1/8 こども説教 ルカ9:43-45
『人々の手に渡される救い主』
9:43 人々はみな、神の偉大な力に非常に驚いた。みんなの者がイエスのしておられた数々の事を不思議に思っていると、弟子たちに言われた、44
「あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。45 しかし、彼らはなんのことかわからなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた。
(ルカ福音書 9:43-45)
十字架の死と葬りと復活が待ち受けているエルサレムの都に向かって、主イエスと弟子たちは旅をしています。ご自分が殺され、葬られ、その三日目に復活することを、主イエスは弟子たちに道々何度もおっしゃいます。殺され、葬られ、その三日目に復活することを、ここで主は、『自分(=人の子)は人々の手に渡されようとしている』と言っています(*)。これが二回目の予告です(ルカ9:21-27,当箇所,同18:31-34)。弟子たちは心が鈍くなっていて、何度聞いても、それがどういうことなのかが分かりませんでした。分からないけれども、なんだかとても怖くて、心配で、嫌で嫌で仕方がなくて、「どういうことですか?」と質問することさえ出来ませんでした。つまり、ぼんやりと薄々とは分かっていたのです。主イエスが殺され、葬られ、復活するだけではなく、主に従ってゆく自分たちも、古い罪の自分を殺され、葬り去ってもらい、それと引き換えのようにして新しい生命に生きはじめることを。苦しく嫌なことでもあるけれど、そのことを通して、神さまの御心にかなう嬉しく幸いな新しい生き方がこの自分にもはじまることを。
44節。「あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい」と主イエスは言いました。だから、私たちも自分の耳と心におさめておきましょう。思い巡らしつづけましょう。古い罪の自分と死に別れて、この私も新しい生命に生きはじめることを。どういうことなんだろうかと。
【補足/人々の手に渡される】
(*)44節。『渡される』には二重の意味が込められていると、世々の教会は大切に受け止めてきました。憎んで殺そうとする人々の手に渡され、同時に、主イエスを信じて生きようとする人々の手にも渡され、信仰をもって生きるための血となり肉となったと。聖晩餐のパンと杯を渡そうとしながら、主の弟子たちはこう告げました、「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』」。また、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。・・・・・・わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる」(コリント手紙(1)11:23-,ヨハネ6:54-56)と。