みことば/2018,9,23(主日礼拝) № 182
◎礼拝説教 列王記上19:1-14 日本キリスト教会 上田教会
『わたし独りだけが』
19:1 アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、2 イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。3 そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、4 自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。5 彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、6 起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。7 主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。8 彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。9 その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。10 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。11 主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。13 エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。14 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。 (列王記上19:1-14)
この18, 19章は、一人の働き人の栄光と挫折を、そして挫折からの回復を物語ります。預言者エリヤは、他に並ぶ者がないほどの飛びぬけて偉大な働き人でした。あの彼こそ、ピカイチのナンバーワンでした。19:1-3。その偉大で立派で揺るぎないはずのあの彼が、どうして性悪の王妃イザベルが一言脅かしただけで、ブルブル恐れ、あわてて逃げ出したのでしょうか。18章の偉大で勇敢な彼とはまったく別人のようですね。でも、そんなことは日常茶飯事だったじゃないですか。これが普通です。得意満面で鼻高々だった者が、次の日には卑屈にいじけている。「大丈夫。何の心配もない」と自信たっぷりに太鼓判を押した者が、ほんの数時間後には「もうダメだ」と頭を抱えて絶望している。エリヤは絶望し、なにもかも嫌になって死を願います。4節、「主よ、もう十分です。私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません」。先祖に勝る者ではない? 彼は何を寝ぼけているのでしょう。まるで信仰のかけらもない、自分自身と周囲の人間たちのことばかり気に病み、思い煩っている、ただ生臭いばかりの俗物のような眼差しではありませんか。彼の得意と絶望の中身が、ここにあります。神を信じて晴れ晴れと生きるはずのこの私たち自身の『信仰と不信仰の揺れ動き』も、いつもいつもここにあります。今あの彼は、先祖に勝る者ではないと絶望しているのです。ほんの少し前には、「同世代の仲間たちや先輩や先祖たちよりも自分の方が多少は勝っている」と得意になったり、他人を見下したりしていたのです。やっぱりなあ。なるほど。そうであれば、鼻高々になることも、かと思うとてのひらを返したようにすぐに絶望してしまうことも、あまりに簡単。上がったり下がったり右に転がったり左に転がったり、吹く風のようにコロコロコロコロ移り変わってゆくのも、それは当然です。「救われたのは、ただ恵みによった」(エペソ手紙2:4)と聖書に書いてあります。ノア、アブラハム、モーセ、ダビデもそうだったし、エリヤもそうだったし、私たち全員がそうでした。「正しい者も悟る者も一人もいない」と聖書自身は深く了解しています(ローマ手紙3:9-)。それなのに、先祖に勝る者ではない? どんな立派な大きくて偉大な信仰者がいたというのでしょう。そうではありません。ただただ、大きな神さまがいてくださったのです。こう質問しましょう。あなたは、どこにどうやって立っているのか。何を拠り所とし、何を助けや支えとし、頼みの綱として生きるあなたであるのかと。
5-8節は、神の山ホレブへの旅路です。別名シナイ山とも呼ばれたこの山は、かつてモーセが神と出会った場所でした。よかった。彼は、ただ闇雲に逃げ出したのではなかったのです。すっかり絶望し、支えと拠り所を見失った彼は、改めて神と出会いたいと切望しました。神の語りかけを今こそぜひとも聞きたい、聞き届けたいと。失意の只中で、彼は神へと向かいます。ふたたび立ち上がるために、ふたたび揺るぎなく確固として立って歩き出すために。私たちもそうです。ガッカリして失望するとき、弱り果てるとき、心を惑わせ希望も支えも見出せない日々に、けれどもそこで、帰ってゆける場所を私たちは持っています。そこで神に向かい、その悩みの只中で祈り求め、目を凝らし、神の語りかけを聞き届けたい――そこで神へと向かう。だから、私たちはキリスト者なのです。キリスト者であることの中身は、《そこで、なにしろ神へと向かう》ことの中にあり、キリスト者であることの慰めも希望も確かさも、《そこで神へと向かう》中でこそ差し出され、受け取られます。7節。その旅路の長さや困難さを、私たちの弱さを、ちゃんとよくよく分かってくださる主です。神の山ホレブへ向かう旅はとても長く、困難をきわめます。私たちには耐え難いと、あわれみの主は知っていてくださいます。だからこそ、「起きて食べなさい。私の与える糧によって立ち上がりなさい。私の与える糧によって力を得、それによってこそ歩みなさい。歩み通しなさい」と主は備えていてくださいます。神の民イスラエルに対しても、エリヤやペトロに対しても、また私たち一人一人に対しても。
9-10節と13-14節。神と出会い、神さまの語りかけを聴きます。不思議なことに、神とエリヤはまったく同じ問答を二度繰り返しています。「あなたはここで何をしているのか」と問う神。「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」と答える彼。(1)すべてを知っておられる神がわざわざ問うとき、それは神ご自身のための質問ではなく、その人のための質問です。ぜひとも気づくべき根本の事柄が問われています。「ここで何をしているのか。何のつもりでここにいるのか」。どこにどう立っているのかを、あなたは気づいているのか。あなたが踏みしめているその足もとをよく見てみなさいと。(2)「ただわたし独りだけが」;これが彼の責任感であり、自負であり誇りでした。これまで彼を支えていたものが、けれど今、逆に彼を苦しめています。ただ独りだけであることが今では彼の重荷となり、絶望の原因ともなっています。だって、『ただ独りだけで背負っている。わたし独りで担っている』と勘違いしています。それでは、あなたの神はどこで何をしているのか。神こそが第一に先頭を切って働き、神こそが担い、背負ってくださるのではなかったか。主の語りかけを、彼は聞きます。山を裂くほどの激しい風。しかし、この中には神はおられない。次に地震。火。けれど、その中にも神はおられない。静かにささやく小さな声によってこそ、神さまは語りかけます。何でしょう。私たちはもしかしたら、驚くような強烈で劇的な語りかけや、目の覚めるような感動的で鮮やかな語りかけを望んでいたのかも知れません。激しい風や地震や火によって語りかけてもらいたい。けれども神を知る者は、日常的なごく普通の事柄の中に神の歩む足音を聞き届けます。いつもの普通の生活の只中で、そこでこそ神さまと出会い、神さまご自身の働きを知ります。讃美歌313番(讃美歌21-497番)は「騒がしき世の巷(ちまた=人のおおぜい通る所。町中)に我を忘れていそしむ間も、細き御声を聞き分けうる静けき心、与えたまえ」と歌います。我を忘れて夢中になって必死に働くときに、私の耳には誰の声も届きません。
15-18節には、思ってもみなかった驚くべき結末が用意されていました;「主は彼に言われた、『あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう。また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である』」。神さまご自身からの答えです、「あなたに代えて、ハザエルとイエフとエリシャを、私自身が立てる」。エリヤに対しても他のどの働き人に対しても、私たちの神はこうおっしゃる、『自分がいなければ成り立たない、とでも思っていたのか。いいや、とんでもない。この自分次第であり、自分の肩にすべてがかかっている、とでも思っていたのか。あなたは神ではなく、人間にすぎない。神である私こそが担う。神こそが、最初から最後までを、全責任を負って働く。だから、あなたは退いて休みなさい』。
あなたは退いて休め。なんと厳しい答えでしょう。また同時に、なんと恵み深い、嬉しい答えでしょうか。私たちは高ぶりと独りよがりを木っ端微塵に打ち砕かれ、そこでようやく《主の恵みのもとに仕える働き人》としてスタート・ラインに立ちます。ハザエルの剣を逃れた者をエヒウが、エヒウの剣を逃れた者をエリシャが。エリシャの剣を逃れる者が何百人、何千人いても、ちっとも困らない。もちろん彼らもまた生身の人間にすぎず、ハザエルの働きもエヒウとエリシャの働きも決して十分なものではないでしょう。私たちそれぞれもまったくそうであるように。それでいいのです。それぞれに部分的な、ごく一時的な働きをゆだねられ、ゆだねられた分を果たしてゆくのです。しかも、主の恵みとゆるしのもとに立つ7000人で。神の業、神の教会の働きは、リレー競争のようなものです。全部を私独りだけで走りきるのではありません。ただ独りきりで担うのではありません。この私も、この喜ばしい光栄な務めのバトンを兄弟から手渡されました。私も一途に精一杯に走り、喜ばしくひとときを担い、やがて定められた時に次の兄弟へとバトンを手渡します。その兄弟もまた一途に精一杯に走り、喜ばしくひとときを担い、やがて定められた時に次の兄弟へとバトンを手渡すでしょう。リレーは、主ご自身のものであるこのとても不思議な事業は決して途切れません。ほんの一瞬たりとも滞りません。それを、私たちは信じます。私たちはクリスチャンです。
「務めを解く。退いて休め」と命じられたエリヤは、なおしばらく務めに留まり、エリシャという人を自分の弟子として育てはじめます。19-21節。つまり、退いて休むための彼の新しい働きがここから始まってゆくのです(列王記上19:19-下2:18)。今までの彼とは違うまったく新しい働き人がここに誕生しています。やがて時が来て、私たちもそれぞれに自分の務めを次の者に手渡して退いてゆきます。ご覧なさい。目の前に、あなたのためのエリシャがおり、私のためのハザエルとイエフがいます。どんなふうに仕事の引継ぎをしましょう。腹に据えておくべき心得と重要事項を次の者たちにどんなふうに伝えてあげましょうか。「・・・・・・いいかい、エリシャ。よくお聞き。お前はもしかしたら私を尊敬し、信頼を寄せてくれているかも知れない。『ご立派な偉い大先生で、私なんかはとてもとても恐れ多くて』などと間違って思い込まされているかも知れない。騙されちゃいけない。人間に対する尊敬も信頼もほどほどにしておいたほうがいい。だって私もお前も神ではなく、神の代理人でもなく、生身の人間にすぎないのだから。たかだか人間に過ぎない者たちへの尊敬や信頼や讃美が神ご自身に寄せるべき尊敬や信頼や讃美を曇らせてしまうようでは困る。とてもとても困る。人間を思い煩うあまりに神を思う暇が少しもなくなってしまってはならない。それが、サタンのいつもの策略なのだから(マタイ16:23)。かつて私がカルメル山のてっぺんで輝かしい大勝利を収めたように、やがてお前も立派な仕事を成し遂げ、得意になって鼻高々になるかも知れない。かつて私が悪い王妃イザベルに脅かされて怯えてすくみあがったように、やがてお前も、中くらいのイザベルや小さなイザベルに脅かされて、ガタガタ震え、夜も眠れなくなるかも知れない。それは有りうる。鼻高々の日々にも、『私こそが』とうぬぼれてはいけない。恐れてガッカリする日々にも『私独りだけが』などと心を曇らせてはいけない。だってエリシャよ、私たちはごく普通の生身の無力で愚かな人間たちだ。決して思い上がることなく、ほんのちょっとずつ務めを担って働く。神ご自身の働きのごく一部分を、ほんのひとときずつ、担わせていただいている。道端の小さな石ころからでもアブラハムの子をいくらでも起こせる神だったじゃないですか(マタイ3:9参照)。あなたも私も、誰も彼もが皆、そのようにして立てられたごく普通の石ころ同士だったじゃないか。そうだったじゃないか。神の慈しみと峻厳とに今日こそ共々に目を凝らしましょう。よくよく目を凝らしつづけましょう。もし万一、神が第一に先頭を切って働きつづけておられますことをうっかり忘れてしまうなら、私たち自身のためにさえ神こそが確かに生きて働いておられますことが分からなくなってしまうならば、神を信じて生きてきたことのすべて一切が水の泡となる他ない。私たちはすべての者の中で最も憐れむべき惨めな者に成り下がってしまうではないか」と。しかも兄弟たち。聖書自身は何と語っているでしょう。「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ手紙8:31-32)。御子のみならず万物をも必ずきっと贈り与えてくださる。ここでは、「御子のみならず万物をも。御子だけでなく、御子と共に、ほか必要なすべて一切をも添えて与える」という点が大切です。御子イエスを信じる信仰によって、御子イエスご自身によって与えられるすべての恵みを。つまり、御子を抜きにしては神からの恵みを何一つ受け取ることができないということです。「土台はイエス・キリストである」と教えられており、「どんな人間でも神の前に誇ることがないため。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖と贖いとになられた。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである」「(すべて一切は)ことごとく、あなたがたのものである。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである」(コリント手紙(1)1:29-31,同3:11,22-23)と。しかも、私やあなたの肩にすべてがかかっているわけではない。バアルに膝を屈めない7000人の仲間たちと共に、それよりも神ご自身こそが第一に、先頭を切って、全面的に生きて働いてくださっている。私のエリシャよ。よくよく弁えておきなさい。それさえ分かれば、あなたは安心して晴れ晴れして働くことができ、満ち足りて休むことができ、進むことも退くこともできるだろう。悪い王妃イザベルが100人来ようが1000人で脅かしても、今日からは、この私たちはもうビクともしないだろう。