みことば/2017,5,14(復活節第5主日の礼拝) № 111
◎礼拝説教 マタイ福音書 17:1-8 日本キリスト教会 上田教会
『主イエスにこそ聴け!』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
17:1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2
ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。4
ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。5
彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。6
弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。7 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。8 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。 (マタイ福音書 17:1-8)
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1-2節。「彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」。主イエスの地上の生涯の中で最もよく知られた出来事の一つが、ここで報告されています。「山上の変貌」と言い慣わされてきました。この直前の16章の終りで、主イエスは弟子たちにご自分の十字架の死と三日目のよみがえりを予告し始めています(16:21-28)。弟子たちは混乱し、怖れおののき、深く悲しみ嘆きます。その6日後に、主はご自分の厳かで栄光にあふれた姿を彼らに見せてくださったのです。弟子たちの悲しみ嘆いた心は、次には、主の栄光にふれて喜び踊ります。
この16章、17章のつながりの中に、私たちの信仰の歩みも据え置かれています。私たちは、なお生身の肉体を抱えて地上を歩んでいます。すぐ目の前の出来事にあまりに深く囚われ、目も心も奪われてしまいます。耳に入るほんの少しの事柄、周囲の人々のいくつかの声が、私たちの心を大きく左右します。まるで、いま目に映っているもの、いま耳に入っているものが私たちのためのすべてであるかのように。神の栄光や尊厳は、そうした私たちの生身の目からは隠されてしまい、厚いベールに覆われてしまっているかのようにです。その厚いベールの片隅が、今、ほんのわずか持ち上げられて、その後ろに隠されているものがひと時だけ姿を垣間見せます。主イエスの栄光と尊厳です。その顔は太陽のように輝き、身にまとっておられる服は光のように白くなりました。やがて再び来られる主イエスの栄光の姿を、私たちも自分自身の心によくよく刻んでおきたいと願います。なぜなら、それぞれの思い煩いと疲れと忙しさの只中で、私たちは栄光の主をすっかり忘れて、それぞれに物寂しく、心細く、アタフタと暮らしているからです。また、地上のものすべてがこの方に従うようになると告げられながら、いまだにそのような光景を見ていないからです(ヨハネ手紙(1)3:2)。けれど人の心に思いも浮かばなかったことを、神ご自身が私たちのために用意してくださっています。ただ約束されているだけではなく、主イエスの栄光の一部分は、3人の弟子たちの目ではっきりと見られ、証言されてもいます。彼らは「その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ福音書1:14)のです。
3節。弟子たち3人が見ていますと、旧約聖書の大勢の預言者たちを代表してモーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合っていました。1500年近く前に死んで葬られたはずのモーセと、900年以上前につむじ風によって天に持ち運ばれていったエリヤ(申命34:6,列王下2:1)とが、3人の弟子たちの前に、その生きた姿を現しています。いいえ、それよりも何よりも、太陽のように輝いた主イエスの御顔、光のように白くなった主の衣服。栄光に輝くこの姿は、復活の主イエスの姿の先取りです。主イエスの復活は、ここにいるこの私たち自身が新しい生命によみがえることの初穂です。もし、主が復活したのなら、主イエスを信じて生きるこの私たちもまた復活します。もし仮に、そうではないのならば、私たちはやがて衰えるままに衰え去り、朽ちるままに朽ち果ててしまう他ありません。兄弟姉妹たち。この世の生活の中でだけキリストに望みをかけているのだとするならば、私たちの心の中でだけ、ほんの気休め程度にキリストに希望を託しているだけだとするならば、もしそうなら、私たちの信仰はあまりに虚しく、私たちはなお罪と悲惨さの只中に留まりつづける他なく、『私たちはすべての人の中で最も惨めな者』ということになります。もしそうならば、キリストを宣べ伝えることも、キリストを信じる信仰も無駄だった、ということになるでしょう(コリント(1)15:19)。その通りです。さて、主イエスは復活なさいました。復活の主イエスの栄光も輝きも、それは、十字架の主の栄光と別のものではありません。1つのものです。あの疑い深いトマスには、ずいぶんよく分かっていました。「主イエスのその手にクギ跡を見、わたしの指をクギ跡にさし入れ、また、わたしの手をその脇腹にさし入れてみなければ、決して信じない」と彼は言いました(ヨハネ福音書20:25)。その通り。「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹にさし入れなさい。さあ」と招かれて、そこでやっと彼は、主の御前にひざまずく者とされました。喜びにあふれて、「わが主よ、わが神よ」と膝を屈める者とされました。
主はたしかに復活したのであり、私たち自身も復活します。私たちはただ衰えるままに滅び去るのではなく、朽ちるままに朽ち果てるのではありません。この世の生活を越えて、死の河波を乗り越えて神の都にきっと辿り着くと、キリストによって辿り着かせていただけると私たちも望みをかけています。皆さんは、どうですか? あなたは、あなたは。彼らも私たちも、この自分自身が、あらゆる人の中で最も豊かに祝福された人々の1人であると自覚しています。
もう1つのこと。4-8節。モーセとエリヤが主イエスと語り合う光景を見て、主の弟子がこう提案します。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、お差し支えなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために」。主イエスご自身と御父は、このペトロの提案をどう聞いたでしょうか。はたして喜んだのか。あるいは、渋い顔をなさったでしょうか? 小屋は、今日風に言えば『○○記念会館。△□記念礼拝堂』といったところでしょう。モーセ記念会館、エリヤ記念会館、イエス記念礼拝堂。3つの福音書がこの同じ出来事とペテロの発言を報告していますが、ただマルコ福音書は「ペトロはどう言えばいいか分からなかった」(9:6)ので、それでこんなソソッカシイ、軽はずみで見当違いなことを言ったのだと。キツイ批判ですけれど、その通りです。確かにモーセやエリヤは重要だったし、旧約時代の預言者たち一人一人と同様に、大切な働きをさせていただいた人物たちでした。そうだとしてもなお、神ではない者たちのために、たかだか人間にすぎないものたちのために記念会館や記念礼拝堂などを建ててはなりません。銅像も建ててはダメです。素敵なリーダーや周囲にいる素敵なクリスチャンたちを偶像に仕立てたり、聖人君子扱いして拝んだり、神と並べて祭り上げたりしては決してなりません(コリント(1)1:12-13,4:6-7)。
なぜなら、(1)「モーセ記念会館、エリヤ記念礼拝堂を」とペトロが浮かれて見当ハズレなことを言いだした途端に、雲が彼らをすっかり覆い尽くして何も見えなくされたからです。(2)また、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」と、ただただ主イエスを指し示す天の父の御声が聞こえたからです。(3)ひれ伏して恐れる弟子たちにイエスが近づいてきて話しかけ、彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかには誰もいなかったからです。人間にすぎない者たちの声に信頼して聞き従おうとするいつもの習慣や性分が、私たちの中になお根強く残っています。信仰をもつ私たちの間でもそうです。神の声は聞き分けにくかったからですし、イエスに聞き従うためにこそ聖書を調べよ(ヨハネ5:39-40,20:30-31,使徒17:11,テモテ(2)3:15-17)と命じられても、自分の心で聖書を読むことはとても難しかったからです。けれどモーセもエリヤもダビデも、キング牧師もマザーテレサさんも皆、生身の人間たちであり、罪人の1人にすぎません。たびたび間違うこともあり、大きな心得違いをすることもあります。「あの立派な、物のよく分かった、賢い信仰深い○○先生がそう言うので」とついうっかりして言いなりに鵜呑みに信じたくなります。けれど天の御父の愛する子、イエス・キリスト。御父の御心に適う者、イエス・キリスト。「ただただ、この方に聞け」とあの弟子たちも私たちも命じられています。主イエスご自身も「私こそがただ一筋の道、一つの真理、一つの命」と。歩んでいくべきただ一筋の道があり、聞き従うべきただ1つの真理があり、私たちを自由に晴れ晴れとして生かしてくれるただ1つの格別な生命があります。救い主イエス・キリスト。この方による以外に救いはありません。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからです(ヨハネ福音書14:6,使徒4:12)。このお独りの方を信じて歩むなら、必ずきっと天の御父のもとへと辿り着ける。この方に聴き従うなら、神を信じて生きて死ぬために必要な真理をちゃんと掴み取ることができる。このお独りの方から受け取るなら、十分な生命をいただきつづけて生きることができる。救い主イエスこそがただ一筋の道、一つの真理、一つの命。文字通りに、そのまま丸ごと信じて受け止めつづけることができるかどうかが、いつもの別れ道でありつづけます。御父が主イエスを指差して、『これは私の愛する子、私の心にかなう者である。これに聞け』と私共に命じた。命じつづけます。「イエスにこそ聴き従う」。それはイエスにも聴き、それと並べて、それに負けず劣らず他の誰彼にも聞くし、聴き従うということではありません。例えば、第二次世界大戦中の日本とドイツで、「イエスにも聴き、それと並べて、それに負けず劣らず他の誰彼にも聞くし、聴き従う」という大失敗と嘘偽りがまかり通ってしまいました。イエスにも聞くけど、アドルフ・ヒットラーにも聞き、天皇陛下様にも国家権力にも、自分自身の腹の虫にもハイハイと従う。その場その場の空気も読み、空気にも負けず劣らずに聴き従う。とんだ嘘っ八だし、大間違いです。それではイエスに聴くことになりません。しかも闇が地を覆い、死の陰の谷に私たちは住んでいます。世俗化の波がキリストの教会を覆い尽くそうとしています。兄弟姉妹たち。教会の世俗化とは、主イエスに聴き従うことを私たちがすっかり止めてしまうことです。神さまへの信頼と従順がすっかり骨抜きにされ、ただただ口先だけの絵空事にされてしまうことです。この私たち自身のことです。例えば使徒行伝3-4章、足の不自由な人を神殿の入り口で癒してあげたあと、主イエスの弟子たちは議会に連れていかれて厳しく脅かされました。彼らは答えました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」(使徒4:19)と。同じく主イエスの弟子とされた私たちも、この同じ一つの質問を一生涯、突きつけられつづけます。神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたいと。しかも、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである」(マタイ福音書6:24)。誰を自分の主人として、この私たちは生きるのでしょうか。神さまの御心にかなわない、ふさわしくない者たちがキリストの教会に招かれました。それが私たちクリスチャンです。けれど、その、御心にかなわない、ふさわしくない者たちが、だんだんと御心にかなう者へと変えられていきます。どうやって、どんなふうに? 主イエスに聴き従って生きていこうと本気で決心させられたからです。神さまに逆らって、人様の顔色とご機嫌を窺い、自分自身と人間のことばかり思い煩いつづけることを、もうキッパリ止めようと。
私たちに語りかける声が耳元にいつもありました。「イエスは主であり、イエスを主とする私であり、生きるにも死ぬにも、私は私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものである」(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ13:13,ローマ手紙10:9)と、あなたは言っていたね。まるで口癖のように言っていたじゃないか。そのあなたが、ここで、こんなふうに考え、そんな態度を取り、兄弟や大切な家族に対してそんな物の言い方をするのか。と私たちに語りかける声がありました。「イエスは主である。他のナニモノをも主とはしない」と口でも心でも認めているはずの、そのあなたが、争ったり妬んだり、人を軽々しく裁いたり、退けている。そのあなたが卑屈にいじけている。そのあなたが、ふさわしいとかふさわしくないとか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか品定めをし、また品定めをされることに甘んじているのか。そのあなたが、「~にこう思われている。~と人から見られてしまう。どう思われるか」などと簡単に揺さぶられ、すっかり我を忘れ、神さまを忘れてしまっている。『イエスこそ私の主』と言っているくせに、そのあなたが「なにしろ私の考えや好き嫌いは。私の立場は。私の誇りと自尊心は」と言い立てている。イエスは主なりと魂に刻んだあなたの信仰は、あれは、どこへ消えて無くなったのか。朝も昼も晩も、そうやって私たちに語りかける声があります。呼びかけつづける声があります。
山の上で、また毎週毎週の礼拝の中で、栄光に輝く主イエスをほんのひと時だけ垣間見せられたのは、そこから始まる6日間の日々のためです。そこで、それぞれに手強い6日間の現実生活の場所で、あなたがなお心強く生き抜くためにです。誰にも言いなりにされず、語るべきことを、語るべき大切な相手に、心をこめて精一杯に語り始めるためにです。だからこそ、「これに聞け」と命じられています。「どうせ私は」と卑屈にいじける日々に、あのお独りの方に聞け。満ち足りる健やかなときに、あのお独りの方に聞け。弱り果てて心病む日々に、あのお独りの方に聞け。目の前のアレコレがあなたの目も心も惑わせ、目に写ることや耳に入るアレコレがあなたを深く支配しようとする日々に、そのときこそ、あのお独りの方に、救い主イエス・キリストにこそ一途に聞きなさい。朝も昼も晩も、聞き従いつづけなさい。