2017年1月30日月曜日

1/29こども説教「主イエスに従って生きる道」ルカ9:57-62

 1/29 こども説教 ルカ9:57-62
  『主イエスに従って生きる道』 
 
9:57 道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。58 イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。59 またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。60 彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。61 またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。62 イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。            (ルカ福音書 9:57-62

 「主イエスの弟子になりたい。主イエスを信じて、主にこそ仕えて生きてゆきたい」と申し出る人がおり、また主イエスご自身のほうから「わたしに従ってきなさい」と招く場合もあります。それぞれの人間の心の中身をよくよく分かった上で、主は語りかけます。
  2人目と3人目の人たちへの主イエスの招きは、少し分かりにくいです。まず父を葬りに行きたいと答えた人に、「その死人を葬ることは死人に任せておきなさい」。また、まず家族に別れをという人に、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくない」。いつでも誰に対しても同じことを教えるわけではありません。しかも家族の世話、家族や友人との大切な付き合いをどうでもよいことと切り捨ててしまう神ではありません。別のときには、弟子の一人の家族のためにわざわざ足を運んで病気を癒してあげ、また家族や友人、仲間たちとの盛大なお別れパーティを開かせ、ご自分でもそのパーティで友人たちと親しく愉快に付き合ったりもなさる救い主です。ここで彼らにわざわざ厳しく語りかけているのは、もしかしたら、この人たちが都合のいい言い訳や方便を並べ立てているからかも知れません(*)。この私たちだって、そうしようと思えば、主イエスに従わないためのもっともらしい不都合や理由や言い訳をいくらでも並べ立てることもできます。「どこへでも従う」と言った人には、『私は十字架の苦しみと死へと向かう救い主である。本当についてくる覚悟があるのか。あなたも、古い罪の自分をはりつけにされて殺していただき、ぜひとも葬り去っていただきたいと願うのか』と問いただします。どうしましょう?



           【補足/優先順位がある】
      (*)あの彼らは、(59,62節)「まず父を葬りに」「まず家族と別れを」と。けれど神さまからの戒めの第一は、主なる神を愛することです。第二に、隣人を自分自身のように愛し尊ぶことだからです。第一の戒めがあり、その土台の上に第二の戒め。これが鉄則(マタイ22:34-39参照)。つまり、第一に主イエスに従うこと。第二に、父や母や連れ合いや家族や隣人。そして自分自身。それなら大丈夫。そうでないなら、かなり危うい。例えば主に従うようにと招かれて、アブラムとサライとロトと家族らは、「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ」、そのようにして主が示す土地を目指して旅立ちました。主イエスの弟子たちも「父と舟と網を置いて」主イエスに従いました(創世記12:1,マタイ4:20,22)。頼りになる後ろ盾や、頼みの綱からいったん離れねばならなかったからです。そのようにして、主イエスに信頼を寄せ、主イエスにこそ聴き従う信仰の旅路がはじまっていきました。親不孝が勧められているわけではなりません。連れ合いや子供たちを粗末に扱えと促されているわけでもありません。家族はもっとも身近な、もっとも親しい隣人ですけれど、福音の順序があり、優先順位ははっきりしています。第一に、主なる神を愛すること。第二に、隣人を自分自身のように愛し尊ぶこと。「家族や隣人を愛する。親戚たちやご近所さんや職場の付き合いを重んじて」などと言いながら、いつの間にか、主なる神さまを愛し尊ぶことが二の次、三の次、四の次になり、やがて神さまを思う暇がほんの少しもなくなることは有り得ます(マタイ16:23を参照)。しかも家族や隣人へと向かうはずのその愛は、いつの間にかひどく自分勝手で独り善がりになり、萎んだり枯れたりし、互いを縛り付けたり苦しめて大きな災いをもたらすかも知れません。私たちは恐れましょう。
       「行きたくない所へは行かない」「行きたい所へ行く。したいことをする。したくないことはしない」。それこそが自由な伸び伸びした生き方だと思い込んでいましたが、とんでもない。まったくの大間違いでした。「主よ主よ」と言いながら、いつまでも自分こそが自分のための主人で、自分の気分や好みに従っていました。ただ自分の腹の虫に従っていただけで、ただただ自分の腹の思いの奴隷にされていただけの、あまりに虚しく惨めな生き様だったのです。ああ、そうだったのか。だって何しろ、この自分が主人なのではなく他の誰彼がボスでもなく、主なる神さまにこそ聴き従って生きるしもべ同士だったのです。あなたがたも私自身もよくよく知ってのとおり、天に唯一無二の主人がおられます。好きか嫌いか、気が向くか向かないかではなく、何が善いことで神さまの御心にかなうことなのか。自分の思いのままにではなく、御心のままに成し遂げていただき、それを自分でも心から喜び、願い求めることさえできる(ローマ手紙8:2-17,12:1-2を参照)。そこは、晴れ晴れとした、自由な広い場所でした。なんという幸いでしょう。


1/29「新しい家族」マタイ12:46-50

                                      みことば/2017,1,29(主日礼拝)  96
◎礼拝説教 マタイ福音書 12:46-50                      日本キリスト教会 上田教会
『新しい家族』
 
 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

  12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。47 それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。48 イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。49 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。50 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。  
                       (マタイ福音書 12:46-50)
                                                
 主イエスがなお群衆に向かって語りかけておられるとき、その母と兄弟たちが何か話したいことがあって待ち構えていました。そこである人が、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。主イエスは、こう答えます。「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。そしてご自分の弟子たちを指差して言われます。「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいます父のみ心を行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
  だいぶん前のことです。ある人が70歳半ばくらいの年頃になって、やっとようやく洗礼を受けました。その人の息子はずっと前からクリスチャンでした。洗礼を受けたそのお父さんは、とても喜んで、クリスチャンである息子にこう言いました。「うれしいなあ。オレとお前は親子だが、今日からは兄弟同士でもある」と。今までの関係や付き合いとはずいぶん違う新しい家族が、ここに誕生したのです。その格別な驚きと幸いを、ここにいる私たちも知っています。
  神の憐れみのもとにある一つの大きな大きな家族の一員とされ、主イエスの弟たち妹たちとされた私共です。それは主が、私たちを格別になにより大切に思っていてくださるということです。あまりに大切に思ってくださるので、この主は、終りの日に打ち明けられるはずの秘密をすでにあらかじめ私たちに知らせてくださっています。あのときの群衆と、またここにいるこの私たち一人一人をご覧になっても、喜びに溢れて、主イエスはこうおっしゃいます;「これが私の兄弟、姉妹、また母である」と。私の大切な家族であり、ついにこれこそ私の骨の骨、私の肉の肉であると(創世記2:23)。主イエスはおっしゃいます;「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたのである。はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしなかったのは、すなはち、わたしにしなかったのである」(マタイ25:40,45)。主の弟子パウロも、この同じことを言われました。彼のあの回心のときです。そのころパウロはクリスチャンをいじめたり苦しめたり、ひどく辛い思いをさせたり、追い払ったり、殺したりしていました。主イエスが彼に呼びかけました。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」。「あなたはどなたですか」とパウロは問いかけました。すると、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:4-5)。イエスを迫害している? 彼にもまったく身に覚えがありませんでした。ただクリスチャンたち何人か何十人かを追い払ったり、捕まえたり殺したりしていたのです。ただクリスチャンたちをいじめたり、苦しめたり悩ませたりしていただけだったのです。ところが主イエスは、「その一つ一つは、この私にしたことだ」とおっしゃいます。あなたは私を迫害し、この私自身を悩ませ苦しめていると。主イエスを信じる一人の人が苦しむとき、悩むとき、痛みを覚えて泣いたり呻いたりするとき、主は、「それは私の苦しみだ。私自身の悩みであり痛みであり、そこでこの私自身が泣いたり呻いたりしている」と。
  主イエスの兄弟とされ、互いに家族とされているとは、このことです。主イエスの発言に、もう少し注意して目を向けましょう。49節、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。主イエスこそ、最年長の格別な兄です。そして、お気づきでしたか。ここには《父》はいません。それがこの新しい家族構成です。最年長の格別な兄が、お独りだけいる。父はいない。そして他大勢は90100歳だろうが、先輩後輩とか、こっちが格上あっちは格下などでもなく、皆が互いに年下の弟たち妹たち同士です。この独特な家族構成を、いつも弁えておきましょう。なぜなら主イエスの弟たち、妹たち。私共もまた、「父を捨て、舟と網を後に残して」主イエスに従って旅立ったからです。「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、そのようにして主なる神が指し示す地に向かって」歩みはじめたからです。あの最初のふさわしい助け手同士のように、「父と母を離れて」、主イエスと結び合い、主イエスと一体となりたいと願い求めて、洗礼を受け、キリストの者とされたからです(マタイ4:18-22,創世記12:1-4,2:24。あのとき離れ去り、後に残してきた『父』とは、頼みの綱であり、心強い後ろ盾です。聞き従うべき相談相手です。すると、あのときから主イエスにこそ聴き従いはじめた私たちです。先の第二次世界大戦中、よこしまなナチス・ドイツ帝国の圧政に抵抗したキリスト教会は、このように断固として宣言しました;「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉の他に、またそれと並んで、更に他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは斥ける(「バルメン宣言,第1項」1934年)」からです。よくよく聞くべき、信頼して聞き従ってよい相手は主イエスだけと、堅く心に思い定めています。
 年をとってからクリスチャンになった、そして息子とともに喜び祝ったあの一人のお父さんは、他のどこにもない、まったく新しいこの家族構成にこそ驚き、息子と共に喜び祝ったのです。「うれしいなあ。オレとお前は親子だが、今日からは兄弟同士でもある」と。あのお父さんは、それまで長く生きてきた中で、とても窮屈で頑固に凝り固まった人間関係と序列の中に首までどっぷり浸かって暮していました。例えば、妻には「家の主人の言うことが聞けないのか。誰に養ってもらっていると思っているんだ。馬鹿者、口答えするんじゃない」などと頭を押さえつけていたかもしれません。例えば息子や娘には、「オレ様が親だ。飯を食わせてもらっている子供の分際で、何を生意気な。だれのおかげで大きくなったと思っている」などと権威を振りかざしたかもしれません。それは、大いにありえます。けれど、あのお父さんはついに知ったのです。新しいルールと、新しい家族構成の中に飛び込んでみました。自分の好き嫌いや性分や願いどおりではなく、互いにただただ従ったり従わせたりするのでもなく、それらをねじ伏せて、神の御心にこそ従おうと本気で願い求めて生きること。それは、素晴らしかった。今までは知らなかったまったく新しい世界が目の前に突然に開けました。「うれしいなあ。オレとお前は親子だが、今日からは、それをはるかに高く飛び越えて兄弟同士だ」と。


              ◇

  今日の箇所で一番難しく思えたのは、50節「天にいますわたしの父の御心を行う者」です。「行う」とは、目に見える、はっきり分かる形で何かをすることでしょうか。思い浮かべてみていただきたいのですが、5年後か10年後か、いつかあなた自身が病院のベッドの上で長く横たわり、だれかの世話になり、格別何かの役に立つことも誰かを助けてあげることもできなくなる日々が来るでしょう。そういう日々は、すぐ目の前に迫っています。もしかしたらほんの数年後、数ヵ月後にも。そのとき、あなたはどんな気持ちになるでしょう。《行う》ことは、誰の目にもはっきり分かることと共に、目に見えにくい事柄も含んでいたのです。何かをすることだけでなく、されることや受け取ることも含んでいたのです。《行う》ことには、例えば病室のベッドにただただ横たわっている人の、特に何をするわけでもなく、格別に何かの役に立つわけでもない静けさをさえ含んでいたのです。その静けさと安らかさは何にもまして尊く、その人々は大きな祝福を受け取っています。天に大きな喜びがあり、すでにその人々は『善かつ忠なるしもべよ』と呼ばれ、その名が天に書き記されているのですから(ルカ10:20,15:7,10,22-24,マタイ25:23。その肝心要をよくよく分かった上でなら、旺盛な人々の晴れやかな働きを喜んでもいい。神にこそ十分に感謝しながら、その限りにおいて、自分自身のための幸いと恵みについても他の人々の目覚しい活躍と成果に対しても、同じく変わらず感謝してもいいでしょう。
  なにしろ、ここは《疲れた者、重荷を負う者は来なさい。休ませてあげよう。荷物は軽い》という王国だったのです。天の父の御心は、ここにいる皆が十分によく分かっている。そうでしたね。「行う」ことのハードルを思いきって下げましょう。少なくとも、『天の父の御心を分かっている。あるいは、ぜひよくよく分かりたいと願っているだけでいい』という意味です。それなら、あなたにも出来るかも知れません。何か嬉しいことがあったとき、誰かが親切にしてくれたとき、その人に感謝するだけでなく、そこで《これは天の父の御心によった。私を慈しみ、大切に思ってくださって、天の父がこんな喜びを与えてくださった》と分かっていましょう。あなたは父の御心を行っています。苦しみや悩みがあり、心が晴れないウツウツとした日々に、けれどなお天の父があなたを思い、あなたを慰め、力づけたいと願ってくださっていることを思い起こしましょう。そして「主よ、私を助けてください」と願い求めましょう。求めているものを、天の父に打ち明けましょう。見栄えの良いものばかりでなくていいのです。人に知られたくない恥ずかしいものも、汚いものも、人からは「なんだ。そんなこと」と思われるかもしれない些細な事柄も、この天の父に打ち明け、なんでも自分で決めてしまうのではなく御父にお任せすることもできます。それなら十分に、あなたは御心を行っています。なにしろ主イエスが、天の父の御心をすっかり私たちに示してくださいました。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと。この最も小さい者の一人にしてくれなかったことは、わたしにしてくれなかったことである」と。私たちが自分の周囲にいる人々に何事かをしたり、しなかったり、何気なく何かを言ったり言わなかったりする度毎に、私たちはしょっちゅう釘をさされます。「ちょっと待て。分かっているのか。本当にそれをしていいのか。言ってしまっていいのか。言わずに知らんぷりしておいて、それでもいいのか。キリストはその兄弟のために死んでくださったんだぞ」(ローマ14:15)と。「ああ、そうだった」と申し訳なく思い、心に痛みを覚えたそのとき、天の御父がご自身の御心を、あなたのために行ってくださっている真っ最中です。知らされた天の父の御心が、ある時には私たちをきびしく叱りつけます。その同じ御心が私たちを慰め、きわどいところで支え、足を一歩踏み出すための格別な勇気を与えます。天の父の御心のもとに据え置かれた私たちです。それは私たちが思っていたよりも、はるかに大きく、広々とした心だったのです。あまりに気前がよく、寛大で、そこではどんなに小さな人も、無力な人も貧しく惨めな者も、誰に遠慮をすることもなく恥じることもなく、晴れ晴れとして息をつくことができるほどに。だからこそ私たちは進むことも出来、留まることもできます。ついつい身につけてきてしまったあまりに人間的な生臭いこだわりを、惜しげもなくポイと投げ捨てることもできます。天の父の御心のもとにあるからです。ご覧なさい。ここに主イエスの兄弟とされ、姉妹とされた者たちがいます。天の父の憐れみとゆるしのもとに据え置かれて、今や私たちは、互いに弟たち妹たち同士です。なんと幸いなことでしょう。





2017年1月24日火曜日

1/22こども説教「思い上がった狭い心を」ルカ9:49-56

 1/22 こども説教 ルカ9:49-56
 『思い上がった狭い心を』

9:49 するとヨハネが答えて言っ た、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。50 イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。51 さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ、52 自分に先立って使者たちをおつかわしになった。そして彼らがサマリヤ人の村へはいって行き、イエスのために準備をしようとしたところ、53 村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。54 弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。55 イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。 (ルカ福音書 9:49-55

  (言いにくいことですが、(ルカ9:46-48)「誰がいちばん偉いだろうか」と互いに言い合いをして、主イエスから諭された直後です。あの彼らのためにも私共のためにも、主イエスの弟子とされた者たちへの学びと実地訓練がなおまだ続きます。主ご自身の憐れみと忍耐のもとにあの弟子たちも私たちも、たびたび繰り返して、思い上がった狭い心をもってしまいます。『私たちは何者なのか? 何者でもない、とても罪深い罪人の集団にすぎない。思い上がってはいけない』と弁えつづけねばなりません。あの彼らのふり見て、わがふり直せ。
  二つの出来事が、主イエスの弟子たちの心が鈍くなっていることを暴きたてます。まず49節、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。止めさせてはならない、と主イエスは言います。しかも主イエスは、彼らや私たちの知らないところに、ご自分に従って生きる大勢の者たちを抱えておられます(使徒18:10参照)。またサマリヤ人たちが主イエスと弟子たちをあまり歓迎しなかったのを見て、弟子たちは言います。54節、「彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。主イエスは弟子たちを叱りました。しかも、主イエスが十字架につけられる日がすぐ目の前に近づいています。神の御心に従わない、神を神とも思わない罪人たちを、けれど許して迎え入れるために、救い主イエスはご自分の命も尊厳も栄光も投げ捨てようとしておられます(マタイ福音書20:25-28,ローマ手紙3:21-28,11:16-32,テモテ手紙(1)1:15「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来てくださった。しかも私は~」,ピリピ手紙2:5-11,コリント手紙(2)5:18-21ぜひ救おうとなさるその罪人の中には、この思い上がった狭くて鈍い心の弟子たちも、この私たちさえも、ちゃんと含まれていました。


1/22「預言者ヨナのしるし」マタイ12:38-42

 ◎とりなしの祈り

 主イエスの父なる神さま。だからこそ確かに私たちの親となってくださり、必要なすべてのものを恵みの贈り物として与えてくださいました。ありがとうございます。
  私たちの目が他人の欠点ばかりを見たり、私たちの口が人を非難したり悪口を言ったりしないように守ってください。自分本位になって自分の考え方ややり方を人に押し付け、自分とは違う考え方ややり方を押しのけようとしないようにお守りください。気難しくなって、腹を立てるのに早く、ゆるすことに遅くならないように、心を頑固にしないようにお守りください。アメリカ合衆国でもイギリスでも世界中で、この日本でも、「自分たちの国と、自分たちとその家族さえ良ければそれでよい」と心を狭く貧しくし、自分勝手な風潮が多くの人々の心を覆いつくそうとしています。ないがしろに扱われつづける沖縄の人々を。南スーダンで戦争に参加させられようとしている350人の自衛隊員たちと家族を。また福島から避難して他の地域に疎開して暮らす子供たちがいじめられたり、肩身の狭い思いをしないように、その土地の学校教師、親たち、子供たちが正しく健全な温かい心で彼らに接することができるように導いてください。また多くの人々が、ごく一部の過激派を恐れるあまりに善良なイスラム教徒や難民たちを追い払おうとしています。どうか世界中の人々と私たちを、健全な良心へと立ち戻らせてください。私共も1人1人も、あなたの御心にかなうことを願い求めながら毎日の暮らしを生きることができますように。御心に反して神さまを悲しませる言葉を口に出し、行い、心に思ってしまったとき、その罪深さを本気で嘆き悲しむ私たちとならせてください。あなたのものでありますキリスト教会と、あなたのものであります私たち自身と家族を、あなたの御心にかなって建て上げてゆくことができますように。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン





                                      みことば/2017,1,22(主日礼拝)  95
◎礼拝説教 マタイ福音書 12:38-42                      日本キリスト教会 上田教会
『預言者ヨナのしるし』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。39 すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。40 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。41 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。                      (マタイ福音書 12:38-41)

3:4 ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。5 そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。6 このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。7 また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。8 人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。9 あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。10 神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。4:1 ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、2 主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。3 それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。                       (ヨナ書 3:4-4:3)





 まず41節、42節、「しかし見よ。ヨナにまさる者がここにいる。ソロモンにまさる者がここに」。救い主イエスのことです。
  38-41節に集中して語ります。律法学者とパイサイ人のうちのある人々が主イエスに願い出ました。「先生、わたしたちはあなたからしるしを見せていただきとうございます」。主イエスは答えて、おっしゃいます、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる」。預言者ヨナのしるしとは何なのか。
  そこでまず、ヨナ書の大筋をごく手短に辿ります。預言者ヨナが神から命じられて、ニネベの町の人々に神の言葉を告げた。ヨナ書1章から2章。主なる神が預言者ヨナに命じます。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。主の働き人は、主である神が「せよ」とお命じになることをし、「してはならない」と神が禁じることをしないでおきます。気が向いても向かなくても、自分の好みに合っても合わなくても、なにしろご主人さまである神の命令に従う。『主である神。そのしもべ同士である私たちだ』と心得ている。だから、その人は主の働き人なのです。ところがヨナは、主の命令に背いて逃げ出します。気が向かなかったし、自分の好みや性分にも合わなかったので。神の命令のどこがどうヨナは気に入らなかったのかは、4章になってようやく明らかにされます。先取りして語りますが、とても悪いニネベの人々に向かって、「悔い改めなければ、お前たちは滅びる」とヨナは告げました。告げると、人々は悔い改めて、神へと立ち返る。すると神は、そのとても罪深い者たちをさえゆるす。そのことが分かっていたので、外国人のニネベの人々が神に立ち返ってゆるされることが気に食わなかったので、それで命令に背いて逃げたというのです。ヨナは白状します、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」(ヨナ書4:2-4。そのようにヨナは神に反抗し、神から逃げました。途中で彼の乗った船が大嵐にであい、船が沈みそうになります。ヨナはすぐ気づきました。神さまが、私の邪魔をしていると。「私のせいで大嵐になり、船も沈みそうになっています。私を海に投げ込めば船は助かりますから、そうしてください」。そのとおりになり、2章でヨナは大きな魚に飲み込まれ、三日三晩、魚の腹の中にいたあとで岸辺に吐き出されました。そのことと重ねあわせて、主イエスはご自分の身にもうすぐ起ころうとしていることを人々に告げ知らせます。十字架上で殺され、葬られ、その三日目に復活することを。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子(=主イエスご自身のこと)も三日三晩、地の中にいるであろう」と。
  神は魚に命じてヨナを陸に吐き出させ、ヨナに再び命じます。「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。ヨナは主の言葉に、渋々ながら従いはじめます。ニネベは非常に大きな町で、これを行きめぐるには三日を要するほどでした。「四十日を経たらニネベは滅びる」。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をし悔い改めて神に祈ろうと互いに呼びかけあい、大きい者から小さい者まで荒布を着、深く悔い改めた。このうわさが耳に届いて、ニネベの王までもがその王座から降りて、きらびやかな服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座して悔い改めた。王は布告を出し、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。一般庶民も役人も大臣も王様も、獣たちさえも一緒に悔い改めて、神へと立ち返り、神の憐れみにすがりました。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになりました。ところがヨナはこれを非常に不快に思い、激しく怒りました。「お前たちの滅びをせっかく告げて回ったのに、滅びないじゃないか」。彼のちっぽけな面子もプライドも丸つぶれです。自分の好みにも性分にも合いません。ニネベの町と人々がどうなるかを見届けようと、ヨナは町の東のはずれに小屋を立てて座り込みます。時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜びました。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れました。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言いました、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。神はヨナに言われました、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言いました、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。主は言われました、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。一本の木と、無数の生き物たちとが見比べられています。ヨナのためのとうごまの木。神のためのニネベの町の大勢の人々と家畜たち。自分で労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、あなたは惜しんでいる。ましてわたしは(自分で労苦し、自分で育て、多くの歳月を費やして自分自身で養ってきた、この)十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか(ヨナ書4:6-11。――悔い改め、弁えて、憐れみの神のもとへと大急ぎで立ち戻らねばならなかったのは、ニネベの町の十二万あまりの人と獣ばかりでなく、むしろ主の働き人とされていたヨナ自身です。ヨナが悔い改めることができたかどうかは、書いてありません。ヨナの姿と心のあり方は、いつの間にか心をかたくなにしてしまった神の民イスラエル自身の姿でもあり、今日のキリスト教会と私たち自身の姿でもあるでしょう。「ましてわたしは、惜しまないでいられようか。ニネベの町のおびただしい数の人と獣を。世界中のソドムとゴモラを。かたくなで、主の御心に従おうとしない働き人、おびただしい数のヨナたちを。いいや、惜しまずにはいられない」という主なる神の悲しい叫びが鳴り響きつづけています。
 「預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる」(マタイ12:39-41。しかもあの彼らも私共も、主イエスが救い主であるというしるしや証拠を見ていなかったのではありません。主イエスが病人たちを癒し、重い皮膚病を患う人々を癒し、死人をふたたび起き上がらせ、悪霊たちを追い出し、湖で波や風を叱りつけて鎮める数々の驚くべき出来事を見聞きしてきました。ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、描き出されつづけているのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか(ガラテヤ手紙 3:1参照)けれど、目も耳も心も塞がれていた彼らには十分ではありませんでした。まだまだ足りない。もっとたくさんのしるしや証拠を見せつけてくれるならば、多分きっと信じられるだろうし、もしかしたら主イエスの弟子になることもできるかも知れないと。けれど主イエスは彼らに、「あなたがたはすでに十分に見てきた。しるしや証拠が足りないからではない。信じようとする心が少しもないから信じられない」と。耳の痛い指摘です。
  「預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」と言いながら、裏腹に、神は山ほどのしるしを次々と贈り与えつづけ、信じて生きるためのしるしと手立てで私たちを幾重にも取り囲みつづけます。例えば、疑って何度も何度も不信仰に陥り、神に逆らいつづけたアブラハムとサラ夫婦を、けれど見放さず、見捨てられなかったように。例えば士師ギデオンが疑いつづけ、「しるしを。しるしを」と願う度毎に、岩の上で種入れぬパンと肉を焼き尽くしたり、羊の毛を濡らしたり乾かしたり、濡らしたり乾かしたり濡らしたり乾かしたりしつづけてくださったように。また例えば、主の弟子である疑い深いトマスのためにも、主イエスはわざわざ出かけてきてくださって、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と熱心に勧めてくださったように(創世記12:10-20,17:15-19,18:9-15,20:1-18,26:6-11,武士師記6:17-40,ヨハネ福音書20:24-29。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と空意地を張っていたトマスが、そう言い張りながらも、「信じたいけど信じられない。なかなか信じられないから、どうしてよいか分からない」と困りはてているのをご存知だからです。「わが主よ、わが神よ」とひれ伏すことができたらどんなに幸せかと、あのかたくなな彼のためにも格別な平安を願ってくださるからです。
  さて、兄弟姉妹たち。信じるためにしるしを求めることは不信仰でしょうか? そうかも知れないし、そうではないかも知れません。たとえあまりよく信じられなくても、しるしも何も求めず、ただただ不信仰のままに留まりつづけることはどうでしょう。それは、ただただ虚しい。昔々、神を信じない、アハズという名前の王さまがいました。しかも彼は、神を信じて生きるはずのイスラエルのための指導者であり、王でした。預言者の口をとおして、主は何度も何度もアハズを促しました。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。間に合ううちに、手遅れになる前に」と。けれどアハズは、がんとして聞き入れません。「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。そこで預言者の口を用いて主なる神はおっしゃった、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ書7:11-14。神は不信仰な王に向かっても、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と熱心に勧めつづけます。
 さてあのとき、主イエスはトマスにおっしゃいました。「見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである」(ヨハネ福音書20:29と。どういうことでしょう。その心は、見ても見なくても、それでもなお信じられずに一生を終わってしまうよりは、間に合ううちに手遅れになる前に、必要なだけ十分に神さまを信じることができるほうがよほど幸せだということです。見ないで信じた者は幸いです。しかも同時に、信ずることがなかなかできずに足踏みしつづけ、何度も何度も何度もしるしを見せられつづけ、ついにとうとう「神さま。参りました」と降参させられた者もまた、とても幸いです。だって、とうとう信じることができたのですから。驚くべきことに、しるしを求めつづける邪悪で不義で不信仰な者たちを、神は、けれど見放さず、見捨てられません。なぜでしょう。ニネベの町の人と獣に対してと同じく、神は、弁えの足りなすぎる不信仰な私たちをも惜しむからです。ニネベの町の人と獣に対してと同じく、神は私たちをも憐れむからです。よく弁えた、信仰深い、従順なものたちをというのではなく 右も左もちっとも弁えない者たちを、神に背きつづける者たちを、けれど滅びるままに捨ててはおけないと。惜しくて惜しくて、あまりにもったいないと。




2017年1月15日日曜日

1/15こども説教「誰がいちばん偉いか病」ルカ9:46-48

 1/15 こども説教 ルカ9:46-48
  『誰がいちばん偉いか病』

9:46 弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。47 イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、48 「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。 (ルカ福音書 9:46-48)

 『だれが一番えらいだろうか』という病気を知っていますか。ずいぶん長い間、この極めて恐ろしい病気は、雑草のように世界中に伸び広がり、私たち人間を苦しめつづけてきました。多くの人々がこの病気にかかり、深い悩みの中に置き去りにされています。「役に立たない小っぽけな人間だ」とまわりの人たちから思われるんじゃないか。片隅に押しのけられ、邪魔者にされ、誰からも相手にされず、見捨てられてしまうかもと気が気ではありません。おっかなくて、おっかなくて、だから臆病になり、自分の身を守るために生ズルく立ち回ります。必死で背伸びをし、見栄を張り、体裁を取り繕いつづけます。心当たりがありますか?
 主イエスの弟子たちにも、ちょうど今また、この病気がぶり返しています。治ったかなと思って安心していると、またかかり、人からうつされたり、うつしたり、集団感染したりしつづけます。神さまを信じているはずのクリスチャンでもかかるくらいですから、誰でもみなこの同じ『誰がいちばん偉いか病』にかかります。ほうっておくと、その患者さんは死んでしまいます。この病気を治せるとても良いお医者さんを知っていますね。神さまです(*1。『偉くて大きくて立派でとても賢い心の清らかな人は誰もいない。その小さな弱い貧しい愚かな人々を、けれど神さまは大事に思って、病気を治してくれる』という薬をくれます(*2。苦い薬ですけれど、朝昼晩と飲んでいると病気が治ります。本当のことです。




       【補足/神からの治療法】
(*1)ルカ福音書5:27-31。医者である神、その医者に病気を治してもらう病人である私たち人間。救い主イエスはおっしゃった、(31-32節)「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。神に逆らい、自分自身の正しさを首長しつづけること。この罪深さと悲惨とを、救い主イエスはここで『病気』と言い換え、その罪人を『病人』であると言い換えています。

     (*2)聖書の中にも外にも、にぎやかな街中にも小さな地方都市にも、あちこちどこにでもこの病気にかかった人々は大勢います(創世記4:1-16,4:19-24,9:18-28,11:1-9,12:10-,20:1-,26:1-,37:1-11,出エジプト3:11-4:13,32:1-6,列王記上12:25-33,マタイ福音書20:1-16,ルカ福音書10:38-,15:25-32,マルコ9:30-,コリント(1)1:11-13, 1:26-31, 3:3-9, 4:6-)。聖書は、1つの治療法を提案しつづけます。《神の憐みを受け取る》という提案です。神さまがどんなに気前の良い神さまであり、あの救い主が私たちのために何を成し遂げてくださったのかを、思い起こすこと。兄弟たち。自分が神さまの恵みのもとへと招かれたときのことを思い起こしましょう。どんなに慈しみ深い御計らいを受け取りつづけてきたのかを。聖書66巻は「仕えなさい」「思い上がってはいけません。身を低く屈めて、へりくだりなさい」「慎みなさい」と戒めつづけてきただけではありません。だって、それだけでは私たちは、ただただイジケたり僻んだり拗ねたり、「どうせ私は」とガッカリするだけですから。だから、心淋しい兄弟たち。よくよく知るべきことは、神ご自身が身を低く屈めてくださったことです。救い主こそが自分に固執しようとなさらず、低く下り、かえって自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまでご自分を献げてくださった(ピリピ2:6-)ことを。あなたを、この『だれが1番えらいか』病から救い出して、ついにとうとう誉めたり見下したり、誉められたり見下されたりすることからも、世間体や体裁ばかりを気に病みつづけることからさえ自由な者とするために。しかも、なぜ、《仕えるしもべの心低い場所》に身を置きなさいと命じられるのか? そこが、福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、いつもの待ち合わせ場所だからです。そこで、素敵な贈り物を受け渡ししてくださろうと待っておられます。格別な恵みと平和とを。ですから、皆から「立派だ。さすがだ。偉い」と思われたくてウズウズしているその人たちは、待ち合わせ場所を間違えています。残念なことです。


1/15「木が良ければ、実も良い」マタイ12:33-37,ローマ11:16-23

                                      みことば/2017,1,15(主日礼拝)  94
◎礼拝説教 マタイ福音書 12:33-37,ローマ手紙11:16-23   日本キリスト教会 上田教会
『木が良ければ、実も良い』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  12:33 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。34 まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。(マタイ福音書12:33-34)

11:16 もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。17 しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、18 あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。19 すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。20 まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。21 もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。22 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。        (ローマ手紙11:16-22)

  



 大勢の、様々な人々が主イエスの話を聞いていました。「まむしの子らよ」「あなたがたは悪い者であるのに」34節)とは誰のことを言っているのでしょう。おもには、パリサイ人や律法学者たちかも知れません。あの彼らは、自分たちこそが正しくふさわしい人間だと自惚れて、他の人々を見下し、分け隔てをして除け者扱いし、バカにする人々でした。けれど福音書の中で度々、その彼らが主イエスからたびたび槍玉にあげられ、きびしく批判されつづけるのは、その彼らをバカするためではなく、彼らのためでさえなく、もっぱら、主イエスを信じて生きていこうとする私たちクリスチャンたちのためでした。あの彼らは私たちの普段の良くない姿を映し出す鏡であり、悪い手本であり、あの彼らとそっくり同じに、この私たち自身も『自分たちこそが正しくふさわしい人間だと自惚れて、他の人々を見下し、分け隔てをして除け者扱いし、バカにしてしまう』性分を根強く抱えているからです。クリスチャンだけでなく、人間皆がその性分を抱えています。むしろ主イエスはここでも私たちに向けてこそ「まむしの子らよ」「あなたがたは悪い者であるのに」とわざわざ語りかけておられます。神ご自身の、私たちに対するいつもの扱い方です。それは、私たちを見下して惨めな嫌な思いをさせるためではなく、その低くされてへりくだった場所から考えはじめるためにです。それは、私たちの役に立ちます。神の恵み深さを味わうために。共々に喜び感謝し合うため。『私は正しい。わたしはふさわしい』と自分の正しさにしがみつこうとする罪深さから救われて(ローマ手紙10:1-4参照)、神からの恵みと幸いのうちに生きるために。

             ◇

 さて、33節。「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである」。聖書の神を信じる人々は、ずいぶん長い間、一本の木を眺めながら神と自分たち自身を思いめぐらせつづけてきました。私たちも、土と木とその枝と実について思いめぐらせましょう。それで、ローマ手紙11:16-23を合わせて読みました。「そこで、わたしは問う、『彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか』。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか。もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない」。ローマ手紙9章の初めからここまで、ユダヤ人がどんなふうに失敗してつまずいてしまったのかが見据えられてきました。ここからいよいよ、元々ユダヤ人ではない外国人たち(=つまり私たち)のための救いがどんなもので、私たちがどんなふうに救われるのかが語られはじめます。それでもパウロは、同胞であるユダヤ人への思いを頭から拭いきれずにいて、それで結局ず~っと、《異邦人のための救い》と《ユダヤ人のための救い》と、その両方共を見据えつづけます。14節。だって、なにしろ「わたしの骨肉」(14)ですから。「骨肉。これこそついに、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創世記2:23)。いい言葉ですね。皆の救い、全世界全人類の祝福。それでも本心はやっぱり、なにしろ私の骨肉、わたしの家族をなんとかしてと思い続けます。僕もそうです。私の夫、妻、私の大切な息子たち、娘たち、孫たち。あの彼らになんとかして神さまからの格別な恵みと祝福をと。だからです。だからこそ、この章の終わりごろにはついに、《異邦人のための救い》と《ユダヤ人のための救い》その両方共の救いを、「すべての人のための神の救いはこういうことなんだ」と彼は思い至ります。
 聖書を読んでいて、ふと、聖書の別の箇所が頭に思い浮かぶことがありますか。連想ゲームのようにです。「そういえば、……こことよく似た言葉や場面を読んだことがある。どこだったか。同じようなことがあった。どこだっただろう」と。この神の、あまのじゃくでヘソ曲がりな取り扱い。わざと後回しにする。先の者を後にし、後の者を先にする。下にいる低い者を高く引き上げ、上の者を引き降ろす。後回しにされた人たちが他の人の喜ぶ顔を見て、妬んだり悔しがる。読み進んできて、ここで例えば、ぶどう園で朝早くから働いた労働者たちが後回しにされて腹を立てた光景を私たちは思い起こします。あるいは、弟と父親が再会を大喜びに喜ぶ傍らで、その放蕩息子の兄が僻んで、家の外でふてくされている場面(マタイ20:1-,ルカ15:25-)を。あの時、息子たちの父さんはこういって上の息子をなだめまていました。「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」(ルカ15:31-)。お前の弟はいなくなっていたのに見つかった。死んでいたのに生き返った。だからお前だって、ふてくされて死んだようになっていないで、もうそろそろ生き返ったらどうだ。あのプンプン腹を立てていた兄さん、そしてあの朝早くからの労働者たちは、父のすぐ膝元にいながら「いなくなり、死んでいた」のです。いつも一緒にいながら、父からも、父の祝福や恵みからも愛情からもはぐれて、迷子になっていました。当時のユダヤ人たちの現実そのままに。あるいは今日の、多くのキリストの教会の現実そのままにです。いいえ。この私自身の、普段のいつもの、信仰をもって生きる日常生活の現実そのままに。
 長い年月をかけて育てられてきた1本の木です。1本の大きな木を思い浮かべてみてください。長い長い歳月をかけて養い育てられていく、1本の、とても大きなオリーブの木です。数千年かけて育まれてきた、1本の、大きな大きなオリーブの木、それが神の民イスラエルです。こ~んなに太い幹の、その根本から梢の先まで、びっしりと、たくさんの枝々が伸びています。1本1本の枝は、それぞれの時代時代のイスラエル民族であり、キリストの教会であり、11人の私たちキリスト者です。ごく早い時期に根元のあたりから伸びた太い枝があり、数千年後になってから、梢近くで芽を出して伸びてきた若くて小さな枝々もあります。例えば、そこには長野や松本あたりの枝があり、上田の枝があり、だいたい日本キリスト教会という枝自体が、梢の先の先のほうからつい昨日今日芽を出したばかりの、ほんの小さな若い枝の1つですから。この上田の枝は、数千年の営みの中にあるわずか140年ほどの日々ということですね。その大きなオリーブの木は、木を守る《耕す人・農夫》によって手入れを受けています。忍耐深く骨惜しみしない働き者であり、木をとても愛している農夫は、野生のオリーブの木から枝を切り取って、この豊かな木に接ぎ木しつづけています。
 手入れをする農夫。太い幹。そして多くの枝々。それは父なる神、神の独り子イエス・キリスト、そして多くの信仰者たちです。ある者は、ごく早い時期に根元のあたりから伸びた枝のようであり、彼らはユダヤ人と呼ばれました。ずいぶん後になって、野生のオリーブの木から切り取られてこの木に接ぎ木された枝のような信仰者たちもいます。かつては神の民ではなかった。今は、憐れみを受け、よいオリーブの木に接ぎ木され、根から豊かな養分を受け取るようになった。神の民としていただいた(ペトロ(1)2:10)。異邦人であるキリスト者、つまりこの私たち。
 「誇るな。思い上がるな。むしろ恐れて、神の慈愛と峻厳とを見よ」(18,20,25)。私たちは、いつもこのように戒められます。梢の先のほうから地面を見下ろすと、折り取られた無数の枝々が地面に横たわっています。根からの養分が、いつどんなふうに遮られ、枝まで届かなくなってしまったのか。また根から養分を受け取ることを、その枝自身がどんなふうに止めてしまったのかを私たちは聞かされています。恐ろしいことです。そして野生のオリーブの枝であった私共が、いつ、どんなふうにして、この豊かな大きな木に接ぎ木していただいたのかを、よくよく覚えているからです。私たちは恐れつつ、喜びます。喜びつつ、恐れます。彼らは不信仰のために折り取られたのであり、いま私たちは、ただ信仰によって幹に結ばれているのだとすれば。それは、ただ恵みによったのであり、憐れみを受けたからなのですから(ローマ3:21-30)私たちは喜びつつ恐れます。でもいったい何を、誰を、私たちは恐れましょうか。主なる神さまがただ恵みによって私たちを良い木に接ぎ木してくださって、神の民としてくださいました。ならば私たちは、もう誰をも恐れなくてよいはずです(27:1-4)。いいえ むしろ、いつも『敵は本能寺にあり』です。その慈しみ深い神の恵みに背いてしまいそうな、せっかく受け取った主の恵みと憐れみをポイと投げ捨ててしまいそうな、この私自身の心のありようをこそ恐れましょう。いじけたり高ぶったりしながら、浮き足立って主の恵みのもとから度々迷い出てしまいそうな、気もそぞろの私自身をこそ恐れます。
 「あなたが根を支えているのではなく、根が、あなたを、支えている」(18)。金槌で、頭をいきなりガツンと殴られたような気持ちです。ついうっかりして、あの頼りがいのあるしっかりした誰彼の働きや、この私の働きが肝心要だと思い込んでいました。自分の両肩に背負って、この私たちこそが働いていると。私たちが計画し、この私が心を配り、だからこの私が万端すっかり取り仕切って、私が細々と世話を焼いて面倒を見てやらなければ、この木の幹も、他の枝々も根も、倒れたり枯れたりしてしまうだろうと。この私こそが木の幹を支え、枝々を支え、私が根を支え、土を支えているのだと。まるで親分かボスのように。それは大間違いだ、と聖書66巻は語りつづけます。私たちのボスは天におられ、そのとても良い格別なボスは生きて働いておられると。なにしろ、「あなたが根を支えているのではなく、根が、あなたを、支えている」。主なる神は私共に、それぞれの枝ぶりの出来不出来にではなく、木の幹に、根に目と心を注がせようとしておられます。その心強さと豊かさとに。あなたが根を支えているのではなく、根が、あなたを、支えている。そんなあなたや、こんな身勝手で了見が狭くてふつつかであまりに未熟な私をさえも支えつづけていただいている。なんということでしょう。まったくの、ただただ憐れみの取り扱いでありつづけます。今までもそうでした。これからも同じく変わらず、憐れみの取り扱いでありつづけます。なんという幸いでしょう。



2017年1月10日火曜日

1/8こども説教「人々の手に渡される救い主」

 1/8 こども説教 ルカ9:43-45
 『人々の手に渡される救い主』

9:43 人々はみな、神の偉大な力に非常に驚いた。みんなの者がイエスのしておられた数々の事を不思議に思っていると、弟子たちに言われた、44 「あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。45 しかし、彼らはなんのことかわからなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた。
(ルカ福音書 9:43-45

  十字架の死と葬りと復活が待ち受けているエルサレムの都に向かって、主イエスと弟子たちは旅をしています。ご自分が殺され、葬られ、その三日目に復活することを、主イエスは弟子たちに道々何度もおっしゃいます。殺され、葬られ、その三日目に復活することを、ここで主は、『自分(=人の子)は人々の手に渡されようとしている』と言っています(*)。これが二回目の予告です(ルカ9:21-27,当箇所,18:31-34。弟子たちは心が鈍くなっていて、何度聞いても、それがどういうことなのかが分かりませんでした。分からないけれども、なんだかとても怖くて、心配で、嫌で嫌で仕方がなくて、「どういうことですか?」と質問することさえ出来ませんでした。つまり、ぼんやりと薄々とは分かっていたのです。主イエスが殺され、葬られ、復活するだけではなく、主に従ってゆく自分たちも、古い罪の自分を殺され、葬り去ってもらい、それと引き換えのようにして新しい生命に生きはじめることを。苦しく嫌なことでもあるけれど、そのことを通して、神さまの御心にかなう嬉しく幸いな新しい生き方がこの自分にもはじまることを。
  44節。「あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい」と主イエスは言いました。だから、私たちも自分の耳と心におさめておきましょう。思い巡らしつづけましょう。古い罪の自分と死に別れて、この私も新しい生命に生きはじめることを。どういうことなんだろうかと。


    【補足/人々の手に渡される】
    (*)44節。『渡される』には二重の意味が込められていると、世々の教会は大切に受け止めてきました。憎んで殺そうとする人々の手に渡され、同時に、主イエスを信じて生きようとする人々の手にも渡され、信仰をもって生きるための血となり肉となったと。聖晩餐のパンと杯を渡そうとしながら、主の弟子たちはこう告げました、「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』」。また、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。・・・・・・わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる(コリント手紙(1)11:23-,ヨハネ6:54-56)と。