2017年5月29日月曜日

5/28こども説教「主イエスを拒む者を?」ルカ12:8-12

 5/28 こども説教 ルカ12:8-12
 『主イエスを拒む者を?』

12:8 そこで、あなたがたに言う。だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう。9 しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろう。10 また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。11 あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。12 言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」。       (ルカ福音書 12:8-12

  父なる神、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神。一つ思いになって働く、この三つの神を私たちは信じています。聖霊なる神はとても大切な働きをします。主イエスがどんなかたで、何をしてくださるのかを教え、主イエスを信じさせ、信じて生きることがどういうことなのかも一つ一つ手取り足取り教えてくださるのも皆、聖霊なる神さまです。ですから、そのお働きに信頼したり期待し、願い求めることができなければとても困ります。「聖霊を汚す者はゆるされない」10節)とは、そういうことを伝えようとしています。さて「人の子」、つまり救い主イエスを人の前で拒む者は神さまからも拒まれる9節)。もちろんそうです。これは正しい答えです。ただ心の中でだけ主イエスを信じて、人前では「いえいえ信じてません。主イエスなんてどうでもいいですよ」などと言うクリスチャンがもしいたら、もちろん主イエスからも「この人とは何の関係もありません」と知らんぷりされる。当たり前です。
  けれどこの正しい答えよりも、その千倍も万倍も主イエスは思いやり深く、とてもとても心やさしい救い主です。しかも、できないことは何一つない救い主。主イエスを拒む者も、言い逆らう者も共に、もしそのまま放置されてしまうなら 福音と救いの恵みをすっかり受け取り損ね、ただただ罪と悲惨の真っ暗闇に取り残されるばかりです。「知らない知らない。何の関係もない」とご自分を人前で拒んだペテロを、主イエスはどうしたでしょう。「そんなことあるものか。絶対に信じない」と言い張ったトマスを、主イエスはどうしたでしょう? その頑固さ、疑い深さ、自分自身の狭い考え方・モノの見方、臆病で生ズルい心を力ずくでねじ伏せ、ねじ曲げてあげました(マタイ16:21-27「サタン引き下がれ」,26:69-75「そんな人は知らない」,ヨハネ20:24-29「あなたの指を~」,21:15-19「わたしを愛するか、愛するか、愛するか」)。主イエスを信じて、素直に従って生きる者に造り変えてくださいました。びっくりです。


    【補足/罪人をゆるして救う神】
         私たち人間のいつもの考えと、神の考えややり方はずいぶん違います。そのことを、よくよく弁えておかねばなりません(イザヤ書55:8-9,コリント手紙(1)2:9)。正しい人、信仰深く、神に素直に従って生きる心清らかな人をこそ救おうと思ったら、誰もが皆、落第でした。そんな人は一人もいないのです。神に逆らう、疑い深い、頑固でワガママで身勝手で、意地の悪い人間を救おうと神は決断なさったのです。罪人を憐れみ、その罪をゆるし、罪から救い出してくださる神です(創世記8:21-22,ローマ手紙3:9-27,5:6-11,11:30-36,テモテ手紙(1)1:13-16)。


5/28「不信仰な曲がった時代に」マタイ17:14-21

             みことば/2017,5,28(復活節第7主日の礼拝)  113
◎礼拝説教 マタイ福音書 17:14-21                   日本キリスト教会 上田教会
『不信仰な曲がった時代に』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

17:14 さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、15 「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。16 それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。17 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。18 イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。19 それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。20 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。21 〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」                         (マタイ福音書 17:14-21)
                                             



 山から降りてくると、子供を愛する一人の親が主イエスを待ち構えていました。その人の子供が悪霊にとりつかれて、とてもひどく苦しめられていたからです。なんとかして、その子供を癒してもらいたかったからです。その人は、主イエスの前にひざまずいて言いました。15-16節です。「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。主イエスは自分のところにその子供を連れてこさせ、悪霊を追い出し、その子を癒してあげました。その前に、弟子たちをきびしく叱りつけて言いました。17節です。「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか」。その弟子たちは、あとで密かに主イエスに質問しました。「私たちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。主イエスは弟子たちに答えました、20-21節。「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない」。祈りと断食によらなければ。断食も、神に祈り求める一つの在り方です。つまり、神さまを信じ、神に信頼し、それゆえ神に聴き従い、神に願い求めること。『できないことは何一つない神をよくよく信じているので、だから、そのあなたがたにできないことは何一つない』と言われました。それなのに、どうしてできなかったのか。神を信じる信仰が足りないからである。神を信じる信仰が、あなたがたには、小さな種つぶほどもないからであると。そこで17節に戻ります。「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか」。時代や社会や世の中の多くの人々が不信仰で曲がっている、と言っているわけではありません。むしろ、ご自分に従って歩んでいくはずの弟子たちのことを、この私たち一人一人のことを、主イエスは言っています。あなたがたの信仰が足りなすぎると。神さまを信じ、神に信頼し、それゆえ神に聴き従い、神に願い求めて毎日毎日を生きるはずの私たちです。けれどあまりに不信仰で、神をこそ真っ直ぐに信じて生きるはずの、この私たち自身の心が曲がっていると。
  この同じ一つの出来事を報告したとき、例えばマルコ福音書では、弟子たちではなく息子の父親が叱られていました。父親は言いました、しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。イエスはその父親に言いました、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言いました、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」(マルコ福音書 9:22-24。同じことですね。息子の父親がこのように救い主に信頼できない不信仰を咎められ、きびしく叱られたとするなら、その場にいた弟子たちも、またこの私たち一人一人も同じく、「本気で信じる気持ちがあるのかないのか。信じる者にはどんなことでもできる。お前はどうなのか」と問われています。「信じます。不信仰なわたしをお助けください」とひれ伏して、主イエスにしがみつく私たちなのか、そうではないのかと。
  救われ方は様々ありました。「あなたの信仰があなたを救った」と誉められ、喜ばれて救われた者たちもいました。また、信じるつもりが少しもなかったのに、けれども招き入れられ、信じさせられた者たちも大勢いました。それでもなお、すでに神を信じて生きることをしはじめた私たちには特に、「本気で信じる気持ちがあるのかないのか。信じる者にはどんなことでもできる。お前はどうなのか」と問われつづけます。信じるつもりが少しもなかったのに、けれども神のお働きと憐れみのご支配の中に招き入れられます。それでもなお、神を信じて生きはじめたならば、その信仰が強められ、増し加えられ、養い育てられていく必要があります。私たち自身の信仰があるのか無いのか、十分なのか全然足りないのかが、私たち自身が救われるのかどうかを決定的に分けるからです。肝心要の崖っぷちの日々に、はたして、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」とひれ伏して、主イエスにしがみつくことができる私たちなのか、そうではないのかと。だからこそ、主イエスを信じて生きていくはずの弟子たちには特に、「あなたがたの信仰が足りない。まったく足りなすぎる」とわざと渋い顔をしてみせ、彼らをなんとかして奮い立たせようと励まします。
  自分自身の信仰生活をつくづくと振り返ってみて、「ああ本当にそうだ」と実感します。神を信じる信仰が強くなったり弱くなったりしつづけたからです。信仰と不信仰の間を、この私たち一人一人も揺れ動きつづけて生きてきたからです。ひとたび神を信じて生きていこうとする私たちの信仰がやせ衰え、弱まってゆくとき、神から受け取りつづけてきたすべての恵みもまた、自分自身の信仰とピタリと歩調をあわせて、同じくやせ衰え、弱まっていったからです。心を奮い立たせる勇気も、耐え忍んで自分を持ちこたえさせる忍耐も、長く苦しめられ、脅かされつづけながらなお希望を持ちつづけることも、やせ衰え、萎えしぼみ、消えてなくなろうとするからです。やせ衰えてしまった自分自身の信仰とともに。勇気、忍耐して耐え忍ぶこと、希望、神からのあらゆる恵みが育まれ育ってゆくための唯一の土台は、神を信じる信仰そのものでありつづけるからです。例えば、葦の海を喜びと希望にあふれて渡ったその同じ神の民が、折々に心を挫けさせ、不信仰の中に囚われて不平不満を漏らしつづけます。困難や悩みの中で、神を呪い、神に背を向けつづけます。例えば主イエスの弟子たちも、まったく同じでした。二人づつ組にして町々村々へと遣わされたとき、あの彼らは喜びにあふれて帰ってきて、主イエスに旅の報告をしていました。「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。主イエスは彼らに言われました、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ福音書10:17-20。同じ弟子たちであり、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けられ、害をおよぼす者はまったく無いほどに堅く守られているその同じ弟子たちです。けれど、主イエスを信じる彼らの信仰は、強くなったり弱くなったり、大きくなったり小さくなったり、やせ衰え、萎えしぼんだりもします。どうしましょうか? さあ困りました。
  さて今日の箇所でよくよく考えなければならないことは、17節です。「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか」。そのとおり。神を信じる信仰が足りなすぎる私たちです。神さまを信じ、神に信頼し、それゆえ神に聴き従い、神に願い求めて毎日毎日を生きるはずだったのに、神をこそ真っ直ぐに信じて生きるはずの心が曲がっている、あまりに不信仰な私たちです。

             ◇

では、その言葉通り、見捨てられ、見放されてしまうほかない私たちなのか。「もう我慢の限度をすぎた。とうてい一緒には居られない」と、すっかり愛想つかしをされてしまう私たちなのか。いいえ、決してそうではありません。ただ、ここまで厳しく言って励まし、奮起させる必要がありました。これが、自分の子供を愛して止まない親の心です。「こんなこいとも分からないようでは手に負えない。今日からは親でもなければ子でもない。好きなところに勝手に出て行け。二度と帰ってくるな」などと思い余って口では言います。そう簡単に見捨てられるはずがない。それでもなお、「呆れ果てた。つくづく愛想が尽きた。二度と帰ってくるな」などと言いながら、帰ってくるのを待ち続けます。なぜでしょう? 愛して止まないわが子なので。主イエスを信じる信仰がすくすくと育って、やがて豊かな実を結ぶようになるのか。あるいは、このままやせ衰えて、萎えしぼんでいき、ついに枯れ果ててしまうのかどうか。その正念場だからです。
  先週のこども説教(ルカ福音書12:4-7『スズメ一羽、草一本と同じに』2017,5,21でお伝えしようとしていたことも、これと同じ親心です。親のように子を愛する神、親である神です。いつも、よくよく分かっていてください。救い主イエスご自身は、その弟子たちを決して見捨てることも見放すこともなさらない。むしろいつでも、弟子こそが、この私たちこそが、救い主イエスを見捨てるのです。信仰深い弟子も、信仰が浅く弱く足りなすぎる弟子も、主イエスは同じく愛し、養い、支えとおしてくださいます。スズメたちが市場でほんのわずかな値段で売り買いされていました。そのスズメたちと自分たちとを見比べさせ、「あなたがたは多くのスズメよりも優った者である」。だから、スズメの2倍も3倍も優れていて価値のあるはずの私たちなら、それだけいっそう確かに、神さまからの支えや守りや救いを期待し、確信してよいのか? いいえ、違います。それは、この世界の私たち人間のいつものモノの考え方です。よくよく習い覚えて、骨身にしみて分かっている救いの道理はまったく違う神さまの御心を教えつづけます。優れているか劣っているか、いくらの値段がつけられているか、強いか弱いか大きいか小さいか、とても役に立つかそうでもないか、賢いかあまり賢くないか。そんなことと神さまからの助けや支えや救いとはなんの関係もありません。ただただ憐れんで可哀想に思い、愛してくださり、だから恵みに値しない罪人をゆるして救う神さまです。しかもその一つ一つの生命は神さまご自身が造ってくださり、そのとき「とても良い」と大喜びに喜んでくださり、愛して大切に思いつづけていてくださる。理由はそれだけです(創世記1:31-2:3,9:1-17,ローマ手紙3:21-27,5:6-11,11:30-32,テモテ手紙(1)1:12-16。カラスやスズメ一羽に負けず劣らず、名も知られない野の草花の一本一本と同じだけ、この私たち一人一人も、神さまからの支えや守りや救いを期待し、確信してよい。髪の毛一本一本まで数え、何から何までご存知の上で、大切に取り扱ってくださる。やがてハゲ頭になりシワシワ顔になり、腰が曲がって目も耳も衰え、物忘れがひどくなったあとでもそれでも同じく変わらず、スズメ一羽や草一本とまったく同じに愛して、とても大切に持ち運びつづけてくださいます。こども讃美歌に、こういう歌があります。「『どんなに小さい小鳥でも神さまは育ててくださる』ってイエスさまのお言葉。『名前も知らない野の花も神さまは咲かせてくださる』ってイエスさまのお言葉。『良い子になれない私でも神さまは愛してくださる』って、イエスさまのお言葉」(『どんなに小さい小鳥でも』(讃美歌2160番,こどもさんびか58番)。「小鳥、野の花、わたし」と見比べながら、すべての生き物たちへの神の愛の中身と、その愛し方を思いめぐらせています。しかも、救い主イエス直伝で(マタイ福音書6:25-34参照)すべての生き物を思い浮かべながら、やはり、神を信じて生きる自分自身の希望の中身を考えています。「優れているか劣っているか、いくらの値段がつけられているか、強いか弱いか大きいか小さいか、とても役に立つかそうでもないか、賢いかあまり賢くないか」などというケチくさい価値判断を度返しして それらとはまったく無関係に、神は育て、咲かせ、愛してくださる。ただただ恵みによってだけ、そうしてくださる。私たち人間とは違って、あまりに寛大な、とてもとても気前の良い神です。よく覚えておきましょう。とくに歌の3節で、「良い子になれない私でも、神は愛してくださる」の真意は、自分自身の努力や心がけや精進などでは良い子になかなかなれないとしても、神ご自身こそがそのような私をさえも愛し、育て、花を咲かせ良い実をみのらせてくださる。そこに信頼しているし、希望を託しています。――では、考えてみましょう。もし仮に、「良い子になれなくてもいい。一生涯ずっと、自分勝手でワガママで、意地悪で、ずる賢い極悪人のままでいいよ」と言われているのだとしたら、あなたは嬉しいでしょうか? いいえ、違いますね。神の愛は、真実で力があり、人間の現実や限界を打ち破るのです。わざと渋い顔をして、「あなたがたの信仰が足りなすぎる。もう一緒に居られないかも知れない。我慢の限界だ」などと厳しく冷たく仰るのは、不信仰で曲がった心の私たちをさえ愛して止まないからです。その心と顔つきは、「必要なだけ十分に信じさせてあげよう。神を信じて生きる真っ直ぐなあなたとならせてあげよう。この私こそが、それを必ずきっと成し遂げる」と主イエスが、この私たち一人一人に向かって仰っています。本当のことです。








2017年5月21日日曜日

5/21こども説教「スズメ一羽、草一本と同じに」ルカ12:4-7

 5/21 こども説教 ルカ12:4-7
 『スズメ一羽、草一本と同じに』

12:4 そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。5 恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。6 五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。7 その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
(ルカ福音書 12:4-7

 チョー難しい、とても分かりにくい聖書箇所です。どういう神さまか、どういう私たちか、どういう救いか。神を信じて、どこにどう辿り着くのか。そういうことを、よく習い覚えてきた人でなければ、うっかり間違って、迷子になってしまいます。
  まず、小さな誤解のタネを取り除いておきましょう。7節の終わり、「あなたがたは多くのスズメよりも優った者である」。だから、それだけいっそう確かに、神さまからの支えや守りや救いを期待し、確信してよいのか? いいえ、違います。よくよく習い覚えて、骨身にしみて分かっている救いの道理はまったく違う神さまの御心を教えつづけていました。優れているか劣っているか、いくらの値段がつけられているか、強いか弱いか大きいか小さいか、とても役に立つかそうでもないか、賢いかあまり賢くないか。そんなことと神さまからの助けや支えや救いとはなんの関係もありません。ただただ憐れんで可哀想に思い、愛してくださり、だから恵みに値しない罪人をゆるして救う神さまです。しかもその一つ一つの生命は神さまご自身が造ってくださり、そのとき「とても良い」と大喜びに喜んでくださり、愛して大切に思いつづけていてくださる。理由はそれだけです(創世記1:31-2:3,9:1-17,ローマ手紙3:21-27,5:6-11,11:30-32,テモテ手紙(1)1:12-16。カラスやスズメ一羽に負けず劣らず、名も知られない野の草花の一本一本と同じだけ、この私たち一人一人も、神さまからの支えや守りや救いを期待し、確信してよい。髪の毛一本一本まで数え、何から何までご存知の上で、大切に取り扱ってくださる。やがてハゲ頭になりシワシワ顔になり、腰が曲がって目も耳も衰え、物忘れがひどくなったあとでもそれでも同じく変わらず、スズメ一羽や草一本とまったく同じに愛して、とても大切に持ち運びつづけてくださいます。


   【補足/人を見て法を説く神】
    (1)では、なぜ6-7節のような紛らわしいことを言うのか? 「優れているか劣っているか、いくらの値段がつけられているか、強いか弱いか大きいか小さいか、とても役に立つかそうでもないか、賢いかあまり賢くないか」;それこそ、小さな子供の頃から身にしみて習い覚えさせられてきた『人間中心のモノの考え方』だからです。そういうふうに生きてきたし、そういうふうに扱われつづけ、そういう社会に暮らしています。けれど、私たち人間の考えと、神の考え方はずいぶん違う。神を知り、神を信じるためには、考え方を180度グルリと向け返し、すっかり切り替えねばなりません(イザヤ書55:8-9,コリント(1)2:9
(2)マタイ福音書 6:25-34などを土台として、『どんなに小さい小鳥でも』(讃美歌2160番,こどもさんびか58番)は歌います――
1 「どんなに小さい小鳥でも 神さまは育ててくださる」って
  イエスさまの お言葉。
2 「名前も知らない野の花も 神さまは咲かせてくださる」って
  イエスさまの お言葉。
3 「良い子になれない私でも 神さまは愛してくださる」って
イエスさまの お言葉。
「小鳥、野の花、わたし」と見比べながら、すべての生き物たちへの神の愛の中身を思いめぐらせています。しかも、救い主イエス直伝で。すべての生き物を思い浮かべながら、やはり、神を信じて生きる自分自身の希望の中身を考えています。優れているか劣っているか、いくらの値段がつけられているか、強いか弱いか大きいか小さいか、とても役に立つかそうでもないか、賢いかあまり賢くないか」などという価値判断を度返しして それらとはまったく無関係に、神は育て、咲かせ、愛してくださる。ただただ恵みによってだけ、そうしてくださる。とくに3節で、「良い子になれない私でも、神は愛してくださる」の真意は、自分自身では良い子になれないとしても、神がそのような私をさえも愛し、育て、咲かせてくださる。そこに信頼しているし、希望を託しています。考えてみましょう。もし仮に、「良い子になれなくてもいい。一生涯ずっと、自分勝手でワガママで、意地悪で、ずる賢い極悪人のままでいいよ」と言われているのだとしたら、あなたは嬉しいですか? 違いますね。神の愛は、真実で力があり、人間の現実や限界を打ち破るのです。できないことは何ひとつもない神ご自身の真実と力と、生きて働かれることに、すっかり信頼を寄せています。分かりますか?

      (3)親のような神、親である神です。自分の子供をどのように愛するか? 親の言うことをよく聞く良い子だから、手伝いもするから、勉強もできて賢い子だからと愛するのではありません。お腹を痛めて産み、苦労して苦労して養い育て、喜びも辛さも分けあって一緒に暮らしてきた、わが子だからと愛する。そういう親である神です(マルコ福音書 14:36,ローマ手紙8:14-17「子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ父よ』と呼ぶのである」,申命記8:2-5

5/21「苦しみを受ける」マタイ17:9-13

             みことば/2017,5,21(復活節第6主日の礼拝)  112
◎礼拝説教 マタイ福音書 17:9-13                     日本キリスト教会 上田教会
『苦しみを受ける』
 
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
17:9 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。10 弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。11 答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。12 しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。        (マタイ福音書 17:9-13)
                                         


 9節。「 一同が山を下って来るとき、イエスは『人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない』と、彼らに命じられた」。人の子、つまり救い主イエスが死人の中からよみがえるまでは、誰にも話してはならない。今は、どうでしょう? すでに救い主イエスは十字架の上で苦しみを受け、死んでよみがえられ、その復活の姿を多くの弟子たちに見せてくださり、弟子たちが見ている前で天に昇っていかれ、そのときから今に至るまで全世界の王としてずっと生きて働きつづけておられます。ですから、主イエスの弟子とされ、主イエスを信じる者とされた私たちは、もう誰にでも、この最も大切なことを話してよい。これが、今日わたしたちが聞き取るべき最も大切な一点です。誰にでも話してよいばかりではなく、それどころか、『救い主の死と復活』という福音の中身の上に立って、それぞれの生活を建てあげてきた私たちです。思い起こしつづけ、自分自身にも言い聞かせつづけて。聖書は証言しています。伝えられた福音。信じ、受け入れてきた福音の中身について。「あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れ、多くの者たちにキリストがその復活の姿を現してくださったこと」(コリント手紙(1)15:1-5と。
  10節。「救い主ご自身よりも先に、まずエリヤが来る」と律法学者らは言っていた。なぜなのか、と主イエスの弟子たちは質問します。よい質問です。律法学者らがそう言っていたのは、聖書自身がそう語ったからです;「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」(マラキ書4:5-6。父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。ここでは、ごく普通の一般的な親子関係のことが語られているのではなく、神の民とされた私たち(=その子供たち)と、神ご自身(=父)との関係のことです。神と私たちとが互いに心を向け合い、心を通わせ合うこと。しかも、洗礼者ヨハネこそがそのエリヤである、エリヤの役割を担う者であると主イエスご自身がはっきりと証言しています(マタイ11:14。子供のように慈しみ育てられてきた神の民イスラエルは神に背きつづけ、逆らい、離れ去った。ふたたび神の民が神のもとへと立ち戻るためには、預言者エリヤが間に入って、両者の仲を取り持たねばならない。遠い昔、別の預言者はやがて来られる救い主について預言しました。「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである』」(イザヤ書40:3-5。その預言を受けて、洗礼者ヨハネは、救い主がこの世界に現れる直前に、預言者エリヤがしようとしていたように、救い主を迎え入れるための道を人々に備えさせます、「悔い改めよ、天国は近づいた」と。洗礼者ヨハネこそが、「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」と呼ばわる『荒野の声』だったのです。すでにとっくの昔に神の民とされ、主を信じる生活を積み重ねていたはずの人々は、自分自身をつくづくと振り返ってみて心を痛めました。信じていると言いながらちっとも信じていないじゃないか、この私は。形ばかり、ただただ口先だけの信仰じゃないか。これではとうてい救い主を迎え入れることもできない。神を信じて生きることを今日から本気でしはじめよう、この私こそがと。すでに神の民とされていたはずの、信じているつもりになっていた人々が、改めて、我も我もとヨハネのもとに来て、神を信じて生きるための入門の儀式を受けはじめました。それが洗礼のはじまりです。洗礼者ヨハネは呼ばわりました、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている」(マタイ福音書 3:2-12と。洗礼者ヨハネこそが、救い主イエスを迎え入れる道備えのために再び遣わされた預言者エリヤだったのです。エリヤの役割を引き継いで、道備えを成し遂げる者です。11-12節。弟子たちの質問を受けて、主イエスが答えます。エリヤはふたたび来た。それが洗礼者ヨハネだった。しかし人々は、他の預言者たち同様に彼をも認めず、自分勝手に彼をあしらった。人の子、つまり救い主イエスもまた人々から自分勝手にあしらわれ、苦しみを受け、殺されるだろうと。13節、「そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った」。たしかにそうです。けれど二度目に来たエリヤである洗礼者ヨハネを、人々は認めず、自分勝手に彼をあしらった。そして、首をはねて殺してしまった(マタイ14:1-12参照)。しかも救い主イエスをさえ、人々は同じように退け、認めず、いいようにあしらい、やがて十字架のうえで苦しめて殺してしまいます。すると、それならば、どういうことになるでしょうか?

             ◇

 律法学者らが「救い主ご自身が来る前に、まず先に預言者エリヤが来ると聖書は証言していた」と言い立てていた理由は、目の前にいるそのイエスというお方を救い主と認めたくなかったからです。「先に来るはずのエリヤの姿がどこにも見えないじゃないか。するとつまり、お前は救い主じゃない。偽物だ」と言い張りたかったのです。だから、救い主に先立って来て道備えをするはずのエリヤの役割を担って洗礼者ヨハネが来て、十分に働いても、「悔い改めよ、天国は近づいた。まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ」と呼ばわっても、聞く耳をもたず、見る目を持ちませんでした。律法学者やパリサイ人たちのことはほどほどのことです。むしろ、いつも大問題であるのは、この私たち自身のことです。
 私たち自身と家族がはたして罪と滅びから救われるのかどうか。救われるためには、この私たちはどうしたらいいのか。11節で、「エリヤが来て万事を元どおりに改める」と語られながら、けれど洗礼者ヨハネは認められず、好き勝手にあしらわれて殺されました。救い主イエスご自身も同じように、十字架の上で無残な死を遂げました。何一つも成し遂げられなかったかのように見えます。世の人々の10人中10人がそう言うでしょう。そのとおり。これは主イエスを信じる信仰の目と心によってしか理解することも受け止めることもできない霊的な真実であるからです。救い主キリストを知る知識の香りは、ある人々にとっては『いのちからいのちに至らせる香り』であり、別の大勢の人々にとっては、まるで正反対に、『死から死へと至らせる香り』にすぎない(コリント手紙(2)2:15-16。それでもなにしろ洗礼者ヨハネと伝道者たちは、この私たちを救い主イエスの手に委ねていったのです。このお独りの方を私たちも信じることができるかも知れない。あるいは、できないかも知れない。すでに主イエスは、ご自身の死と復活を弟子たちに告げ知らせはじめています。先々週、1621節以下。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。あっては困ります、不都合ですから止めてください」と弟子のペテロが立ちはだかったとき、主イエスは仰いました、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」。「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。なんと容赦のない、なんと厳しい叱責でしょう。サタン、引き下がれ。「引き下がれ」は、元々の言葉では『後ろへ回れ』と言っています。つまり、サタンが主の前に立っていたのです。主の御心、主のご意思よりも、自分の考え、自分の思いや計画ややり方を、自分だけの道理と理屈をどこまでも先立ててゆこうとするとき、私たちはサタンの誘惑にさらされています。サタンのとりこにされ、連れ去られようとしています。主の弟子の第一の務めは、『主の後から付いてゆくこと。主に従って、その後から行くこと』だったのです。先に立って、「こっちです。こっち、こっち。何をグズグズしているんですか」と思い通りの道筋へと導こうとするならば、私が主、私の思いとやり方こそが第一とするならば、もう、あなたは主の弟子ではありません。救い主イエスとはなんの関係もない者たちであり、主のものですらないでしょう。気がつくとあなたも私も、神をそっちのけにして、自分や周囲の人間たちのことばかり思い煩っています。
 主は、ご自分に従っていく私たちに、このように指図をなさいます。何度でも何度でも聴きましょう、1624-26節。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。もちろん主は私たちに、喜びや楽しみをすっかり捨て去れなどと命じるのではありません。意味なく、ただやたらに苦痛や困難を求めよなどと乱暴な要求を突きつけるのでありません。けれど、鎮まって考えてみるならば、たしかに捨て去るべき『自分』があり、背負うべき『自分の十字架』があります。不思議な言い方がされています。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(25)。主イエスを信じて生きはじめた主の弟子たちよ。実は、「自分の命」だと思い込まされていたものは、命でもなんでもなく、そのほとんどは、かえって自分自身を困らせる重荷となり、むしろ、私たちを死と滅びへと至らせようとする偽りの喜びと楽しみでした。だからこそ、救い主イエスの福音を初めて聞いた者たちは、腰を抜かさんばかりに、とても驚いたのです。だからこそ救い主キリストを知る知識の香りは、ある人々にとっては『いのちからいのちに至らせる香り』であり、別の大勢の人々にとっては『死から死へと至らせる香り』にすぎなかった。このお独りの方を私たちも信じることができるかも知れない。あるいは、できないかも知れない。すでに主イエスは、ご自身の死と復活を弟子たちに告げ知らせています。とても苦い薬であったので、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。あっては困ります、不都合ですから止めてください」と弟子のペテロも私たちもその福音の約束を退けたくなります。だからこそ主イエスは仰います、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。朝から晩まで、四六時中、ただただ自分自身と人間のことばかり思い煩いつづけて、神を思わず、神からの救いの約束を思う暇もない。もしあなたが私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」。ほんの少し前までは、私たちは皆、死と滅びに至る罪の奴隷でした。「自分の命。自分の命」とそそのかされて、ただただ虚しいだけの見せかけの希望にしがみついていました。けれど、ついにとうとう、その虚しい希望をポイと投げ捨てました。神からの生命を差し出すお方と出会い、その生命を受け取り、神さまの御前で、神に向かって新しく生きることをしはじめたからです。罪と肉の思いの奴隷にする悪い主人をポイと投げ捨てて、新しい主人に仕えはじめました。そう 新しい、ただお独りの主人に。救い主イエスに。










2017年5月14日日曜日

5/14こども説教「内側を清くする」ルカ11:37-41

 5/14 こども説教 ルカ11:37-41
 『内側を清くする』

11:37 イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。38 ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。39 そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。40 愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。41 ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。
(ルカ福音書 11:37-41

 ケンちゃん、一年生になったね。朝起きて、顔を洗って歯も磨いて、ご飯を食べる前には石鹸をつけて手をよく洗って、夜にはお風呂に入って体をきれいに洗っていますね。それはとても大切なことです。
 そのことをよく分かった上で、それよりももっと大切なことがあるんです。それは、自分の体の内側を、頭の中や心の中も、できるだけきれいにしておくことです。かなり難しい。どうしてかというと、ほとんどの人は「自分は人に親切にする、優しくて思いやり深い、正しいことを願う、なかなか良い人間だ」と思い込んでいるからです。「どうですか」と質問すると、「わたしは良い人間ですよ」とほとんどの人が思っています。10人中9人、もしかすると10人全部が。神さまに「どうですか」と質問すると、「いいや。そうでもない。かなり悪い。この人もこの人も、みな一人残らずとても悪い」とお答えになります(創世記8:21,ローマ手紙3:9-28,テモテ手紙(1)1:12-15,ヨハネ手紙(1)1:8-10。ビックリです。本当のことですよ。もし、「この私は、本当は人に意地悪をしたり、困らせたりする、冷たい心の自分勝手でわがままな、かなり悪い人間だ」と神さまから教えてもらえるなら、自分はなかなか良い人間だと思い込んでいたその人も「ああ。そうだった」と気づきはじめます。そしたら、「神さま。私の中の悪い心をやっつけてください。正しい良い心を与えてください」と願い求めはじめます。その人の心は、少しずつだんだんときれいになっていきます。神さまこそが、そのとても悪い人のためにも、そうしてくださるからです。


    【補足・聖書の救いの道理/正しい人は一人もいない。罪人を救うためにこそ、救い主イエス・キリストは世に来られた】
    神に逆らう、自分勝手でとても悪い心を、すべての人間がもっています。正しく良い人間を救おうとしたら、全員が落第で失格になるはずでした。例外は、ただの一人もいません。救うためには、その罪深さをゆるして救う他、道はなかったのです。神さまは、ご自分が造った世界とすべての生き物をかわいそうに思ってくださり、救いの道筋を用意してくださいました。救い主イエスを信じる者たちを、ただただあわれんで救うという、ただ一筋の救いの道です「救い主イエス。この方による他、救いはない」(使徒4:12


5/14「主イエスにこそ聴け!」マタイ17:1-8

            みことば/2017,5,14(復活節第5主日の礼拝)  111
◎礼拝説教 マタイ福音書 17:1-8                   日本キリスト教会 上田教会
『主イエスにこそ聴け!』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  17:1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。7 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。8 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。     (マタイ福音書 17:1-8)
                                                


  1-2節。「彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」。主イエスの地上の生涯の中で最もよく知られた出来事の一つが、ここで報告されています。「山上の変貌」と言い慣わされてきました。この直前の16章の終りで、主イエスは弟子たちにご自分の十字架の死と三日目のよみがえりを予告し始めています(16:21-28)。弟子たちは混乱し、怖れおののき、深く悲しみ嘆きます。その6日後に、主はご自分の厳かで栄光にあふれた姿を彼らに見せてくださったのです。弟子たちの悲しみ嘆いた心は、次には、主の栄光にふれて喜び踊ります。
 この16章、17章のつながりの中に、私たちの信仰の歩みも据え置かれています。私たちは、なお生身の肉体を抱えて地上を歩んでいます。すぐ目の前の出来事にあまりに深く囚われ、目も心も奪われてしまいます。耳に入るほんの少しの事柄、周囲の人々のいくつかの声が、私たちの心を大きく左右します。まるで、いま目に映っているもの、いま耳に入っているものが私たちのためのすべてであるかのように。神の栄光や尊厳は、そうした私たちの生身の目からは隠されてしまい、厚いベールに覆われてしまっているかのようにです。その厚いベールの片隅が、今、ほんのわずか持ち上げられて、その後ろに隠されているものがひと時だけ姿を垣間見せます。主イエスの栄光と尊厳です。その顔は太陽のように輝き、身にまとっておられる服は光のように白くなりました。やがて再び来られる主イエスの栄光の姿を、私たちも自分自身の心によくよく刻んでおきたいと願います。なぜなら、それぞれの思い煩いと疲れと忙しさの只中で、私たちは栄光の主をすっかり忘れて、それぞれに物寂しく、心細く、アタフタと暮らしているからです。また、地上のものすべてがこの方に従うようになると告げられながら、いまだにそのような光景を見ていないからです(ヨハネ手紙(1)3:2)。けれど人の心に思いも浮かばなかったことを、神ご自身が私たちのために用意してくださっています。ただ約束されているだけではなく、主イエスの栄光の一部分は、3人の弟子たちの目ではっきりと見られ、証言されてもいます。彼らは「その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ福音書1:14)のです。
  3節。弟子たち3人が見ていますと、旧約聖書の大勢の預言者たちを代表してモーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合っていました。1500年近く前に死んで葬られたはずのモーセと、900年以上前につむじ風によって天に持ち運ばれていったエリヤ(申命34:6,列王下2:1)とが、3人の弟子たちの前に、その生きた姿を現しています。いいえ、それよりも何よりも、太陽のように輝いた主イエスの御顔、光のように白くなった主の衣服。栄光に輝くこの姿は、復活の主イエスの姿の先取りです。主イエスの復活は、ここにいるこの私たち自身が新しい生命によみがえることの初穂です。もし、主が復活したのなら、主イエスを信じて生きるこの私たちもまた復活します。もし仮に、そうではないのならば、私たちはやがて衰えるままに衰え去り、朽ちるままに朽ち果ててしまう他ありません。兄弟姉妹たち。この世の生活の中でだけキリストに望みをかけているのだとするならば、私たちの心の中でだけ、ほんの気休め程度にキリストに希望を託しているだけだとするならば、もしそうなら、私たちの信仰はあまりに虚しく、私たちはなお罪と悲惨さの只中に留まりつづける他なく、『私たちはすべての人の中で最も惨めな者』ということになります。もしそうならば、キリストを宣べ伝えることも、キリストを信じる信仰も無駄だった、ということになるでしょう(コリント(1)15:19)。その通りです。さて、主イエスは復活なさいました。復活の主イエスの栄光も輝きも、それは、十字架の主の栄光と別のものではありません。1つのものです。あの疑い深いトマスには、ずいぶんよく分かっていました。「主イエスのその手にクギ跡を見、わたしの指をクギ跡にさし入れ、また、わたしの手をその脇腹にさし入れてみなければ、決して信じない」と彼は言いました(ヨハネ福音書20:25)。その通り。「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹にさし入れなさい。さあ」と招かれて、そこでやっと彼は、主の御前にひざまずく者とされました。喜びにあふれて、「わが主よ、わが神よ」と膝を屈める者とされました。
 主はたしかに復活したのであり、私たち自身も復活します。私たちはただ衰えるままに滅び去るのではなく、朽ちるままに朽ち果てるのではありません。この世の生活を越えて、死の河波を乗り越えて神の都にきっと辿り着くと、キリストによって辿り着かせていただけると私たちも望みをかけています。皆さんは、どうですか? あなたは、あなたは。彼らも私たちも、この自分自身が、あらゆる人の中で最も豊かに祝福された人々の1人であると自覚しています。
  もう1つのこと。4-8節。モーセとエリヤが主イエスと語り合う光景を見て、主の弟子がこう提案します。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、お差し支えなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために」。主イエスご自身と御父は、このペトロの提案をどう聞いたでしょうか。はたして喜んだのか。あるいは、渋い顔をなさったでしょうか? 小屋は、今日風に言えば『○○記念会館。△□記念礼拝堂』といったところでしょう。モーセ記念会館、エリヤ記念会館、イエス記念礼拝堂。3つの福音書がこの同じ出来事とペテロの発言を報告していますが、ただマルコ福音書は「ペトロはどう言えばいいか分からなかった」9:6ので、それでこんなソソッカシイ、軽はずみで見当違いなことを言ったのだと。キツイ批判ですけれど、その通りです。確かにモーセやエリヤは重要だったし、旧約時代の預言者たち一人一人と同様に、大切な働きをさせていただいた人物たちでした。そうだとしてもなお、神ではない者たちのために、たかだか人間にすぎないものたちのために記念会館や記念礼拝堂などを建ててはなりません。銅像も建ててはダメです。素敵なリーダーや周囲にいる素敵なクリスチャンたちを偶像に仕立てたり、聖人君子扱いして拝んだり、神と並べて祭り上げたりしては決してなりません(コリント(1)1:12-13,4:6-7)
  なぜなら、(1)「モーセ記念会館、エリヤ記念礼拝堂を」とペトロが浮かれて見当ハズレなことを言いだした途端に、雲が彼らをすっかり覆い尽くして何も見えなくされたからです。(2)また、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」と、ただただ主イエスを指し示す天の父の御声が聞こえたからです。(3)ひれ伏して恐れる弟子たちにイエスが近づいてきて話しかけ、彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかには誰もいなかったからです。人間にすぎない者たちの声に信頼して聞き従おうとするいつもの習慣や性分が、私たちの中になお根強く残っています。信仰をもつ私たちの間でもそうです。神の声は聞き分けにくかったからですし、イエスに聞き従うためにこそ聖書を調べよ(ヨハネ5:39-40,20:30-31,使徒17:11,テモテ(2)3:15-17)と命じられても、自分の心で聖書を読むことはとても難しかったからです。けれどモーセもエリヤもダビデも、キング牧師もマザーテレサさんも皆、生身の人間たちであり、罪人の1人にすぎません。たびたび間違うこともあり、大きな心得違いをすることもあります。「あの立派な、物のよく分かった、賢い信仰深い○○先生がそう言うので」とついうっかりして言いなりに鵜呑みに信じたくなります。けれど天の御父の愛する子、イエス・キリスト。御父の御心に適う者、イエス・キリスト。「ただただ、この方に聞け」とあの弟子たちも私たちも命じられています。主イエスご自身も「私こそがただ一筋の道、一つの真理、一つの命」と。歩んでいくべきただ一筋の道があり、聞き従うべきただ1つの真理があり、私たちを自由に晴れ晴れとして生かしてくれるただ1つの格別な生命があります。救い主イエス・キリスト。この方による以外に救いはありません。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからです(ヨハネ福音書14:6,使徒4:12)このお独りの方を信じて歩むなら、必ずきっと天の御父のもとへと辿り着ける。この方に聴き従うなら、神を信じて生きて死ぬために必要な真理をちゃんと掴み取ることができる。このお独りの方から受け取るなら、十分な生命をいただきつづけて生きることができる。救い主イエスこそがただ一筋の道、一つの真理、一つの命。文字通りに、そのまま丸ごと信じて受け止めつづけることができるかどうかが、いつもの別れ道でありつづけます。御父が主イエスを指差して、『これは私の愛する子、私の心にかなう者である。これに聞け』と私共に命じた。命じつづけます。「イエスにこそ聴き従う」。それはイエスにも聴き、それと並べて、それに負けず劣らず他の誰彼にも聞くし、聴き従うということではありません。例えば、第二次世界大戦中の日本とドイツで、「イエスにも聴き、それと並べて、それに負けず劣らず他の誰彼にも聞くし、聴き従う」という大失敗と嘘偽りがまかり通ってしまいました。イエスにも聞くけど、アドルフ・ヒットラーにも聞き、天皇陛下様にも国家権力にも、自分自身の腹の虫にもハイハイと従う。その場その場の空気も読み、空気にも負けず劣らずに聴き従う。とんだ嘘っ八だし、大間違いです。それではイエスに聴くことになりません。しかも闇が地を覆い、死の陰の谷に私たちは住んでいます。世俗化の波がキリストの教会を覆い尽くそうとしています。兄弟姉妹たち。教会の世俗化とは、主イエスに聴き従うことを私たちがすっかり止めてしまうことです。神さまへの信頼と従順がすっかり骨抜きにされ、ただただ口先だけの絵空事にされてしまうことです。この私たち自身のことです。例えば使徒行伝3-4章、足の不自由な人を神殿の入り口で癒してあげたあと、主イエスの弟子たちは議会に連れていかれて厳しく脅かされました。彼らは答えました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」(使徒4:19)と。同じく主イエスの弟子とされた私たちも、この同じ一つの質問を一生涯、突きつけられつづけます。神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたいと。しかも、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである」(マタイ福音書6:24)。誰を自分の主人として、この私たちは生きるのでしょうか。神さまの御心にかなわない、ふさわしくない者たちがキリストの教会に招かれました。それが私たちクリスチャンです。けれど、その、御心にかなわない、ふさわしくない者たちが、だんだんと御心にかなう者へと変えられていきます。どうやって、どんなふうに? 主イエスに聴き従って生きていこうと本気で決心させられたからです。神さまに逆らって、人様の顔色とご機嫌を窺い、自分自身と人間のことばかり思い煩いつづけることを、もうキッパリ止めようと。

 私たちに語りかける声が耳元にいつもありました。「イエスは主であり、イエスを主とする私であり、生きるにも死ぬにも、私は私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものである」(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ13:13,ローマ手紙10:9)と、あなたは言っていたね。まるで口癖のように言っていたじゃないか。そのあなたが、ここで、こんなふうに考え、そんな態度を取り、兄弟や大切な家族に対してそんな物の言い方をするのか。と私たちに語りかける声がありました。「イエスは主である。他のナニモノをも主とはしない」と口でも心でも認めているはずの、そのあなたが、争ったり妬んだり、人を軽々しく裁いたり、退けている。そのあなたが卑屈にいじけている。そのあなたが、ふさわしいとかふさわしくないとか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか品定めをし、また品定めをされることに甘んじているのか。そのあなたが、「~にこう思われている。~と人から見られてしまう。どう思われるか」などと簡単に揺さぶられ、すっかり我を忘れ、神さまを忘れてしまっている。『イエスこそ私の主』と言っているくせに、そのあなたが「なにしろ私の考えや好き嫌いは。私の立場は。私の誇りと自尊心は」と言い立てている。イエスは主なりと魂に刻んだあなたの信仰は、あれは、どこへ消えて無くなったのか。朝も昼も晩も、そうやって私たちに語りかける声があります。呼びかけつづける声があります。
 山の上で、また毎週毎週の礼拝の中で、栄光に輝く主イエスをほんのひと時だけ垣間見せられたのは、そこから始まる6日間の日々のためです。そこで、それぞれに手強い6日間の現実生活の場所で、あなたがなお心強く生き抜くためにです。誰にも言いなりにされず、語るべきことを、語るべき大切な相手に、心をこめて精一杯に語り始めるためにです。だからこそ、「これに聞け」と命じられています。「どうせ私は」と卑屈にいじける日々に、あのお独りの方に聞け。満ち足りる健やかなときに、あのお独りの方に聞け。弱り果てて心病む日々に、あのお独りの方に聞け。目の前のアレコレがあなたの目も心も惑わせ、目に写ることや耳に入るアレコレがあなたを深く支配しようとする日々に、そのときこそ、あのお独りの方に、救い主イエス・キリストにこそ一途に聞きなさい。朝も昼も晩も、聞き従いつづけなさい。 




2017年5月8日月曜日

5/7こども説教「あなたを照らす光」ルカ11:33-36

 5/7 こども説教 ルカ11:33-36
 『あなたを照らす光』

11:33 だれもあかりをともして、 それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。34 あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。35 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。            (ルカ福音書 11:33-36

  なぜ、私たちが「光の子」と呼ばれ、「世を照らす光」と呼ばれるのか。救い主イエスを信じて、その信仰によって毎日毎日の暮らしを生きているからです。主イエスは仰いました、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(マタイ5:14,ヨハネ福音書8:12,12:36,イザヤ書60:1-7「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」
  1つ、難しいことを言われました。34-36節、「あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。救い主イエスを信じて、その信仰によって毎日毎日の暮らしを生きている。だから光の子だし、光を持っていると言いました。あなたのその目と心が、救い主イエスを、よくよく信じて、じ~っと見つめているのかどうか。それなら大丈夫。それなら、その目と心から、主イエスの光があなたの体の中にもどんどんどんどん入ってきます。体全部が明るくなって、神さまからの明るい光の中を朝も昼も晩も安心して嬉しく暮らしていくことができます。


     【補足/主イエスこそ光】
世を照らす光である救い主イエスを信じているし、そのお独りの方に目を凝らし、聴き従っている。だから私たちは、主イエスの光を鏡のように反射しつづけて、光の子たちなのです。それはちょうど太陽光発電の、屋根の上に並べられた反射板のようにして、そのようにして私たちは主イエスの光を反射しつづけます。主イエスの熱を蓄えつづけます。このことは、よくよく覚えておかねばなりません。ですから自分自身の中に何か明るく輝く材料がないかと探すのは、お門違いです。 (コリント手紙(2)4:4-7)「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。