みことば/2018,9,9(主日礼拝) № 180
◎礼拝説教 士師記7:1-7,同8:22-27 日本キリスト教会 上田教会
『あなたの民は多すぎるので』
7:1 さてエルバアルと呼ばれるギデオンおよび彼と共にいたすべての民は朝早く起き、ハロデの泉のほとりに陣を取った。ミデアンびとの陣は彼らの北の方にあり、モレの丘に沿って谷の中にあった。2 主はギデオンに言われた、「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。3 それゆえ、民の耳に触れ示して、『だれでも恐れおののく者は帰れ』と言いなさい」。こうしてギデオンは彼らを試みたので、民のうち帰った者は二万二千人あり、残った者は一万人であった。4 主はまたギデオンに言われた、「民はまだ多い。彼らを導いて水ぎわに下りなさい。わたしはそこで、あなたのために彼らを試みよう。わたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行くべきだ』と言う者は、あなたと共に行くべきである。またわたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行ってはならない』と言う者は、だれも行ってはならない」。5 そこでギデオンが民を導いて水ぎわに下ると、主は彼に言われた、「すべて犬のなめるように舌をもって水をなめる者はそれを別にしておきなさい。またすべてひざを折り、かがんで水を飲む者もそうしなさい」。6 そして手を口にあてて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみなひざを折り、かがんで水を飲んだ。7 主はギデオンに言われた、「わたしは水をなめた三百人の者をもって、あなたがたを救い、ミデアンびとをあなたの手にわたそう。残りの民はおのおのその家に帰らせなさい」。 (士師記7:1-7)
ギデオンという人は、とても臆病で肝っ玉が小さい人でした。心配性で、「自信がない自信がない。できない。とてもとても無理だ。どうせ私なんか」と口癖のようにつぶやく人でした。主に使える働き人として立てられたときにも、なかなか神さまを信じることができませんでした(士師6:17-25,同36-40参照)。神さまが味方であることも、神さまが共にいてきっと必ず助けてくださることも(ローマ手紙5:6-,8:31-39,詩23:1-4,121:1-2参照)。よくよく教わって腹に据え、魂に刻み込んできたはずなのに、肝心要の瀬戸際に立たされる度毎に、「あれれ、どうだったかな? 誰が私の味方だったっけ。私の助けはどこからどういうふうに来るんだっただろう」。いくら教わってもなんだかピンと来ないのです。さて7章。敵の強大な軍勢を前にして、ハロデの泉のほとりに陣を取ったとき、ギデオンは知恵を振り絞って必死に戦局の分析をしていました。何度も何度も戦略会議を開き、打ち合わせ会を開きました。たった32,000人の軍勢で、どうやってこのきびしい戦いを勝ち抜くことが出来るだろうか。待ち構える困難と苦戦を予想して、身の縮む思いでした。たったの32,000人の軍勢、それだけしかありません。どう考えても無理です。恐れと不安は尽きず、ますます募ってきます。2-3節の、その彼らに向けて語られた主の言葉は、きわめて理不尽な、まったく道理にかなわない非常識な発言でした;「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。だから」。え? 聞き間違いかと思いました。あるいは悪い冗談かと。もっと兵力の増強を、もっと生産性と作業効率をあげて収入を増やし、参加人数も大幅に増やして、というのではありません。「多すぎる。削減を」というのです。そして直ちに、主なる神さまは、ご自身の兵力を削りとり減らしていかれます。心痛む兵力削減、彼らの願いも希望も粉々に打ち砕きかねない、恐るべき規模縮小です。32,000から10,000へ、さらに300へ。
5-7節。300人を選んだ時のその兵隊たちの水の飲み方にどんな意味があるのか、あるいは300という数字にどんな象徴的神学的な意味があるのかなどと虚しい詮索をする暇はありません。例えばある聖書学者たちは、「その300人は試験に合格した、ふさわしい、飛びっきりの少数精鋭たちだ」と推測しました。顔を水面につけて水をペロペロ飲むのでは犬みたいだし、用心深さが足りなすぎる。だから、心を張り詰めて戦いに臨む機敏で勇敢な者たちこそが、見事むずかしい試験に合格して残されたのだろうと。――その推測は大間違いで、すっかり的外れです(しかも、この大間違いな誤解をやがてギデオンたち自身がしてしまいました。自分たちは超難関の試験をくぐり抜けた一騎当千の強者たち、エリート中のエリートだろうと勘違いしたと、8:24-27で直ちに発覚します。むむむ)。しかも、それって会社の就職面接試験のやり方と同じじゃないですか。プロ野球のスカウトや魚卸売市場の仲買人と同じ品定めじゃないですか。それでは、味方の数が多い場合と同じに勘違いしてしまうでしょう。「戦いに勝っても、自分たちが用心深い立派な戦士だったから。優秀でふさわしい、とても勇敢で機敏で、一騎当千の勇者だったから、それで見事に勝った。自分たちの才能と品格と有能さによって勝利を手にした」などと心がおごってしまうでしょう。それでは、2-3節のせっかくの大事な主の言葉を話半分に、上の空で、聞き流しています。もちろん数の多さではない。しかも、優秀さでもふさわしさでも立派さでも才能でもない。それら一切の理由は、2-3節の主ご自身の言葉の中にこそ凝縮されていきます。何度でも何度でも、目を凝らしましょう。「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。だから」。神さまの目から見た時、その32,000人という数は多すぎたし、強すぎた。だから減らした。まだまだ多すぎた。強すぎた。だから、さらにもっともっと減らして、目の前に待ち構える圧倒的多数の強大な軍勢に対して、300人を残した。多分これなら、多すぎもせず強すぎもしないだろうと。なにしろギデオンの目にも、イスラエルの一人一人の目から見ても、「無に等しい。これでは、何もないのと同じじゃないか」としか思えませんでした。「とてもとても無理だ。こんな貧弱な私たちには勝てるわけがない。もし万一、これで生き延びることができたとすれば、それは到底、自分の力と手の働きで勝ち取ったものではない」と言うほかない兵力です。まるで、思いがけない贈り物のようにして与えられた幸いは、驚きと感謝となり、魂に深々と刻まれて、一つまた一つと積み重ねられ、大切に語り継がれ、やがて主に対する大きな信頼へと育まれていく。主に対する熱い期待と、それゆえ心安く聞き従っていくことへと彼らの腹の据え方を方向づけていく。《この神こそ、私たちの主である》という確信の中に、彼らの営みを揺るぎないものへと成長させていく――はずでした。
あの驚くべき戦いの結末は8:22-27。いいえ、むしろこの結末にこそ私たちは「まさか。そんなバカなことが」と驚き呆れるべきです。
【補足説明】①22-23節のギデオンの発言は信仰深く、賢く、まったく正しい理解です。②けれど、発言は正しくても、その腹の思いは24節以降で直ちにその発言と神ご自身とを裏切っています。「敵からぶんどった耳輪を私にください」という要求は『神のものである戦い』の基本ルールに背いています。戦いは神のものであり、戦利品はただ神だけのものであって、将軍だろうが王だろうがそのひとかけらも要求する権利がありません。ギデオンも民衆も子供たちも皆、基本中の基本として心得ているはずのことでした。「主が治める」と言ったばかりではありませんか。民衆が主に従うばかりでなく、指導者であるギデオンこそが真っ先に主に従い、主に服従するはずでした。③「エポデ」(27節)は祭司の勤務中の衣服です。それを作ることも着ることも、自分の町に展示することも勝手には許されません。神を軽んじ、偉大な戦功をあげた自分は何をしてもよいと心をおごらせたから、そんな不遜なことをギデオンはしました。④「姦淫」(27節)は一般には性的不品行ですが、特に旧約時代には、神に背く偶像礼拝を比喩的に「姦淫」と呼び慣わしつづけました。ギデオンが神をないがしろにし、好き勝手に振舞ったので、民全員も「皆それを慕って」彼の不信仰の後につづきました。これが、イスラエルを陥れた『罠』の中身です。
では、詳しく読みましょう、8:22-27。「『あなたはミデアンの手からわれわれを救われたのですから、あなたも、あなたの子も孫もわれわれを治めてください』。ギデオンは彼らに言った、『わたしはあなたがたを治めることはいたしません。またわたしの子もあなたがたを治めてはなりません。主があなたがたを治められます』。ギデオンはまた彼らに言った、『わたしはあなたがたに一つの願いがあります。あなたがたのぶんどった耳輪をめいめいわたしにください』。ミデアンびとはイシマエルびとであったゆえに、金の耳輪を持っていたからである。彼らは答えた、『わたしどもは喜んでそれをさしあげます』。そして衣をひろげ、めいめいぶんどった耳輪をその中に投げ入れた。こうしてギデオンが求めて得た金の耳輪の重さは一千七百金シケルであった。ほかに月形の飾りと耳飾りと、ミデアンの王たちの着た紫の衣およびらくだの首に掛けた首飾りなどもあった。ギデオンはそれをもって一つのエポデを作り、それを自分の町オフラに置いた。イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。それはギデオンとその家にとって、わなとなった」(士師記8:22-27)。ギデオンは戦利品に飛びついて我が物とし、欲望のまま思いのままに貪りました。他の人々も、ギデオンにならって戦利品に飛びつき、欲望のまま思いのままに貪りました。神のものである戦いで得た戦利品はみな誰のものでもなくただ神のものであることを、ギデオンも他の皆もよく習い覚えていたはずでした。分かった上で戦利品に飛びついて我が物としました。リーダーがそれをしたので、もちろん部下たちもその不信仰に習いました。俺様のおかげで、自分の力と手の働きがあってそれで、と心がおごってしまったからです。贈り物のようにして与えられた輝かしい不思議な勝利は、主ご自身に対する大きな驚きとあふれんばかりの感謝を、生み出しませんでした。魂に深々と刻まれることも、ありませんでした。積み重ねられることも大切に語り継がれることも、ありませんでした。主に対する心底からの信頼へと育まれていくことも、ありませんでした。《この神こそ、私たちの主である。主なる神は生きて働いておられます》という確信にも、その勝利は結び付きませんでした。ああ、なんということでしょう。驚くべきことには、たったの300人でも多すぎました。ビックリです。たったの300人であっても、彼らは主に向かって心をおごらせ、「自分たちの力と手の働きで救いを勝ち取った。自分たちのおかげなんだから、自分にこそ感謝すればいいし、自慢してもいいはずだ。戦利品も自分たちで山分けして何が悪い。ご立派な私たちのご立派な働きなんだから」と、はなはだしく勘違いしてしまいました。自分たちの力と手の働きこそが自分にとっての主であり、第一である、と誤解してしまいました。
◇ ◇
多くの時代が流れて、ギデオンの時代ははるか昔に遠く過ぎ去りました。けれどなお神の民の戦いの日々は続きます。不思議なことです。神の民は、いつもごく少数でありつづけました。どうしてでしょう。そうでなくても良かったはずなのに、多数ではなく少数、格別に賢く優秀な強い者たちではなく、ごく普通の、どこにでもいるような、弱く無に等しい者たちこそが神さまからの格別な招きを受け取りました(申命記7:7-8,同8:17-20,同9:4-7,コリント手紙(1)1:26-31,ローマ手紙5:6-11)。それは一体なぜでしょう?
エルサレムの都への旅路が終わりに近づいて、死と復活のときを間近に見据えて、主イエスは弟子たちに仰った。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国で一番偉いのである」(マタイ18:3-4)。あのときも弟子たちは「誰が一番偉いだろう。二番目は、三番目は。じゃあ、この私は何番目」などと人間同士の貧しく卑しい品定めの中で神の権威と尊厳をすっかり見失い、脇へ脇へと押しのけていました。神に聞き従って幸いに生きる自分たちだなどとは思いもよらずに。神が生きて働いておられるなどとは気づきもしないで、人間たちによる、ただ人間のための、人間のものである世界に住んでいると勘違いして、主イエスの教えを聞き流しつづけていました。「幼な子のようになる」とは何か。小さな子供はへりくだった弱々しく小さな存在ですが、けれど、それだけでは何の手がかりも与えません。神の国(=天国)に入るとは、御父、神のご支配への服従・従順を生きることであり、するとそれは(神に対して!)自分を低くすることであり、御父・神への従順であるほかありません。唯一の手本は主イエスご自身です。ローマ手紙8:14-17。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」。ついにとうとう謎が説き明かされました。あのただ独りの幼な子のようになり、救い主イエスのあの心を受け取って、天の国に入れていただくのです。神が王さまとして力を存分に発揮し、そのお働きのもとで心安く神にこそ信頼し、聞き従って生きる神の子供たち。ゲッセマネの園での、主イエスの祈りの格闘です。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ福音書 14:36)。このように、慈しみ深い神の御前にへりくだる小さな子供の心を贈り与えられ、私たちも「~してください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と生きはじめ、ますますそのことを切に願って生き続けることができます。神さまにこそ信頼し、感謝し、よくよく聞き従いつづけて。イスラエルの軍勢が32,000から10,000へ、さらに300へ規模縮小されたように、偉くなりたい、人様から認められたい誉められたいと願いつづけた主イエスの弟子たちが、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国で一番偉い」と言われたように。ご覧ください。残ったさらにわずかの者たちは、神に従順に聞き従って生きる小さな子供の心を与えられた弟子たちは、憐れみ深い主の御前に膝を屈め、そこにこそ助けと支えを求めて仰ぎ見ました。ついに立ち上がった無力で小さな人たちをご覧ください。「はい。私が戦います」と言いながら、あの新しい彼らは、「私ではなく、主ご自身が先頭を切って第一に戦ってくださる」と知っています。「私が担います」と言いながら、「主こそが全面的に、最後の最後まで担い通してくださる」と知っています。「主こそがちゃんと引き受けてくださっている。主にこそ私はお任せしている」と弁えているからこそ、その新しい人は「私が引き受けます。私にお任せください」と手を挙げたのです。不思議なことに、そこは晴れ晴れしていました。そこで、深く息を吸って楽~ゥになることができました。なぜなら、そこにはもはや、大きいも小さいもなかったからです。かなり信頼できる人物だとか、まあまあだ、ほどほどだなどという小賢しい品定めもなく、強い賢い豊かでよく働いて役に立つとか、あんまりそうでもないなどという騒がしさもなかったからです。なにしろ神さまが大きい。なにしろ神さまこそが、強く賢くあってくださる。なにしろ、神さまが生きて働いておられ、憐れみ深くあってくださる。その膝を屈めた小さく無力な場所こそ、自分があるべき居場所と思い定め、その新しい彼らは、そこで主と出会いました。そこでようやく、主なる神さまをこそ信じて一日また一日と生きることをしはじめました。