2019年1月9日水曜日

1/6こども説教「主イエスにだけ救いがある」使徒4:1-12


 1/6 こども説教 使徒行伝4:1-12
 『主イエスにだけ救いがある』

4:1 彼らが人々にこのように語っ ているあいだに、祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちが近寄ってきて、2 彼らが人々に教を説き、イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、3 彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。・・・・・・7 そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。8 その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、9 わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、10 あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。11 このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。  (使徒行伝4:1-12

  主イエスの弟子たちは、主イエスに教えられた神の国の福音を教え、また救い主イエス自身が十字架に付けられ、殺され、その三日目に父なる神によって死人の中からよみがえらせられたことを宣伝していました。主イエス・キリストの教会は、その後もずっとこの同じ一つのことだけをしつづけてきました。救い主イエスの教え。そしてこのお独りの方が死んで復活させられたこと。この方に率いられて、信じる私たち一人一人も古い罪の自分に死んで、新しく神の御前で生きる者とされることと。7節で、「何の権威。誰の名によってしているのか」と質問されました。もちろん、神ご自身からの権威です。天の父なる神から一切の権威を授けられた救い主イエスからの権威です。10-12節を読みましょう、「あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。救い主イエスによる以外に救いはない。救い主イエスにこそ、確かな救いがある。このとおりです。この一点に、本気で心底から目を凝らしつづけています。ですから、主イエスを信じて生きる人たちはとても幸いです。とても心強く、安心して晴れ晴れと生きることができるからです。


1/6「パンと杯の秘儀」コリント人への第一の手紙11:17-29


                     みことば/2019,1,6(主日礼拝)  196
◎礼拝説教 コリント人への第一の手紙 11:17-29    日本キリスト教会 上田教会
『パンと杯の秘儀』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
11:17 ところで、次のことを命じるについては、あなたがたをほめるわけにはいかない。というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。18 まず、あなたがたが教会に集まる時、お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、それを信じている。19 たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。20 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。21 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。27 だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。28 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。 (コリント手紙(1) 11:17-29)

 まず23-25節です。「わたしは主から受けたことを、また、あなたがたに伝えた」と一人の伝道者は語りかけます。これがすべての伝道者の基本の働きであり、その中身です。伝道者のというだけではなく、すべてのキリスト教会とクリスチャンの働きと生活の中身です。主から受けた。だから、伝えられたとおりに、それを伝える。しかも救い主イエスご自身から直接に受け、命令されているので、だから命令されたとおりにそれに従い、それを行う。神であり救い主であられるイエス・キリストの唯一無二の権威のもとに私たちは据え置かれているのであり、ですからこの一つの権威の他には何一つ尊ぶべき権威はない。この救い主イエスの権威にだけ、私たちは従いつづけて生きる(マタイ福音書28:18-20,使徒4:19,5:29。さて、その中身です。「すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』」。次に26節。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」。ちぎり分けたパンを掲げて、主イエスは「これは私の体である」とおっしゃいました。杯の中のぶどうの実でつくられた飲み物を掲げて、「この杯は、わたしの血による新しい契約である」と。そして、「飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」とお命じになりました。主イエスからこのように命じられましたので、命じられたとおりに、キリストの教会とキリストの弟子たちはこのパンと杯の食事を繰り返しつづけてきました。これからもそうです。
  「渡される夜」と告げられました。ユダヤの祭司長、律法学者、長老たちから送られてきた群衆の手に渡されたのであり、祭司長とローマ総督ピラトの手に渡され、ついには十字架につけられる死刑の死に引き渡されていきました。パンを「私の体」とおっしゃったのは、そのパンを食べる度毎に、十字架の上で引き裂かれた主イエスの体に私たちが預かるためです。その死と復活の恵みに、私たちが預かるためです。杯を掲げて、「この杯はわたしの血による新しい契約である」とおっしゃったのは、その杯の飲み物を飲む度毎に、十字架の上で流し尽くされた主イエスの血潮に私たちが預かるためです。その死と復活によって成し遂げられた救いの新しい契約と祝福に、私たちが預かって新しく生きるためです。「新しい契約」というその新しさは、恵みに値しない、ふさわしくない者たちが、けれどなおただただ神の憐れみによって、無償で、救いと幸いにあずかるという新しさです。また、古い罪の自分と死に別れて、その罪深さを葬り去っていただき、神の御前に、神に向かって新しく生きるという新しさです。パンをとって「感謝なさった」のは、ご自身の十字架の死と復活によって救いの御業が成し遂げられ、それによって神の慈しみ深いご支配のうちに私たちが迎え入れられたからです。その格別な幸いを、主イエスが御父に私たちのために感謝なさったのです。主イエスにならって、主のものとされたこの私たち一同も、格別な救いと幸いに招き入れられていることをはっきりと確信し、御父に感謝して生きることができるためにです。「わたしを記念するため、このように行いなさい」と、わざわざ2度繰り返してお命じになったのは、聖晩餐のパンと杯によって、救いの御業を私たちが魂に深く刻み込むためにです。「記念するため。覚えるため」とわざわざ命令なさったのは、聖晩餐のパンと杯なしには、その恵みをよく覚えていることができない私たちであり、それゆえ私たちが救いの恵みからあまりに簡単にこぼれ落ちてしまいかねないからです。私たちを憐れむからであり、「大丈夫だろうか。恵みとゆるしのもとに留まって、幸いに生きてゆくことができるだろうか」と私たちを心配し、気遣うからです。「取って食べよ。飲みなさい」と命じられるままに、差し出されるパンを食べ、杯を飲むなら、私たちは幸いに晴れ晴れとして生きることができます。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで主の死を告げ知らせるのである」と語りかけられています。「救い主イエス・キリストがこの私のためにさえ死んで復活してくださった。本当にそうだ」と、その死と復活の力が私たちの魂に刻みつけられ、その力を受け取り、その力に突き動かされて、神を讚美し、神に感謝し、信頼を寄せ、一途に聴き従って生きる者とされてゆく。キリストがふたたびこの世界に来られるときまで、キリストの教会は最後の食卓を再現し、パンと杯の聖晩餐の食卓を永遠に守りつづけます。それは、この世にあって生きている限りは、私たちはいつもずっと道に迷いやすい、とても弱く危うい存在であり、それゆえ主からの助けと支えを必要としつづけるからです。キリストの死と復活の力を覚えつづけ、それによって、神が生きて働いておられますことに目覚めつづけて、そこでようやく私たちは堅くしっかりと立っていることができるからです。神さまに感謝をし、よくよく信頼をし、神にこそ聴き従いつづけて生命を受け取るために。

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 23節以下を読む前に、まず今日は17-22節を読みました。およそ2000年ほど前、信仰をもつ兄弟たちの家々でのごく少人数の集会から、礼拝が少しずつ整えられ、形作られていきました。その途上では、「ここからここまでが礼拝」という区切りや境界線はあいまいでした。けれど最も大切なことは、なにしろ玄関先で靴を脱いでその家に入ったときから出てくるまで、初めから終わりまでずっと、彼らは、『神さまの御前で、神さまに向かって共々に集まっている』ということです。そこで、伝道者は兄弟たちを叱りつけるとても苦々しい言葉を語りかけはじめます。けれど驚くべきことに、その苦くて心を突き刺す言葉こそが私たちを慰め、励まし、生きる喜びと勇気を贈り与えつづけます。我が子を愛してやまない親の愛だからです。17節以下;「ほめるわけにはいかない。あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっている。あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか」。このタイミングで直ちに、パンと杯の23-26節。つづいて、大問題箇所である27-29節です。「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」。ふさわしくないままでパンを食し、ふさわしくないままで主の杯を飲むとは、いったいどういうことでしょう。パンと杯にあずかる時の、その礼儀作法やしきたりや手順のことではありません。むしろパンと杯の前後の、それどころか目の前にパンと杯があってもなくても、自分の家にいて家族の前でも、どこで誰と何をしていても、互いの具体的な付き合い方、いつもの腹の据え方こそが大問題です。兄弟姉妹たち。なんと 貧しく小さな人々があなどられることと、神ご自身とその教会があなどられ、軽んじられることとは一体であり、ひと組だったのです22節。マタイ18:5-6,25:40,ローマ手紙14:15参照)。それぞれの利己心や虚栄心を先立て、自分はふさわしい、適格者だとうぬぼれ、結局はとても偉そうで自分の満足しか考えてないと。27-29節で「主に対して罪を犯し、裁きを自分自身に招くことになる」と厳しく痛烈に批判されていた『ふさわしくなさ。弁えのなさ』に、私たちも目を凝らす必要があります。弁えるべき中身は2つです。(1)主の体のことと、(2)自分自身と。自分についての弁えとは、恵みに値しない罪人である自分が、けれど憐れみを受けて救われたことです。主の体とはキリスト教会であり、それは救い主イエスの死と復活によって救われた罪人の集団です。神に対して畏れと慎みをもたねばなりませんが、同時に自分たちに対しては「たかだか罪人の集団に過ぎない」といつも弁えねばなりません。「~であるべき。それなのにあの人は、この彼は」などと人間的な理想像を勝手に持ち込んではなりません。自惚れて他者を裁いたり見下してしまうパリサイ人の過ちに、この私たちは陥ってしまいやすいからです(ルカ福音書18:9-14参照)。「教会は罪人の集団であり、なおかつキリストの体」と教えられつづけ、私たちも習い覚えてきました。それでもなお、まさかこの自分が神の教会を見くびり、神ご自身に恥をかかせつづけているなどとは夢にも思わない。それは、大いに有り得ます。27節以下の恐ろしい警告は、軽はずみに上っ調子に誤解されやすく、とても危険です。それでも読む必要があり、読みながら自分自身をつくづくと振り返る必要があります。「私だけじゃなく、この人もあの人も誰もが皆、ふさわしくないままに憐れみを受け、受け入れがたいところを受け入れられ、許しがたいところをなおゆるされつづけて。この私自身も、まったくそうだった。ただ恵みによって。うっかり忘れていたけれど」と。パンと杯にあずかることによって「主のからだと血とを犯し、その飲み食いによって自分に恐ろしい裁きを招く危険があります。それでもなお罪人であり、とても重篤な病人(マルコ2:17「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」参照)である私たちは 礼拝の御言葉と聖晩餐の食卓によって支えられ、清くされ、養われつづけて生きる必要があります。しかも、神の御前に正しくふさわしい者など一人もいません。うっかりそれを忘れ果てるとき、私たちはたびたび繰り返して『パリサイ人の病気』にかかり、はなはだしく心を曇らせつづけました。自分は正しい、ふさわしいと自惚れて、他人を軽々しく見下しました。そんなことがあってはなりません。500年も前に、聖晩餐のパンと杯についてこう説き明かされました。『この聖なる宴会は、病める者には医薬である。罪人には慰め。貧しい者には贈り物。しかし健康な者、義しい人、豊かな者には何の意味もない。自分を正しい、ふさわしいとうぬぼれて、好きだ嫌いだなどと自分の腹の思いを先立ててばかりいるこの私には、神の恵みも憐れみも祝福も平和も丸つぶれにされつづけ、水の泡とされつづける。唯一の、最善のふさわしさは、彼の憐れみによってふさわしい者とされるために、私たち自身の無価値さとふさわしくなさを彼の前に差し出すこと。彼において慰められるために、自分自身においては絶望すること。彼によって立ち上がらせていただくために、自分自身としてはへりくだること。彼によって義とされるために、自分自身を弾劾すること。彼において生きるために、自分自身において死ぬことである』。それゆえ私たちは、むしろ自分は何一つも良いものを持たない小さな貧しい者として慈しみ深い贈り主のもとに来ましょう。重い病気を患う半死半生の病人として良い医者のもとに来ましょう。神にも家族や隣人にも背きつづける不届きな罪人として、けれどなお義の創始者のもとに来ましょう。そして死んだものとして、死にかけている者として、生命の与え主であられるお方のもとに来るのだと弁えましょう。神によって要求され、命じられている最善のふさわしさとは、自分自身のふさわしくなさです。それをつくづくと噛みしめる信仰のうちにあります。
だからこそこの信仰は、一切の希望と幸いをキリストにかけ、私たち自身には何一つ信頼を置かないことです(Jカルヴァン「キリスト教綱要」41741-42節)。そして神への信頼と愛です。しかもその信頼と愛とは、不完全なままで神に差し出されても十分とされます。神ご自身が、その不十分で小さな愛と信頼とをいよいよ増し加え、整えてくださるからです。なぜでしょう。なぜならば、私たちが神を選んだのではなく、神が、救い主イエス・キリストが私たちを選んで、神を信じて生きる者たちとして私たちを立ててくださったからです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださって、私たちの罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになりました。ここに愛があるからです。私たちが全幅の信頼を置いて仰ぎ、信頼し、一途に聞き従うに値する神からの愛があるからです(ヨハネ福音書15:16-17,ヨハネ手紙(1)4:10参照)。なんという喜び、なんという幸いでしょう。




2019年1月1日火曜日

12/30こども説教「自分の罪をぬくい去っていただける」使徒3:17-26


 12/30 こども説教 使徒3:17-26
『自分の罪をぬぐい去っていただける』

 3:17 さて、兄弟たちよ、あなたが たは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。18 神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。19 だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。20 それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。21 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった。22 モーセは言った、『主なる神は、わたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう。その預言者があなたがたに語ることには、ことごとく聞きしたがいなさい。23 彼に聞きしたがわない者は、みな民の中から滅ぼし去られるであろう』。・・・・・・26 神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである」。   
(使徒行伝3:17-26

  悪い者たちの手にかかって、神であられる救い主イエスが罪がほんの一つもないままに殺され、その後、死人の中からよみがえらされました。それは、とても悪い者たちをさえ罪の奴隷状態から救い出し、祝福に預からせるためです。このように、とても悪い私たちのためにも神さまの方で救いがすっかり準備されました。あとは、私たちの側では、それをただ受け取るだけです。受け取るためには、救い主イエスを信じて、このお独りの方の言葉に聴き従うだけでよいと約束されています。19-20節、「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである」。救い主イエスを信じるとは、このかたに聴き従うことです。その中のいくつか、気に入ったところを2つ3つ聴き従うというのではなく、22節、「ことごとく聞き従いなさい」と命令されています。ついにとうとう慰めのとき、救いのときが来ました。神さまがすっかり準備して、その時を来らせてくださったからです。わがままで自分勝手な頑固な心を、臆病で怒りっぽい意地悪な心を、この私たちも捨て去ることができます。神さまが、私たちのためにもそれをしてくださるからです。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ福音書1:15



12/30「私の目が救いを見たので」ルカ2:21-35


                          みことば/2018,12,30(主日礼拝)  195
◎礼拝説教 ルカ福音書 2:21-35                      日本キリスト教会 上田教会
『私の目が救いを見たので』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


 2:21 八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。22 それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。23 それは主の律法に「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者と、となえられねばならない」と書いてあるとおり、幼な子を主にささげるためであり、24 また同じ主の律法に、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定めてあるのに従って、犠牲をささげるためであった。25 その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。26 そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。27 この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、28 シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、29 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、30 わたしの目が今あなたの救を見たのですから。31 この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。33 父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った。34 するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――35 そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。                                         (ルカ福音書 2:21-35)

 信仰をもって生きる一人の老人がいました。シメオンという名の人です。彼は神殿であの格別な幼子を自分の腕に抱え、神さまを讃美し、そして立ち去っていきました。このシメオンについては、「神殿で幼子をその腕に抱え、神を讃美し、そして立ち去っていった」こと以外は、私たちには何も知らされません。それ以前に彼がどんなふうに生きてきたのか。また、残されたごく短い時間を彼がどんなふうに使うのかを、聖書は語りません。ほかのどの箇所にも、もう彼は登場しません。それでもなおダビデやアブラハムやモーセ、パウロにも負けず劣らずに、あの彼は神さまのものとされています。むしろ、私たちはこう言いましょう。聖書の神は、ご自身を信じる人々を、その確かな慈しみの御手の中にしっかりと支えておられる。彼らが神の救いをその目ではっきりと見るまでは、決してその人々を手放すことなく、見捨てることも見失うことも決してありえないと。シメオン一人だけではありません。私たちがその人を親しく知っていようがいまいが、その人たちの顔も名前さえ知らなくたって、けれども私たちの神は、その人たちをよくよく知っていてくださり、ご自身を信じる人々を無数に数限りなく、その手に支えておられます。
  29-30節です。「しもべである私を主が安らかに去らせてくださる」と彼は言います。「去らせてくださる」。神殿を、ではありません。この世界を、この地上の生涯をです。これで、私は安らかに務めを終えて、安心して晴れ晴れとして去ってゆけると。「滅相もない、縁起でもない」と、あなたは言うでしょうか。せっかく新しい年が始まろうとする希望の日に、死や生涯の終わりについて語るなどとは忌まわしいと? しかし兄弟姉妹たち、今日こそ、はっきりと目を覚ましましょう。生きることは、いつまでもどこまでも生きることを意味しません。若い日々にも健康で旺盛な日々にも、小さな子供の頃でさえ、生きることは死と隣り合わせ・背中合わせだったではありませんか。限りある、ほんの束の間のごく短い生命のときを、それじゃあ、この私はどうやって使おうか。どのように生きてゆこうか。やがて必ず来る死と終りを見据えて、だからこそ、そこで私たちは「じゃあ、この私はどんなふうに生きていこうか」と腹を据えたのでした。年老いてだんだんと衰え、やがて死んでいくことは、きびしく恐ろしいものです。また、「一日でも長く生きて、人生の喜びと楽しみをたっぷりと味わいたい」と願います。自分が果たすべき務めや役割がまだまだ残されているのにと、後ろ髪を引かれながらも立ち去らねばならない日々も来ます。けれども、このシメオンという老人にとっては、そうではありません。この地上のごく短い生涯をやがてそれぞれに終えて、私たちはどこへと向かうのかを、あの彼は知っているのです。し残した仕事や責任や役割を、いったい誰にゆだねることができるのかも。神さまが許してくださる限り、彼は生きます。神が去らせるときに、あの彼は「はい。分かりました」と言って去ってゆきます。しかも、安らかに晴れ晴れとして。
 どうぞ聴いてください。あの彼シメオンは、一つの答えを見出しました。生きて働いておられる神を信じたのです。その神は、私たちが生きるにも死ぬにも、元気で旺盛活発なときにも弱り果てる日々にも、私のために全責任を負ってくださり、私たちが死んだ後でさえなお私たちの生命を保証してくださる方です(ヨハネ11:25-。『主なる神。主であられる神』とは、そういう意味です。私たちも、この同じ神を信じたのです。私たちはクリスチャンです。例えば遠い昔のアブラハムもまた、主の救いをその目で見た幸いな者たちの一人です。「国を出て、親族に別れ、父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい」と告げられ、だから、行き先も知らず、その旅路がどれほど長く続くのかもサッパリ分からないまま、主の言葉に従って旅立ちました。夜空の満天の星を指し示され、「あなたの子孫はこのようになる」(創世記12:1-4,15:5と。夜空の満天の星を見たことがありますか。それはじっとしていて、ビクとも動かないようでいて、けれど目を凝らしていると、一つまた一つと地平線の下へ静かに退いていく星々があり、そうかと思うと反対側の地平線からは一つまた一つと満天の星々に加わってくる新しい星たちがあり、そのようにして夜空は星々で満たされつづけます。例えば預言者エリヤも、主の救いを見た幸いな者たちの一人でした。あなたの後をあなたの弟子であるエリシャが引き継ぐ。ハザエル、エヒウ、エリシャ。さらになおバアルに膝を屈めない7000もの星々がと(列王記上19:15-。バトンを手渡しつづけるランナーたちをも用いて、そのように主の救いは着々と成し遂げられていきます。私たちはこの上田の地でも、その有様をはっきりと鮮やかに見つづけてきました。「はっきりとそれを見たい、と願って生きてきた私だ。そして、ついにとうとう見た」。願いつづけてきた安らかさを、あの彼はいま手にしています。例えば讃美歌288(2)は、行くすえ遠く見るを願わじ、「私の行く末に何が待ち構えているのかと遠く見渡すことを私は願いません、主よ、私の弱くて疲れやすい足を守ってくださって、ひと足、またひと足、道を示し、導いてください」。これから先の将来、5年先、1020年先を見通すことができなくたって、私は構わない。何の不足もない、と歌います。長く危険な道のりを旅するようにして生きる私たちです。道を歩いてゆく私の足腰が弱くても、すごく疲れやすくても、膝がガクガクふるえるとしても、私は平気だ。大丈夫。私の主なる神さまが私の歩みを支え、手を引くようにして導きとおしてくださるならば、それで十分。何の不足も恐れもない。ひと足、またひと足と歩みを重ね、一日また一日と生きて、きっと、こんな私でさえ辿り着ける。ですからどうか主よ、私の歩みをひと足ひと足と導いていってください。手を引くようにして、どうか連れて行ってください。
 34-35節。「あなた自身も、するどい剣で心を刺し貫かれる。あなた自身の心にある思いがあらわにされる」。救い主は、神を知らなかった者たちに差し出された《光》です。ユダヤ人のためだけの救い主ではなく、世界の救い主です。すでに神を知り、神に従って生きることを積み重ねてきた者たちのためだけの主ではなく、いいえむしろ人間様ばかりのための神ではなく、神さまによって造られたすべての被造物(ひぞうぶつ=神によって造られたもの)のための世界です。犬猫もアリやバッタもミミズも含めて。なぜなら天に主人がおられるからです(創世記9:10-,コロサイ手紙4:1参照)この救い主イエス・キリストは、なんと「反対を受けるしるし」34節)でもあるといいます。立ち上がらせるだけではなく、打ち倒すこともなさる。確かに、神に従おうとして生きてきたユダヤ人たちの多くは、そこで神につまずきました(ローマ手紙9:30-11:32。だからこそ、この私たち自身も一人一人、毎回の礼拝の度毎に するどい剣で心を刺し貫かれます。自分の心にある思いがすっかりあらわにされるからです。「この私はどうしたらいいでしょうか」(使徒 2:36-37参照)と神に問わざるをえません。なぜならこの救い主は、貧しい者たちを顧みる方であり、小さな者や弱い者たちを慈しむ方であり、見下げられている者や片隅に退けられてきた者たちの傍らに立つ方であったからです。あわれむ神であり、罪深い愚かな者を憐れむあまりにご自身が身を屈め、神であることの栄光も尊厳も生命さえすっかり投げ捨ててくださった神です(ピリピ手紙2:5-11参照)。この方の恵みとゆるしのもとに立つためには、「主よ、罪人の私をあわれんでください」と私たちは呼ばわるだけでよいのです。ああ、それなら私たちにも出来るかもしれません。

             ◇

  さて、今日の箇所の冒頭部分、22-24節にも目を留めておきましょう。生まれてきた赤ちゃんのために山鳩2羽か、家鳩のヒナ2羽をささげる。それは主の律法に定められていること(レビ5:7-で、「子供が主のために聖別される」ためのしるしだというのです。『聖別』は、神の者として取り分けられ、神さまのために用いられるということです。最初に生まれた男の子だけが神のものとされるのかというと、決してそうではありません。ですから次男坊も三男坊も女の子たちも、どうぞ安心してください。お父さんお母さん、おじいちゃんもみな安心してください。父さん母さんもおじいちゃんも皆、皆が皆、神にささげられた神のものとして育てられ、そのようにして生きることができるのです。年配の方々も安心してください。子供たちばかりではなく、子を育てる親たち自身も、神にささげられた神のものとして生きるのです。ですから、その一人の子は、皆がそうであることのしるしです。お父さんお母さんはその子のためにささげものをしながら、《この子は神の恵みの領域の中に生きる人である。神さまこそがこの子に生命を与えることができ、神さまこそがこの子の人生を心強く支え、全責任を負ってくださる。もちろん、他の子供たち皆も私たち自身もまったくそうだ》と改めて心に刻みます。普通は羊や山羊が、生まれてきた赤ちゃんのためにささげられます。が、貧しくて羊や山羊に手が出ない家庭の場合には、その代りに山鳩2羽をささげます。さらに貧しくて、山鳩2羽を用意できない家もありました。その場合には、家鳩のヒナ2羽でもよい、とされました。けれどそれでも、もっともっと家が貧しくて手が届かない場合には、ほんのわずかな量の小麦粉(レビ5:11でもよいと決められています。――つまりどこの誰でも、どんなに貧しくても、「生まれた赤ちゃんと自分自身と家族全員を 神にささげられたものとして、親は慎みながら慈しみながら、また願いをこめて育てることができる。また、そうするのが神ご自身の慈しみにかなっている」ということです。

 その幼子イエスは、神の独り子です。救い主としてお生まれになった方は、けれども人間のための定めに従って、主のために聖別され、神にささげられたものとされました。やがて、この方は私たちの罪を背負って、この私たちのためにさえも、十字架の上に献げられます。何のために。この私たちが神にささげられた神のものとして生きることができるためにです。どんなに貧しい者も、ふつつかな者もいたらない者も愚かな者も、どんなに罪深い者も、この救い主によって生命を贈り与えられて喜ばしく生きるようになるためにです。およそ500年ほど前の信仰問答(ハイデルベルグ信仰問答第1問,1563年)は語っていました;「あなたの慰めは何か。あなたを根本の土台のところから支えるものは何か」と問いかけ、こう答えています。「それは、体も魂も、生きているときにも死ぬときにも、旺盛に働くときにも身を横たえて休む季節にも、私が私自身のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものだということです」。神に献げられた者たち、どうぞ喜んでください。「私が私が。それなのにどうして」と肩肘張って目くじら立てて生きる必要はもうないのです。「私の体裁が。私の面子が」などと苛立ったり怒ったりガッカリしなくていいのです。なぜなら神に献げられた者たち、私はもう私自身のものではない。私の体裁も面目も、体も魂も、生きているときにも死ぬときにも、元気なときにも弱り果てる日々にも、確かにまったく主ご自身のものとされている。主こそがこんな私のためにさえ全責任を担って、背負いとおしてくださる。しかも。私たちが神さまに何か良い贈り物をして、だから私たちがクリスチャンとされたのではありません。たとえ私たちの側に主にささげるための良いものが何一つなかったとしても、羊も山羊も鳩も、わずかな小麦粉にさえ手が届かないとしても。いいえ、むしろ神さまのほうで飛びっきりの格別な贈り物を用意してくださった。私たちがしばしば思い違いをし、度々見落としてしまうとしても、なお聖書ははっきりと証言しています;「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で」と。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを賜らないはずがありましょうか。いいえ、必ずきっと必要なすべてのものを贈り与えてくださいます」(ローマ手紙3:24,8:32と。素敵な贈り物を、私たちが神へと差し出したからではなく、いいえそうではなく 神さまから受け取ったからこそ、それで、だからこそ私たちはクリスチャンとされ、ここにこうしていることを許されています。「この世界のためにも、また私自身と家族のためにも、神が確かに生きて働いておられる」と、もし私たちがはっきり気づいているならば。「神さまのお働きがあって、神によって支えられ、養われて、今日こうして私はあるを得ている」ともし私たちがよくよく分かっているならば、それなら、この私たちもまた、主の救いをこの目で見た者たちです。なんという喜び、なんという恵みでしょうか。

2018年12月28日金曜日

12/23こども説教「自分の力によってではなく」使徒行伝3:11-16


 12/23 こども説教 使徒行伝3:11-16
 『自分の力によってではなく』

3:11 彼がなおもペテロとヨハネとにつきまとっているとき、人々は皆ひどく驚いて、「ソロモンの廊」と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まってきた。12 ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。14 あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、15 いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。16 そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである。       (使徒行伝 3:11-16


  足の不自由な男と、主の弟子たちは出会いました。最初には、弟子たちは「私たちを見なさい」3:4と言っていたのに、けれど今度は正反対に、「なぜ私たちを見つめているのか。見るべきところが違うでしょう」と言い始めます。じゃあ、どうしたらいいのでしょう。困りましたね。12節、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか」。そして15-16節、「神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである」。この不思議なことをしたのは、何から何まで全部、ただ神さまがしてくださった。だから せっかく目を凝らして見るなら、神さまにこそよくよく目を向けたらいいじゃないか。そのとおりです。ですから私たちもあの彼らと同じように、まず「私たちを見なさい」と言い、次には「違う違う。私たちや他いろいろの素敵な大きな立派そう見える人々をではなく、神さまにこそよくよく目を向け、ただただ神さまにこそ聞き従いなさい」と語りかけつづけます。他の人たちに言ってあげるだけではなく、まずむしろ自分自身にこそ、よくよくそう言い聞かせつづけます。そうでないと、神さまを信じているつもりで、けれどいつの間にか別の何かや人間たちを信じてしまうかも知れないからです。神にこそ聞き従うのでなく、神ではない別のモノの言いなりにされてしまうかも知れないからです。


12/23「大きな喜びが与えられる」ルカ2:8-20


                 みことば/2018,12,23(クリスマス礼拝)  194
◎礼拝説教 ルカ福音書 2:8-20                          日本キリスト教会 上田教会
『大きな喜びが与えられる』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。  (ルカ福音書 2:8-20)

  今から2000年も前のことです。遠い外国の片田舎の家畜小屋のエサ箱の中に、1人の赤ちゃんが生まれました。クリスマスの季節だけではなく、私たちが生きる毎日の普通の生活の只中に、この方こそが格別な平和と幸いをもたらす。と聖書は語ります。さて、それならこの嬉しい知らせを、誰が真っ先に耳にしたでしょう。8節。それは羊飼いたち、そして羊たちです。羊って、どういう生き物でしょう。他の動物と比べてみると、羊がどういう生き物なのかが少し分かります。生き物には、それぞれ自分の身を守って生き延びてゆくための武器や道具が与えられています。けれど羊には、熊のような強い腕もなく、するどい角や牙があるわけでもなく、逃げ足が速いわけでもなく、ウサギのように何でも聞き分ける良い耳があるわけでもありません。とても弱くて、あまりに無防備な生き物です。それで強い腕や角や牙や良い耳や速い足の代りに、羊には愛情深い良い羊飼いがいてくれます。羊が安心して晴れ晴れとして生きてゆくためには、ただただその羊飼いだけが頼りです。さて、弱くて心細いのは羊ばかりではありませんでした。その世話をする羊飼い自身は社会の一番底辺に暮らす貧しい人たちです。生活もとても不安定て、先の見えにくい心細い暮らしです。彼らはしばしば疲れ果て、がっかりして落胆しました。羊たちに草を食べさせながら、山や谷をめぐって旅をするように生きる。悪天候の日々があり、野の獣たちが羊を狙って襲いかかってきます。羊ドロボウも闇に紛れて忍び寄ります。羊飼いたちは羊を守って寝起きを共にし、寒空の下で野宿もし、眠い目をこすりこすり夜通し番をして生きるのです。実は私たちも、彼らの労苦や心細さを知っています。小さな子供たちも若者も、家族を養って暮らす父さん母さん達も年配の人たちも。危険な旅をしつづけて野宿をするように、夜通し寝ずの番をするようにして、私たちは家庭を守り、家族や自分自身を養って生きてゆきます。「山の向こうの次の土地には良い草がたくさんあるだろうか。うちの羊たちときたら『この草はまずい。固くてスジっぽい。少なすぎる。食べ飽きた。ほかの、上等な草を。もっとうまい水を』などとブツブツ文句ばかり言う。さあ困った。今日は、あの羊たちに何を食べさせてやろうか。熊や狼は襲ってこないだろうか。これから、どうやって私たちは暮らしていこうか」と心を砕いて、しばしば深く思い煩いながら生きています。私たちと、この羊飼いとは、すると、なんだかよく似ていますね。
 天使たちは「恐れるな」と告げました。恐れつづけてきた彼らでしたし、恐れるべきことが山ほどあります。「恐れるな」;それは、《恐れないあなたとしてあげよう。最初のクリスマスの夜に家畜小屋のエサ箱の中に生まれた1人の赤ちゃんによって。あの小さな、裸の赤ちゃんによって、恐れないあなたとしてあげよう》という神さまからの招きです。神さまからの約束と招き。この救いの約束を私たちは信じて生きることをし始めました。だから、私たちはクリスチャンです。
 10-12節。民全体に与えられる大きな喜び。大きな喜びというのは、けれどどれくらい大きいのでしょう。ほんの一握りの何人かが喜ぶだけでは、その喜びは大きくはありません。片隅に押し退けられた人が淋しい惨めな思いをしているようでは、喜びは大きくはありません。置き去りにされた人たちが「どうせ私は」といじけて下を向いているようでは、その喜びは安っぽすぎます。「すべての民に与えられる、みんなのための喜び」。しかもそれは、あなたのためにも用意されている、というのです。《神を知ること》は、もはやただユダヤ人だけの専売特許ではなくなり、すべての人々に差し出され、それまでは神を知ることもなかった人にも明け渡されます。それで教会の入口脇の案内板には、『誰でも自由に来てみてください』と、いつも書き添えられています。教会の人々がそのように招いているというだけではなく、実は、神ご自身がそのように招いておられます。誰であれ、どんな職業の、どこに住んで何をしている人であっても、救い主を受け入れることができるほどに低い心の持ち主なら、あなたもぜひ、と招いておられます。なにかの条件や資格が必要なのでもなく、体裁を取り繕うこともいらず、そのままで来なさいと招きます。
 キリストの教会とは、何者でしょう。クリスチャンとは、いったい何者でしょうか。もちろん、何者でもありません。ただ、「恐れるな」という神様からの呼びかけを聞いた者たちです。「恐れるな」と告げられて、恐れている自分に気づかされ、恐れるほかない山ほどの事柄に取り囲まれた、とても心細い自分であることを突きつけられ、「恐れることのないあなたとしてあげよう」というその神様からの約束を信じた者たちの集団です。「大きな喜び」と語りかけられ、そこで、自分がそれまで拘っていた喜びや恐れが案外にちっぽけな安っぽい、コロコロと移り変わってゆくあまりに不確かな喜びや恐れだったじゃないかと突きつけられた者たちです。例えば1人の小さな人はつぶやきます、「私には価値がない。なんの取り柄もなく、特別何かの役に立つというわけでもなく、目を引くような長所もない」と。淋しい一人の人は言います、「ほかの人が何を考えているのか、さっぱり分からない。私の思いを誰も分かってくれない。誰も私のそばにいてくれず、支えてくれず、私は独りぼっちだ」と。貧しい一人の人は言います、「私は嫌われてしまいそうだ。居場所をなくし、みんなから見捨てられるかもしれない。それが恐ろしくて仕方がない私だ。うわべを必死に取り繕い、愛想笑いを浮かべ、自分を隠してビクビクして生きている」と。上がったり下がったりし、満足したり不満に思ったり、安心したり心配になったり、一喜一憂しつづけてきた私たちです。「恐れることにないあなたとしてあげよう。自分が恐れないばかりか、他の誰をも恐れさせたり、恥じ入らせることのない晴れ晴れとしたあなたとしてあげよう」「自由な、広々とした世界に連れだしてあげよう」「朽ちることのない、虫に食われたり、泥棒に盗まれたり、しぼんだりしない平和と喜びとを与えよう」と告げられて、その招きに応えて生きることをし始めた者たちです。差し出されつづけてきた、その招きの声を腹に収め、差し出されつづけていた神さまの御手を握り返す者たちがいます。「どうぞよろしくお願いします」と。そのようにして、世界中のあちらこちらで、1人また1人と、クリスチャンが生み出されていきます。新しくクリスチャンとして生きることをしはじめようとするその人をご覧ください。彼は、いったい何者でしょうか。『誰でも自由に来てみてください』と招かれ、その招きを受け取った人です。誰であれ、どんな職業の、どこに住んで何をしている人であっても、救い主を受け入れることができるほどに低い心の持ち主なら、あなたもぜひと招かれ、なにかの条件や資格が必要なのでもなく、体裁を取り繕うこともいらず、そのままで来なさいと招かれ、「はい。どうぞよろしくお願いいたします」と、ワクワクしながら、喜び勇んでその手を握り返した人です。その人の、その願いはかないます。神さまが、その人のためにも成し遂げてくださるからです。
  天使たちは言いました、12節、「あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と。それがあなたがたのための救い主であり、幸いな暮らしのためのしるしだというのです。今日は、この1人の赤ちゃんについて思い巡らせるための日です。御使いたちとともに天の軍勢が神を讚美して歌います。14節、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。他の何よりも高いところで、神に栄光がある。そのことと、地上の私たちが毎日の生活を生きるこの世界に平和があること。それは1つの出来事です。世界のすべてをお造りになった神にこそ信頼が寄せられ、神さまこそがほめたたえられ讚美され、神の御心にかなってぜひ生きていきたいと願う者たちが一人また一人と起こされてゆく。やがてこの赤ちゃんが、救い主イエス・キリストが、弟子たちにどのように神に祈るのか、どのように毎日を暮らしてゆくことができるのかを教えました。救い主イエスがおっしゃいました。こう祈りなさい、「天におられます父なる神さま。願い求めます。あなたの御名をあがめさせてください。あなたの国をこの地上に来らせてください。あなたの御心にかなうことが天の高いところで成し遂げられるばかりではなく、この地上に、世界中に、私たちが生きる毎日の暮らしの只中にさえも着々と成し遂げられてゆきますように。この私自身も、自分や他誰彼の考えや思いに従ってではなく、ただただ神さまの御心に聞き従って生きることができますように」(「主の祈り」前半3つの願い。ルカ福音書11:1-4参照)。だからこそ、そこで生み出されていく喜びはほんの何人かのものたちだけの喜びではなく、分け合ったり、手渡されたり、差し出されたりしつづけて、多くのものたちのための大きな喜びとされてゆきます。だからこそ、その喜びの知らせは恐れつづけて生きてきたもっとも貧しい心細い者たちに、羊たちを守って暮らす羊飼いたちに真っ先に告げ知らされました。そこから、大きな喜びの知らせが告げ知らされつづけ、末広がりに広がってゆくように。なぜなら、強がって見せても、誰もがみな心細く暮らしているからです。互いに恐れたり恐れさせたり、恥じたり恥じ入らせたりしつづけて暮らしているからです。恐れない私たちとされ、何者をも恐れることなく、誰かを恐れさせることもなく、互いを喜び合って心安く生きる私たちとならせたいからです。それが、神さまご自身の願いです。

             ◇

 20節です。見聞きしたことがすべて語られたとおりだったので、あの彼らは神をあがめ、讃美しながら帰っていきました。帰っていった。どこへでしょう。自分の家へです。自分のいつものあの働き場所へ。一緒に生きるべき人々の所へと。つまり、あの羊たちの所へ。「なんだ。帰ってしまったのか」と馬鹿にしてはいけません。見くびってはなりません。帰っていったそれぞれの場所で、そこで、いよいよ神をたたえて生きるための悪戦苦闘がはじまります。ただお独りの主に仕えて生きるための、月曜から土曜日までの働きが。ゆるされがたい多くの背きをゆるされ、受け入れがたいふつつかさを、身勝手さやかたくなさを、けれどなお受け入れていただいた私たちです。それで、だからこそ、こんな私たちさえここにいます。貧しさもいたらなさも、それはお互い様でした。貧しく至らない者同士です。確かに。また、だからこそ恵みとゆるしのもとにある平和を積み上げ、築き上げていくための悪戦苦闘が、今日ここから、いよいよ始まっていきます。私たちも、安心して神さまに向かって呼ばわります。「助けてください。どうか支えてください」と。一緒に生きるあの小さな羊たちと共にです。神様に向けて「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」と感謝や願いを噛みしめます。あの大切な羊たちと共に。
 山や谷を巡り歩く旅路は、まだなお続きます。ここで忘れてはならないことは、この旅路は主が群れの先頭を進み、しんがりをまもって共に歩んでくださる旅路であるということです。「主は羊飼いとしてその群れを養い、その腕に子羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(イザヤ書40:11,52:12参照)





12/16こども説教「金や銀はないが」使徒行伝3:1-10


 12/16 こども説教 使徒行伝 3:1-10
 『金や銀はないが』

     3:1 さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、2 生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。3 彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。4 ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5 彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、6 ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。7 こう言って彼の右手を取って起してやると、・・・・・・9 民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、10 これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。(使徒行伝 3:1-10


主イエスの弟子たちが祈るために神殿に入ろうとしました。すると、神殿の入口のところに足の不自由な男が抱えられてきました。彼は毎日そこに運んできてもらって、入口に置かれ、出入りする人たちからお金や食べ物を恵んでもらって、それで生活していました。彼は主イエスの弟子たちにも、「何か食べるものやお金を恵んでくれませんか」と声をかけました。弟子たちは答えました、4-6節です。「わたしたちを見なさい。金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。金や銀はないけれどというのは、それだけでなく、このかわいそうな人を助けてあげられるような、何か役に立つ良いものをほとんど何ももっていないということです。
けれど主イエスの弟子たちは、お金や食べ物などよりも千倍も万倍も役に立つ、その人を本当に助けて支えてくれる、飛びっきりの格別に良いものを持っています。主イエスの弟子であるなら誰でももっていて、もちろん私たちもその同じものを持っています。だからこそ、「私たちを見なさい」と語りかけたのです。「しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。救い主イエスを信じる信仰です。その信仰によって立ち上がったり、歩いたり、毎日を暮らしていったりすることです。それで、あなたも立ち上がれるし、歩くことさえできる。この私たち自身も そうやって立ち上がらせていただいた。歩きまわったり、毎日を暮らしたりしている。それは、とても心強い。それはとても嬉しくて安心。それは元気や力や生きる勇気も湧いてきて、とても晴れ晴れしている。「もし良かったら、あなたもどうぞ」と差し出しました。