2019年2月19日火曜日

2/17「権力と栄華を」ルカ4:5-8,申命記8:17-18

                      みことば/2019,2,17(主日礼拝)  202
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:5-8,申命記 8:17-18     日本キリスト教会 上田教会
『権力と栄華を』
~荒野の誘惑.2~


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


4:5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。(ルカ福音書 4:5-8)

8:17 あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。18 あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。(申命記 8:17-18)


 救い主イエスが荒野で悪魔から受けた2つ目の誘惑です。悪魔は、世界の国々を見せて、こう誘います。6-7節、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」と。この世界には、さまざまな種類の権力と繁栄とがあります。とても大きな権力や驚き呆れるほどの贅沢で華やかな繁栄があり、また、ささやかで小さな小さな権力と繁栄もあるでしょうね。一国の大統領や王様が握るような巨大な権力や繁栄があります。また、ごくささやかな権力と繁栄があります。どんなに小規模な集団やサークルの中にもボスがおり、小さな子供たちの世界にも、例えば保育所や幼稚園の子供たちの中でさえ、彼らなりの彼らのためのこじんまりとした、ささやかで小さな権力と繁栄があります。驚くべきことです。私たちはこうして権力と繁栄を望む世界の只中に生きており、そういう意識は、職場にも、一軒の家の中にも、そしてキリストの教会の現実的な営みの中にも忍び込んできます。さまざまな豊かさがあり、美しいものがあり、多くの楽しみや喜びをここで受け取ることもできました。その一方で、私たちのこの世界には罪と悲惨もあり、片隅へ片隅へと押しのけられて惨めさや心細さを噛みしめる小さな人々も沢山いるのです。悪魔の眼差しは、けれども、この世界が背負っている罪深さや悲惨さには向けられません。目に入らないのかも知れません。見て見ぬふりをしているのかも知れません。
 けれど、兄弟姉妹たち。この世界の権力と繁栄とは悪魔に任されているのでしょうか。本当に? もしそうであるならば、私たちは、この世界で豊かさや喜びを手にしようとするなら、よい評判や地位をえたいと願うならば、悪魔に魂を売らなければならないことになります。あるいは妥協して、ほんの少しは、悪魔やほかの様々なものを拝むことや、ひれ伏して誰かの言いなりにされたり、人の顔色をうかがってビクビクすることも、仕方がないと我慢しなければならないですね。そうでしょうか? いいえ、決してそうではありません。なぜなら私たちの救い主は、世界とこの私たちの罪を取り除くために来られました(マタイ福音書1:21。このお独りの方は、やがて私たちをご自分のものとし、私たちの主となってくださいました。けれど、悪魔にひれ伏し拝むことによってではなく、十字架の苦しみと死をもって、死から新しい生命に復活することによって、悪魔の支配を退け、打ち倒してです。だからこそ、キリストの教会よ。主イエスの弟子たちよ。ここにも他のどこでも、小さな親分たちや小さな小さな子分たちを作ってはいけません。誰も、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶったりいじけたり、恥じたり恥じ入らせたりしてはなりません。そうそうもちろん、あなたは今ではとても優れているし、とても強くて大きい。なかなか賢い。いろんなことを習い覚えて、たくさんのことを知っています。けれど、あなたをほかの者たちよりも優れた者としたのは誰です。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もし、神さまからいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして、高ぶったりいじけたりできるのですか(コリント手紙(1)4:6-。「そっちは上座。下々の者はこっち」という一見へりくだっているように聞こえる言い方に、その都度その都度目くじらを立ててきました。それは、とても悪い考え方だからです。ただ単に座席やイスを格付けするだけではなく、人間そのものを互いに格付けし、値踏みしあっています。「ご立派な上等の者たち。中くらいの者。レベルも格式も低い下々の者たち」というふうに、たかだか人間にすぎない者たち同士で互いに見上げたり見下げたりするのは愚かなだけでなく、あまりに俗っぽくて生臭いだけではなく、なにしろ主イエスの福音に背いています。私たちの主は「仕えられるためではなく仕えるために来た」「誰でも偉くなりたい者は皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は皆のしもべになりなさい」とおっしゃったではありませんか。「自分を低くして、この子供のようになる人が天の国でいちばん偉い。このような一人の子供を受け入れる者は私を受け入れている」とおっしゃったではありませんか。「よく聞きなさい。心を入れ替えて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできない」とおっしゃったではありませんか(マタイ福音書20:26-,18:3-と。例えば牧師や長老や執事は、任職式の際に、「(他の誰でもなく)主イエスこそがこの務めに召してくださった」と確信するのかと問い、彼らは「はい」と答えました。だから、他の誰のためでもなく誰の考えや意見に従ってでもなく、ただただ主イエスの御心にかなう歩みをしようと腹を据えました。もちろんそれは具体的ないつもの一つ一つの判断です。例えば、「うちの教会の牧師がこう言う。それで私たちは」。それはとんでもない大間違いです。「教会員の皆がこう言う。だから私は」。それも間違っています。たとえ牧師や長老が「こうだ。こうやりたい」と強く主張しても、熱心に勧めても、それが主の御心にかなうことなら従う。もし御心にかなわないと分かったならば、決して従ってはなりません。皆が「こうだ。こうしたい」と言っても、それが主の御心にかなうなら従う。かなわないなら、「いいえ。違います」とたとえたった一人でも反対しましょう。誰も皆、生身の人間にすぎないからです。御心にかなう正しいことを言うときもあれば、はなはだしく主に背く悪いことを心に思うこともあります。もちろん。だから自分や誰彼がぜひしたいと思っても、主の御心にかなわないなら、それをしてはいけない。気が進まなくても渋々嫌々でも、それが御心にかなったことなら、それをすべきです。難しいことですし、苦しいことです。でも、ぜひそうありたいと願い求めて生きる価値がある。執事や牧師や長老の腹の据え方であるだけでなく、これは一個のクリスチャンの腹の据え方です。教会の中だけでなく、家に居ても学校にいても職場でも。『主の祈り』に含まれる六つの願いのうち最初の三つは神さまご自身についての願い、残りの三つは私たち自身について。その最初の三つの願いが私たちの腹の据え方を方向づけます。なにしろ、「私が願うことでなく、他の誰彼の希望や願いどおりではなく、むしろただ天の父の御心こそがこの地上になされますように。私の国ではなく、他の誰彼の国でもなく、天の父の御国こそが来ますように」と願い求めている私たちですから。なにしろ、「私が尊敬されたりあがめられるのでなく、他の誰彼が誉めたたえられるのでもなく、天の父の御名をこそあがめ、そこに信頼と感謝を寄せる私たちであらせてください」と願う私たちだったはずです。地上のボスや目の前の主人の言いなりにされるとき、強い者や大勢の声に押し流されてゆくとき、「天に主人がおられる」ことは片隅に押しのけられています。「二人また三人が集まるとき、私もその中にいる」という主の約束は踏みつけにされています(コロサイ手紙4:1, マタイ18:20)
 それぞれの、荒野の旅を思い起こしましょう。荒野を旅するように生きてきた日々を。悩みの蛇に咬まれたり、トゲに刺されたりしながら(民数記21:4-9,コリント手紙(2)12:7-11参照)、たびたび飢え渇きました。乏しさに悩みました。さまざまな恐れに捕われました。私たちは、それぞれに豊かさを願い、喜びやよい評判や地位の向上を求めました。そのために努力もしてきました。数的・物質的な成長や拡大をも私たちは願います。もちろん、それは願っても良いし、求めてもいいのです。それでも、それら一切は悪魔の手にゆだねられているのではありません。私たちの働きと努力いかんに掛かっているのでもありません。どこかのご立派そうな誰かの手に握られているのでもなく、主イエスご自身こそがその手に握っていてくださる。ですから私たちは、悪魔や力を持つ様々なものにひれ伏し、頼みとするのでもなく、「自分次第。最後の最後は、結局はやっぱり自分が頼りだ」というのでもなく、主にこそひれ伏し、主イエスご自身を頼みとします。主への信頼と従順をもってこそ、私たちの幸いを願い求めます。こう書かれているからです;「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる」(マタイ福音書6:33。ほか一切は添えて与えられる。皿の上の肉やハンバーグの脇に添えてある人参やポテトフライのように。焼き魚の脇に添えてある大根おろしのようにです。なにしろ私たちの天の御父は、これらのものが皆私たちに必要なことをよくよく知っていてくださり、ぜひ与えたいと願い、備えていてくださるのですから。
 例えば子供たちは、今の社会がとても不安定な危うい土台の上に築かれていることを見て取って、それで、がむしゃらに必死に受験勉強に励んでいるでしょうか。学歴や成績の優秀さやさまざまな能力、特技、取り柄こそが自分を最後のところで支えてくれることを期待して、それで、不安に思いながら恐れながら、励んでいるのでしょうか。例えば年老いたものたちは、だんだんと目がかすみ、足腰が弱り、体力が衰えてゆくことを嘆き恐れているでしょうか。体の弱い人々は、「よい医者とよい薬さえあれば」と見回しているでしょうか。あるいは私たち自身は? 実は、同じ一つのことが問われています。私たちは、いったい何を支えとして、なにを頼みの綱として、日々を心強く生きることが出来るだろうか。何があれば十分だろうか、と。

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 今日ご一緒に読んだもう一つの箇所は、申命記8:17-18でした。「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである」。神さまが私たちを守っていてくださることも心強く支えてくださることも、それらはごく簡単に、当たり前のようになってしまいます。『喉もと過ぐれば熱さを忘るる』と昔の人は言いました。辛かったことや苦しかったことをすぐに忘れてしまうだけではなく、喜びも感謝も驚きも、私たちはすぐに簡単に忘れてしまうのです。申命記8:17、「自分の力と手の働きでこの富を築いた、などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」。そして同じ8:10、「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」。この戒めの言葉は、聖書の信仰に生きる人々のお茶の間の食卓テーブルの祈りとされました。私たちも、これを自分の家の茶の間のいつもの食卓テーブルに置きたいのです。冷蔵庫のドアにも貼っておきたいのです。十分な食事をして満ち足りたときに、主を思いたい。お茶を飲んで、暖かい家でくつろいでいるときに主を思いたい。毎月の給料がいつも通りに通帳に振り込まれているのを見たとき、そこで主を思いたい。家族がいつものように平穏に安心して暮らしているのを眺めて、そこで、主なる神さまを思いたい。
 だからこそ、主イエスはおっしゃいました;「あなたの神である主を拝み、ただ主にこそ仕えよ」(ルカ福音書4:8,申命記6:13,10:20)。拝むことも仕えることも、それは第一に礼拝を意味します。なにをおいても、その一回の礼拝です。しかも、拝むことは『それに必要なだけ十分に信頼を寄せ、よくよく聞き従い、それをこそ頼みの綱とする』ことです。主に仕えることも、主を拝むことも、一回の祈りから始まり、一回の礼拝から、ここから始まります。主に仕え、主を頼みの綱とする生活は月曜日から土曜日まで、自由に、のびやかに広がってゆくでしょう。いつでも、誰と一緒のときにも、どこで何をしているときにも何もしていなくたって、そこでそのようにして主に仕えている私たちです。見なさい。あなたには天に主人がおられるのです(コロサイ手紙3:22-。こう祈り求めましょう。「主よ、どうか私たちの手の働きを確かなものとしてください」(90:17)。私たちの手の働き。あなたはどんな手を持っていますか。私たちの手が大きくても小さくても、強くても弱くても、私たちが賢くても愚かであっても、忍耐深くても疲れやすくても。それでも何しろ、主なる神さまこそが確かなものとしてくださって、主ご自身が喜ばしく用いてくださるならば。なにしろ、ただ主の恵みと真実さによってこそ、私たちを持ち運んでいってくださるならば。ぜひ、そうであっていただきたいのです。しかも、必ずきっとそうしてくださる、と私たちも確信しているからです。

         

2019年2月12日火曜日

2/10こども説教「留置場の戸が開かれる」使徒5:12-20


2/10 こども説教 使徒行伝5:12-20
 『留置場の戸が開かれる』

     5:12 そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた。そして、一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた。13 ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。14 しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた。15 ついには、病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、そのうちのだれかにかかるようにしたほどであった。16 またエルサレム附近の町々からも、大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まってきたが、その全部の者が、ひとり残らずいやされた。17 そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ちあがり、18 使徒たちに手をかけて捕え、公共の留置場に入れた。19 ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、20 「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。          (使徒行伝 5:12-20


  神さまを信じて生きていても、それでもやっぱり苦しいことや困ったことは次々に起こります。けれども、助けや支えがきっと必ず神さまのもとから送られてきます。あの彼らもそうでした。私たちも同じです。ムチで打たれたり、脅かされたり、ひどく殴られたり蹴られたり、牢獄に閉じ込められたりもします。それでも大丈夫。なんの心配もありません。このことをよく知っている必要があるので、この5章と12:1-1116:23-34と、合わせて3回、牢獄の戸が神さまの力で開かれたことが報告されています。5章と12章は弟子たちを助け出すために、16章は牢獄の看守とその家族をクリスチャンにしてあげて、神を信じて生きる新しい人生へと招き入れてあげるためにです。そのことは、いつか別のときに話しましょう。もちろん、あなたにも私にもものすごく困ることが起きますよ。次から次へと。けれど、どんな苦しみや悩みや困ったことが起きた時にも、助けが神さまから来ると信じることのできる人たちはとても幸いです。恐ることなく、どこへでも安心して出て行って、神さまに仕えて晴れ晴れと生きることができるからです。

  【補足/神さまに信頼すること】
   信仰問答は語ります、「神を敬う、正しいあり方はどういうものですか?」全信頼を神におくこと、その御意志に服従して、神に仕えまつること、どんな困窮の中でも神に呼ばわって、救いとすべての幸いを神の中に求めること。そして、すべての幸いはただ神から出ることを、心でも口でも認めることです(「ジュネーブ信仰問答」 問7 1541年)。


2/10「石をパンに変えてみせろ」ルカ4:1-13


                       みことば/2019,2,10(主日礼拝)  201
◎礼拝説教 ルカ福音書 4:1-4                        日本キリスト教会 上田教会
『石をパンに変えてみせろ』
                          荒野の誘惑. 1

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

4:1 さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、2 荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。3 そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。9 それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。10 『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、11 また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。12 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。13 悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。     (ルカ福音書 4:1-13)

 ヨルダン川で洗礼を受けた後、救い主イエスは荒れ野を4040夜さまよい歩き、そこでサタンから誘惑をお受けになりました。三つの誘惑ですから、それらを三回に分けて大事に読み味わっていきます。今日は、その第一回目。主イエスに対して、「あなたは私の愛する子、わたしの心にかなう者である」(3:22)と、まず父なる神ご自身からの証言が鳴り響きました。つづいて直ちに、それをあざ笑うかのように悪魔が問いかけます;「もし、あなたが神の子であるなら」(3,9)と。このとき、そこには悪魔と主イエスしかいませんでした。悪魔と主イエスしか、この出来事を知りません。それなのに、こんなにていねいに報告されているのは、主イエスご自身が「あのとき、まず彼はこう言って、すると私は」などと弟子たちに直々に伝えてくださったからです。あの弟子たちと、そして私たちのために。
  ところで、あなたは神さまを信じているのですか? かなり本気で信じているんですか。それとも、だいたいなんとなく。アレコレといくつか信じたり信頼を寄せているモノがあり、その中で、その何番目くらいで? ――こんなことを言われて腹が立つかも知れません。勘弁してください。けれど、「この私は神様に信頼している。けれどそれは何番目くらいにだろうか」と、つくづく思いめぐらせてみましょう。きびしい試練や悩みにさらされる日々には特に、そうする価値があります。もし、『神がおられます。心の中にあるだけでなく、そのお方が生きて働いていてくださる』と知るならば、同時に私たちは、『悪魔もまた在る。心の中で漠然と思い描いたり想像するだけでなく、現実に、悪魔もまた生きて働いている』と認めないわけにはいかないでしょう。悪魔を絵空事とし、単なる想像上の産物としてしまうなら、同時にまったく、あなたは神さまご自身をも絵空事としてしまうでしょう。悪魔は在ります。決してあなどってはなりません。あの彼はとてもずる賢く、手強いのです。やがて間もなく、あなたが悪魔の策略の中にもてあそばれ、手厳しく誘惑を受けるときが来ます。しかも何度も繰り返して。もしかしたら、もう何年も何年も、ずっとそうなのかも知れません。そのとき、「なぜ、選りにも選ってこの私に」と意外なことのように驚いてはなりません。救い主イエスご自身が誘惑を受けたのです。主に従って日々を生きる私たちも、また悪魔の誘惑にさらされます。恐るべき悪魔のワナと悪だくみにからめとられそうになります。嵐の日々がすぐ目の前に迫ってきているからです。強い風が吹き渡り、川の水があふれて、あなたの家に今にも押し寄せようとしています。本当のことですよ。だからこそ、「目を覚ましていなさい。目覚めているためにこそ、必死に一途に祈れ。あなたの体も心も弱いのだから。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、あなたは神の武具を身に着けなさい」と命じられます(マタイ26:41,ルカ22:31,エペソ手紙6:11-,ヤコブ手紙4:7
  さて、救い主イエスに対するその最初の誘惑です。3節。「もしあなたが神の子であるなら、この石にパンになれと命じてごらんなさい」。父なる神さまは私たちに何が必要なのかをよく知っていてくださり、その必要なものの一つ一つを用意して、贈り与えてくださいます(マタイ,6:11,31-,121:1)。私たちのための助けと備えは、この慈しみの神さまから来ます。だからこそ悪魔の攻撃は、まず第一に、神へのこうした信頼に向けられます。『神さまに信頼できない私たち』にさせたいのです。「何に聞き従い、誰に信頼したらいいだろう。いったい何を頼りとできるだろうか」と、悪魔は私たちに右往左往させたいのです。とても苦しくて辛い日々に、ぜひとも祈るべきその時に、けれど「苦しくて苦しくて、とても祈ってなどいられない。それどころじゃない」などと私たちに言わせたいのです。私たちに襲いかかろうとして、悪魔はまず初めに、私たちの主人に襲いかかりました。つまり救い主イエスに。主イエスは荒れ野を4040夜引き回され、何も食べず、空腹を覚えておられました。飢え渇いて疲れ果て、心も体もすっかり弱ったところで、悪魔はささやきかけました。「腹が減って腹が減って、苦しくて仕方がないだろう。え、じゃあ、ここに転がっている石をパンに変えたらどうだ」と。
 4,8,12節「~と書いてある。~と言われている」。主イエスは悪魔の攻撃に抵抗して、『聖書にこう書いてある。聖書は、こう語っている』と断固としておっしゃいます。それこそが彼の唯一最善の武器であり、同時に、この私たち自身のための最善の武具です。例えば、「新聞やテレビでこう言っていた」。けれど新聞もテレビも、学校の教科書さえ間違うことはあります。「立派でしっかりしている△△先生がこう言っていた。だから」。いいえ、立派でしっかりしたとても物知りの大先生であっても間違うことがあります。それらは人間の言葉にすぎず、その立派そうに見える、頼りがいのあるように見える格別な人物もまた、たかだか人間にすぎないのです。けれど、「聖書がこう語っている」。それだけは別格です(ヨハネ5:39-40,20:30-31,テモテ(2)3:15-17コリント(1)15:3-。誘惑と試練に立ち向かうための最善最大の、有効な武具は、神の言葉であり、神の言葉に一途に信頼を寄せ、本気になって聞き従うことです。主イエスはそれをお用いになりました。この私たちも用いたいのです。だって、せっかく神さまを信じて生きはじめたのですから。せっかく、聖書を1人1冊ずつ持っている。本棚のどこかに並べてあるだけじゃなく、その言葉を聞き届けつづけてきたのですから。
 けれどなぜ、主イエスは悪魔から誘惑を受けたのでしょうか? 悪魔には、救い主を誘惑する必要がありました。それだけではありません。救い主には、悪魔の誘惑を受け、それを受けとめて、打ち破る必要があったのです。なぜならこの救い主は、罪人を救うために世に来られたのですから(テモテ手紙(1)1:15)。救い主イエスを信じる人々よ。考えてみていただきたいのです。もし仮に、正しい者や、見所のある者や力強く賢い者たちを救うためになら、もっと簡単で手軽なやり方ができたでしょう。もしそうなら、わざわざ地上に降りてくる必要もなく、低く貧しく身を屈める必要もなく、恥と苦しみの只中で十字架のむごたらしい死を味わう必要もなかったことでしょう。けれど兄弟たち。私たちを救うためには、それらがどうしても必要でした。救い主イエス・キリストは、罪人を救うために世に来られました。もっぱら、そのためにこそ来てくださったのです。弱い者、貧しい者、ついつい神に背き、敵対さえしてしまう愚かでかたくなな者たちのために、それら罪深い者たちをあわれむ神です(ローマ手紙5:5-,コリント手紙(1)1:25-)。神さまが私たちを愛する愛し方は、この世界の普通一般のやり方や考え方とはずいぶん違っています。この世界では、多くの場合、取り柄や特技や見所があって、そこではじめて人は愛され、受け入れられ、認められます。ほとんどの場合がそうです。子供の頃からそういう扱いを受けてきた私たちには、そうではなく、まったく違うやり方で愛してくださる神だといくら説明しても、なかなか受け入れられません。しかも、ほとんどの人たちは、そんな愛された方や受け入れられ方はあまり好きではないのです。だから今まで生きてきた通りに、「見所や良い働きがあって、だから認められ、だから受け入れられている」と思いたいのです。・・・・・・兄弟姉妹たち。神のあわれみを受け取るには、私たちはあまりに自惚れが強すぎます。神さまの慈しみ深さを喜び祝うには、私たちは自尊心が高すぎます。生きて働いておられます神ご自身の力強さを知るには、私たちは、自分自身と周囲の人間たちのことで心が一杯で、そわそわキョロキョロしつづけて、あまりに気分散漫すぎるのです。
  さてもう一度、パンのことを語りましょう。「人はパンだけで生きるのではない」(ルカ4:4,申命記8:3)と、主イエスは石をパンに変えることを拒みました。パンだけで生きるのではない。それはどういう意味でしょう? もちろん誰一人も、一切れのパンもなしに、仙人のように雲や霞を食べて生きられるわけではありませんね。私たちは現実には、主の口から恵みによって与えられる一つ一つの言葉によって、そしてまた同時に、主が恵みによって与えてくださるパンによっても、生きてきました(ルカ11:3,出エジプト記16:1-,箴言30:7-9。言葉だけではなく、パンも水も肉も、不足なく十二分に与えられてきました。これまでもそうでしたし、今もこれからもそうです。主の口から出る言葉と、主の御手から差し出されるパンと、その両方ともによって、私たちは生きる。それがこの箇所と申命記8:3-の真意です。石をパンに変えること。ほか様々な苦難や厄介事を解決してくれるようにと私たちが神にアレコレ願い求めることも、正しい良いことです。やがて救い主イエスは、石どころか、ご自分の体を『天からの恵みのパン』として私たちに贈り与えてくださるのですから。十字架上の苦しみと死をもって、格別な生命のパンを贈り与えてくださるのですから(ヨハネ6:47-58)。パンに変えることはOKです。けれど『近道をして、ここで手軽に』ではなく、『あの時に、あの丘の上で、あの十字架の木の上で。救い主のあの苦しみと死をもって』。

  一つのことに目を留めましょう。今日の報告の冒頭部分です。1-2節、「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた」。主イエスは聖霊に導かれて、ヨルダン川から帰り、聖霊なる神さまに引き回されて荒れ野をさまよいました。つまり荒野を引き回されたのは、悪魔の仕業や悪だくみではなく、神の御霊によってでした。ときどき私たちは誤解してしまいます。「もし聖霊なる神さまが私たちを導いてくださっており、神の恵みと支えのもとに置かれているとするならば、苦しいことや困ったことは何も起こらないはずだ。乏しいことも恐れも、何一つないはずじゃなかったのか」と。苦しむ友だちからこう問われたとき、あなたは何と答えることができるでしょう? あなたの息子や娘がこう問うとき、あるいはあなた自身が苦しみと悩みの只中で自分自身にこう問いかけるときに、あなたは何と答えることが出来るでしょう?
 苦しみ悩む日々は確かにあります。信仰を持っていてもそうでなくても、同じように苦難と災いが襲いかかります。豊かに満ち足りるときがあり、乏しい日々もあります。喜びと幸いばかりでなく、悩みも辛さも次々とあります。例えば神ご自身が、パウロに苦しくて苦しくて、とても痛くてたまらないトゲを刺しました。取り除けてください取り除けてください、どうかお願いします、取り除けてくださいと彼は30回も300万回も祈り求めつづけました。けれど、トゲは抜いていただけませんでした。なぜでしょう。分かりません。それでもなおあの彼は不思議な仕方で、喜びに満たされました。とうていありえない仕方で、ついにとうとう習い覚えたのでした。「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(コリント手紙(2)12:9-10。弱いときにこそ強い。つまり、私たちは自分自身が強すぎた間、神さまの恵みを門前払いしつづけていました。賢すぎた間、自分とその腹の思いこそが主人でありつづけて、神ご自身の働きを押しのけ、棚上げし、邪魔しつづけていました。重い病気にかかり、困難な状況に直面して頭を抱えるときに、むしろ、そこで主なる神に願い求めましょう;「主よ、この試練と悩みを取り除けてください。けれどもし、今しばらく苦しまねばならないのでしたら、この試練に耐えることができるように、私を守ってください。どうぞ、私をお支えください。そのように願い求めることができるほどに、どうか私たちを弱くしてください。あなたご自身の強さ、賢さ、豊かさに信頼することができるほどに、どうぞ、私たちを弱く愚かに乏しくしてください」と。
兄弟姉妹たち。主が私たちを導いてくださったそれぞれの荒野の旅を思い起こしましょう。荒野を旅するようにして生きてきた日々を。たびたび飢え渇きました。乏しさに悩みました。さまざまな恐れと疑いに捕われました。なお続くこれからの旅路も、まったくそのようです。主の口から出る一つ一つの言葉によって生き、天からの恵みのパンによって養われつづけてきました。『天からの恵みの~』ではないパンなど、実は一かけらもありませんでした。どうぞご覧ください。私たちの手の中には、天からの恵みの米と味噌と醤油があり、天からの恵みの兄弟と隣人と大切な大切な家族があり、天からの恵みの職場と居場所とを、慈しみ深い神さまからの憐れみによって贈り与えられています。そして一日分ずつの、天からの恵みの生命と寿命を。だからこそ、ご覧なさい。目を凝らして、よくよく見てご覧なさい。私たちのまとう着物は古びず、私たちの足もほんの少しも腫れていません(申命記8:4)。なんという恵み、なんという喜びでしょう。


《礼拝の予告》
2月17日 権威と繁栄を」        ルカ4:5-8
             24日 「神を試みてはならない」  ルカ4:9-13

 








2019年2月4日月曜日

2/3こども説教「アナニアとその妻サッピラ」使徒5:1-11


 2/3 こども説教 使徒行伝 5:1-11
 『アナニヤとその妻サッピラ』

5:1 ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、2 共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。3 そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。4 売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。5 アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。・・・・・・8 そこで、ペテロが彼女にむかって言った、「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。そのとおりか」。彼女は「そうです、その値段です」と答えた。9 ペテロは言った、「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう」。10 すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。
(使徒行伝5:1-11

  どうぞ聴いてください。
今も昔も、神さまへの献げものは、ただただ感謝の献げものでなければなりません。自由な、感謝の献げものです。もし、お金や家や土地や財産をささげるなら、ささげてもいい。困らない範囲で、感謝の分だけ自由にささげることができます。神さまのために何かの係りを担って働くこともまったく同じで、それは自由な、感謝の献げものです。献げものがたくさんあっても少ししかなくても、ちっとも困りません。例えば教会の定期総会で、神さまのために働く人を選ぶ場合にも同じで、「選ばれることに不都合のある人はあらかじめ知らせておいてください」と伝えられていました。牧師、長老、執事も、他のすべての働きもみな同じです。それらは神さまへの献げものであり、ただただ神さまへの感謝の献げものでなければとても困るからです。ですから私たちは、アナニヤとその妻サッピラがしたことをよくよく覚えておきましょう。まわりの人間たちから誉められよう、良く思われたいと願って、彼らはズルをしました。人間たちを欺き、それどころか神さまを欺きました。3-4節と9節を読みましょう。「そこでペテロが言った、『アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ』」。そして9 節。「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは何事であるか」。恐ろしいことが起きました。ここにいる私たち一人一人も、自分の胸に手を当てて、「ああ、この自分はどうだろう。思い上がって神さまをあなどったり、軽んじたり、欺いたりはしていないだろうか。神さまに申し訳ないことを、ついついしでかしてはいないだろうか?」とつくづく思い起こしてみるためにです。このように確かに、私たちの主なる神さまは生きて働いておられます。


2/3「主イエスにこそ聴き従う」ルカ3:21-22


                         みことば/2019,2,3(主日礼拝)  200
◎礼拝説教 ルカ福音書 3:21-22                       日本キリスト教会 上田教会
『救い主イエスにこそ
聴き従う』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、22 聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。            (ルカ福音書 3:21-22)

 9:28 これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29 祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。・・・・・・彼がこう言っている間に、雲がわき起って彼らをおおいはじめた。そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。35 すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。36 そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。   (ルカ福音書 9:28-36)

 まず21節。ここで、『救い主イエスご自身が洗礼を受けた』と聖書は報告します。洗礼(バプテスマ)は、主イエスを信じて生きようと決意した者たちがクリスチャンとされるための、その入門の儀式です。神ご自身であり、救い主である方が、どうしてわざわざ洗礼を受けなければならないのか。そこにどんな意味があるのか。身を低く屈め、へりくだって地上に降りて来られた救い主イエス・キリストは、『洗礼』を中身と実態のあるものとするために、神を信じて生きていこうとする私たちのために、わざわざ、ごく普通の生身の人間に手を引かれて、川の中に身を沈めておられます。
 今日読んだ箇所の直前の部分ですが、ヨハネは告げました。16節;「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」。キリストの教会は《水で》洗礼を授けます。そして、救い主イエスご自身が《聖霊と火で》洗礼を授けてくださる。私たち人間と教会が授けることができるのは、せいぜい、水によって洗礼を授けることに過ぎません。「特別な水、聖なる上等な、霊験あらたかな水などではなく、水道の蛇口をひねって出てくるはずの、どこにでもあるごく普通の水」によってです。しかもそれを用いて、それに重ねて、神さまご自身が聖霊と火によって良いことを成し遂げてくださる。例えば、キリスト教会の歴史のごく最初の頃、きびしい迫害の時代に多くの者たちがつまずいて、信仰を捨ててしまいました。伝道者たちも含めてです。ある人々が言い出しました、「私に洗礼を授けてくださった○○先生が信仰を捨ててしまった。じゃあ、私の、あの洗礼はどうなるだろう。もう1回だれが他の正しい伝道者に洗礼をやり直してもらったほうがいいだろうか」。それが大きな揉め事になり、何十年も議論がつづきました(『ドナトゥス論争』西暦314)。どういうふうに決着がついたと思いますか。もちろん、その後、自分に洗礼を授けてくれた牧師がつまずいてしまったとしても、そんなこととは何の関係もなく、その洗礼は十分な洗礼だったし、やり直しなど必要ありません。今日でも洗礼は、○○牧師の名前と働きによってではなく、「父と子と聖霊との御名によって」こそ授けられます。また、その洗礼式での祈りは、友達や親兄弟や○△さんがではなく、「主こそが、この1人の兄弟を恵みのもとへと招き入れてくださった」ことを感謝します。「どうか、この兄弟があなたの恵みの契約に誠実に応えて、自分自身の罪を悔い改め、信仰を言い表し、主に対する忠誠を心から誓い、そのように生きることができるようにさせてください」と主に向かってこそ、願い求めています。「私が、します」ではなく、「誰それさんが頼みの綱です」ということでもなく、「主よ、あなたが、させてください」と。洗礼を受け、クリスチャンとして生きてゆく。それは私たちの決断であることを越えて、なにしろ神ご自身の決断です。私たちの努力や働きであることを越えて、なによりまず第一に、生きておられます神ご自身の働きです。
  洗礼だけではありません。例えば、礼拝説教がそうです。キリストの教会の1つ1つの働きがそうです。すべての伝道者たちは精一杯にキリストの福音を宣べ伝えます。それに耳を傾ける者たちがいます。教会の頭であられるキリストこそが、人々に福音を信じさせることができるのです。ポイントは、ただのごく普通の水、ごく普通のどこにでもいるヨハネ、ごく普通のどこにでもある未熟で粗末な私たち人間の頭と口と手を用いること。洗礼、聖晩餐、礼拝説教と教え。兄弟姉妹たちの交わり。それぞれ、貧しさと愚かさを身にまとい、未熟で粗末でいたらない器がわざわざ用いられつづけています。そのようが善いらしいのです。そのほうが、かえって神さまの賢さを仰ぎやすいらしいのです。かえって、神さまの豊かさと力強さに目を向けやすいらしいのです。だって、なにしろ、『宣教の愚かさによって信じる者を救う』(コリント手紙(1)1:21と神さまが決断なさったからです。例えば教会の中で、家族同士やいつもの職場でも、誰かが間違ったことをしてしまうとき、それに対してどうすればいいでしょう。その取り扱いは2つです。1つは、大目に見てゆるしてあげること。「だって人間だもの」と相田みつおさんの口癖を真似しながら。人間にすぎない私たちは度々うっかりして間違ったことをしてしまうからです。2つ目は、大目に見てゆるしながらも、その人にあなたがちゃんと注意してあげることです。「○○さん、それは間違っていますし、悪いことです。これからは、してはいけませんよ」と。教会の中でそうなら、自分の家の中でも道端でも、誰に対してもこれをします。(1)大目に見てゆるしてあげること。(2)ゆるしながらも、「それは間違っています。してはいけませんよ」と注意をしてあげること。もう大人なので、それくらいのことはできます。よろしくお願いします。
 主イエスご自身が洗礼を受けてくださったことで、この入門儀式に神ご自身からの生命が宿り、太い背骨が通されました。21-22節です。「さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。天が開けて、父なる神の御もとから聖霊が目に見える姿で主イエスの上にくださったこと。そして、父なる神が主イエスを名指しして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と仰ったこと。これが、一番大事です。あまり大事なので、しばらく後で、もう一回念を押されました。同じルカ福音書の935節です。主イエスが3人の弟子たちと山に登り、そこで主イエスの姿が変わりました。その顔は太陽のように輝き、その衣は光のように白くなって。すると雲の中から父なる神さまからの御声がありました、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた」。恐れない私たちにしていただくためには救い主イエスに目を凝らし、イエスにこそよくよく聞き、聴いたことの一つ一つを腹に据えねばなりません。「イエスにこそ聴け」と2回も念を押されました。すッごく大事だ ということです。御父が主イエスを指差して、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け』と私共に命じておられる。これこそ洗礼を受けようとする者、すでに洗礼を受けて信じる生活を積み重ねつづける者の、最優先の、最重要の弁えです。主イエスこそ御父の愛する者であり、御父の御心にかなう者である。だから、主イエスにこそ私たちは聞く。イエスにこそ、私たちは聴き従って生きると。
  主の祈りの末尾で、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」と天の御父に信頼を寄せ、ほめたたえています。つまり、「国と権力と栄光は無制限に、ただただ御父だけのものですから」と。また、御父が主イエスを指差して、『これは私の愛する子、私の心にかなう者である。これに聞け』と私共に命じた。「イエスに聴く」。それはイエスにも聴き、それと並べて、それに負けず劣らず他の誰彼にも聞くし、他の様々な声や意見にも聴き従うということではありません。例えば、第二次世界大戦中の日本とドイツで、「イエスにも聴き、それと並べて、それに負けず劣らず他の誰彼にも聞くし、聴き従う」という大失敗と嘘偽りがまかり通ってしまいました。イエスにも聞くけど、アドルフ・ヒットラーにも天皇陛下様にも、自分自身の腹の虫にもハイハイと従う。その場その場の空気も読み、空気にも負けず劣らずに聴き従う。いいえ それは嘘っ八だし、大間違い。それではイエスに聴くことになりません。しかも闇が地を覆い、死の陰の谷に私たちは住んでいます。世俗化の波がキリストの教会を覆い尽くそうとしています。兄弟姉妹たち。教会の世俗化とは、主イエスに聴き従うことを私たちがすっかり止めてしまうことです。神さまへの信頼と従順がすっかり骨抜きにされ、ただただ口先だけの絵空事にされてしまうことです。この私たち自身のことです。例えば使徒行伝3-4章、足の不自由な人を神殿の入り口で癒してあげたあと、主イエスの弟子たちは議会に連れていかれて厳しく脅かされました。彼らは答えました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」、さらに少し後でも「人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒4:19,5:29)と。同じく主イエスの弟子とされた私たちも、この同じ1つの問いかけを一生涯、突きつけられつづけます。神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか、判断してもらいたいと。しかも、「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである(ルカ16:13)。誰を自分の主人として、この私たちは生きるのでしょうか。
 私たちに語りかける声が耳元にいつもありました。「イエスは主であり、イエスを主とする私であり、生きるにも死ぬにも、私は私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものである(コリント手紙(1)12:3,ヨハネ13:13,ローマ手紙10:9)と、あなたは言っていたね。まるで口癖のように言っていたじゃないか。そのあなたが、ここで、こんなふうに考え、そんな態度を取り、兄弟や大切な家族に対してそんな物の言い方をするのか。と私たちに語りかける声がありました。「イエスは主である。他のナニモノをも主とはしない」と口でも心でも認めているはずの、そのあなたが、争ったり妬んだり、人を軽々しく裁いたり、退けている。そのあなたが卑屈にいじけている。そのあなたが、ふさわしいとかふさわしくないとか、大きいとか小さいとか賢いとか愚かだとか品定めをし、また品定めをされることに甘んじているのか。そのあなたが、「~にこう思われている。~と人から見られてしまう。人様や世間様にどう思われるか」などと簡単に揺さぶられ、すっかり我を忘れ、神さまを忘れてしまっている。《イエスこそ私の主》と言っているくせに、そのあなたが「なにしろ私の考えは。私の立場は。私の誇りと自尊心は」と言い立てている。イエスは主なりと魂に刻んだあなたの信仰は、あれは、どこへ消えて無くなったのか。朝も昼も晩も、そうやって私たちに語りかける声があります。呼びかけつづける声があります。例えば洗礼を受けてまだ間もない若い嫁が、何十年も神さまを信じて来たはずの義母に向かって、こう問いかけます;「お母さん、主イエスはこの部屋にいますか。それとも居ないんですか、どっちです?」と。もし救い主が本当に居られるなら、どうしてそんなに心配したり、くよくよしたり、アタフタオロオロしつづけているんですか。本当は、もう信じていないんですか、と(ルカ福音書23:34,ローマ手紙14:15,使徒9:4。あのお独りの方、救い主イエス・キリストが復活し、天の御父の右に座っておられるとは、このことでした。水による洗礼だけでなく、聖霊と火による洗礼を授けられ、日毎に悔い改め、信仰を抱えて生きている、信仰によって抱えられて生きているとは、このことでした。高い山や丘のようにうぬぼれて他人を見下していた私を押し戻すものがあり、薄暗い谷間のように卑屈に身を屈めていた私を高く持ち上げてくれるものがあります。顔を上げさせ、目を見開かせ、小さく縮こまっていた私の背筋をピンと伸ばさせてくれるものがあります。深々と、晴々として息を吸わせ、吐かせてくれるものがあります。イエスは主であり、イエスを主とする私たちであり、生きるにも死ぬにも、私は私のものではなく、私たちの真実な救い主イエス・キリストのものである。イエスこそ主である。だからこそ他のナニモノをも、私たちは、二度と決して自分の主人とはいたしません。だから私たちは、朝も昼も晩も、どこに誰と一緒にいても、自分自身に向かってこう問いかけます;「お母さん、主イエスはこの部屋にいますか(*)。それとも居ないんですか。主イエスをこそ信じて、このお独りの方に聴き従って生きていこうと決めているんですか、それとも、そうではないんですか。あなたは、どっちです?」。


         【補足/この部屋に主イエスは】(*)
            名も知られないあるクリスチャンは、わが家に家族と共にいて、
あるいは独りきりのときにも、こうつぶやきました。
「キリストはこの家の主人であり、
いつもの食卓の目に見えないお客であり、
私たちの何気ない会話やお喋りに黙って耳を傾けつづけておられる方です」
と。そういう素敵な木彫りの額を茶の間の壁に飾っているだけではなく、その言葉を眺める度毎に、「ああ本当にそうだなあ。それなのに、この私は」と心を痛めたり、慰められたり、叱られたり励まされたりしつづけているクリスチャンとその家族はなんと幸いなことでしょう。


         (**)もう何年も前に、友だちの家に遊びに行って、そこでこの素敵な木彫りの壁掛けを見つけました。「本当にそうだなあ」ととても嬉しかったので、ずっと覚えています。