2017年1月30日月曜日

1/29こども説教「主イエスに従って生きる道」ルカ9:57-62

 1/29 こども説教 ルカ9:57-62
  『主イエスに従って生きる道』 
 
9:57 道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。58 イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。59 またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。60 彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。61 またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。62 イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。            (ルカ福音書 9:57-62

 「主イエスの弟子になりたい。主イエスを信じて、主にこそ仕えて生きてゆきたい」と申し出る人がおり、また主イエスご自身のほうから「わたしに従ってきなさい」と招く場合もあります。それぞれの人間の心の中身をよくよく分かった上で、主は語りかけます。
  2人目と3人目の人たちへの主イエスの招きは、少し分かりにくいです。まず父を葬りに行きたいと答えた人に、「その死人を葬ることは死人に任せておきなさい」。また、まず家族に別れをという人に、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくない」。いつでも誰に対しても同じことを教えるわけではありません。しかも家族の世話、家族や友人との大切な付き合いをどうでもよいことと切り捨ててしまう神ではありません。別のときには、弟子の一人の家族のためにわざわざ足を運んで病気を癒してあげ、また家族や友人、仲間たちとの盛大なお別れパーティを開かせ、ご自分でもそのパーティで友人たちと親しく愉快に付き合ったりもなさる救い主です。ここで彼らにわざわざ厳しく語りかけているのは、もしかしたら、この人たちが都合のいい言い訳や方便を並べ立てているからかも知れません(*)。この私たちだって、そうしようと思えば、主イエスに従わないためのもっともらしい不都合や理由や言い訳をいくらでも並べ立てることもできます。「どこへでも従う」と言った人には、『私は十字架の苦しみと死へと向かう救い主である。本当についてくる覚悟があるのか。あなたも、古い罪の自分をはりつけにされて殺していただき、ぜひとも葬り去っていただきたいと願うのか』と問いただします。どうしましょう?



           【補足/優先順位がある】
      (*)あの彼らは、(59,62節)「まず父を葬りに」「まず家族と別れを」と。けれど神さまからの戒めの第一は、主なる神を愛することです。第二に、隣人を自分自身のように愛し尊ぶことだからです。第一の戒めがあり、その土台の上に第二の戒め。これが鉄則(マタイ22:34-39参照)。つまり、第一に主イエスに従うこと。第二に、父や母や連れ合いや家族や隣人。そして自分自身。それなら大丈夫。そうでないなら、かなり危うい。例えば主に従うようにと招かれて、アブラムとサライとロトと家族らは、「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ」、そのようにして主が示す土地を目指して旅立ちました。主イエスの弟子たちも「父と舟と網を置いて」主イエスに従いました(創世記12:1,マタイ4:20,22)。頼りになる後ろ盾や、頼みの綱からいったん離れねばならなかったからです。そのようにして、主イエスに信頼を寄せ、主イエスにこそ聴き従う信仰の旅路がはじまっていきました。親不孝が勧められているわけではなりません。連れ合いや子供たちを粗末に扱えと促されているわけでもありません。家族はもっとも身近な、もっとも親しい隣人ですけれど、福音の順序があり、優先順位ははっきりしています。第一に、主なる神を愛すること。第二に、隣人を自分自身のように愛し尊ぶこと。「家族や隣人を愛する。親戚たちやご近所さんや職場の付き合いを重んじて」などと言いながら、いつの間にか、主なる神さまを愛し尊ぶことが二の次、三の次、四の次になり、やがて神さまを思う暇がほんの少しもなくなることは有り得ます(マタイ16:23を参照)。しかも家族や隣人へと向かうはずのその愛は、いつの間にかひどく自分勝手で独り善がりになり、萎んだり枯れたりし、互いを縛り付けたり苦しめて大きな災いをもたらすかも知れません。私たちは恐れましょう。
       「行きたくない所へは行かない」「行きたい所へ行く。したいことをする。したくないことはしない」。それこそが自由な伸び伸びした生き方だと思い込んでいましたが、とんでもない。まったくの大間違いでした。「主よ主よ」と言いながら、いつまでも自分こそが自分のための主人で、自分の気分や好みに従っていました。ただ自分の腹の虫に従っていただけで、ただただ自分の腹の思いの奴隷にされていただけの、あまりに虚しく惨めな生き様だったのです。ああ、そうだったのか。だって何しろ、この自分が主人なのではなく他の誰彼がボスでもなく、主なる神さまにこそ聴き従って生きるしもべ同士だったのです。あなたがたも私自身もよくよく知ってのとおり、天に唯一無二の主人がおられます。好きか嫌いか、気が向くか向かないかではなく、何が善いことで神さまの御心にかなうことなのか。自分の思いのままにではなく、御心のままに成し遂げていただき、それを自分でも心から喜び、願い求めることさえできる(ローマ手紙8:2-17,12:1-2を参照)。そこは、晴れ晴れとした、自由な広い場所でした。なんという幸いでしょう。