みことば/2017,5,28(復活節第7主日の礼拝) № 113
◎礼拝説教 マタイ福音書 17:14-21 日本キリスト教会 上田教会
『不信仰な曲がった時代に』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
17:14 さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、15 「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。16 それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。17 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。18 イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。19 それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。20 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。21 〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」 (マタイ福音書 17:14-21)
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山から降りてくると、子供を愛する一人の親が主イエスを待ち構えていました。その人の子供が悪霊にとりつかれて、とてもひどく苦しめられていたからです。なんとかして、その子供を癒してもらいたかったからです。その人は、主イエスの前にひざまずいて言いました。15-16節です。「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。主イエスは自分のところにその子供を連れてこさせ、悪霊を追い出し、その子を癒してあげました。その前に、弟子たちをきびしく叱りつけて言いました。17節です。「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか」。その弟子たちは、あとで密かに主イエスに質問しました。「私たちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。主イエスは弟子たちに答えました、20-21節。「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない」。祈りと断食によらなければ。断食も、神に祈り求める一つの在り方です。つまり、神さまを信じ、神に信頼し、それゆえ神に聴き従い、神に願い求めること。『できないことは何一つない神をよくよく信じているので、だから、そのあなたがたにできないことは何一つない』と言われました。それなのに、どうしてできなかったのか。神を信じる信仰が足りないからである。神を信じる信仰が、あなたがたには、小さな種つぶほどもないからであると。そこで17節に戻ります。「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか」。時代や社会や世の中の多くの人々が不信仰で曲がっている、と言っているわけではありません。むしろ、ご自分に従って歩んでいくはずの弟子たちのことを、この私たち一人一人のことを、主イエスは言っています。あなたがたの信仰が足りなすぎると。神さまを信じ、神に信頼し、それゆえ神に聴き従い、神に願い求めて毎日毎日を生きるはずの私たちです。けれどあまりに不信仰で、神をこそ真っ直ぐに信じて生きるはずの、この私たち自身の心が曲がっていると。
この同じ一つの出来事を報告したとき、例えばマルコ福音書では、弟子たちではなく息子の父親が叱られていました。父親は言いました、「しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。イエスはその父親に言いました、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言いました、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」(マルコ福音書 9:22-24)。同じことですね。息子の父親がこのように救い主に信頼できない不信仰を咎められ、きびしく叱られたとするなら、その場にいた弟子たちも、またこの私たち一人一人も同じく、「本気で信じる気持ちがあるのかないのか。信じる者にはどんなことでもできる。お前はどうなのか」と問われています。「信じます。不信仰なわたしをお助けください」とひれ伏して、主イエスにしがみつく私たちなのか、そうではないのかと。
救われ方は様々ありました。「あなたの信仰があなたを救った」と誉められ、喜ばれて救われた者たちもいました。また、信じるつもりが少しもなかったのに、けれども招き入れられ、信じさせられた者たちも大勢いました。それでもなお、すでに神を信じて生きることをしはじめた私たちには特に、「本気で信じる気持ちがあるのかないのか。信じる者にはどんなことでもできる。お前はどうなのか」と問われつづけます。信じるつもりが少しもなかったのに、けれども神のお働きと憐れみのご支配の中に招き入れられます。それでもなお、神を信じて生きはじめたならば、その信仰が強められ、増し加えられ、養い育てられていく必要があります。私たち自身の信仰があるのか無いのか、十分なのか全然足りないのかが、私たち自身が救われるのかどうかを決定的に分けるからです。肝心要の崖っぷちの日々に、はたして、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」とひれ伏して、主イエスにしがみつくことができる私たちなのか、そうではないのかと。だからこそ、主イエスを信じて生きていくはずの弟子たちには特に、「あなたがたの信仰が足りない。まったく足りなすぎる」とわざと渋い顔をしてみせ、彼らをなんとかして奮い立たせようと励まします。
自分自身の信仰生活をつくづくと振り返ってみて、「ああ本当にそうだ」と実感します。神を信じる信仰が強くなったり弱くなったりしつづけたからです。信仰と不信仰の間を、この私たち一人一人も揺れ動きつづけて生きてきたからです。ひとたび神を信じて生きていこうとする私たちの信仰がやせ衰え、弱まってゆくとき、神から受け取りつづけてきたすべての恵みもまた、自分自身の信仰とピタリと歩調をあわせて、同じくやせ衰え、弱まっていったからです。心を奮い立たせる勇気も、耐え忍んで自分を持ちこたえさせる忍耐も、長く苦しめられ、脅かされつづけながらなお希望を持ちつづけることも、やせ衰え、萎えしぼみ、消えてなくなろうとするからです。やせ衰えてしまった自分自身の信仰とともに。勇気、忍耐して耐え忍ぶこと、希望、神からのあらゆる恵みが育まれ育ってゆくための唯一の土台は、神を信じる信仰そのものでありつづけるからです。例えば、葦の海を喜びと希望にあふれて渡ったその同じ神の民が、折々に心を挫けさせ、不信仰の中に囚われて不平不満を漏らしつづけます。困難や悩みの中で、神を呪い、神に背を向けつづけます。例えば主イエスの弟子たちも、まったく同じでした。二人づつ組にして町々村々へと遣わされたとき、あの彼らは喜びにあふれて帰ってきて、主イエスに旅の報告をしていました。「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。主イエスは彼らに言われました、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ福音書10:17-20)。同じ弟子たちであり、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けられ、害をおよぼす者はまったく無いほどに堅く守られているその同じ弟子たちです。けれど、主イエスを信じる彼らの信仰は、強くなったり弱くなったり、大きくなったり小さくなったり、やせ衰え、萎えしぼんだりもします。どうしましょうか? さあ困りました。
さて今日の箇所でよくよく考えなければならないことは、17節です。「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか」。そのとおり。神を信じる信仰が足りなすぎる私たちです。神さまを信じ、神に信頼し、それゆえ神に聴き従い、神に願い求めて毎日毎日を生きるはずだったのに、神をこそ真っ直ぐに信じて生きるはずの心が曲がっている、あまりに不信仰な私たちです。
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では、その言葉通り、見捨てられ、見放されてしまうほかない私たちなのか。「もう我慢の限度をすぎた。とうてい一緒には居られない」と、すっかり愛想つかしをされてしまう私たちなのか。いいえ、決してそうではありません。ただ、ここまで厳しく言って励まし、奮起させる必要がありました。これが、自分の子供を愛して止まない親の心です。「こんなこいとも分からないようでは手に負えない。今日からは親でもなければ子でもない。好きなところに勝手に出て行け。二度と帰ってくるな」などと思い余って口では言います。そう簡単に見捨てられるはずがない。それでもなお、「呆れ果てた。つくづく愛想が尽きた。二度と帰ってくるな」などと言いながら、帰ってくるのを待ち続けます。なぜでしょう? 愛して止まないわが子なので。主イエスを信じる信仰がすくすくと育って、やがて豊かな実を結ぶようになるのか。あるいは、このままやせ衰えて、萎えしぼんでいき、ついに枯れ果ててしまうのかどうか。その正念場だからです。
先週のこども説教(ルカ福音書12:4-7『スズメ一羽、草一本と同じに』2017,5,21)でお伝えしようとしていたことも、これと同じ親心です。親のように子を愛する神、親である神です。いつも、よくよく分かっていてください。救い主イエスご自身は、その弟子たちを決して見捨てることも見放すこともなさらない。むしろいつでも、弟子こそが、この私たちこそが、救い主イエスを見捨てるのです。信仰深い弟子も、信仰が浅く弱く足りなすぎる弟子も、主イエスは同じく愛し、養い、支えとおしてくださいます。スズメたちが市場でほんのわずかな値段で売り買いされていました。そのスズメたちと自分たちとを見比べさせ、「あなたがたは多くのスズメよりも優った者である」。だから、スズメの2倍も3倍も優れていて価値のあるはずの私たちなら、それだけいっそう確かに、神さまからの支えや守りや救いを期待し、確信してよいのか? いいえ、違います。それは、この世界の私たち人間のいつものモノの考え方です。よくよく習い覚えて、骨身にしみて分かっている救いの道理はまったく違う神さまの御心を教えつづけます。優れているか劣っているか、いくらの値段がつけられているか、強いか弱いか大きいか小さいか、とても役に立つかそうでもないか、賢いかあまり賢くないか。そんなことと神さまからの助けや支えや救いとはなんの関係もありません。ただただ憐れんで可哀想に思い、愛してくださり、だから恵みに値しない罪人をゆるして救う神さまです。しかもその一つ一つの生命は神さまご自身が造ってくださり、そのとき「とても良い」と大喜びに喜んでくださり、愛して大切に思いつづけていてくださる。理由はそれだけです(創世記1:31-2:3,同9:1-17,ローマ手紙3:21-27,同5:6-11,同11:30-32,テモテ手紙(1)1:12-16)。カラスやスズメ一羽に負けず劣らず、名も知られない野の草花の一本一本と同じだけ、この私たち一人一人も、神さまからの支えや守りや救いを期待し、確信してよい。髪の毛一本一本まで数え、何から何までご存知の上で、大切に取り扱ってくださる。やがてハゲ頭になりシワシワ顔になり、腰が曲がって目も耳も衰え、物忘れがひどくなったあとでもそれでも同じく変わらず、スズメ一羽や草一本とまったく同じに愛して、とても大切に持ち運びつづけてくださいます。こども讃美歌に、こういう歌があります。「『どんなに小さい小鳥でも神さまは育ててくださる』ってイエスさまのお言葉。『名前も知らない野の花も神さまは咲かせてくださる』ってイエスさまのお言葉。『良い子になれない私でも神さまは愛してくださる』って、イエスさまのお言葉」(『どんなに小さい小鳥でも』(讃美歌21-60番,こどもさんびか58番)。「小鳥、野の花、わたし」と見比べながら、すべての生き物たちへの神の愛の中身と、その愛し方を思いめぐらせています。しかも、救い主イエス直伝で(マタイ福音書6:25-34参照)。すべての生き物を思い浮かべながら、やはり、神を信じて生きる自分自身の希望の中身を考えています。「優れているか劣っているか、いくらの値段がつけられているか、強いか弱いか大きいか小さいか、とても役に立つかそうでもないか、賢いかあまり賢くないか」などというケチくさい価値判断を度返しして! それらとはまったく無関係に、神は育て、咲かせ、愛してくださる。ただただ恵みによってだけ、そうしてくださる。私たち人間とは違って、あまりに寛大な、とてもとても気前の良い神です。よく覚えておきましょう。とくに歌の3節で、「良い子になれない私でも、神は愛してくださる」の真意は、自分自身の努力や心がけや精進などでは良い子になかなかなれないとしても、神ご自身こそがそのような私をさえも愛し、育て、花を咲かせ良い実をみのらせてくださる。そこに信頼しているし、希望を託しています。――では、考えてみましょう。もし仮に、「良い子になれなくてもいい。一生涯ずっと、自分勝手でワガママで、意地悪で、ずる賢い極悪人のままでいいよ」と言われているのだとしたら、あなたは嬉しいでしょうか? いいえ、違いますね。神の愛は、真実で力があり、人間の現実や限界を打ち破るのです。わざと渋い顔をして、「あなたがたの信仰が足りなすぎる。もう一緒に居られないかも知れない。我慢の限界だ」などと厳しく冷たく仰るのは、不信仰で曲がった心の私たちをさえ愛して止まないからです。その心と顔つきは、「必要なだけ十分に信じさせてあげよう。神を信じて生きる真っ直ぐなあなたとならせてあげよう。この私こそが、それを必ずきっと成し遂げる」と主イエスが、この私たち一人一人に向かって仰っています。本当のことです。