの彼の右往左往は私たちの右往左往です。私たちの日々の姿そのままではありませんか。「お前は怒るが、それは正しいことか」と神さまが問いかけておられます。ヨナと、そしてこの私たち一人一人に。私たちは惜しみます。労せず自分自身で育てたわけでもない一本の木さえも。報われなかったたくさんの労苦があり、思い煩いがあり、苦々しい涙もありました。けれどもなお、いま私たちの手元に、なんと多くの豊かな実りが与えられていることでしょう。主ご自身こそが確かに建て、守り、十二分に報いてくださったからではありませんか(詩127:1-3)

  ましてや、なおさら神は惜しむと仰います。411節、「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを惜しまないでいられようか」。目が霞んで文字がよく読めなくなった人も、ここだけは何とかして自分の目ではっきりと確かめましょう。「十二万あまりの、右左をわきまえない人々」と確かに書いてあります。右左をわきまえない人々。書き間違えではありません。「道理を弁え、良くできる、優秀で上品で立派な人間たちを」ではなく、「わきまえが少しもない私たちニネベ人を」です。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」とは、このことです。「以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」とは、このことです。「キリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された。とても弱く、あまりに不信心で、神に逆らい、神に敵対さえしていたそのわたしたちをゆるし、救いへと迎え入れるために。キリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示し、差し出し、受け取らせてくださった」とは、このことです。弁えが足りないどころか、「たびたび神に背く重病人であり、死にかけたり迷子になったりしつづけ、良い医者である神の憐れみよって危うい命を救われつづけてきた重病人」マタイ9:12-13です。「価なしに、神の恵みにより、ただただキリスト・イエスによるあがないによって義とされた」とは、このことです。けれど心を鈍くされた私たちは、弁えのないニネベの人々を裁いて軽々しく見下す、思い上がったヨナの気分で不平不満をつぶやき、自分の正しさとふさわしさを言い立てつづけていました。ヨナのように嘆いたり腹を立てたりしつづけました。なんということでしょう。右左をちっとも弁えない私たちのためにこそ、神はあまりに恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、くだそうとした災を何度も何度も何度も何度も思いかえして、ただただ憐れんでくださった。だからこそ 私たちはなはだしいニネベ人が今日こうしてあるを得ています(テモテ手紙(1)1:15,ペテロ手紙(1)2:10,ローマ手紙5:6-11,3:24。なぜ、そこまで惜しんでくださるのか、私たちには分かりません。私たちを惜しむ神の愛と憐れみは、不当なものなのか。惜しまずにいられようか。しかも、自分は正しいと自惚れてニネベの町の愚かな人々を見下していたあのロクデナシの預言者こそが、他の誰にもまして弁えのない、あまりに罪深い人間だったのに。あの彼やこの私たち自身こそが、憐れみ深い神を片隅へ片隅へと押しのけつづけていたのに。「惜しまないでいられようか?」。なんと答えましょう。ヨナの答えは記されていません。神さまからの問いかけは、はたして彼のかたくなな心に届いたでしょうか。私共一人一人の心にも、はっきりと届くでしょうか。