12/16 こども説教 使徒行伝 3:1-10
『金や銀はないが』
3:1 さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、2 生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。3 彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。4 ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5 彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、6 ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。7 こう言って彼の右手を取って起してやると、・・・・・・9 民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、10 これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。(使徒行伝
3:1-10)
主イエスの弟子たちが祈るために神殿に入ろうとしました。すると、神殿の入口のところに足の不自由な男が抱えられてきました。彼は毎日そこに運んできてもらって、入口に置かれ、出入りする人たちからお金や食べ物を恵んでもらって、それで生活していました。彼は主イエスの弟子たちにも、「何か食べるものやお金を恵んでくれませんか」と声をかけました。弟子たちは答えました、4-6節です。「わたしたちを見なさい。金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。金や銀はないけれどというのは、それだけでなく、このかわいそうな人を助けてあげられるような、何か役に立つ良いものをほとんど何ももっていないということです。
けれど主イエスの弟子たちは、お金や食べ物などよりも千倍も万倍も役に立つ、その人を本当に助けて支えてくれる、飛びっきりの格別に良いものを持っています。主イエスの弟子であるなら誰でももっていて、もちろん私たちもその同じものを持っています。だからこそ、「私たちを見なさい」と語りかけたのです。「しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。救い主イエスを信じる信仰です。その信仰によって立ち上がったり、歩いたり、毎日を暮らしていったりすることです。それで、あなたも立ち上がれるし、歩くことさえできる。この私たち自身も! そうやって立ち上がらせていただいた。歩きまわったり、毎日を暮らしたりしている。それは、とても心強い。それはとても嬉しくて安心。それは元気や力や生きる勇気も湧いてきて、とても晴れ晴れしている。「もし良かったら、あなたもどうぞ」と差し出しました。