みことば/2018,10,7(主日礼拝) № 184
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:1-4 日本キリスト教会 上田教会
『確実なことを』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
1:1 わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、2 御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、3 テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。4 すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。
(ルカ福音書 1:1-4)
(ルカ福音書 1:1-4)
1節。「私たちの間に成就された出来事」について福音書の記者は報告しはじめます。それは、神ご自身であり、救い主であられるイエス・キリストについての出来事です。キリスト教の信仰は、誰かが自分の頭の中で考えついたことや思いめぐらせたことではなく、現実に起こった出来事の上に積み上げられてきました。神さまが生きて働いておられるからです。そのことを私たちは見落としてはなりません。最初の頃の福音伝道者たちは、この驚くべき、そして単純な事実を人々に告げることをこそ自分の第一の役割としました。その目で見たこと、耳で聞いたこと、伝えられたことを、彼らは語りつづけました。神の独り子が地上に降ってこられ、私たちのために生き、私たちのために死んで葬られ、私たちのために墓から復活してくださったこと。彼ら弟子たちが見ている目の前で天に上っていかれたこと。また、そのとき、白い服を着た御使いたちが弟子たちにこう語りかけました。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1:11)。神の国の福音は、告げられた初めにはきわめて単純明快なものでした。
「最初から親しく見た人々であって、御言に仕えた人々」。元々の言葉では、「~御言葉に仕えるしもべとされた人々」。はじめの弟子たちがそうだったというだけでなく、伝道者たちがそうであるというだけでなく、私たちクリスチャンは皆、見て聞いて伝えられて知った人々であり、だからこそその神の現実と神の言葉に仕えるしもべとされています。しもべたち同士です。それを決して忘れてはなりません。だからこそここには、上座下座の区別はなく、「おカミは。それに比べて我々シモジモのモノたちは」などという分け隔てもなく、「立派だ。大きくて強い、格別にしっかりしている」などと崇められるべき人は誰もいないし、見下される人も誰一人もあってはならず、「それに比べて私は」などと卑屈にいじける人も一人もあってはなりません。これからもそうです。どんな特別の権威も格式も指定席もなく、誇る者も恥じ入る者もなく、ただただ『神の現実と神の御言葉に仕えるしもべ』という安らかな場所が、神を信じて生きるすべてのクリスチャンのために用意されています。主のものである教会。主のものとしていただき、主に仕えるしもべである私たちです(ローマ手紙14:1-4参照)。
3節「すべての事を初めから詳しく調べていますので、それを順序正しく書きつづって」報告する、と福音書記者は言います。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、これら四つの福音書が記されたのはおよそ紀元60年頃でした。十字架の出来事からすでに30年近くもの年月が過ぎ去りました。ほかのすべての聖書の記録者たちと同じく、この福音書を記録したルカという人もまた、神さまの霊のお働きによって必要な事柄を知らされ、導かれて書いたのだと分かるならば、それで十分です。これらの福音書も使徒行伝も他のどの聖書証言も、だからこそ、生身の人間の手を用いて書かれながら、なおそれを越えて、神の言葉とされています。揺るぎなく断固として神の言葉でありつづけます(テサロニケ手紙(1)2:13,ペトロ手紙(2)1:21,テモテ手紙(2)3:15-17参照)。
また3節。「テオピロ閣下よ。ここに詳しく書きつづって閣下に献じることにしました」。このルカ福音書と使徒行伝は、同じ一人の人物にささげられています(使徒1:1)。テオピロがどんな人物なのかを、私たちはよく知りません。ユダヤの国を植民地支配していた当時のローマ帝国の上級役人であり、このキリスト教の信仰に少し関心や興味もあって、ルカの親しい支援者だったらしいです。この第一巻目(=ルカ福音書)ではとても格式ばって改まった口調で「閣下」などと呼びかけていたものが、第2巻目(=使徒行伝)では親しい友人同士のようにただ「テオピロよ」と。福音書を差し出されてじっくり読んだ後、また「ここはどういう意味なんですか」「ああ、それはね」と折々に親しく説き明かしを受けつづけた後で、もしかしたらテオピロは洗礼を受けてクリスチャンになったかも知れないと想像する人たちもいます。そういえば、日本でも同じような人々が大勢いました。「肩書や身分序列などどうでもいいじゃないか」と思える広々とした自由な場所へ、テオピロもここにいるこの私たちも少しずつ近づいてゆきます。
4節「すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります」。この福音書記者にとっても、テオピロや私たちにとっても、願っていることは同じです。すでに何度も繰り返し聞いて受け取っている教えが確実なものであることを、ぜひ十分に分かりたい。「頭ではなんとなく分かりますが」なんていつまでも言い続けているばかりでなく、心でも、普段の自分自身のいつもの暮らしぶりや人との付き合い方や腹の思いによってもよくよく分かりたい。なぜなら私たちは、目を眩ませるもの心を惑わせるもの、私たちを心細くさせるものに幾重にも取り囲まれて暮らしているからです。それで度々、友人たちや家族からも「へええ、おかあさんって確かクリスチャンのはずなのに、そんなふうに考えたり感じたりするんだ。なるほどねえ」などとガッカリされたり、首を傾げられたりもするからです。
さて質問。キリストの教会に、なぜ人は来るのでしょう。あなた自身は、なぜ来ましたか。何があれば、ここで人は満たされるでしょうか。この後ごいっしょに歌います讃美歌85番(讃美歌21-227番)も、信仰をもって生きる私たちの旅路を心強く導いてきた格別な歌の一つです。歌の通りでした。お手数をかけますが、讃美歌85番を開いていただけますか? 歌詞の1節から4節までを読み味わいましょう。「(1)主の真理こそが海辺の岩のようだ。逆巻く荒波にも、大波がザブーンザブーンと打ち寄せつづけても、主の真理というこの大きな岩はビクともしない。(2)主の恵みは浜の砂粒のようだ。その数を、いったいどうして数え切ることができるだろうか、できるはずもない。(3)世の中の様子も社会のあり方も人間関係もどんどんどんどん移り変わってゆく。この自分自身の身の上も生活も、このあとどうなってゆくのか、はっきりしたことは何も分からない。確かに弱く危うい私だ。それでもなお、ただただ主なる神さまに信頼を寄せ、心を尽くして主にすがって格別な平安をいただこう。必ずきっと、そうしていただける」。この歌を「ああ。そうだったのか」と受け止め、噛みしめた者は、例えば「この岩の上にわたしの教会を立てる」(マタイ福音書16:13-20)と主イエスが約束してくださった言葉をどう受け止めているでしょう。主イエスの問いかけに答えて主の弟子シモンは答えます。「あなたこそ生ける神の子キリストです」。するとイエスは仰いました。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いである。あなたにこの事をあらわしたのは、どんな人間でもなく、天にいますわたしの父である。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ(=岩男)である。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはできない」。主イエスがご自分の教会をその上に建ててくださると約束してくださったその『岩』とは何なのか。いくつかの解釈がありうるとしても、主のまことはというこの讃美歌を知り、心に刻んできた者たちにとっては、『岩』の中身は明白です。信仰深いあの彼? 断固として主に従う彼の信仰心や忠誠心? いいえ、まさか。主の真理そのものこそが、逆巻く荒波にも、大波がザブーンザブーンと打ち寄せつづけてもビクともしない、大きな岩ではありませんか。主イエスご自身とこのお独りの方を信じる信仰こそが、私たちの救いの岩、砦の塔、避け所ではありませんか(申命記32:4,15,サムエル記下22:2-3,詩31:2-3,42:9,89:26,イザヤ26:4,ローマ9:33,コリント(1)10:4,讃美歌455,457,449,468,474)。石っころのように固い頭の頑固で分らず屋の人間たちなら山ほどいます。けれど、何が起きてもビクともしないような、岩のように揺るぎもない人間など誰一人もいない。揺るぎもない信仰心を獲得しえた人間も一人もいません(ローマ手紙3:9-26)。ペテロとは「岩」という意味です。「岩男」と主イエスによってアダ名をつけていただいた(ヨハネ1:42)あのペテロもまた、岩どころか、小さな小さな砂粒のような人でありつづけます。けれどなお、弱く危ういペトロや私たちであるとしても、それでもなお、心を尽くして主にすがる者たちを神さまご自身が生みだし、その人々に格別な力を与えてくださる。与えつづける。主の真理とその恵みを待ち望んで、望みつづけて、そこでようやく、こんな私たちであっても安らぎを得る。主のまこと、主の恵み。これこそが只一つの安心材料です。しかも讃美歌85番は、ここで私たち自身の弱さ、危うさ、脆さに加えて、私たち自身が根深く抱え持つ『罪と悲惨さの問題』を真正面から差し出しています。歌の4節目、「つもれる罪、深き汚れ、ただ主を仰ぎて救いをぞ得ん」。罪とは、神に逆らって「いいや、私は。私は」と頑固になり、どこまでも我を張りつづけることです。神さまによって差し出される救いは、この自己中心・自己正当化の罪と悲惨からの救いでありつづけるからです。これこそ、とても大事です。キリスト教信仰の中心部分にある大きなテーマです。
しかもなお、神さまの救いの現実が私たちの只中で実現したのです。それぞれに告げ知らされ、習い覚え、主なる神を信じて生きてきたとおりでした。ピリピ手紙2:5-11は、本当には何を証言していたのか。「(救い主イエスは)十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った」と告げていたではありませんか。固執なさらず、自分を虚しくし、へりくだって、御父への従順を徹底して貫き通したと。40日40夜さまよった荒れ野でも悪魔の誘惑をすべて退け、十字架の上でも「降りてこい。救い主なら自分で自分を救ってみろ」とバカにされても笑われても、そこから降りないでくださった。罪人を救うために、自分を自分で救わないことを断固として選び取って。その前夜、ゲッセマネの園では、いったい何が起こったでしょう。「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ福音書26:39)。御父への徹底した従順、そこにしがみつきつづけてくださった。御父とのつながりと信頼は、そこでも堅く保たれつづけました。だからです。主イエスこそただ一本の道であり、一つの真理であり、生命です。この方を通るなら誰でも父のもとへと辿り着けるし、この方に聞くなら誰でも知るべき真理を知り、格別な生命を受け取れると(ヨハネ福音書14:6-7)。救い主イエスは十字架につけられて死んで葬られ、三日目に墓から復活なさった。私たちもまた古い罪の自分と死に別れて、新しい生命に生きると約束されています(ローマ手紙6:1-16参照)。コリント手紙(1)15:14-は語りかけます;「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。「キリストに望みを抱く」とは、どういうことでしょう。私たちは、この世のいつもの現実生活の只中でももちろんキリストに望みをかけています。しかも、心の中のどこか片隅の小さな御守りやちょっとした気休め程度ではなく、この世の生活の中だけでもなく、その後にも望みをかける。信じていれば何の心配もないというのではありません。良いことも悪いことも起こる。人生を都合よく気軽にヒョイヒョイ渡ってゆくための魔法や特効薬など、あるはずもない。では主イエスを信じる私たちは、いったい何を願うでしょう。何があれば、安らかに心強く生きて、やがて満ち足りて死んでいくことさえできるでしょう。ほら、死んで復活してくださった救い主イエスが、弟子たちの前に現れたあの復活の朝のことです。自分たち自身の弱さや危うさ、周囲の人々の強さを恐れて、ビクビクして縮こまっていた弟子たちは、あのとき、どんなふうにして主イエスからの平安を受け取ったでしょうか。彼らの真ん中に主イエスが立ってくださり、てのひらの釘跡、脇腹に刻まれたヤリの刺し傷を見せていただいて、十字架につけられて死んだイエスがたしかに復活なさったとまざまざと知らされてでした。そこでようやく、喜びがあふれ、主イエスの平安を受け取っていました。私たちもそうです。主イエスは語りかけます、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな」。そして、「あなたがたに平安があるように」(ヨハネ福音書14:27,
20:19,21)。いつも、どんなときにもあり続けるように。