みことば/2017,1,29(主日礼拝) № 96
◎礼拝説教 マタイ福音書 12:46-50 日本キリスト教会 上田教会
『新しい家族』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。47
それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。48 イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。49
そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。50 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
(マタイ福音書 12:46-50)
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主イエスがなお群衆に向かって語りかけておられるとき、その母と兄弟たちが何か話したいことがあって待ち構えていました。そこである人が、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。主イエスは、こう答えます。「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。そしてご自分の弟子たちを指差して言われます。「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいます父のみ心を行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
だいぶん前のことです。ある人が70歳半ばくらいの年頃になって、やっとようやく洗礼を受けました。その人の息子はずっと前からクリスチャンでした。洗礼を受けたそのお父さんは、とても喜んで、クリスチャンである息子にこう言いました。「うれしいなあ。オレとお前は親子だが、今日からは兄弟同士でもある」と。今までの関係や付き合いとはずいぶん違う新しい家族が、ここに誕生したのです。その格別な驚きと幸いを、ここにいる私たちも知っています。
神の憐れみのもとにある一つの大きな大きな家族の一員とされ、主イエスの弟たち妹たちとされた私共です。それは主が、私たちを格別になにより大切に思っていてくださるということです。あまりに大切に思ってくださるので、この主は、終りの日に打ち明けられるはずの秘密をすでにあらかじめ私たちに知らせてくださっています。あのときの群衆と、またここにいるこの私たち一人一人をご覧になっても、喜びに溢れて、主イエスはこうおっしゃいます;「これが私の兄弟、姉妹、また母である」と。私の大切な家族であり、ついにこれこそ私の骨の骨、私の肉の肉であると(創世記2:23)。主イエスはおっしゃいます;「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたのである。はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしなかったのは、すなはち、わたしにしなかったのである」(マタイ25:40,45)。主の弟子パウロも、この同じことを言われました。彼のあの回心のときです。そのころパウロはクリスチャンをいじめたり苦しめたり、ひどく辛い思いをさせたり、追い払ったり、殺したりしていました。主イエスが彼に呼びかけました。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」。「あなたはどなたですか」とパウロは問いかけました。すると、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:4-5)。イエスを迫害している? 彼にもまったく身に覚えがありませんでした。ただクリスチャンたち何人か何十人かを追い払ったり、捕まえたり殺したりしていたのです。ただクリスチャンたちをいじめたり、苦しめたり悩ませたりしていただけだったのです。ところが主イエスは、「その一つ一つは、この私にしたことだ」とおっしゃいます。あなたは私を迫害し、この私自身を悩ませ苦しめていると。主イエスを信じる一人の人が苦しむとき、悩むとき、痛みを覚えて泣いたり呻いたりするとき、主は、「それは私の苦しみだ。私自身の悩みであり痛みであり、そこでこの私自身が泣いたり呻いたりしている」と。
主イエスの兄弟とされ、互いに家族とされているとは、このことです。主イエスの発言に、もう少し注意して目を向けましょう。49節、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。主イエスこそ、最年長の格別な兄です。そして、お気づきでしたか。ここには《父》はいません。それがこの新しい家族構成です。最年長の格別な兄が、お独りだけいる。父はいない。そして他大勢は90歳100歳だろうが、先輩後輩とか、こっちが格上あっちは格下などでもなく、皆が互いに年下の弟たち妹たち同士です。この独特な家族構成を、いつも弁えておきましょう。なぜなら主イエスの弟たち、妹たち。私共もまた、「父を捨て、舟と網を後に残して」主イエスに従って旅立ったからです。「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、そのようにして主なる神が指し示す地に向かって」歩みはじめたからです。あの最初のふさわしい助け手同士のように、「父と母を離れて」、主イエスと結び合い、主イエスと一体となりたいと願い求めて、洗礼を受け、キリストの者とされたからです(マタイ4:18-22,創世記12:1-4,同2:24)。あのとき離れ去り、後に残してきた『父』とは、頼みの綱であり、心強い後ろ盾です。聞き従うべき相談相手です。すると、あのときから主イエスにこそ聴き従いはじめた私たちです。先の第二次世界大戦中、よこしまなナチス・ドイツ帝国の圧政に抵抗したキリスト教会は、このように断固として宣言しました;「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉の他に、またそれと並んで、更に他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは斥ける(「バルメン宣言,第1項」1934年)」からです。よくよく聞くべき、信頼して聞き従ってよい相手は主イエスだけと、堅く心に思い定めています。
年をとってからクリスチャンになった、そして息子とともに喜び祝ったあの一人のお父さんは、他のどこにもない、まったく新しいこの家族構成にこそ驚き、息子と共に喜び祝ったのです。「うれしいなあ。オレとお前は親子だが、今日からは兄弟同士でもある」と。あのお父さんは、それまで長く生きてきた中で、とても窮屈で頑固に凝り固まった人間関係と序列の中に首までどっぷり浸かって暮していました。例えば、妻には「家の主人の言うことが聞けないのか。誰に養ってもらっていると思っているんだ。馬鹿者、口答えするんじゃない」などと頭を押さえつけていたかもしれません。例えば息子や娘には、「オレ様が親だ。飯を食わせてもらっている子供の分際で、何を生意気な。だれのおかげで大きくなったと思っている」などと権威を振りかざしたかもしれません。それは、大いにありえます。けれど、あのお父さんはついに知ったのです。新しいルールと、新しい家族構成の中に飛び込んでみました。自分の好き嫌いや性分や願いどおりではなく、互いにただただ従ったり従わせたりするのでもなく、それらをねじ伏せて、神の御心にこそ従おうと本気で願い求めて生きること。それは、素晴らしかった。今までは知らなかったまったく新しい世界が目の前に突然に開けました。「うれしいなあ。オレとお前は親子だが、今日からは、それをはるかに高く飛び越えて兄弟同士だ」と。
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今日の箇所で一番難しく思えたのは、50節「天にいますわたしの父の御心を行う者」です。「行う」とは、目に見える、はっきり分かる形で何かをすることでしょうか。思い浮かべてみていただきたいのですが、5年後か10年後か、いつかあなた自身が病院のベッドの上で長く横たわり、だれかの世話になり、格別何かの役に立つことも誰かを助けてあげることもできなくなる日々が来るでしょう。そういう日々は、すぐ目の前に迫っています。もしかしたらほんの数年後、数ヵ月後にも。そのとき、あなたはどんな気持ちになるでしょう。《行う》ことは、誰の目にもはっきり分かることと共に、目に見えにくい事柄も含んでいたのです。何かをすることだけでなく、されることや受け取ることも含んでいたのです。《行う》ことには、例えば病室のベッドにただただ横たわっている人の、特に何をするわけでもなく、格別に何かの役に立つわけでもない静けさをさえ含んでいたのです。その静けさと安らかさは何にもまして尊く、その人々は大きな祝福を受け取っています。天に大きな喜びがあり、すでにその人々は『善かつ忠なるしもべよ』と呼ばれ、その名が天に書き記されているのですから(ルカ10:20,15:7,10,22-24,マタイ25:23)。その肝心要をよくよく分かった上でなら、旺盛な人々の晴れやかな働きを喜んでもいい。神にこそ十分に感謝しながら、その限りにおいて、自分自身のための幸いと恵みについても他の人々の目覚しい活躍と成果に対しても、同じく変わらず感謝してもいいでしょう。
なにしろ、ここは《疲れた者、重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国だったのです。天の父の御心は、ここにいる皆が十分によく分かっている。そうでしたね。「行う」ことのハードルを思いきって下げましょう。少なくとも、『天の父の御心を分かっている。あるいは、ぜひよくよく分かりたいと願っているだけでいい』という意味です。それなら、あなたにも出来るかも知れません。何か嬉しいことがあったとき、誰かが親切にしてくれたとき、その人に感謝するだけでなく、そこで《これは天の父の御心によった。私を慈しみ、大切に思ってくださって、天の父がこんな喜びを与えてくださった》と分かっていましょう。あなたは父の御心を行っています。苦しみや悩みがあり、心が晴れないウツウツとした日々に、けれどなお天の父があなたを思い、あなたを慰め、力づけたいと願ってくださっていることを思い起こしましょう。そして「主よ、私を助けてください」と願い求めましょう。求めているものを、天の父に打ち明けましょう。見栄えの良いものばかりでなくていいのです。人に知られたくない恥ずかしいものも、汚いものも、人からは「なんだ。そんなこと」と思われるかもしれない些細な事柄も、この天の父に打ち明け、なんでも自分で決めてしまうのではなく御父にお任せすることもできます。それなら十分に、あなたは御心を行っています。なにしろ主イエスが、天の父の御心をすっかり私たちに示してくださいました。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと。この最も小さい者の一人にしてくれなかったことは、わたしにしてくれなかったことである」と。私たちが自分の周囲にいる人々に何事かをしたり、しなかったり、何気なく何かを言ったり言わなかったりする度毎に、私たちはしょっちゅう釘をさされます。「ちょっと待て。分かっているのか。本当にそれをしていいのか。言ってしまっていいのか。言わずに知らんぷりしておいて、それでもいいのか。キリストはその兄弟のために死んでくださったんだぞ」(ローマ14:15)と。「ああ、そうだった」と申し訳なく思い、心に痛みを覚えたそのとき、天の御父がご自身の御心を、あなたのために行ってくださっている真っ最中です。知らされた天の父の御心が、ある時には私たちをきびしく叱りつけます。その同じ御心が私たちを慰め、きわどいところで支え、足を一歩踏み出すための格別な勇気を与えます。天の父の御心のもとに据え置かれた私たちです。それは私たちが思っていたよりも、はるかに大きく、広々とした心だったのです。あまりに気前がよく、寛大で、そこではどんなに小さな人も、無力な人も貧しく惨めな者も、誰に遠慮をすることもなく恥じることもなく、晴れ晴れとして息をつくことができるほどに。だからこそ私たちは進むことも出来、留まることもできます。ついつい身につけてきてしまったあまりに人間的な生臭いこだわりを、惜しげもなくポイと投げ捨てることもできます。天の父の御心のもとにあるからです。ご覧なさい。ここに主イエスの兄弟とされ、姉妹とされた者たちがいます。天の父の憐れみとゆるしのもとに据え置かれて、今や私たちは、互いに弟たち妹たち同士です。なんと幸いなことでしょう。