2015年9月28日月曜日

9/27こども説教「だれが1番えらいか病」マタイ20:20-28

 9/27 こども説教 マタイ福音書 20:20-28            
 『だれが1番えらいか病』        牧師 かねだせいじ


20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。28 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
(マタイ福音書 20:25-28)

  (* この箇所の最も大きな課題は、主イエスの発言や思いと弟子たちの思いとがまったく噛み合っていない点にある。17-19節で主イエスは3度目の受難予告をし、末尾の28節でも「生命を与えるために自分は来た」と念を押す。けれど弟子たちは聞き流して、自分たちの栄光や権威や支配力にばかり執着しつづける。弟子たちは『権威者のイス』を求め、主イエスは『身を屈めて仕える者』であれと促す。主のご命令とはまったく正反対な在り方を渇望しつづけ、しかも主イエスの受難のときが刻々と迫る。すべてのキリスト教会と個々のクリスチャンの今日的・「崖っぷち」的な課題でもある。「何が望みか」と主は、この私たちにも問いかける。では私たち自身は、何と答えようか?)

 「そのとき」(20)と始まります。え、どのとき? 主イエスが3度目の受難と復活の予告をなさった、まさに「そのとき、2人の弟子とその母親が主イエスの前に進み出る。「何が望みか」と主から問われ、母親が代表してこう答えました。「王さまのイスにお座りになるとき、この2人の息子の1人をあなたの右に、もう1人は左に座れると仰ってください」。この申し出は、弟子たちの中に大きな波風を呼び起こします。皆、カンカンに腹を立て、大騒ぎ。主イエスの言葉に耳を傾けましょう。25-28節。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子(=主イエスご自身のこと)が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように』」。「あなたがたの中ではそうであってはならない」。主イエスは誰に向かって仰っているでしょう。主イエスの弟子たちに。すべてのキリストの教会に。そして、ここにいるこの私たちに対してです。わざわざそう仰るのは、そうなりやすいからであり、現にしばしば教会の中で、神を信じるクリスチャン同士の間で、支配したりされたり、権力を振ったり振るわれたり、振り回したり回されたりし合っているからです。せっかく受け取った恵みが、その度毎に台無しにされるからです。
『だれが1番えらいだろう』という病気をご存知でしょうか。ずいぶん長い間、この極めて恐ろしい病気は、雑草のように世界中に伸び広がり、私たち人間を苦しめつづけてきました。多くの人々がこの病気にかかり、深い悩みの中に置き去りにされています。「つまらない役に立たない人間だ」と周囲の人々から思われるんじゃないかと、彼らはいつも不安です。だから必死で背伸びをし、見栄を張り、体裁を取り繕いつづけます。心当たりがありますか? 
聖書は、只1つの治療法を提案しつづけます。《神の憐みを受け取る》という提案です。神さまがどんなに気前の良い神さまであり、あの救い主が私たちのために何を成し遂げてくださったのかを、思い起こすこと。救い主イエスがこの世界に降りて来られ、十字架について殺され復活なさったのは、「罪人を救うため」(テモテ(1)1:15)でした。罪人を救うため。どの程度の罪人を、でしょうか。善良な人や高潔で誠実で清らかな人々を救うことなら、あまりに簡単でした。罪人を救うとしても、ほどほどの罪人やそこそこの罪人を救うことなら、まだたやすいことでした。けれども、極めつけの罪人をさえ救う必要があったのです。例えば、ソドムとゴモラの人々よりも罪深い。どうしようもないニネベの人々よりももっと弁えていない。罪人の中の罪人を、その飛びっきりの頭であり最たる罪人たちをさえ、ぜひとも救い出したいと神さまは願ってくださった。あまりに生臭い、人間のことばかり思い煩い、自分の腹の思いの奴隷に成り下がりつづける、惨めな惨めな罪人たち。けれどその彼らは憐れみを受けました。キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。ただそのためだけに来られました(創世記18:16-33,ヨナ書4:11,ローマ手紙7:13-8:11,テモテ手紙(1)1:15-16を参照)
では、憐れみを受けて救われた彼らとは、いったいどこの誰のことでしょう。誰と誰と誰のことでしょうか。……おめでとう、恵まれた方々。あなたも私も、主なる神さまから憐れみをいただきました。力ある方が、こんな私たちにさえ、偉大なことをなさりつづけています(ルカ1:28-55参照)。朝も昼も晩も。なんという恵み、なんという幸いでしょうか。
 ◎とりなしの祈り

 イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰をますます私たちに与えてください。あなたの御心を思い、あなたの御言葉にますます聴き従って生きる私たちとならせてください。
  神さま。国と国のケンカを戦争というそうです。国と国も、大人同士も、夫婦も親子も、子供同士でも、外国の人とも誰とでも、ケンカをしないでいさせてください。「他の人からやっつけられないように、先に自分から相手をやっつけるんだ。誰かからいじめられないように、自分から誰かをいじめたり、そのいじめの仲間入りをしちゃおう」という私たち自身の言い訳や、なま狡い考えを乗り越えさせてください。自分たちさえよければそれでいいんだという自分勝手な理屈を、私たちにも自分の心の中から払い除けさせてください。神さま、この国の総理大臣や政府与党とすべての政治家に、そして親であり大人でもある私たちにも、何か良いことか悪いことかを見極める適切な判断力と、弁えと慎みとを与えてください。神さま。自衛隊員が誰一人も戦争とお金儲けの道具にされず、戦争が起こっている危ない場所に出かけていって人を殺したり殺されたりもせず、彼らもその家族も安心して安全に暮らせるようにさせてください。「職業訓練生」「研修生」などと呼ばれながら、アジア諸国から働きにきている貧しい隣人たちが粗末に不当に扱われつづけています。彼らが権利と人権を奪い取られないように、どうか守ってください。外国から出稼ぎに来ている労働者とその家族の心細い生活をお支えください。福祉施設や介護施設で働く人たちに、そこを利用する人たちの人権と人格を重んじる健全な判断力と公正さを増し加えてください。慈しみ深さと友愛の心を持ち続けさせてください。ですから神さま。まず、この私たちに勇気と優しい心を与えてください。戦争やケンカをはじめようとする人たちに、私たちも、大きな声で「やめて」と言うことができますように。やめて、やめて、やめてと何度でも何度でもずっと諦めないで、その人たちに、そして自分自身の心にも立ち向かう勇気と辛抱強さを与えてください。困っている人や、貧乏な人や、心や体を弱らせている人たちや、心細く暮らす人たちに、それが日本人でも外国の人たちでも、手を差し伸べる私たちにならせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。




9/27「腹を立て、バカと言う者は」マタイ5:21-26

                                         みことば/2015,9,27(主日礼拝)  26
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:21-26                      日本キリスト教会 上田教会
『腹を立て、バカと言う者は』   

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

5:21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。25 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。26 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。                                             (マタイ福音書 5:21-26)


すぐ目につく、とても特徴的な言い方が、救い主イエスご自身の口によって5回繰り返されます。「昔の人々に~と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、私はあなたがたに言う」(5:21,27,33,38,43)と。昔から語られ聞かれていたはずの神さまからの律法は、長い歳月をへるうちに割り引かれ、骨抜きにされ、生命のない形ばかりのものにされていました。そこにもう一度、生命が吹き込まれはじめます。救い主イエスは死にかけていた律法にもう生命を吹き込み、律法を成就し、ことごとくまっとうするために来られたからです(17-18)。しかも私たちの主なる神さまは、人の心の奥深くに隠されているものをすっかり見抜く神であるからです。神からの律法は、神さまの御心であるからです。
  21-22節。「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」。律法を立て直し、再び生命を吹き入れようとする、5-7章に至る主イエスのひと続きの長い長い説教は、終始一貫して人間の魂の奥深くへと目を凝らしつづけます。表に現れた行動や発言だけではなく、態度も、心の奥底に秘めた思いも。その両方共が、神の眼差しの前に隠しようもなくさらされていると。恐ろしいことです。しかも、だからこそ、そこに確かに私たちを活かす生命があります。かつてシナイ山で授けられた十戒の中の第六戒、「あなたは殺してはならない」について、主イエスのこの二歩も三歩も踏み込んだ教えを受けて、500年前の古い信仰問答はこう説き明かします。「問105。この第六戒において神は何を要求しておいでですか」「わたしが、わたしの隣人を、思いや言葉、態度、ましてや行いをもってでも、自分みずから、あるいは他の人を通して、ののしったり、憎んだり、侮辱したり、殺したりしないことです。また、わたしが、むしろ、すべての復讐心を捨てて、わたし自身が自分を傷つけたり、無理に危険を冒したりしないことです。それゆえに 政府の役人は殺人を防ぐために剣を帯びているのです」「問106。それでは、この戒めは、単に殺すことについてのみ語っているのではないのですか」「答。神様が、殺人を禁じることを通して教えようとされるのは、神様が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような、殺人の根をお憎みになるということです。そして、これらすべてが、神様の前では、隠れた殺人であるということです」(『ハイデルベルグ信仰問答,問105106』,1563)。殺人の根。隠れた殺人。誰にでもそれはあり、この自分自身も決して例外ではない。そのことをはっきりと告げ知らされている私たちは幸いです。「ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心を、この私自身がついつい心に抱いてしまうとき、それはすでに『殺人の根。隠れた殺人』であり、神さまがそれを憎み、悲しみ、その一つ一つに対してとても心を痛めておられる」と告げ知らされるとき、私たちは幸いです。信仰問答はさらにつづけて、私たちに対する神さまの御心を明らかにしてくれます;「問107。しかし、わたしたちが、わたしたちの隣人を、そう告げられたように殺さなければ、それによって、この戒めを既に十分に満たしていることになるのですか」「答。いいえ、違います。なぜなら神様は これによってねたみ、憎しみ、怒りを呪っておられ、わたしたちが、隣人をわたしたち自身のように愛することを望んでおられるからです。隣人に対しては忍耐、平和、柔和 、憐れみ、友情を示し、その人の受ける害を力の限り防いで、わたしたちの敵にもまた、良いことをなす事を望んでおられるのです」(同上、問107)
  23-26節。「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない」。とくにこの前半23-24節、「祭壇に供え物をささげること」と「自分に対して何かうらみを抱いているらしい兄弟との和解」の問題は、聖書の時代から今日に至るまでの、私たち自身の現実問題です。神さまを信じて生きるとはどういうことなのか。どのように生きることができるのかと。「祭壇に供え物をささげること」と「自分に対して何かうらみを抱いているらしい兄弟、家族、同僚、隣人との和解」と、もちろん両方共がとても大事です。しかも、もっと踏み込んで語るならば、「自分に対して何かうらみを抱いているらしい兄弟との和解」という現実問題を棚上げして、それを脇に押しのけて、どんな素晴らしい供え物もありえません。するとこれは、前回の『あなたがたは地の塩、世の光である』問題の具体的・現実的な展開です。塩で味付けられた心優しい言葉を用い、そのように振舞い、そのように心にも思うことが、もし万一なかなか始まらないなら。もし、信じている中身と私たちの具体的な生活が裏腹でありつづけるならば、私たちが神さまを信じ、神を礼拝し、美しい言葉で敬虔そうにご立派に祈ることがいったい何の役に立つというのでしょう。形ばかりの信仰であり、それは虚しいことです。主イエスご自身が世を照らす光でありつづけます。その光と親しく接しつづけ、そのお独りの方との交わりのうちに生きる者とされた私たちも、この世界と地域と職場と、自分の家族と自分自身を明るく照らし出すはずの光とされました。しかも兄弟たち、私たちはすでに燭台の上に置かれています。家の中のすべてのものを照らすために。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ 5:16)と主イエスから直々に、私たちは命じられております。
  主イエスはおっしゃいます、「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう」(マタイ12:7。主イエスはおっしゃいます、「口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」(マタイ15:17-20)
  主イエスはおっしゃいます、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと神への忠実とをすっかり見逃している。それもしなければならないが、これをこそ、決して見逃してはならない」(マタイ23:23参照)。モノをどう取り扱うか。作法や体裁をどうするか。礼拝をどう厳かに、万事つつがなく、滞りなく、しめやかに格調高く執り行うか。「いいや、そういうことではない。ぜんぜん違う」と口を酸っぱくして告げられつづけます。食事や儀式の前にきれいに手を洗うか洗わないか、そういうことでもない。もっともっと、その千倍も万倍も大切なことがあると。預言者の口を用いて主なる神ご自身が、悲しみながら呼ばわりつづけました。「人よ、彼はさきによい事のなんであるかを、あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」(ミカ書6:8)
  主イエスにとって、律法は神の御心を言い表したものです。神の御心は永遠につづき、変更されません。主イエスは律法を都合のいいように水で薄めることをなさらず、割り引くこともなさらず、好き勝手に解釈を変更することもなさいません。なぜなら律法を私たちのために成就し、私たちの現実生活の只中にことごとくまっとうするためにこそ主は来られたからです。律法の心を問題にし、そこにある神の御心をこそ重要視なさった主イエスは、だからこそ、しばしば「書かれた律法」の二歩も三歩も先へ踏み込んで語らざるをえませんでした。鉄砲や包丁で殺さなければそれでよいわけではない。怒ったり、愚か者と言ったり、バカと言う者は、心で思う者もまた、裁判を受け、議会に引き渡され、地獄の火に投げ込まれるだろう。そのとおり。それらは信仰告白が見てとったように、すでに決定的に「殺人の根」であり、「隠れた、密かな殺人」であるからです。しかも「父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人について、偽証してはならない。隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」(出エジプト記20:12-17)と厳しく命じられた神さまは、それらの禁止事項をもって、私どもが隣人を自分自身のように愛し尊ぶことをこそ心から願い求めておられます。私たちが自分の好き嫌いや気分や腹の思いに従ってではなく、むしろそれらを投げ捨てて、御父の御心にかなったことを行なって生きる私たちになることを。だから500年前の古い信仰問答は、「そういう意味で殺さなければそれで十分か」と問い、直ちに、「いいや、そうではない」と答えました。神さまの御心は、「なぜなら神様はこれによってねたみ、憎しみ、怒りを呪っておられ、わたしたちが、隣人をわたしたち自身のように愛することを望んでおられるからです。隣人に対しては忍耐、平和、柔和、憐れみ、友情を示し、その人の受ける害を力の限り防いで、わたしたちの敵にもまた、良いことをなす事を望んでおられるのです」と。その通りです。

                                     

主に仕える思いをもって生きることを、主イエスは要求なさいます。本気で、心からそうしなさいと。しかも、主イエスを信じる者たちにはそれが誰でも必ずできる、と太鼓判を押されています。なぜ? どのようにして。信じる私たちにはすでに主イエスの霊が与えられ、罪と死の法則からすでに私たちは解放されているからです(ローマ手紙8:4-11参照)もしあなたが誰かをねたんだり、憎んだり、ついつい腹を立ててしまう自分自身に気がつくとき、誰かを「愚か者。バカ」と言って軽んじ、見下してしまうとき、しかも、「そう言えば、朝から晩までそんなことを繰り返している自分だ。なんということか」と思い当たるとき、ついつい思いやりのない冷淡な態度をとって人を恐れさせたり恥じ入らせたりしている私だと気づくとき、そのとき、あなたは幸いです。心に痛みを覚えて、そこでとうとう神さまへと立ち返ることができる、かも知れないからです。自分自身の罪深さと傲慢さに気づかない間、「なんという惨めな私か」と気づかず、心が少しも痛まなかった間中ずっと、私たちは他の誰かの心を傷めさせ、踏みつけにしつづけていました。けれど、ようやく自分の心が痛みました。神さまに対しても人様に対しても、まったく申し訳なかった。お詫びのしようもないと。おめでとう、憐れみを受けたクリスチャン。あなたの内に確かに宿っているキリストの霊こそが、それをあなたに、させ始めているからです。正義と公平をおこない、慈しみと憐れみを差し出すことを喜び、へりくだって主なる神さまと共に歩む私たちとならせていただけるからです。神ご自身が、あなたのためにも私のためにも、それをきっと必ず成し遂げてくださるからです。
祈りましょう。



2015年9月22日火曜日

9/20こども説教「とても気前の良い神」マタイ20:1-16

 9/20 こども説教 マタイ福音書 20:1-16    牧師 かねだせいじ
 『とても気前の良い神』


「自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」             (マタイ20:14-15

  神さまが王様である国がどんなふうか、その国でどんなふうに暮らしていくことができるのかを、主イエスがたとえ話を用いて教えてくださっています。たとえ話は、何が何をたとえているのかを心に留めながら読むのでした。では、この「不思議なぶどう園の不思議な主人」は誰のこと? 神さまですね。じゃあ、その「ぶどう園」が神さまの国ってことか。すると、雇われてそこで働く労働者たちは誰のこと。私たちですね。「わたしのぶどう園に来て、あなたも働きなさい」と主人は朝から夕方まで、何度も何度も労働者たちを呼びに出かけていきます。わざわざ自分で出かけていきます。大事なことをお伝えしておきますけど、神さまは私たち人間とはモノの考え方や感じ方も、することなすこと、だいぶん違っています。『私たち人間とはだいぶん違うことを考えたりしたりする神さまだ』と、覚えておいてください。「猫の手も借りたいほど仕事が忙しくて、人手不足で、それで」なんて思ったら大間違いですよ。わざわざ「私のぶどう園に来て働きなさ~い。あなたも、あなたも」と一日中、何度も何度も出かけて誘っているのには理由があります。分かりますか? 神さまの国である「ぶどう園」に来て、そこで働いている人もいるし、まだ「ぶどう園」に来ていなくて、市場や広場や道端のあちこちでウロウロしていたり、ただボーと立っている人もいます。「なぜ何もしないで、一日中ただボーっと立っているのか?」と神さまが質問します。「誰も雇ってくれなかったんですよお」と彼らが答えます。ただボーッと突っ立ってるのが楽しくてじゃなくて、そうしているのが好きだからじゃなくて、仕方なしに立ってたんですよ。可哀そうでしょ、淋しいですね。そうやって立っているうちに、あっという間にお爺さんお婆さんになって時間切れになっちゃうんですから。だから、「どうして何もしないで立っているのか」と質問してあげました。だから、「じゃあ、あなたがたもぶどう園に行きなさい」と誘ってあげました。だってその人たちが、あんまり可哀そうで惨めだったからです。こういう神さまですよ。
皆に一日一デナリオンずつの約束で仕事に雇いました。一日一デナリは仕事の賃金としてはごく普通です。ヨソの仕事場でも同じくらいの値段で働かせていましたから、「ああ普通のことか。ヨソの働き場所と同じか」と勘違いしやすかったのです。夕方の支払いのとき、朝早くから働いた労働者たちが文句を言って、カンカンに怒っていましたね。12節です、「この最後の者たちは一時間しか働かなかった。私たちは朝早くから一日中、暑い中をクタクタになって働いた。それなのに同じ扱いをするなんて、ずるいじゃないか。ひどいじゃないか、エコひいきだ」。支払いの順番をわざと逆にして、後から来た人たちが皆1デナリオンずつ受け取るのを、先に来た人たちにわざわざ眺めさせたことにも気づきましたね(8節)。それは何のため? プンプン怒らせて、こうやって文句を言わせるためにです。そして、このぶどう園がヨソの仕事場と全然違う、とても不思議な場所だということ。そこで神さまが、私たちが考えることとずいぶん違うことを考えて、行なっていることを教えてあげるためにです。これは、かなり難しいです。「チンプンカンプンで、さっぱり分からない。理解もできないし納得できない」という人がいっぱいいるかも知れません。14-15節;「自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか」。
とても気前のいい神さまなんですって。こういうふうに皆を取り扱うんですって。妬ましくなったり、嫌な気がする人もいるでしょう。神の国はこういう所で、もうすでにどこもかしこも神の国のぶどう園の敷地の中です。「わたしのぶどう園に来て働きなさい」と誘われて、来て働いてみて、それで嬉しかったですか? あなたはどうですか? あなたは、あなたは? ――本当。ああ、それなら良かった。


◎とりなしの祈り

 イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰をますます私たちに与えてください。あなたの御心を思い、あなたの御言葉にますます聴き従って生きる私たちとならせてください。
  神さま。国と国のケンカを戦争というそうです。国と国も、大人同士も、夫婦も親子も、子供同士でも、外国の人とも誰とでも、ケンカをしないでいさせてください。ケンカは、「他の人からやっつけられないように、先に自分から相手をやっつけるんだ。誰かからいじめられないように、自分から誰かをいじめたり、そのいじめの仲間入りをしちゃおう」という誰かの言い訳や、なま狡い考えから始まります。自分たちさえよければそれでいいんだという自分勝手な理屈からはじまります。神さま、この国はいま自分勝手で臆病でなま狡くて自分勝手な国に成り下がろうとしています。げんこつで人を傷つけて、大声でどなって、怖い顔をして相手を脅かせて、偉そうにいばろうとしています。人殺しの道具をたくさん作って売って、お金儲けをしようとしています。その傍らで、貧乏な大人や子供や外国人や貧乏なお年寄りを放ったらかしにしようとしています。困っていても手を差し伸べようとしない国になろうとしています。ですから神さま。まず、この私たちに勇気と優しい心を与えてください。戦争やケンカをはじめようとする人たちに、私たちも、大きな声で「やめて」と言うことができますように。やめて、やめて、やめてと何度でも何度でもずっと諦めないで、その人たちに立ち向かう勇気と辛抱強さを与えてください。困っている人や、貧乏な人や、心や体を弱らせている人たちや、心細く暮らす人たちに、それが日本人でも外国の人たちでも、手を差し伸べる私たちにならせてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


9/20「律法を成就するために」マタイ5:17-20,23:23-28

                                        みことば/2015,9,20(主日礼拝)  25
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:17-20, 23:23-28        日本キリスト教会 上田教会

『律法を成就するために』   

  牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

5:17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。           (マタイ福音書 5:17-20)


17-18節。神であられる救い主イエス・キリストは、神であるまま同時に生身の肉体を受け取り、人間となられ、この世界に降りて来られました。神の国を宣べ伝え、十字架にかかって殺され、葬られ、その三日目に復活し、復活したその姿を多くの弟子たちに見せて下さり、弟子たちが見ている目の前で天に昇っていかれ、今も生きて働いておられ、やがて再び来られます。それがどういうことなのか。何のためなのか。この世界と私たちのために何をしてくださり、私たちをどのように導き、どこへと連れ出してくださるのか。そのことが、いよいよここから『律法』との関わりの中で、また同時に、『旧約聖書』との関わりの中で、イエスご自身によって説き明かされます。少し紛らわしいのですが、ここでも、「律法」という言葉は二重の意味で用いられています。(1)神から授けられた、神の民が守るべき生活ルール(=律法)という意味。シナイ山の上で二枚の石の板に刻まれた十の戒めをその中心の内容としています(出エジプト記20:1-17,申命記5:6-21,マタイ福音書22:34-40)(2)旧約聖書を「律法と預言者」あるいは、「律法と預言者と諸書」などと一般に呼び習わしてきました。この(1)(2)二つの意味を含んで、ここで語られています。旧約聖書では、「救い主がやがてこの世界に来られて、世界の救い祝福を成し遂げる」と約束しつづけました。
  「主イエスは律法が嫌いだったんじゃないか。だから度々、律法破りみたいな乱暴なことをわざと次々に行ったし、律法学者と論争したし、神殿も毛嫌いして破壊予告みたいなことを言っていた。過激なテロリストや無政府主義者みたいな人物だったようだ」などと、そそっかしいクリスチャンが誤解して言います。確かに、そういうふうに見えないこともない、かも知れない。けれど実際には、主イエスは神さまからの律法をとても重んじていました。ここで読んでいるとおりです。神殿も、「天の父の家である」と大切に思っておられました。けれど律法と神殿の惨憺たる現状をつぶさにご覧になって心を痛め、「ああエルサレムよ」と嘆き、涙したり、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」(21:12-13)と神殿境内で商人たちの店や屋台をひっくり返したり、投げ捨てたりとカンカンになって激怒なさり、乱暴狼藉を働きました。「神の宮を打ち壊し、三日の後に建てる」(マタイ26:61,27:40,ヨハネ2:19-21)とも、確かに仰いました。主イエスは律法を重んじました。だからこそ、うわべを取り繕うばかりの律法主義者・ただただ形ばかりの形式主義者たちの言動を憎み、その腹の中の思いにガッカリしつづけました。「あなたがた、偽善者たちよ」と。形式化し、不正と偽善にまみれた神殿の有様を深く悲しみ嘆き、その全面的な再建を思い描き、思い描いただけでなく、成し遂げました。どのようにして? 
  あらゆるすべてのものごとが形だけのものになり、うわべだけの中身も生命もないものに成り下がってしまう危険を孕んでいます。神さまを信じる信仰も。神に従って生きる生活ルールもまた、形骸化し、中身と生命を失ってしまう危険にさらされ続けます。シナイ山の上で授けられた戒めは十項目でした。よくよく考えてみるならば、守るのがかなり難しいような厳しい内容。1500年ほどの時代をへて、それらは600から800個もの細則と運用規則に膨れ上がりました。「ああ、あれね。なんだ、そんなことかあ。私は小さな子供の頃からそれらを全部しっかりと守ってきました。はいはい、他に何か足りないものがありますか、あれば仰ってください」(マタイ19:20参照)と、裕福で家柄のよい人々なら誰でも胸を張れるほどの、ごくごく簡単な約束事に。その分だけ律法は、神さまご自身の元々の願いや心とは遠くかけ離れた、中身と生命のないものへと変質してしまいました。5-7章の、山の上での主イエスの長い長い説教は、中身と生命を失ってしまった、死にかけている律法に、もう一度生命を吹き込もうとするものです。なぜなら神さまからの律法こそが、神さまの御心であったからです。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神さまを愛すること。隣人を自分自身のように尊び愛すること。ここにこそ、神さまを信じて生きることの生命がありつづけるからです。
  20節。「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に入ることはできない」。この発言がカギです。十字架直前の一週間の間に、主イエスは祭司長たちや民の長老たちに、つまり律法の専門家であると見なされていた人々に語りかけます。「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった』」(マタイ21:31-32)福音書の中で、主イエスご自身から、どうして律法学者やパリサイ人たちやその言動が目の敵のようにして非難され、攻撃され、「それは間違っている。間違っている」と指摘されつづけるのか。彼らは、私たちクリスチャン自身を映し出す鏡だからです。あの彼らこそが私たち自身だからです。彼らのふり見て我がふり直せ。それで、5:17以下と共に23:23-28もご一緒に味わいました。あの箇所を読んで胸を痛めることのできるクリスチャンは幸いです。天国はその人たちのものです。彼らと同じく、「私は正しい正しい、ちゃんとやっている」と言い立てている私たちです。そのままでは、決して天国に入ることができません。21:31以下では、祭司長たちや民の長老たちより先に取税人や遊女が神の国にはいる、と断言されました。後になってでも、多少は後回しにされても、もし結局は入ることができるならば上出来でしょう。でも何と言われていたか。「(洗礼者)ヨハネがあなたがたのところにきて義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった」。ということは、悔い改めないまま信じようとしないままでは、後になっても天国に決して入れない。立ち止まって、よくよく考えねばなりません。「律法学者やパリサイ人」に無くて「取税人や遊女」にはあるもの。それを何としても見つけ出し、手に入れなければなりません。救われるためには。
「洗礼者ヨハネは義の道を説いたのに」と主イエスは仰った。義の道。ずいぶん長い間、忘れられてきました。互いに相反する二種類の義がありつづけます。神さまご自身の義、そして私たちそれぞれの義。律法の専門家だったはずの彼らこそが、神ご自身の義を覆い隠しました。けれど多くの預言者たちが語りかけ続け、洗礼者ヨハネもそれを指し示し、主の弟子も語りかけました;「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない」「なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」(ローマ手紙3:21-2710:3-4)。では、律法学者でありパリサイ人でもある兄弟姉妹たち。災いから幸いへと移し替えていただくために、ご一緒に苦い薬を飲みましょう。朝昼晩と夜寝る前と、この同じ薬を飲みましょう。マタイ福音書23:23-29です、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ブヨはこしているが、らくだは飲みこんでいる。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」。すごく苦いですね。その分、よく効きます。飲みつづければ、2週間、3週間で、みるみる健康になっていきます。「律法学者やパリサイ人や祭司長たちと民の長老たち」に無くて、けれど「取税人や遊女」にはあるもの。それを、私たちもとうとう見つけ出しました。神さまからの憐れみです。神の義を知らないわけではありませんでしたが、聞き流しつづけていました。「自分は正しい正しい、ちゃんとやってきた」と自分の義を言い張りつづけるばかりで、神の義に従わず、逆らってばかりいた私たちでした。この自分自身も含めて すべての人は罪を犯したため神の栄光を受けられなくなっており、だからこそ私たちは、価なしに、ただただ神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされた。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためだった。神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされた。すると、どこに私たちの誇りがあるのか、どこにもまったくない。ということを度々すっかり忘れてしまいました。この私たちは以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっていることも、度々すっかり棚上げし、度外視していました。憐れむ神であり、憐れみを受けた私たちであることを、憐れんで罪をゆるす神であり、罪ゆるされた罪人である私たちであることを、すっかり手放していました(ローマ3:21-,11:30-32,ペトロ(1)2:10,テモテ(1)1:12-17)。だからその結果として 私たちはしばしば不幸せであり、不平不満をつぶやきつづけ、高ぶった思いに囚われ、自分自身と家族と隣人に災いを招き寄せつづけました。なんということでしょう。
けれど、ようやく思い出しました。なぜならばこの私たちのためにも救い主イエス・キリストは来て下さり、律法を成就してくださり、神の御心に従って生きる私たちとしてくださるからです。主イエスが成し遂げてくださったからです。「主は言われる、わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ書31:31-34)神さまからの律法が私たちのうちに置かれ、心に刻まれる日が来る。今日こそその日です。くどくどと教えられ、諭されるまでもなく、子供も大人も年配の者たちも賢いものも愚かな者たちも皆が主をよくよく知るようになる。ついにとうとう、名実ともに、ただ形だけ体裁だけでなく中身も本当に 神さまが私たちの神となってくださり、私たちは神の民とされ、神の民として日々を生きる者とされる。神さまが私たちの罪をゆるし、罪と悲惨から日毎に救い出しつづけてくださることによって。救い主イエス・キリストによって、それが、あなたのためにも私のためにも、私たちの大切な家族のためにも、きっと必ず成し遂げられます。



2015年9月13日日曜日

9/13こども説教「怒りんぼうで薄情で偉そうな、とても悪い召使いめ!」マタイ18:21-35

 9/13 ◎こども説教 マタイ福音書18:21-35           
 『怒りんぼうで薄情で偉そうな、
 とても悪い召使いめ    牧師 かねだせいじ


18:21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。       (マタイ福音書18:21-35)

  「仏の顔も三度まで」と言いました。いくら大人しくて優しい心の人でも、ひどいことを度々されれば怒ることがあるっていうんですね。だから3回もガマンしてあげたら、かなり優しい心の人だということになります。「何回くらい許してあげたらいいですか?」と弟子の1人が質問しました。主イエスは「770倍、つまり490回」とお答えになりました。数えきれませんね。何度でも何度でも、どこまででも、ず~っと許してあげなさい、という意味です。
  23節から、主イエスがたとえ話で説明してくださいました。たとえ話の中の「王様」は誰のこと? 神さまですね。じゃあ、「王様のしもべ」は? 私たち皆のことです。1人の男は王様に対して莫大な借金がありました。1万タラントは、およそ20万年分の年収6000日分の賃金×10,000÷300日。1人当たり40年くらい働けるとして、だいたい5000人分の生涯の労働賃金。アブラハムからキリストまでの系図(マタイ1:1-17参照)14代×351人分の、およそ50往復弱の借金です。返済などとうてい出来ません。自分自身も妻も子供たちも爺さん婆さんも一家揃って身売りして奴隷になり、家も土地も持ち物全部も売り払っても、それでも全然足りません。「どうか待ってください。待ってください待ってください」としきりに願い、すると王様は、少し待つどころか、借金をすべて丸ごと帳消しにしてくれたのです。何の交換条件もなく、ただただ彼を可哀そうに思ったからでした。ゆるされたその男は晴れ晴れとした気持ちで王様のもとから下がり、町の通りに出て、自分に借金をしている1人の友人に出会いました。ゆるされたその男は、自分に対するわずかな借金20万年分の労働賃金に対して、100日分の賃金)をゆるしませんでした。捕まえて首をしめ、「借金を返せ」。友人もまた彼に、「どうか待ってくれ。待ってくれ待ってくれ」としきりに願いました。あの時の彼とそっくり同じに。男は承知しませんでした。無理矢理に引っ張ってゆき、謝金を返すまではと牢獄に閉じ込めました。王はその男を呼び戻して厳しく叱りつけます。「怒りんぼうで薄情で偉そうな、とても悪い召使いめ お前が頼んだし、あんまり可哀そうだったから、借金を全部丸ごとすっかり帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を可哀そうに思ってやったように、お前も自分の仲間を、ほんの少しくらいは可哀そうに思ってやるべきではなかったのか」。
  ぼくもあなたも皆が、この召使いとだいたい同じでした。いいえ、もっと悪かった。山ほどの借金をゆるしてもらいました。ゆるしてもらえた理由は、ただただ王様がかわいそうに思ってくださったからでした。あなたも他の人からひどい目にあったことがあるんでしょう。意地悪されたり、冷たくされたり、邪魔者にされたり悪口言われたり。他人の欠点や貧しさは、まるで手に取るように、よく見えます。「なんて身勝手な、思いやりのない人だなあ」と私たちは他人の振りを見て渋~い顔をします。「そんなことがよく平気でできるものだ。どういう神経をしているんだろう」と呆れます。その一方で、自分がどんなふうに人を扱っているか、人に対して何をしているのかは、私たちはあまり気づきません。可哀そうに思っていただいて、20万年分の借金を丸ごとすっかり帳消しにしていただいたことを、あなたもすっかり忘れていましたね。それで 私たちは度々この男と同じことをし続けています。とても怒りんぼうで薄情で偉そうな、すごく悪い召使いに成り下がりました。そういう私たちに対して、神さまが腹を立てたり、心をとても痛めたり、ガッカリし続けています。ああ残念。ああ惜しい。可哀そうに思っていただいたことと、山ほどの借金をすっかり丸ごとゆるしていただいていることを思い出せさえすれば、そうしたら ものすご~く悪い召使にならずにいられたのに。

 とりなしの祈り
 天と地のすべて一切をお造りになった主なる神さま。造られたすべてのものが産みの苦しみを味わい、呻きつづけています。茨木、栃木、宮城県に及ぶ大雨災害で、今回もまた多くの人々の生命が奪われ、行方不明となり、住む家と地域を壊されました。4年半前の東日本震災からの復興もまだまだ滞っていますし、原子力発電所事故もまだまだ収束できませんし、その見込みもメドも立っていません。神さま、どうか私たちを憐れんでください。復旧には多くの困難があります。救助と復興支援にたずさわる人々、福祉と医療にたずさわる人々を励まし、勇気と忍耐とを与え続けてください。家族や家や仕事を失った人々をどうか支えてください。私たちも、彼らの苦しみと痛みを思い、精一杯に手を差し伸べることができますように。
しかも主よ、それは私たち日本人ばかりではなく、この日本のことばかりではありません。シリア、ウクライナ、コンゴ、ソマリア、中央アフリカなどの紛争地域から多くの難民が逃れて、生き延びるために心細い旅をしつづけています。逃げ延びる危険な旅の途中で、さらに多くの人々が生命を失いつづけます。その彼らに、世界各国が手を差し伸べようとしています。私たちもほんの少し目を上げ、ほんの少し視野を広げて、自分たちの同胞や家族のことばかりではなく、彼らのためにも手を差し伸べ、温かく迎え入れ、住む家と国を失った人々が安心して安全に暮らせるように、毎日の食べ物や着る物や住む家があるように、生命を脅かされずに眠ることができるように、明日への希望をもって生きることができるように、避難してくる人々と日本で暮らす外国人労働者とその家族を迎え入れる公正で思いやり深い心を、この私たちにも贈り与えてください。自分の家族や同胞ではなくても、肌の色や言葉や人種が違っても、自分たちとはほんの少し違う主義主張の人々であってもなお、その彼らを自分自身のように愛し尊ぶことができるようにさせてください。そのようにして彼らもまた、主なる神さまをほめたたえることができるようにさせてください。
  主イエスのお名前によって祈ります。アーメン




9/13「世の光である」マタイ5:13-16

                                       みことば/2015,9,13(主日礼拝)  24
◎礼拝説教 マタイ福音書 5:13-16                      日本キリスト教会 上田教会
『世の光である』   

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


5:13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。                 (マタイ福音書 5:13-16)


「あなたがたは地の塩であり、世の光である」と主イエスがご自分の弟子たちに向かって仰いました。弟子たちを取り囲んで、主イエスに従ってきた大勢の群衆もこれを聴き、考え込みました。「あの彼らが地の塩であり、世の光である。それは一体どういうことだろうか」と。すでに主イエスの弟子とされた私ども自身も首をひねり、考え込んでいます。「この私たちが地の塩であり、世の光である。それは一体どういうことだろうか」と。
キリストの教会と私たちクリスチャンにとって、塩も塩気も塩の効果も、輝く明るい光も、なにもかも救い主イエス・キリストご自身です。特に『光』については明白で、主イエスご自身が仰いました;「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。それゆえに、主イエスを信じて生きるクリスチャン皆は「光の子」とされ、「神ご自身の光の中に留まり、光の中を歩む者たち」とされました。「なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである」(ヨハネ8:12,テサロニケ(1)5:5,ヨハネ(1)1:7,2:9-11。救い主イエスご自身から良い贈り物をいただきつづけている私どもです。主は仰った、「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既に清くされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ福音書15:3-5)これこそが、私たちのための塩気であり、託された唯一の光でありつづけます。キリストとつながっている。それは、キリストからの言葉を抱えて生きているし、聞き取り受け取ってきたその言葉が、私たちを清くし、私たち自身が抱える闇と死の陰を吹き払いつづけ、光のほうへ光のほうへと導き入れつづけている。だから必ず実を結ぶし、光を輝かせる。だから当然、塩気があり、必要なだけ十分に清められてもいる。そうであるはず、である。けれど度々、その塩気と光とはどこかに紛れてしまいました。
  その根本的な理由は、私たち自身のうちに根深くすくっている人間中心の物の考え方です。ペトロが主イエスから厳しく叱られたことを覚えておられますか。主イエスの死と復活についての最初の予告を聴き、「とんでもない。あるはずがないし、あっては困る」と弟子のペトロが主イエスを諌めようとし、「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をする者め。神のことを思わないで、もっぱら自分と人間たちのことばかり思い煩っているじゃないか。いったいどういう了見だ」と厳しく叱られました(16:21-23参照)。その上で改めて弟子たちは、「自分を捨てて私に従ってきなさい」と主イエスから招かれました。神のことを思わないで、もっぱら自分と人間たちのことばかり思い煩ってしまう。自分自身と周囲の人間のことばかり思い煩い、そのあまりに神を思う暇がほんの少しもない。これを『ペトロの病気』と呼びます。クリスチャンがかかりやすい、最も重い病気です。軽く見てしばらく放置すると病気は急速に悪化し、その患者を死に至らせる恐ろしい病気です。みるみるうちに信仰の生命がやせ衰え、神さまがどんな神さまだったか。恵みや救いの道筋はどういうふうだったか。救われた私たちは何者か、どのように生きることができるのかなど、大事なことがすっかり分からなくなります。キリスト教会の世俗化とは、このことです。教会まるごと、団体で、この病気に集団感染してしまいます。闇は深まり、死の土地、死の陰の谷は領土を拡大し、その勢いを強めています。世俗化の波に、キリストの教会も激しく襲われ続けています。教会の世俗化とは、キリストに聴き従うことを私たちがすっかり止めてしまうことです。神さまに信頼を寄せ、神さまの御心を第一として、そこに心から服従して生きようとすることを捨て去ってしまうことです。そこから、キリスト教会の衰弱が始まり、私たちはますます衰え弱っていこうとしています。だからこそ、キリストの教会は「悔い改めよ。あなたは悔い改めて、あなたの在り方と腹の思いの全部を180度グルリと神へと向け返して、今日こそ主イエスの福音を信じなさい。信じて生きることをしはじめなさい」と語りつづけます。まず自分自身の魂に向けてです。
  神さまご自身こそが世を照らす光であり、救い主イエスが真実な光でありつづけます。「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」と旧約時代の預言者はあらかじめ告げ、主イエスご自身もまた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(イザヤ書9:2,マタイ4:15-16,ヨハネ8:12,12:46-50。天の御父と御子イエス・キリストが光である。それゆえ、『光』とは私たち自身の救いであり、この私たちもまた新しい生命を現実に、一日また一日と生き始めることです。詩篇の祈りの人はこう呼ばわりました、「主は私の光、私の救いだ。私は誰を恐れよう。いいや、誰をも恐れる必要もないし、現に確かに恐れはしない。たとい軍勢が陣営を張って私を攻めてきても、私の心は恐れない。たとい戦が起って、私を攻めても、なお私は自ら頼むところがある」。しかもすでに光に照らされ、光のもとに据え置かれているはずのこの私共のために、こう語りかけられています。「光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、『眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう』」(27:1-3参照,エペソ手紙5:13-14)
  讃美歌Ⅱ編28番を、この後でごいっしょに歌います。28番1節の「わがたまの縄目、解き放ちたまえ」を説明しておかねばなりません。「たま」は魂のことです。「縄目」は、Ⅰ編94番の1節でも「み民の縄目を解き放ちたまえ」とよく似た言い方が出てきました。TVの時代劇を見ていると、逮捕された罪人が太いロープで体中をグルグル巻きにされ、お役人に連れられて町中を引き回されていきます。あのグルグル巻きの太いロープ、それが縄目です。罪人が逮捕されることも「お縄にかかる」などと言います。私たちをがんじがらめに縛り付け、身動きできなくしているものこそ、「罪」「汚れた思い」「自分の腹の思い」などと言われつづけてきたものです。グルグル巻きに体を縛り付けるその太いロープを自分自身では解くことができず、他の誰に頼んでもそこから自由にしてもらうことができない。だからこそこの歌も、また待降節のあの94番『久しく待ちにし』も、「主よ、どうか早く来てください。罪のロープを解いて、私たちを救い出してください。私たちを自由の身にしてください。早く早く」と救い主イエス・キリストを待ち望みつづけました。
  Ⅱ編と賛美歌21版、それぞれに長所と短所があり、どっちがいいなどと軽々しく言ってはなりません。ただ、この曲に限って言うなら、同じ中身を見据えながら、けれど賛美歌21は思い切って1歩2歩と踏み込んだ言い方をしています。Ⅱ編28番の1節では「闇を照らす主よ、あなたの光を慕い求めます」と歌ったところを、賛美歌21では「光にいます主よ、われらを照らして」(賛美歌21503)と。主ご自身こそが光そのものである。その光に明るく照らされて、まず私たち自身の罪の実態が明らかにされました。罪の鎖にがんじがらめに縛り付けられている私だと。自分でその鎖を解くことができず、他の誰によっても解き放ってもらえない。その痛みと辛さから、この祈りの人は憐れみと救いをますます請い願って主イエスへと向かっています。罪の鎖を断ち切ってこの私を自由にしてくれるのはただ救い主イエスしかいない、と知っているからです。なぜ私たちは「世の光」であり、「光の子たち」とされているのか。救い主イエス・キリストこそが光であるからです(ヨハネ福音書8:12,9:5,12:35-36)。世を照らす光である救い主イエスを信じているし、そのお独りの方に目を凝らしているし、聴き従っている。だから、私たちは、主イエスの光に照らされつづけ、その光を鏡のように反射しつづけて、光の子たちなのです。それはちょうど太陽光発電の、屋根の上に並べられた反射板のようにして、そのようにして私たちは主イエスの光を反射しつづけます。主イエスの熱を蓄えつづけます。このことは、よくよく覚えておかねばなりません。ですから自分自身の中に何か明るく輝く材料がないかと探すのは、するとお門違いですね。そうではないのです。明るいものも輝く材料も、あなた自身の中からはどこをどう探しても出てきません。それは元々、人間から出る、人間による光ではなく、神さまからだけ出る、神さまからの光であるからです。出所がまったく違います。(コリント手紙(2)4:4-7)「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。闇から光が輝き出よ、という裏腹な輝き方です。粗末で貧相な土の器に、けれど光を入れられている。神のものであり、神からだけ出てきたし、私たちのものではなく、私たちから出たものでもない。だからこそ、値千金なのです。この並外れて偉大な力は、神ご自身のものである。私たちのものではない。私たちから出たものではなく、ただただ神さまからこそ出た、そして贈り与えられた。そのことが、明らかになるために。けれど兄弟たち、明らかになるべきことが惑わされつづけました。覆い隠され、すっかり曇りつづけました。私たちクリスチャンの皆が皆、土の器であるとして、あなた自身は、例えば「松竹梅、中の上、特上」のうち、どれほどの土の器でしょうか。極上品の有田焼、ではありません。備前焼でもなく、高級ブランドの名人のナントカ作の1個数千万円もの土の器、とは一切関係がありません。それなのになぜ、その器の色艶、形の優雅さや貧しさ、あふれる気品とかそうでもないとか、器の良し悪しにばかり目を奪われてしまうのでしょう。クリスチャンである一つの器に見とれて「まあ素敵。すばらしい色艶で、優美で、格調高くて」、それに比べてなどと。いいえ、大急ぎですっかり目を覚ましましょう。「格別に素敵な宝物。しかも、それなのにまったく裏腹に、飛び切りに粗末で貧相なあまりに貧しい器。それが、あなたでありこの私である。それこそがキリストの教会であり、クリスチャンであることの実態である」と同じく語りつづけます。
 Ⅱ編28番の4節も読みましょう。わが主に従い、たじろがず歩もう。主の清らかな山に、どうぞ、こんな私をさえ必ずきっと導いていってください。困難や悩みなど平気だと強がりを言っているわけではありません。朝から晩まで、来る日も来る日も、私たちはほんのささいなことでたじろぎつづけています。強がりを言っても虚勢を張ってみても、誰もが皆とてもとても心細かったのです。そのことにようやく思い至って、この祈りの人は、「この私は主に従って歩んでいこう」とついにとうとう腹をくくりました。何があってもたじろがない私ではなくて、たじろぎっぱなしの私だ。たじろがない私だから主に従ってゆくわけじゃない。むしろ逆。放っておくと朝から晩までアタフタオロオロして、たじろぎっぱなしの私なので、だから 主に従って生きていこうと。そうしたら、主イエス・キリストこそが私の心と思いとを守り、私から心細さや恐れを一つまた一つと拭い去ってくださるに違いない。祈り求めましょう。