みことば/2018,12,2(待降節第1主日の礼拝) № 191
◎礼拝説教 ルカ福音書 1:57-66 日本キリスト教会 上田教会
『ザカリヤから神への讃歌』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
1:57 さてエリサベツは月が満ちて、男の子を産んだ。58 近所の人々や親族は、主が大きなあわれみを彼女におかけになったことを聞いて、共どもに喜んだ。59 八日目になったので、幼な子に割礼をするために人々がきて、父の名にちなんでザカリヤという名にしようとした。60 ところが、母親は、「いいえ、ヨハネという名にしなくてはいけません」と言った。61 人々は、「あなたの親族の中には、そういう名のついた者は、ひとりもいません」と彼女に言った。62 そして父親に、どんな名にしたいのですかと、合図で尋ねた。63 ザカリヤは書板を持ってこさせて、それに「その名はヨハネ」と書いたので、みんなの者は不思議に思った。64 すると、立ちどころにザカリヤの口が開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえた。65 近所の人々はみな恐れをいだき、またユダヤの山里の至るところに、これらの事がことごとく語り伝えられたので、66 聞く者たちは皆それを心に留めて、「この子は、いったい、どんな者になるだろう」と語り合った。主のみ手が彼と共にあった。 (ルカ福音書 1:57-66)
ザカリヤとエリサベツという一組の年寄り夫婦に、一人の赤ちゃんが生まれました。長いあいだ願っていた彼らの祈りがようやく聞き届けられました。祭司であるザカリヤが神殿で主に仕える務めを行っていたとき、御使いが彼の前に現れてその赤ちゃんの誕生を告げ知らせました。ザカリヤは、けれど信じることができませんでした。「わたしも妻ももうすっかり年老いて、じいさんばあさんになってしまった。そんなことがあるはずがない」(1:18参照)と。ザカリヤは口が利けなくなり、ときがくるまで話すことができなくされました。それは罰ではありません。そうではなく、本当に語るべきことを語り始めるためのとても大切な準備期間だったのです。
さて、57節以下。妻エリサベツは男の子を産みました。皆が喜び祝いました。御使いをとおして神ご自身から命じられていた通りに(1:13参照)、赤ちゃんの名前をヨハネと名づけました。夫ザカリヤは口が開き舌がほどけて、神さまを讃美しはじめました。これらひとつながりの出来事の本質は、「主が大きな憐れみをかけてくださった」ことであり、「主の憐れみが及んだ」(50,58節)ことの結果です。ザカリヤ・エリサベツ夫婦に起こった出来事も、アブラハム・サラ夫婦に起こった出来事も、マリアとヨセフに起こった出来事も、預言者サムエルの母ハンナに起こった出来事も、神の民イスラエルに対して起こった神さまの恵みの出来事も、皆同じ、ひとつづきの恵みの出来事でありつづけます。それは「主が大きな憐れみをかけてくださった」ことであり、「主の憐れみが及んだ」ことの結果です。では、ここにいるこの私たちに対しては、この同じ主なる神さまはどうなさるでしょう。あなたや私に対しては、これまで主は何をどうなさってきたでしょう。これからは? すでに私たちは知らされています。『こんな私に対してさえも、同じ主が同じ一つの憐れみを及ぼしてくださる』と。ならば私たちは願い求めましょう。どうぞぜひ、そうしてくださいと。
57節。「月が満ちて」男の子を産んだことと「主が大きな憐れみをかけてくださり、その憐れみがその人々のところに届けられて」男の子を産んだこととは、どんな関係があるのでしょうか。ただ10月10日たって、それで、ということではありません。それをはるかに高く越えています。月を満ちさせるのは、自然科学の法則などではありません。本人の気構えや努力や決断でもありません。「じゃあ、▼月○日ころにしましょうか」という産婦人科医の都合やスケジュール次第なのでもありません。私たちは度々すっかり忘れてしまっていますけれど、ときを定め、備え、満ちさせ、成し遂げるのは、他の何者でもなく! 主なる神さまご自身でありつづけます(マルコ1:15,伝道の書3:1-17)。主の慈しみは、例えばカラのコップに水が満ちるように満ちるでしょう。主の力もまた、そのように一人の人に及びます。ザカリヤはこのことが起こる日まで口が利けなくされました(1:18-20)。妻エリサベツも身を隠しました(1:24)。それは、主の慈しみが彼らのコップに満ちるための準備期間でした。ある者にとっては10月10日。ある者のためには半年、数年、40年50年あるいはもっと準備のときが必要な場合もあるでしょう。恵みの水を注がれた途端に、ただちに満ちて勢いよく溢れ出す者もあるかも知れません。もちろん、あなたも私もコップを一つずつ持っています。『主への感謝』という名前のコップを。『主への信頼』という名前のコップを。そこに、主の慈しみと力が注がれつづけます。やがてコップの縁にまで満ちて、その人は驚きと喜びにあふれて口を開きます。「主は今こそ、こんな私にさえも目を留めてくださった。ああ本当に」(1:25,48,創世記8:1,16:13)と。
先々週の箇所1:46-55では、『マリヤが神さまに感謝し、神さまに信頼し、神さまをほめたたえる歌』をご一緒に読み味わいました。「ああマリアさま仏さま弁天さま」などと、どんなに立派に素敵に見えたとしても、人間にすぎないものを好き勝手にほめたたえたり祭り上げたりしてはいけません。「先生先生、社長」などと互いにゴマをすったり、くすぐったりしあっている暇はありません。たかだか生身の人間にすぎない私たちなど恐れるに足りず、信頼し依り頼むにはなお全然まったく足りないからです。畏れたり拝んだり、それに向かって崇めたりひれ伏していい相手は、ただただ神さまだけ。しかも、私たちにゆるされた残り時間が案外に少ないからです。いよいよ本気になって目を覚ますのでなければ手遅れになってしまいます。
神さまは、この私たちをどのように取り扱ってくださるでしょう。憐れむ神であり、憐れみを受けた人々です。ザカリヤは主なる神さまとイスラエルとの関係をどうやって理解したでしょう? マリヤは? あなた自身は、どうやって、何によって知りましたか。難しい本を難しい顔して山ほど読んでも、くわしく調べても、あまりよく分かりません。偉い大先生がていねいに熱心に教えてくださっても、それだけでは、さっぱり分かりません。鏡を見てください。あなたのための飛びっきりの良い先生がそこにいます。鏡を見るようにして自分自身をつくづくと振り返り、『神さまがこの私に何をしてくださっただろうか。神さまの御前に、私はいったい何者だろうか』と問いかけてみましょう。――その答えを自分自身のこととして知った者だけが、神さまが人々や神の民イスラエルをどう取り扱うのかを知りました。憐れみを受け取って、「ええっ? 本当にいいんですか。ありがとうありがとうありがとう」と驚いて、身を屈めた人々だけが『憐れむ神であり、憐れみを受けた私たちだ。ああ本当に』(ペトロ手紙(1)2:10,ローマ手紙11:32)と知りました。他には、どんな知り方もありえません。だからこそ、信仰の事柄のすべて一切がただ神の憐れみから成っていることを、しかも恵みに値しない罪人のための憐れみでありつづけることをよくよく理解し、受け取ることこそが、他の何にもまして難しかったのです。
生まれたその赤ちゃんをヨハネと名づけなさい、と命じられていました。命じられたとおりに、名付けました(1:13,60,63)。名前には意味があり、大切な願いが込められます。ヨハネという名前は、《主は恵み深い》という意味です。神さまからの恵み、贈り物、憐れみという意味です。その一人の人が地上に生命を受けて生きることも、その人そのものも、神の恵みであり、神からの贈り物であるということです。だからこそ私たちは待ち望み、夢をみます。例えばもし、愚かな一人の人が、他の誰彼の賢さをうらやむのでなく、周囲の人々の人間的な賢さに聞き従い、あちらへフラフラこちらへフラフラと引き回されつづけてゆくのではなく、神の賢さにこそ信頼し、神にこそ願い求めて、安らぎと確かさを受け取ることができるならば。もし、貧しく身を屈めさせられた一人の人が、ほかの誰彼の豊かさや力強さに圧倒されるのを止め、「人様が私をどう思うだろう。人さまや世間さまからどう見られるだろうか」と夜も眠れずクヨクヨクヨクヨ気に病みつづけることを止めて、「なぜなら彼らも私もたかだか人間にすぎず、恐れるに足りず、信頼するにはなおまったく足りない」と、心を神ご自身へと向け返すならば。なにしろ神の豊かさと力強さに信頼し、その神さまがこんな私のためにさえ、ご自身の豊かさと力強さを発揮してくださることを願い求め、そのあわれみと慈しみとに一途に目をこらして生きようと腹をくくるならば。だって、この私たち一人一人も、せっかく神さまをこそ信じて生きることをしはじめたのですから。
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来週読み味わうザカリヤからの讃歌67-80節の中の一部分ですが、74節。「敵の手から救われ、恐れなく主に仕える」。私たちはここで、あのザカリヤにとっての『敵、恐れ、罪の現実』を知らねばなりません。また同時に、私たち自身にとっての『敵、恐れ、罪の現実』を。あの彼にとっては、それは『年老いること』であり、自分自身の能力の限界や衰えであり、この世的・人間的な現実にすっかり心を奪われ、惑わされて神さまの現実を見失ってしまうことでした。様々な思い煩いと悩みがあり、そのあまりに神を思う暇がほんの少しもなくなってしまうこと(マタイ福音書16:23)。人様や世間様のことばかりを気に病み、人を恐れて臆病になる。欲望や恐れのとりこにされてしまう。この国の伝統的な言葉で言うなら煩悩、業、サガ。聖書自身は、「自分の腹の思いを神として、それの言いなりにされてしまうこと」(ローマ手紙16:18,ピリピ手紙3:19参照)と。それこそが、いつものサタンの誘惑でありつづけます。そこから救い出され、自由にされて、主に仕える。主こそに仕えて生きる中で、そうしたさまざまな恐れや思い煩いから自由にされてゆく。
『主に仕える』;その第一の意味は、礼拝です。第二には、礼拝から遣わされてそれぞれの生活の場で、主のものとして生きること。主に仕え、主にこそ従って生きる私である。この一つの眼差しと腹の据え方こそが、私たちを様々な恐れから自由にさせ、乗り越えさえ、それぞれの敵の手から救い出させます。恐れないためにこそ、他の何者をも主人とせず、私たちは主にこそ仕えるのです。例えば、「口下手だ。人様の前で心臓がドキドキバクバクして何をどう話していいか分からなくなり、縮み上がってしまう」と恐れたモーセは、「だれが人間に口と舌を与えたか。主である私ではないか。あなたが語るべきことを、わたし自身が教える」と励まされて、「ああ、そうなのかなあ」と説得され、そこでようやく主に仕える者とされました。例えば、「青二才で若造にすぎません。人生経験にも知恵にも欠けています」と世間様を恐れた預言者エレミヤは、その未熟とふつつかさをよくよく知られた上で主に仕える者とされました(出エジプト記4:11-,エレミヤ1:7-,ヨハネ福音書21:15-,ルカ福音書22:31-)。お分かりでしょうか。少なくとも、一人のクリスチャンとして生きていこうと腹をくくる者たちにとっては、これこそが『いろはのイ』です。「私が私が」と自己中心の腹の思いに仕え、「人様、世間様になんと思われるか」とソワソワキョロキョロし、人々の思惑や評価を主人とし、その奴隷に成り下がってしまいそうな私たちだから、こんな私こそは主に仕えましょう。主の御前に身を屈め、目を凝らして仰ぎ見ましょう。「いいえ! 名前はヨハネ」と、妻エリサベツは言い張りました。親戚の頑固なおじさんオバサンがいくら渋い顔をしても、二人は引き下がりません。職場の上司が「まあまあ、そういわずに」と執り成しても。融通が利かなすぎますか。分からず屋で了見が狭すぎますか。そうではありません。60節、「いいえ。ヨハネとしなければなりません」。「~としなければならない」;それは神ご自身の決定であり、それに対する二人の同意であり、膝を屈めての屈服なのです。親類や隣近所にそういう名前があってもなくても、前例やしきたり・慣習に反しているとしても、皆の好みに適っていてもそうでなくても。なにしろ主なる神さまが「~しなさい」とお命じになっている。だから私たちは、それをする。「~してはいけない」と神さまから禁じられるなら、したくてしたくてウズウズしても、たとえ皆が大賛成で「しよう。しよう」と勧めても、私たちはしません。誰も二人の主人をもつことはできないからです。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかだからです(ルカ福音書16:13)。神さまをこそ自分の大切な主人とすると腹をくくっているからです。だからこそ! ここはキリストの教会です。私たちはクリスチャンです。月曜から土曜までなすべきことが山ほどあり、家族に仕え、職場でたくさんの事柄に取り組まねばならないとしても、それならなおさら主にこそ一途に仕えましょう。主に仕え、主にこそ信頼して聞き従おうとする思いと腹の据え方をもってでなければ、それらの難しい課題をちゃんと十分に取り扱うことができないからです。どこで誰と一緒のときにも何をしていても、何もしていなくたって、「神さま助けてください。支えてください」と呼ばわりながら主に仕えましょう。「ありがとうございます」と喜びと感謝を魂に刻むことをもって、主に仕えましょう。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主に仕えなさい(申命記6:5参照)。