2017年8月14日月曜日

8/13こども説教「狭い戸口から?」ルカ13:22-30

8/13 こども説教 ルカ13:22-30
 『狭い戸口から?』

13:22 さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。23 すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。24 そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。25 家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。26 そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、27 彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。・・・・・・30 こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」。          (ルカ福音書13:22-30

  ここは難しい所です。小さな子供にとっても、大きな大きな大人である私たちにとっても。「幼な子のようにならなければ誰も決して神の国に入ることはできない」(ルカ18:17とはっきりと言われています。ですから、大きな大人のつもりの私たちにはなおさら難しい。「救われる人は少ないのか?」と誰かが主イエスに質問しました。それについては少ないとも多いとも答えていません。少ないか多いのかは、その人にも私たち自身にも何の関係もありません。むしろ、あなた自身やこの私、私の大切な家族が救われるのかそうではないのかこそが大問題です。24節。主イエスは仰います、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから」。入ろうとしても入れない人が多い。では、誰がどんなふうに救われるのか? ヒントは27節と30節。「悪事を働く者どもよ、行ってしまえ」。そして、「後のものが先になり、先の者で後にされるものもある」。主イエスを信じている。それは中身のある信仰である必要があります。信じて、朝昼晩とどんなふうに暮らしているのか(*)。「信じている信じている」と口では言いながら、もし、その私たちが誰かを困らせたり苦しめたり踏みつけにしても、それでも心が少しも痛まないなら、「あなたは、一体どういうつもりか」と厳しく問い正されます。また、大きな大人のつもりであることを止めて、へりくだった低い小さな子供の心になれたのかどうかと。

   【補足/救われたなら、その人も良い実を結ぶようになる】
(*)ここが、キリスト教信仰の肝心要です。良い行いをどれくらいしたかどうかではなく、ただ救い主イエスを信じるだけで救われる。けれど行いや、普段の生活がどうでもいいわけではない。その人をさえ導いて、神ご自身が、その人にも良い働きをさせてくださる。これが神からの約束です。