みことば/2018,7,29(主日礼拝) № 173
◎礼拝説教 創世記 4:1-16 日本キリスト教会 上田教会
『どうして怒るのか?』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
4:1 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。2
彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。8
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。9 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。10
主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。11 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。12
あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。13 カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。14
あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。15
主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。16
カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。 (創世記 4:1-16)
1節です。「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。あの彼女は一つの小さな存在に目を留めています。主によって子供が贈り与えられた。得させていただいたのだと。神さまが生きて働いておられたのです。他のさまざまなものの活動や働きや影響をはるかに越えて、神ご自身こそが生きて働いておられたのだと。この小さな一句から、光が差し込んできています。主なる神さまが生きて働いておられます。その意味を理解し、「ああ確かにそうだ」と自分自身のこととして受け取ることのできた人たちは、今日、謙遜な低い心を贈り与えられ、慰めと平安を受けて自分の家に帰ってゆくでしょう。そうでありたいのです。わたしは主によって男子を得た。これが、この一つの家族の出発点でした。エバがその夫と出会い、助ける者を得、その人と共に生きることになったのも、子供が生まれたことも、それだけでなくどれもこれも皆、「主によって得た」ことでした。私たちにとってもまったく同じです。それぞれの生涯に起こった一つ一つの良い出来事も豊かな成果も収穫も、どれも皆残らず、「主によって得た。主の御計らいによって贈り与えられた」ことでした(詩16:5,103:1-2,ローマ手紙8:28,コリント手紙(1)4:7)。たまたまなんとなくそうなった、のではありません。《そうしようと決心し、計画して一つ一つ準備し、そのように実行した。がんばった。精一杯によく働いた。だから》こうなった、のでもありません。今その手に掴んでいる豊かなものの本質を誤解してはいけません。子供が生まれたことも、やがてその息子たちが成長してそれぞれの職業に就き、それぞれの収穫を手にしたのも、それら一つ一つは皆、《主によって得た》恵みの贈り物だったのです。なぜ、主はその人にそうしてくださり続けたのか。主は、その人を大切に思い、その人を愛してくださったからでした。主はまず可哀想に思い、憐れんで、だから与え続けてくださった。忘れてはなりません。憐れみを受けたこと(ペテロ手紙(1)2:10,ローマ手紙11:30-32,テモテ手紙(1)1:12-17)を。私たちの出発点。立ち返るべき私たちのいつもの出発点です。
3-5節。主によって生命を贈り与えられた息子たち二人は、主によって成長して大人になり、主の恵みによってそれぞれの職業につき、主の恵みによってそれぞれの格別な収穫を手にしました。兄さんのカインは土を耕す者となり、弟のアベルは羊を飼う者となりました。神さまによって得た働きの実りを神さまに感謝するときがきて、彼らは収穫をもって、主のもとにやって来ました。感謝をし、喜び祝うために。ここにいるこの私たちもまったく同じです。ある者は畑を耕し、ある者は羊を飼う。ある者は大工になり、漁師になり、会社の勤め人になり、学校の教師になり、商売を営み、医者になり看護婦になり、あるいは父さん母さんとして子供たちを育て上げました。今日も私たちは、主によって与えられた収穫の一部分を携えて、また、主によって生かされてある自分自身を携えて、ここに、主の御前へとやって来ました。感謝をし、主の恵みと憐れみのもとに足を踏みしめるために。その神さまからの贈り物を改めて贈り与えられ、互いに喜び祝うために。
4-7節をもう一度読みましょう。「アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで主はカインに言われた、『なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません』」。兄さんは畑の収穫物をささげました。弟は羊の群れの中から肥えた初子を。けれど主は、弟のアベルとその献げ物に目を留め、喜びましたが、兄さんとその献げ物にはフンとそっぽを向き、目を留めてくれませんでした。ああ、なんということでしょう。カインははらわた煮えくり返り、激しく怒って顔を伏せました(5節)。ここは難しい箇所です。私たちは心を痛めて、考え込みます。なぜだろう。兄さんのどこがどう悪かったのだろうか。どうして神は目を留めてくださらなかったのかと。しかも、この大切な場所で、聖書の報告はあまりに簡単で、そっけないのです。えこひいきをして不公平な扱いをした神こそが、責められるべきなのでしょうか? 「よくがんばったね。大変だったろう。嬉しいよ、ありがとう」と神さまは、あの彼に対して深く感謝をすべきだったのでしょうか。その通りです。神様からも人様からも、それをしてもらいたい。この私を何だと思っているのか。無礼な、礼儀知らずの神だ。「もしお前が正しいのなら、顔をあげろ」ですって。冗談じゃない。私が正しいに決まっているじゃないか。「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(6-7節)。けれど、神に失望したカインたちよ。なんでもご存知のはずの神が、『どうしてなんだい? 何をそんなに怒っている。顔を伏せている理由は何?』と、わざわざ質問をなさっています。それはご自身のための質問ではなく、問われたその人自身のための質問です。あのカインと共に、ここで襟を正して自分自身に問いかけ、答えねばなりません。この私は、なぜ怒っているのか。どうして顔を地に伏せるのか。
もちろん怒るべきときはあります。ぜひとも腹を立てるべきときがあり、また、悔しくてハラワタが煮えくり返って仕方のないときもあります。それぞれの手強い現実を懸命に精一杯に生きているのですから。けれど、思い起こしてみてください。その献げものは、そもそもの初めには、感謝の献げものだったはずです。感謝の献げもの。けれども、いったい誰から誰に向かっての感謝でしょう。周りの人たちや神さまがこの私に感謝するための、ではありません。私自身こそが感謝するための。会社や職場やあちこちでの私たちの働きや奉仕も、子供たちを養い育ててきたことも、年老いた親を介護する日々も。それら皆は、この私自身こそが感謝するための、私からの献げものだったはずです。けれどどうしたわけか、いつの間にか、誉められ、認められるための手段となりました。失望し、落胆しつづけるカインたちよ。どうして私たちは度々苛立ったのでしょう。どうして度々、顔を地に伏せて怒ったのでしょうか。喜びと慰めを山ほど与えられてきました。報酬はすでに、十二分に受け取っていたのです。差し出したものは、この私の働きと努力の成果である以上に、それを遥かに越えて、丸ごと全部、神さまからの贈り物でした。献げものには、ただただ感謝があるばかりのはずでした。
私たちの神は、隠れているものを見、人の心の奥底までも見通す神であったのです(サムエル上16:7,マタイ6:6)。神ご自身だけが見通し、けれど私たち人間の目には隠されていたものが、ついにとうとう外にあふれ出しました。やはり、5節の後半です。「カインは大いに憤って、顔を伏せた」。そして8-9節。兄さんのカインが顔を地に伏せて怒り出したとき、そして礼拝からの帰り道に弟を野原に誘い出したとき、その隠されていたものが、私たちの目の前にさらけ出されました。妬ましくて、悔しくて、兄さんは弟を野原に連れ出して殺します。主はカインに再び問いかけます;「弟アベルは、どこにいますか」(9節)と。「知りません。私が弟の番人でしょうか」。「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます」(10節)。たとえ深い土の底の底からでさえも、主なる神さまは小さな貧しい者の血の叫びを決して聞き漏らしません。なぜならほんのかすかな呻きや溜め息さえ、主の耳元に響きつづけて、決して鳴り止むことがないからです(出エジプト記3:7-)。「あなたの兄弟はどこにいるのか」と主は、私たちにも問いかけて止みません。ほら、あの人のことだ。「どうか、よろしく頼む。任せたよ」とあなたに委ねておいたあの兄弟は、今どこに、どうしているのか。この私たちは兄弟同士として、神の憐れみを注がれた者同士として、互いに対して大きな責任があります。受け取ってきた憐れみと慈しみを互いに分け合うという、神の恵みのもとにある責任が。
神さまに仕える奉仕や働き、神さまへの献げものをささげる際に、そこで腹を立ててプンプン怒っている人たちのことが聖書の中でいくつも報告されています。例えば放蕩息子の兄は、「私のものは全部あなたのものだ。あなたはいつもわたしといっしょにいる」と父親からなだめられています。例えばマルタ姉さんも、「妹は良いものを選んだ。取り去ってはならない」となだめられています。カイン兄さんも、「どうして怒るのか。もし、お前が正しいなら顔をあげなさい」となだめられています。また例えばあの朝早くから働いた労働者たちも、「わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」となだめられています。彼らは皆、兄弟や仲間たちを妬んでプンプン腹を立てて、そこで神さまからなだめられています(ルカ福音書10:38-,15:25-32,マタイ福音書20:1-16)。現実の信仰生活で、この私たちもよく似た場面や出来事に直面しつづけます。さて13-14節。カインは主に言います。「わたしの罰は重くて負いきれません。あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。これは彼の祈りです。なんと痛ましい告白でしょう。正しくありたい、ふさわしいと認められたい、私の働きを十分に認めて、ちゃんと評価してもらいたいという願いと自己主張は、あまりに大きかった。一人の兄弟の存在を踏みつけ、葬り、消し去ってしまいたいと願うほどに。その罪はあまりに重い。自分の正しさやふさわしさを気に病み、「私の正しさ。私のふさわしさ」と言い立てて止まず、むしろ、そのこだわりがその人自身を狭い所に閉じ込めていました。その罪深さはあまりに重く、カインであれ他の誰であれ、とうてい背負いきれません。
◇ ◇
15-16節。彼を打ち殺すことが誰にも出来ないようにと、主なる神は彼の体に《しるし》を刻みました。それは、恵みと保護のしるしであり、ゆるしのしるしでした。「私の罰は重すぎて負いきれない」と嘆く不届きな罪人を、主なる神さまこそが背負ってくださるのです。主こそが担ってくださるのです。どんなしるしだったは書いてありません。世々のキリストの教会は、それは《十字架のしるし》だったのではないかと読み取ってきました。まったく、その通りです。救い主イエスのしるしこそが、その罪人の体に深々と刻まれます。「わたしの罰は重すぎて追いきれない」と嘆くあまりに惨めで哀れな罪人を、神の独り子、救い主イエスこそが全身全霊をもって背負い通してくださいます。だからこそ、それで、私たちはカインの末裔なのです。まったく、カインそのものではありませんか。「誰もお前を打ち殺すことがないように、誰によってもお前が裁かれたり非難されたり、陰口をきかれたり後ろ指を指されたりすることがないように、この私こそが、お前の味方になってあげよう。私こそが、お前の傍らに立ちつづけよう」と断固として仰るお独りの方がいます。十字架の主イエスです。神の身分をポイと捨て去り、地上にくだり、しもべとなり、十字架の上で死にいたるまで生命を注ぎだし、死んで葬られ、陰府にくだってくださった(ピリピ2:6-,ローマ14:15,イザヤ53:12)。それは、失われてしまいそうな一つの惨めな小さな魂を、そのあなたを惜しんで止まなかったからです。とんでもない不始末をしでかして、「ああ私は」と身の縮むような恥ずかしさを噛みしめるときにも、けれどなおそのあなたの額に主イエスの十字架のしるしが深々と刻まれています。誰にも迷惑をかけず、正しく生きてきたふさわしい人間だから、あるいは、与えられた仕事をちゃんと十分にこなしてきたから、だから私たちが誰からも裁かれず、訴えられることもない――わけではありません。ゆるしていただいたからです。憐れんでいただいたからです。恥じることも誰かを恥じ入らせる必要もなく、恐れることも、誰かを恐れさせる必要もなく、あまりに安らかです。なぜでしょう。なぜでしょうか。なぜなら体に、あのお独りの方の憐れみのしるしをはっきりと刻まれているからです。私たちは共々にカインの末裔であり、クリスチャンだからです。ゆるされる必要のある罪人です。しかも現にゆるされつづけている罪人だからです。なんという恵み、なんという喜びでしょうか。