みことば/2017,8,13(召天者記念の礼拝) № 124
◎礼拝説教 マタイ福音書 19:23-30 日本キリスト教会 上田教会
『神には出来る』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
19:23 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。24
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。26
イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。27 そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。28
イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。29
おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。30 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。 (マタイ福音書 19:23-30)
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23節で「それから」と始まっています。主イエスと弟子たちとのやりとりの直前に、金持ちの青年が主イエスと語り合い、けれど悲しみながら立ち去っていきました。その出来事を受けて、今度は主イエスとその弟子たちとがこのように語り合っています。まず16節。去っていった青年は主イエスに、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と問いかけました。すると21節で主イエスは、「もしあなたが完全になりたいのなら、~あなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と答えました。この言葉を聞いて、若者は悲しみながら立ち去っていきました。この出来事を受けて、主イエスは弟子たちに23節でも24節でも、「富んでいる者が天国に入ることはとても難しい」と教えはじめています。言葉遣いが少し分かりにくいので、まず説明しておきます。若者は「永遠の生命を得る」ことについて質問し、主イエスは若者に「あなたが完全になりたいのなら」と言い、弟子たちには「天国に入ることは」と教えはじめています。これらの言葉は普通に世間でやりとりされている意味では使われていません。「永遠の生命」と言っても不老不死でいつまでも死なないで長生きすることではなく、「完全になる」と言っても、ロボットのように間違ったことをしないで決まりきったことをするわけでもなく、神や仏のようにいつでも正しく真実なことをするなどという意味でもありません。つまり、「永遠の生命を得ること」「完全になること」「天国に入ること」は、みんな同じ一つの事柄を言い表そうとしています。生きて働いておられる神を信じ、その神の御心にかなった生き方をしたいと精一杯に願い求めながら生きてゆくことについてです(例えばノアや、マリアの夫ヨセフなどが『正しい人』と呼ばれました。完全も同様。神ではない被造物(=神によって造られたに過ぎないものたち)の正しさ・完全さは限定的・部分的意味であり、不完全さや偽りや大きな欠けをも含んでいます。すべての人間が例外なく! 憐れみを受け、ゆるされて救われるほかない惨めな罪人に過ぎないからです。よくよく弁えておかねばなりません。そのため、わざわざ、ノアは洪水後に醜態をさらし、マリアの夫ヨセフは人間的な臆病さや身勝手なズル賢さを暴露されてしまいます。創世記8:21,同9:20-27,マタイ1:18-21,ローマ手紙3:21-28)。
もう一つ、21節、金持ちの青年に対して主イエスは「持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と命じました。神を信じて生きていきたいと願う者たちすべてがこのように厳しく命じられるのか、私たち皆もそう命じられ家も土地も財産全部も投げ捨てて、裸一貫になってクリスチャンとされたのかというと、決してそうではありません。どうぞ安心してください。誰にでも「持ち物を売り払って、そして私に従ってきなさい」と救い主イエスが仰るわけではありません。とくに自分がもっているたくさんの財産に目も心も奪われ、ガンジガラメにされていたあの若者に対しては、そこまで言ってあげる必要があったからです。自分の宝のあるところに自分の心もあるからです。それらが邪魔をして、いつまでたっても神さまを思うことができず、天に宝を持つことも決してできないからです。すると主イエスと弟子たちの間でやりとりされつづけていた、23-24節の「富んでいる者が天国に入ることはとても難しい」という発言は、いろいろな豊かさや財産のことです。私たちの目と心をひきつけてやまない、様々な『生きるための支え、拠り所、頼みの綱』のことです。例えば、腕一本を頼りとして世の中を渡ってきた職人はその腕一本こそが何にも代えがたい財産です。先週も言いましたが例えば、自分を信じると書いて『自信』。もし、あなたが本気で神を信じ、神さまをこそ頼みの綱として生きていきたいと心から願っているならば、その『自信』はほどほどのことと弁えておかねばなりません。自分の能力や甲斐性や働きを信じており、自分を頼みの綱としているのなら、神を信じ、神さまをこそ頼みの綱として生きる余地がほんの少しもないではありませんか。神の御心にかなって生きてゆくことよりも、他にもっと好きな、もっともっと大切に思うものがあるからです。心がその宝物に縛り付けられていて、神を思う暇がほんの少しも無いからです。
主イエスの弟子の一人ペテロが、こういうことを言い出しました。27節、「ごらんなさい。わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるのでしょうか」。ペテロも他の弟子たちも、ここにいるこの私たち一人一人も、ずいぶん長い間、主イエスから神の国の教えを聞きつづけていますが、たびたび心が鈍くされて、どんな神さまなのか、どういう救いか、救われた者たちがどのように生きてゆくことができるのかなどがすっかり分からなくなってしまいます。「小さな子供のようにならなければ決して天国に入ることはできない」(マタ18:1-3,同19:13-15)と念入りに教えられたばかりでした。ここでは、「富んでいる者が天国に入ることはとてもとても難しい」と教えられています。同じ一つのことを伝えようとしています。『小さな子供のようであること』と『富んでいる者』『何でもよく知っており弁えていて、仕事がよくできるとか、高い地位を得て人々から尊敬され、頼りにされ、良い評判を得ている、自分は大きくて強くて立派で賢いと自惚れている者』『生きるための支え、拠り所、頼みの綱をいくつも沢山もっている者』とは、ちょうど正反対の在り方です。小さな子供は、無力で、自分を守ってくれるものもなく、生きてゆくために必要なものを自分で手に入れてゆく手段も道具もなく、もしただ独りで放り出されるなら死んでしまうほかない危うい生命です。それが、聖書が言おうとしている小さな子供の本質です。『小さな子供のようになる』とは、小さな子供が父さん母さんを頼りとするように、神さまを自分のお父さんお母さんとして受け入れることです。欠けている多くのものがあり、けれど神さまが小さな子供のお父さんお母さんのようにちゃんと用意して、与えてくれる、だから何の不足も恐れも心細さもないと。それが、神を自分の親とする『小さな子供の心』です。もう分かりましたね? それと比べると、富んでいる者は神からあまりに遠く隔たっているし、ますます遠くへ離れ去ろうとしつづけています。その人は自分自身を自分の主人としつづけ、ただただ自分の思うまま望むままに生きてゆこうとしつづけるでしょう。
すっかり心が鈍くされて、トンチンカンで見当外れなことを言い立てていたペテロでした。しかも胸を張って、晴れ晴れと鼻高々で。27節。このことも、すっかり解決しておきましょう。「ごらんなさい。わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるのでしょうか」。貧しい片田舎の湖のほとりで、漁師をして暮らしを立てていた彼らです。「わたしに従ってきなさい」と招かれて、魚をとる小舟も網も捨てて、それどころか頼みの綱だった父親さえ後に残して主イエスに従って旅立った彼らです。主に聴き従い、主をこそ頼りとして生きることは、主イエスにも聞くけど他の誰彼の言うことにも従うというのではなく、主にこそ聴き従うこと。主を頼りとし、自分自身や他の誰彼をも頼りとするというのではなく、ただもっぱら主イエスをこそ頼みの綱として従ってゆくことです。主に従うことを邪魔するものを後に残してくる必要が、あの彼らにはありました。だからそうしました。聖書の神に従って生きることをし始めたアブラハムとサラの夫婦もまったく同じでした。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1-3)と命じられて、神さまから命じられるままに、国を出て、親族に別れ、父の家を離れて旅立ったのです。神をこそ支えとし頼みの綱とし、神にこそ聴き従って命と幸いを受け取りつづけて生きるために。「あなたに従いました。ついては、何がいただけるのでしょうか」。苦労して汗水たらして、嫌なことも我慢して、必死に従ってきたし、主イエスのために働いてきた。その分の当然の報酬がもらえるはずだ、と彼らは言いたい。まだまだ何も良いものを受け取ってない、と不平不満も訴えたいのかも知れません。他の労働者の何倍も苦労し、高い犠牲も払って、我慢して我慢して主に従ってきた。では、あのペテロたちは、この私たち一人一人にも、その権利がある? いいえ、それは大間違い。邪魔なもの要らないものを後に残して身軽になって、主に従って歩んできたはずの私たちです。けれど、『私はこんなにちゃんと働いてきた』という自惚れこそがとても邪魔。ついては、何がいただけるのでしょうか? 何をいただきつづけているのか。しかもそれは当然の報酬でも分け前でもない、給料でもない。贈り物として、ただただ恵みとして、豊かなものを有り余るほどに分け与えられつづけていることに、あなたは、まだ少しも気づいていないのですか? 主イエスに聴き従いつづけて生きることこそが、飛びっきりの幸いであり祝福であり、何にもまさる贈り物でありつづけます。
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30節をご覧下さい。「しかし、多くの先の者はあとにあり、あとの者は先になるであろう」。恵みの贈り物を受け取って大喜びに喜ぶために、感謝にあふれるために、神の恵み深さと気前のよさを知って驚くために、そのためには、なんでも出来る神さまご自身が私たち一人一人のためにも力業を十分に発揮してくださる必要がありました。奇妙なぶどう園で、朝早くから汗水たらして働いて、夕方の賃金支払いのときにプンプン腹を立てて怒ったり妬んだりした、あの労働者たちのように。「私ばかりに働かせて」と腹を立てて寂しくなってしまった働き者の姉さんのように。プンプン腹を立てた放蕩息子の兄さんのように(マタイ20:1-16,ルカ10:38-42,同15:25-32)。朝早くからずっと天国に居させていただいたのに、あのうかつな彼らは、そこが天国だとは夢にも思いませんでした。ただ人間たちの間で嫌々渋々働かされているとばかり誤解しつづけていました。豊かな良いものをあふれるほどに受け取りつづけながら、それなのに物寂しくて、惨めで嫌で、辛くて苦しくて我慢して損ばかりしているような気分でした。あの若者も弟子たちも私たち皆も誰も彼もが失格でした。当たり前のように澄ました顔をして神の国にいれてもらえる人間など誰一人もいません。もちろん、「財産や宝物や取り柄や役に立つ長所、知恵や賢さなどが悪い。ないほうが良い」などと簡単に切り捨てるわけではありません。役に立つし、その人や周囲の人々を助けたり、世の中で良い働きをすることに用いられる場合もたくさんあるでしょう。それを十分に分かった上で、けれどなお、それらは自分の心を奪い、度を越して執着させうる。神から目をそらさせるとても危険な誘惑ともなる。覚えておきましょう。聖書は証言します、「貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」(箴言30:7-9)と。富と財産と支えと頼みの綱についての願いです。豊かになりすぎて思い上がり、むやみに自惚れて他人を見下すこともなく、あるいは貧しすぎて妬んだり恨んだり、いじけたりもしないように、わたしのために神さまが定めて用意してくださった無くてならぬ食物で、天から恵みによって贈り与えられる一日分ずつの糧で私と家族を養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないため。しかも誰ができ、誰が救われて天国に入ることができるのか。26節、聖書からの唯一の答えです。「人にはそれはできないが、神にはなんでも出来ないことはない」。つまり神さまご自身が、その人の首根っこを捕まえて無理矢理に入れてくださるなら、どこの誰でも神の国に入って、そこで幸いに生きることもできる。そうでなければ、誰にも決してできない。しかも何でも出来る神さまは、そうしてくださる御心なのです。