2022年8月9日火曜日

8/7「悪い心に気をつけなさい」へブル3:14-19

         みことば/2022,8,7(主日礼拝)  383

◎礼拝説教 ヘブル手紙 3:14-19        日本キリスト教会 上田教会

『悪い心に

気をつけなさい』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。15 それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。16 すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。17 また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。18 また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。19 こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。        ヘブル手紙 3:14-19

 まず14-16節、「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのであるそれについて、こう言われている、『きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない』。すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか」。冒頭の、「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである」。この言葉が14-19節全体を通して、最も重要な、鍵になる言葉だと思えます。いくつかの理解の可能性がありえます。なにより、「最初の確信を、最後までしっかりと持ち続ける」には、私たち人間は、どうしたら良いのか。いったい何がどうあれば、最後まで信仰の確信をしっかりと持ちつづけることができるのか。誰が、それをできるのか。どうやってか。例えば信仰深い、神に忠実で誠実で、しっかりした信仰と意思と判断力をもった人々が、確信を持ちつづけることができるのか。自分自身の誠実さと努力と知識と勤勉さ、高潔さなどによって、自分で自分を救うことができるのか。2種類の、まるで正反対の理解がキリスト教会の中に並び立ちつづけてきました。これからも、そうです。「そうだ。そのとおりだ」と考えるクリスチャンやキリスト教会も多くあるでしょう。あるいは、「いいや。決してそうではない。私たち人間は罪深く、愚かであり、心も意思も弱く、迷いやすい。人間に出来ることではないが、けれど、ただ神にこそそれはできる。神の憐れみ深い御心によってだけ、ただ恵みによって、ただキリスト・イエスのあがないによって、何の功績もなしに、区別なく、それは誰のためにも必ず成し遂げられる」と。前者は、人間中心のモノの考え方。そして後者は、神中心の、ただただ神の恵みにこそいつも目を凝らしつづける、改革教会の信仰の最重要の観点です(『聖徒の堅忍』、カルヴァン主義の信仰の5つの特質。神によって救いへと選ばれた聖徒らは、神の憐れみと慈しみの中に守られ、支えられつづけるゆえに、どんな苦難や試練の中にあっても最後まで堅く耐え忍び抜くことができるという信仰理解。他の4項目の特質もすべて、神ご自身のお働きと恵みにこそ着目しつづける)

なにより聖書自身が、それをはっきりと証言しつづけます。今日こそは、誰にでもはっきりと分かるように語らねばなりません。(1)まず、救い主イエスご自身からの答弁;神を愛し、隣人を自分自身のように愛し敬いなさいと律法の要点を告げられた大金持ちの役人が「それらのことはみな、小さい時から守っております」と答えた。イエスは言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。金持ちの役人は悲しみながら立ち去った。さらにイエスは言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」。(ここです。)イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」(ルカ福音書 18::18-27参照)

(2)別の聖書箇所は言う、「あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである(1ペテロ手紙1:21

(3)さらに別の聖書箇所は言う、「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいない」(ピリピ手紙1:6

(4)さらに別の聖書箇所は言う、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ローマ手紙8:29-30

(5)さらに別の聖書箇所は言う、「(神の義。救い。試練や罪の誘惑を耐え忍びつづけて、やがてついに神の国に入ること)それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである(ローマ手紙3:22-26

(6)これらの数限りない聖書証言を受けて、私たちの日本キリスト教会、信仰の告白もまた、「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ、功績なしに罪を赦され、神の子とされます。……この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」(口語訳)と信仰の内容をはっきりと言い表します。つまり、「最初の確信を、最後までしっかりと持ち続ける」には、私たち人間は、どうしたら良いのか。いったい何がどうあれば、最後まで信仰の確信をしっかりと持ちつづけることができるのか。「神の憐れみ深い御心によってだけ、ただ恵みによって、ただキリスト・イエスのあがないによって、何の功績もなしに、区別なく、それは誰のためにも必ず成し遂げられる」。これが、聖書自身からの只一つの答えです。その大前提の上に立って、誘惑と試練から守ってくださるように、心をかたくなにせず、心と耳を開いて下さって、神の言葉に聴き従いつづけ、御心かなって生きることがきるようにと願い求めつづける私たちです。神こそが、その願いをかなえてくださいます。

「それについて、こう言われている、『きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない』。すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか」。モーセ、アロン、長老たちを含めて、ほぼすべての人々が何度も何度も心をかたくなにし、神に背きつづけました。今日の牧師自身や長老など、私自身ももちろん含めて、教会の指導者たちこそが神から厳しい懲らしめと裁きを受けねばなりません。その彼らこそが、私たち自身こそが責任重大であるからです。荒野で滅ぼされた多くの人々もいました。背きの罪をゆるされた人々もいました。神の民イスラエルを導きづけたモーセ自身さえ、心をかたくなにし、神に背き、約束の地に入ることをゆるされず、その直前で、地上の生涯を終えるように神から定められました(申命記 34:1-5今日の牧師自身や長老など、私自身ももちろん含めて、教会の指導者たちこそが神から厳しい懲らしめと裁きを受けねばなりません。その彼らこそが、私たち自身こそが責任重大だからです。「荒野を40年間旅した彼らの中の大多数は、神の御心にかなわなかったので荒野で滅ぼされてしまった」と聖書は証言します。

17-19節、「また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる」。荒野の40年の旅を大急ぎで振り返ります;神の民とされたイスラエルの人々は、エジプトの国で400年もの長い間、奴隷にされました。奴隷は、人間ではない品物や道具のように、ただ他の人たちの思うままに、ただ便利に都合よくコキ使われつづける存在です。その惨めな奴隷とされた先祖たちは、彼らを憐れんだ神によってエジプトから連れ出されて2カ月ほどたったとき、今度はその彼らは嫌な顔をして文句を言い始めました。「腹が減った。エジプトの国で奴隷だったほうが良かった。あの頃は肉のたくさん入った鍋があり、パンも腹いっぱい食べられたのに」と。不平不満をつぶやく彼らの声は、もちろん神の耳に届きました。出エジプト記1612節;「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい。あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」。驚きです。パンも肉も腹いっぱい食べさせ、『神さまが本当に主であってくださり、責任をもってちゃんと養ってくださる方だ』とよくよく分からせてあげる。こういう神さまです。神さまは、私たちをこういうふうに取り扱いつづけてくださっています。そして彼らは「水がない。粗末な食べ物で気力も萎えてまう」などと不平不満をつぶやきつづけ、神に代えて自分たちの言いなりになる偽物の神を作り上げ、ほぼ40年ずっと一貫して不従順であり、士師たちの時代にも王国時代にもほとんどずっと不信仰の中に留まりました。

1コリント手紙10章も、このことを同じく私たちのために語りかけます、「これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。……また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(1コリント手紙 10:6-13私たちに対する警告、この私たち自身のための訓戒です。試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さる。この言葉は、よく知られており、苦しみや悩みの中にある友人を励ましたり、慰めるためにもよく用いられます。けれども語られていた本当の意味は、「試練」とは単なる苦しみや悩みはなく、神に背き、不信仰へと陥ってしまう罪の試練であり、誘惑。「逃れる道」とは、憐れみ深い真実な神へと立ち帰ることであり、心底から悔い改めて、神を信じて生きる生活を建て直すことです。その道は、「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは父の御もとに行くことはできない」(ヨハネ福音書14:6とおっしゃった救い主イエスを信じて歩みはじめる道です。そのただ一本の道を通りさえすれば、誰でも必ず父なる神の祝福のもとに辿り着け、その救い主イエスから受け取りさえすれば「いのち」を贈り与えられ、主イエスからの教えに学びさえすれば知るべき十分な「真理」を知って、そのように御心にかなって生きることができるという約束です。私たちのためにも備えられている只一本の救いの道。救い主イエスを信じ、イエスに聴き従って生きる道です。



8/7こども説教「エパフロデトを送る」ピリピ2:25-30

 8/7 こども説教 ピリピ手紙 2:25-30

 『エパフロデトを送る』

 

 2:25 しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。26 彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。27 彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。28 そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。29 こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。30 彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである。(ピリピ手紙 2:25-30

 

 

 【こども説教】

 テモテを送るより先に、まずエパフロデトをピリピ教会に送り返そうとしています。このエパフロデトについては、ここと4章で少し事情が説明されています。エパフロデトは元々、このピリピ教会の人でした。パウロを助けて働くために送られ、けれど重い病気にかかってしまいました。病気が治り、いったんピリピ教会に帰りたいと本人が望むので送り返します。28-30節、「そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである」。「大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない」と、とても丁寧に、むしろ丁寧すぎるほどに、言葉を添えています。もしかしたら、病気になって務めの途中で帰ってくるエパフロデトをあまり喜んで迎えようとしない兄弟姉妹たちもいるかも知れない。彼を十分に尊重し、暖かい思いやりの気持ちで迎えることのできない者もいるかも知れない、と心配したのかも知れません。あの彼は、「キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになった」。神さまこそが「死ぬばかりの病気にかかった彼を憐れんでくださった。神さまは、私をも憐れんでくださった」。だから、彼の病気は治ったのだと。そういう彼なので、役に立たない人間として見ないでほしい。不満や失望の思いで彼を迎えないでほしいと、心から願っています。その人も、また他の一人一人も私たちも、神の憐れみを受けた者たち同士なのだからと。

 

 

 【大人のための留意点】

 エパフロデトを迎えるピリピの教会にあるかも知れない批判的な考え方を静めようとしてなされているものであります。エパフロデトを、役に立たない、いくじのない人間として見ないでほしいという願いを、強くこの手紙の中で表しているのであります。せっかく大切な務めを託してパウロのもとに送ったのに、務め半ばにして帰ってくるなんてなんとだらしのない奴だと、不満や失望の思いをもって彼を迎えないでほしい、と強く願っています。かれは、私の兄弟である、同労者である、戦友として懸命に働いてくれた人物である。彼が病に陥ったのも、キリストの業のために命を懸けて働いた結果なのだ。十分に彼は自分の果たすべき務めを果たした。だから彼を大いに喜んで主にあって迎えてほしい。それが29節の言葉において、パウロが強調していることであります。……エパフロデトが病を癒されたことを、病が治ったとは言わずに、「神は彼をあわれんでくださった」、(27節)と言い表しています。つまり、ここでパウロが言わんとしていることは、神も、エパフロデトの病にかかる弱さを批判してはおられない、非難してはおられない、ということであります(久野牧『ピリピ人への手紙』(説教集)一麦社、該当箇所)

 

 

2022年8月1日月曜日

7/31「心をかたくなにしては」へブル3:7-13

           みことば/2022,7,31(主日礼拝)  382

◎礼拝説教 ヘブル手紙 3:7-13               日本キリスト教会 上田教会

『心をかたくなにしては』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

3:7 だから、聖霊が言っているように、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、8 荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。9 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、10 しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった。11 そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。  ヘブル手紙 3:7-13


まず7-10節、「だから、聖霊が言っているように、『きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった」。聖書の言葉とその説き明かしと、そこで語っておられる聖霊なる神ご自身にこそよくよく聞き従いなさいと、私たちは励まされつづけます。「聖霊が言っているように」とは、(1)まず聖書は生身の人間たちの手の働きを用いて、神ご自身こそがその報告者たちに神の御心を知らせる働きをさせているのであり、そのようにして聖書全体が神の言葉であるということです。(2)次に、それを私たちが読むとき、またその説き明かしを聴くときにも、そこで神が生きて働き、私たちの耳と心を開いて、神の御声を聞き分け、神の御心を悟ることができるようにしてくださっているということです。そのようにして聖霊のお働きをとおして神の語りかけを聴きつづけている私たちなので、だから、私たちの心をかたくなにしてはいけないと戒められます。それぞれ自分ひとりで聖書を読むときにも、礼拝や諸集会のおりにも、「私の心と耳を開いて、あなたの御声を聞き分けられるようにさせてください」と私たちは祈り求めつづけます。実際に、私たちは誰もが生まれつきかたくなな石の心を持っており、母親のお腹の中にあるときからかたくなさと、神に背く悪い心を抱えて生きている者たちだからです(創世記8:21「人が心に思い図ることは幼い時から悪い」)。ですから、神の御声を聴きつづけながらなおその言葉を退け、背きつづけるのは、自分自身からの強情さのためであることを私たちはよく知らなければなりません。また、もし、神ご自身がその頑なで強情な心を打ち砕き、また私たちの心と耳を開いて下さるのでなければ、私たちは誰一人も決して、神の御声を心に受け止めることも、聴き従うこともできません。

「荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように」と、先祖たちの不信仰と、神に対する彼らのはなはだしい不従順とが指摘されています。エジプトで奴隷とされていた神の民がそこから連れ出されながら、なお荒野で40年もの間さまよい歩き続けなければならなかったのは、神に対する彼らの不信仰と不従順のためでした。彼らの子孫である私たちに、彼らの悪い手本のまねをしないようにと注意を促されます。実に先祖たちは、エジプトから連れ出されてほんの数か月目から神に対して不平不満をつぶやき、荒野を旅する40年の間、ほぼ一貫して、不信仰の中に留まり、神に背きつづけました。エジプト王の心を変えさせて神の民を自由に立ち去らせるために、神は10回もの災いがエジプト全土を襲うようにし、葦の海を真っ二つに引き裂いてその間を通って神の民が海を渡れるようにしてくださいました。その直後、「食べるパンと肉がない。エジプトで奴隷にされていた方がよほどましだった」と彼らは不平不満をつぶやいて神に敵対し、さらに「飲む水もなく喉が渇いた。ここで死なせるつもりか」と神に苦情を言い立てました。出エジプト記16章と17章に報告されている出来事です。荒野を旅する40年の期間が間もなく終わろうとする頃にさえ、彼らは、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」(民数記21:5と、指導者たちと神ご自身に向かって不平不満を訴えかけています。このように私たちの信仰の先祖たちは、40年の間ほぼ一貫して、不信仰の中に留まり、神に背きつづけました。なんということでしょうか。

「あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった」。聖霊なる神が、もし、今ここで、私たち自身の心に働きかけてくださるなら、「ああ。それは私のことだ。神に背きつづけ、不平不満をつぶやき、はなはだしい不信仰に陥りつづけている。それは、いつもの私自身の振る舞いと、口から出る言葉と、いつもの私の心ではないか」と私たちも自分自身のこととして気づくことができるかも知れません。「まさか。それは私のことでは?」と。多くの恵みを受け、神の力ある憐みの業にふれつづけながら、なお心を迷わせつづけ、神が生きて働いておられることも、神の憐れみの御心をも認めようとしない私たちです。

「四十年の間、神の業を見た。それに触れ、味わいつづけてなお、神を試みためした」と厳しく指摘されています。信じようとして、そのためのしるしを求めて神を試したのではなく、むしろ苛立ちながら神さまに信頼を寄せようとはしませんでした。神は何度も彼らを助け、この私たちを助け、支え、憐れんで養い、持ち運びつづけてくださったのに、していただいた良いことはすっかり忘れて、神には果たして力と権力があるのかとあざけって問いただしつづけたと。

「だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった」。彼らは神の道を知らなかったし、認めようとしなかった、と神ご自身が先祖と私たちを非難しておられます。それは、他でもなくこの私たち自身のことではありませんか。心が痛みます。罪と自分自身の肉の思いから離れて、神の憐れみの御心に従って新しく歩みはじめることについて、ローマ手紙6章と10章はもう少していねいに分かりやすく説明しています、「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」。また、「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ手紙6:8-11,10:1-3と。(1)まず、古い罪の自分と死に別れさせていただき、神の御前で神に向かって新しく生きる者とされた。神がそうしてくださったばかりでなく、私たち自身も、自分が受け取ってきたその恵みの現実をはっきりと認める必要があると警告されています。そうでなければ、その神の現実とお働きは無駄になってしまうからと。(2)つづいて、『神の義』と対立し、神に敵対して『自分自身の義。正しさ』がある。神の義・正しさは、救いに価しない罪人をゆるして救う憐みの正しさであり、けれど彼らが執着してしがみついているものはそれと相反する『自分自身の正しさ』であり、そのために神の義を知ろうとせず、認めることもできないままであると。彼らと私たちが陥りやすい心の頑なさと不信仰の中身は、このことです。

11節、「そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。奴隷にされていたエジプトの地を離れて、荒野の旅を経て、やがて辿り着くはずだったカナンの土地こそが約束されていた『神の安息の土地』です。「良い土地に導き入れる。そこで、あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い土地を賜ったことを感謝するであろう」(申命記8:7-10参照)と。その土地に入り、長くそこで暮らしつづけてきたはずでした。けれど驚くべきことに、このヘブル人への手紙の著者は、そして神ご自身こそが、「安息の土地に、まだ入っていない」と語りかけます。「そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。このとても重要な教えは4章に引き継がれて、はっきりと言い渡されます。「神の安息に入る約束がまだ存続している。そこにぜひ入るために、注意をし、そのために励もうではないか」(ヘブル手紙4:1参照)と。ヘブル手紙4:6-11、「そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか」(これだけでも語られていることは十分に分かりますが、数回後に、もう少しくわしく説明します)

 

               ◇

 

12-13節、「兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい」。「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」と励まされました。さらに、念を押して、「『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい」と促されます。その「今日」とは、もちろん遥かな昔のあの彼らのためばかりではなく、今日を生きるこの私たちのための『今日。この日』でもあります。神が私たちに語りかけるとき、いつでもそれは、その人自身のための「今日。この日」です。私たちそれぞれの心の戸を神が、コンコンコンコンとノックしておられます。「熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネ黙示録3:19-20

 


 








【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

7/31こども説教「自分のことを求めるだけで」ピリピ2:19-24

7/31 こども説教 ピリピ手紙 2:19-24

 『自分のことを求めるだけで』

 

2:19 さて、わたしは、まもなくテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって願っている。それは、あなたがたの様子を知って、わたしも力づけられたいからである。20 テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。21 人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。22 しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。23 そこで、この人を、わたしの成行きがわかりしだい、すぐにでも、そちらへ送りたいと願っている。24 わたし自身もまもなく行けるものと、主にあって確信している。          

(ピリピ手紙 2:19-24

 

 

 【こども説教】

 ピリピ教会はとても難しい悩みを抱えていました。きびしい争いやいがみ合いがつづき、それぞれ相手のことを思いやることもできず自分のことばかり考え、その中で、神を信じて生きることが本当にはどういうことであるのかがよく分からなくされようとしていました。神さまのもとにある平和と恵みをふたたび教会に取り戻させようとして、手紙が書き送られました。「救い主イエスがどういう方で、何をなさったのかを思い起こしてみよう。その救い主を信じるあなたがたは、互いに、どういう関わりかたをしているだろうか」と諭され、励まされました。さらに、テモテという伝道者とエパフロデトという働き人をそちらに送ると手紙は知らせます。この2人ともが、ピリピ教会の人たちのことを大切に思っている人たちです。

 21節、「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない」。信仰をもたない人たちのことではなく、キリスト教会と多くのクリスチャンのことを言っています。こう語りかけながら、ピリピ教会の人たちや私たちが自分自身をよくよく振り返ってみるようにと促しています。そういえば、救い主イエスご自身が弟子たちに、「もし私についてきたいのなら、自分を捨て、自分の命を捨てて付いてきなさい」(ルカ福音書 9:23-25参照)ときびしく命じておられました。しかもイエスご自身こそが「自分にしがみつこうとせず、自分をまったく捨て去り、自分を低くなさり、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神に従順であられた」(2:6-8参照)と語りかけられたばかりです。それでもなお自分にこだわり、どこまでも自分自身の幸いや都合の良いことばかりを求めつづけるなら、キリストの教会もあの彼らも私たち自身も、神からのいのちも平和も失ってしまうほかありません。困りました。

 

  【大人のための留意点】

 自分のことを求めないで、キリストのことを求める心です。自分を捨てて人のために尽くすと言いながら、あんがい奉仕、奉仕と口にしながら、自分の利益を求める人が何と多いことでしょう。キリストを大きくしないで、自分を大きくしようとする欲望もあるのです。

 さらに「証明ずみ」ということです。これは「練達ぶり」とも訳されていますが、もともと、金属が火などでためされて、本物かどうか調べることから来ています。わたしたちの信仰も、いろいろな出来事に出会って、試されます。本物かニセ者かが分かってきます。信仰はこのように、生きた生活の中で証明されてゆかなくてはなりません(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)

 

 

 

8/5 夏期キャンプ こども説教 ルカ福音書 17:11-19

『ひとりは神を讃美した』   

 

17:11 イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。12 そして、ある村にはいられると、十人の重い皮膚病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、13 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。14 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。15 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。17 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。18 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。(ルカ福音書 17:11-19

 

 

 【こどもと大人のための着目点】

 11-13節。(1)「遠くで立ち止まり」;病気をうつさないように、他の人々に近づかず、離れて暮らすようにと『神の律法』で決められていた(レビ記13:1-23。(2)病気が癒されることと、他の人々といっしょに生きることを強く願っていた。「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と大声で叫んだのは、主イエスなら治してくださると希望をかけ、『救い主イエスによる神の憐れみ』をつよく願い求めたから。

 14節。(1)祭司に体を見せて、病気が治っているのを証明してもらえれば、他の人たちのところへ戻って、いっしょに暮らすことがゆるされる規則。(2)「行く途中で清められた」。「行きなさい。祭司に自分の身体を見せなさい」は、「病気が癒された」「私が、あなたがたの病気を癒した」という意味。その言葉を信じて、10人は出かけた。しかも途中ですでに、彼ら10人は主イエスからその憐みの力を受け取っている。「見ないで信じる信仰」(ヨハネ福音書20:24-29,2コリント手紙4:18参照)10人に贈り与えられた、と言える。彼ら10人は、信じはじめていた。

 16-19節。イエスのもとに戻ってきて、ひれ伏して神に感謝したのは、ただ1人だった。しかも、「これはサマリヤ人であった」と。皆から見下され、嫌われ、除け者扱いされているはずの人こそが、神の恵みを受け取っています。その人々を喜んで迎え入れてくださる救い主イエスです(ヨハネ福音書 4:1-,ルカ福音書10:30-35。その1人に、「あなたの信仰があなたを救った」とその信仰(神にこそ願い求め、恵みを受け取って神に感謝し、信頼を寄せ、それゆえ聞き従いつづける信仰)によって生きるようにと励ました。神を信じつづけて生きるためには、誰にでも、この励ましが全生涯にわたって必要でありつづける。神からの支えの御手を軽んじさせ、神に背かせようとする誘惑と肉の思いが、誰にでも付きまといつづけるので。同時に、「ほかの九人はどこにいるのか」と問いかけたのは、せっかく主イエスと出会い、御言葉を聴き、信じはじめたはずだったのに、イエスのもとに戻って来られなかった彼らをとても残念に思い、深く憐れんだので。戻って、神に感謝できさえすれば、その1回の感謝と讃美は力強い出発点となりえた。『神にこそ願い求め、恵みを受け取って神に感謝し、信頼を寄せ、それゆえいっそう忠実に聞き従いつづけて生きる信仰』を受け取りはじめることができただろうに。あと一歩だったのにと。しかも、「神への切なる願いも、感謝も喜びも、信頼も忠実も、みな神からの恵みの贈り物」であり、1人のためだけでなく10人のためだけでなく、ただ恵みによって誰にでも贈り与えようと待ち構えて、神さまの側では、すでに準備万端だったので。

 

2022年7月26日火曜日

7/24「大祭司イエス」へブル3:1-6

          みことば/2022,7,24(主日礼拝)  381

◎礼拝説教 ヘブル手紙 3:1-6               日本キリスト教会 上田教会

『大祭司イエス』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

3:1 そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。2 彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。3 おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。4 家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。5 さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、6 キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。      ヘブル手紙 3:1-6

 

2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。 (ピリピ手紙 2:6-13)


まず1-2節、「そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである」。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ」と呼びかけられています。呼びかけられている相手は、ヘブル教会の信徒たちであり、ここに集っているこの私たち自身でもあります。私たちもまた、神のものである教会に招かれ、教えを受けつづけ、それによって養われているのは、神さまが私たちを選び、ご自身の恵みの領域へと招き入れ、神の民としてくださったからです。「聖なる兄弟たち」と語りかけられています。少し前に、私たち自身は何者でもないと申し上げました。聖なる兄弟と呼ばれる理由もまた、私たち自身が清く、正しく、神聖な存在であるとかいうことではまったくなく、ただただ『神のお働きの中に入れられ、神の憐れみの中に据え置かれている』という意味です。神の御心に聞き従って生きることができる者たちとされている私たちです。

だからこそ、「大祭司なるイエスを、思いみるべきである」と戒められ、励まされつづけます。「思いみるべきである。思いなさい」という戒めは、神を信じて生きる者とされた私たちにとって、とても大切です。なぜなら、普段のいつもの暮らしの中で、さまざまな思い煩いの中にいつのまにか紛れてしまい、大祭司であり、教師であり、私たちの信仰の導き手であられるイエス・キリストを思うことができなくなってしまいやすい私たちだからです。心が鈍くされて、救い主イエスがどういうお方であり何をしてくださったのか、イエスを信じて私たちがどのように生きることができるのかがよく分からなくなってしまいやすい私たちだからです。道案内をしてくださる導き手として大祭司イエスに目と心をはっきりと向けるとができなくなれば、神を信じて生きる者たちとされていることが、その途端に、危うく不確かなものになってしまいかねないからです。「大祭司なるイエスを思いみるべきである。思いなさい」。十分に注意深く大祭司イエスとその教えを熟慮しつづけましょう。やがて神の国に辿り着くはずの私たちであり、そのため、神の御心にかなって一日ずつを生きるはずの私たちからです。その約束と希望が虚しいものになってしまわないためにこそ、この私たちは、大祭司なるイエスを思いみるべきであり、注意深く、よくよく思いつづけて生きる必要があります。

2-4節、「彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である」。大祭司イエは、ここでモーセと対比されています。モーセは神に用いられて、偉大な大きな働きをさせていただいた働き人ですが、貧しさと弱さを抱え、思い悩んでたびたび心を鈍くさせました。何者でもなく、主なる神に仕える働き人たちの1人にすぎません。しかも聖書自身が証言するように、良い先生は神お独りしかおらず、私たちは皆、神に用いられて神に仕える働き人にすぎないと覚えておきましょう。「名誉牧師」とか「名誉会長」などという人間のつまらない理想像を信仰の領域に持ち込んではいけません。しかも、私たちが生きるすべての領域、全生涯は神のお働きの只中に置かれています。さて、救い主イエスこそが神の家と神の民全体に対して、また世界全体に対して、教師また道案内として神によって立てられ、また父なる神に対して忠実でありつづけました。

「おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である」。モーセも、その他おびただしい数の指導者たちも、キリスト教会を建て上げるための一部、一員であり、家を建てるために積み上げられてゆく「石」(1ペテロ手紙2:5などにもたとえられてきました。ただ神ご自身だけが卓越しておられ、唯一の建築者であり、建物全体の上に据えられるべき頭(かしら)であり続けます。コリント人への第一の手紙3章で、キリスト教会は建物であり、畑であるとたとえられました。「アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である」35-9節)。とくに教会の中では、神の力によって生まれたのでないものは何一つもない。ただ神ご自身だけがその御手によって教会を造り、建て上げ、保ちつづけてきました(詩87:5。神がその教会を建て上げるために私たち人間をどれほど用いようとも、すべてのものを完成するのは神のみです。道具である私たちは、製作者である神から何ものをも奪い取ることができないからです。だからこそ、その歩みを思い起こして、私たちは感謝と喜びにあふれます。

 

5-6節、「さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである」。神ご自身である救い主、また教師、大祭司として、イエス・キリストは神の家全体に対して、また神の家と全世界を治めることについて忠実であられた。しかも、このお独りの方イエス・キリストこそが天と地のすべて一切の権威と責任と支配とを御父から委ねられた王の中の王であられます。世界の富と幸いの相続者であられ、このイエス・キリストを抜きにしてはどんな幸いも祝福もありえない。だからこそ、救い主イエスが御父に忠実であられたように、主イエスに仕える私たちもまた御父に忠実であり、救い主イエスとその御言葉に対してどこまでも忠実であることが要求され、命じられつづけます。ここにこそ、世界とキリスト教会と私たちとその家族にとっての幸いと祝福があるからです。

この「忠実」は、もっぱら御父と救い主イエスに対する忠実であり続けます。何かを判断し、選び取ろうとするとき、その判断の只一つの土台は、ただただ救い主イエスとその御心と御言葉に対しての忠実であるほかありません。人間の立てた制度や秩序に対する忠実ではなく、多くの人々の考えや意見に対する忠実でもなく、社会的・一般的な常識に対する忠実でもなく、その判断が神の御心にかなうものであるのか、聖書に証言される福音の道理に対する忠実であるのかこそが、いつも問われるべき唯一の判断基準です。主イエスの弟子たちは、このことを肝に銘じつづけてきました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」、また「人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒4:19-20,5:29と。これこそが、神を信じて生きることの、いつもの最重要の生命線でありつづけます。

『父なる神に対する御子イエスの忠実』はゲッセマネの園での祈りの格闘の際に明確に示され、また、十字架の死と復活こそが御父に対する御子イエスの忠実のささげものであったと聖書は証言します。この証言にこそ、一生涯をかけて、何度も何度も立ち戻りつづける私たちです。ゲッセマネの園で、大祭司であられる救い主イエスは御父に向かってこう祈りました、「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ福音書14:36ピリピ手紙2:6以下ははっきりとこう証言します、「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。ほかの誰に対する忠実でもなく、人間に聴き従うことでもなく、自分たちの腹の思いの言いなりになることもなく、ただただ『御父と御子イエスとその福音の教えに対する忠実』こそが指し示されつづけます。そうである限り、私たちは神の家でありつづけ、神の永遠の御国にやがて必ず迎え入れられることになります。この教会の「こども交読文」は、大人にも子供にもよく分かることを願って、『神への忠実』についてこう説き明かします、「主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか」「神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、わたしたちも 神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます」(上田教会、日曜学校「こども交読文」から)。ここに、神を信じて生きることの幸いと希望がありつづけます。

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC

7/24こども説教「喜びなさい」ピリピ2:16-18

7/24 こども説教 ピリピ手紙 2:16-18

 喜びなさい

 

2:16 このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。17 そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。18 同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。    (ピリピ手紙 2:16-18

 

 

  【こども説教】

 まず16節、「キリストの日に~誇ることができる」。キリストの日というのは、「終わりの日の裁きの日」であり、同時にそれによって「世界のための救いが完成される日」です。その日には誇ることができる。つまり、それまではパウロも私たちクリスチャンも自分自身を誇らないし、誇ることができなくても少しも困らないのだと教え、そのように私たちを励ましています。

次に17-18節、「そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい」。喜ぼう。共に喜ぼう。喜びなさい。共に喜びなさい。またこの手紙の4章でも繰り返して、「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(4章4節)。どうして、喜びなさいとしつこく繰り返しているのでしょう。嬉しいことや楽しいことが次々とあって、だから喜べと言っているわけではありません。むしろ逆です。心を痛める辛い出来事が次々と起こり、喜びも感謝もすっかり見失ってしまいそうだから、それで、「喜べ。喜べ」と必死になって励ましています。神を信じて生きる私たちにとって、喜ぶことのできる肝心の中身はいったい何だっただろうか。それを、ちゃんと、よくよく分かっているはずの私たちじゃないか。喜ぶことのできる肝心の中身。その、無くてはならない只一つの土台。神が生きて働いておられ、その神さまが私たちをも大切に思っていて下さり、私たちを支え、養い、守りっつづけていてくださることです。その、喜びと感謝と希望の根本の土台へと、大急ぎで立ち戻ろうじゃないか。手遅れになる前に、間に合ううちに、神の憐れみのもとへとなんとしても立ち帰ろうじゃないかと呼びかけています。

 

 

 【大人のための留意点】

 ある人が「自分が死に臨むとき、自分の生涯を振り返ってみて、それが永遠に向かっているなら、その人の人生は幸いである。人は一度しかこの世に生まれてこないのだから」と言いました。本当にそうです。わたしたちの青春の中にも、大喜びではしゃぎ回り、人生の生きがいを感じるような時もありますが、また時々、深く沈みこんで自分のことを考え、何のために生きているんだろう、この人生には意味があるのだろうかと、ゆううつになってふさぎ込んでしまうこともないでしょうか。しかし、イエスさまが買い取ってくださり、あがなってくださった人生は、むだになることはありません。

 ……パウロの人生が「むだではない」と誇ることができたのは、それが「キリスト・イエス」に向かっており、永遠なる神さまの愛に根ざしていたからなのです。たとい冷たい水一杯を与えるという、ほんのちょっとしたことでも、「イエスさまの弟子」という名のゆえにしたことは、永遠の報いから漏れることはありません(マタイ10:42。反対に、どんなに大きな事業でも、いやしい心から始めたなら、砂の上に建てた家がどんなにすばらしくても崩れ落ちるのと同じになるでしょう(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)



2022年7月18日月曜日

7/17「試練の中にある者たちを」へブル2:14-18

            みことば/2022,7,17(主日礼拝)  380

◎礼拝説教 ヘブル手紙 2:14-18                日本キリスト教会 上田教会

『試練の中にある者たちを』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

2:14 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。16 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。17 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。18 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。 ヘブル手紙 2:14-18

 

問「主イエスは、どんなかたですか」

答「まことの神であり、どうじに、まことに人間でもあります」

問「主イエスは、いつからおられますか」

答「世界が造られる前から 永遠におられます」

問「いつから人間になられましたか」。

答「聖霊によって処女マリヤのお腹に宿り、人間の体を受けられたときからです。そして、人間になったあとでも神であることをお止めになりません」

問「主イエスは、なんのために神でありながら人間になられたのですか」

答「人間として、わたしたちのすべての悲しみと苦しみがお分かりになり、神として、わたしたちをすべての罪から救い出すためです」

問「主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか」。

答「神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、わたしたちも 神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます」。

                     ヘブル手紙4:14-16 ,マルコ福音書14:32-42

                            (ここまで、上田教会「こども交読文3」から)


まず14-15節、「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」。神ご自身であられる、神の御子イエス・キリストが、なぜ、生身の身体をもってこの地上に生まれ、生身の人間として生きて、惨めな死刑囚の死を死なねばならなかったのか。それは、ここに簡潔に述べられているとおり、私たち人間と同じ性質と条件をもち、ご自身の死と復活によって、私たちを死とその恐怖から解放し、救い出すためです。ここで、「悪魔を滅ぼす」と語られているのは、悪魔がもはや私たちの上に権力をもたなくなることを指しています。つまり、悪魔がなおまだ力をもっていて、私たちを滅ぼそうと企て、誘惑しつづけるとしても、その悪魔の支配の言いなりにされなくてもよいということです。

「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」。この言葉は、やがて死ぬべき自分であることを恐れる者たちの生涯がどんなに惨めなものであるのかをよく言い表しています。この私たちを含めて、ほとんどの人たちがやがて衰えて死ぬことを恐れ、惨めに、とても心細く暮らしていかなければなりませんでした。もし、救い主イエス・キリストなしに、自分が年老いて、しだいに衰えてゆくことや、やがて死ぬはずの自分であることを考えねばならないのなら、そうだとしたら、すべての人々にとって、死と衰えは耐えがたく、とても恐ろしいものだからです。一生涯つづく奴隷状態のように、果てしない不安と心細さと悩みがつきまとい、惨めな魂はその苦しみと悩みにさいなまれつづけます。もし、死と復活の救い主イエスを信じる希望がその人にないのならば、です。

「やがて死すべき自分であることを覚えよ」と昔の人々は言い、互いを戒め、また自分自身をも自分で戒め、励ましつづけました。私たちもそうです。神を知らず、信じない人々にとって、死は恐れたり、忌み嫌うほかないものであるとしても、けれど神を知り、信じている私たちにとっては、まったく違う新しい希望が与えられています。もちろん神を信じていても、私たちは日毎に衰えてゆき、やがて必ず一人また1人と死んでゆきます。けれども私たちは、もうそれを恐れる必要はなく、それを忌み嫌う理由もないのです。なぜならば精一杯に一日ずつを生きて、やがて死の川波を乗り越えて、神の永遠の御国へと辿り着かせていただける約束を受け取っている私たちだからです。救い主イエスを導き手としてもっている私たちは、生きるにも死ぬにも、幸いな日々にも、また病いの床に伏す日々にも、衰えてゆくときにも、なお安らかでいることができます。およそ500年も前の信仰問答はこう語りかけます;「生きるにも死ぬにも、あなたのただ1つの慰めは何ですか」「それは、生きるにも死ぬにも、わたしは体も魂もわたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであるということです。このお方が、その尊い血によってわたしのすべての罪の代償を完全に支払ってくださり、まったく悪魔の権力のもとにあったわたしを解放してくださいました。そして、わたしを守り、天にいますわたしの御父の御心なしには一本の髪もわたしの頭から落ちることなく、実にすべてのことが必ずわたしの祝福に役立つようにさえしていてくださいます。それゆえ彼は聖霊をもたまわり、この御方によって、わたしに永遠のいのちの確証を与え、今後わたしは、彼のために生きることを心から喜び、その備えをしている者であるようにしてくださるのです」(「ハイデルベルグ信仰問答 問1 1563年」)。御父の御心なしには一本の髪もわたしの頭から落ちることがない。もちろん誰でも白髪になり、髪も抜け落ち、足腰も衰えますが、それは私たちを愛する神のあわれみの計らいの中でなされてゆく。だからそれらの衰えも死も、神にこそ十分に信頼し委ねる中で、恐れることも嘆くことも要らず、心安らかに受け止めることができる。これが、神からの約束です。

16-17節、「確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」。救い主イエスは、なぜ人間の姿と性質をご自身の身に引き受けてくださったのか。天使たちよりも、神によって造られた他のすべての被造物よりも人間が優れていた、ということでは決してありません。私たちの中に何かの長所があった、ということもありません。「誇ってはならない。思い上がってはならない」と聖書は、私たちを戒めつづけます。創世記3章が報告するように、神に背く罪を犯したのは人間でした。そのため、神によって造られたすべての被造物と全世界が滅びの危機に瀕しました。ただ、天の父なる神が神によって造られたすべての被造物に対して大きな慈しみと憐みを用いてくださったのですし、私たちはそれを必要としていました(創世記8:21「人が心に思い図ることは幼い時から悪い。けれども~」参照)

「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」。私たちの教会の『こども交読文』では、このように説き明かしています;「主イエスは、どんなかたですか」「まことの神であり、どうじに、まことに人間でもあります」……「主イエスは、なんのために神でありながら人間になられたのですか」「人間として、わたしたちのすべての悲しみと苦しみがお分かりになり、神として、わたしたちをすべての罪から救い出すためです」。救い主イエスについての理解として、『まことの神にして、まことに人間』(「カルケドン信条」451年)が大切です。初めから、この世界が造られる前から神として存在し、しかも人間になったあとでも神であることを片時も止めない。親しみやすい、身近な、『人間イエス』の側面ばかりが強調されがちですが、神でありつづけるイエスを決して見落としてはなりません。十字架前夜のゲッセマネの祈りにおいても十字架上でも、御父への信頼と従順とはほんのわずかも揺らぎませんでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ福音書27:46,マルコ福音書15:34という十字架上での謎めいた言葉も、主イエスの絶望や諦めや嘆きをそこに読もうとするなら、すべてがすっかり分からなくなってしまいます。そうではありません。世々の教会は、『苦しみと嘆きから始まり、神への希望と信頼へと至る詩篇22篇全体を祈りながら、そこで私たち人間の嘆きと喜びを噛みしめ、味わっている』と受け止めてきました。その通りです。だからこそ、救いの御業を完全に成し遂げてくださった救い主に、この私共も十分な信頼を寄せつづけて生きることができます。もし仮に、救い主イエスに十分な信頼を寄せられないなら、その信仰は中身のない形ばかりのものに成り下がってしまうでしょう。自分自身や、人間的な権威や秩序、伝統、格式、名誉、単なる一般常識や世俗的な風習やしきたり、他さまざまなものにむやみに信頼を寄せ、その人はアタフタオロオロしつづけて、やがて神への信仰を失ってしまうでしょう。「人間に聴き従うのではなく、ただ神にこそ信頼し、従う」(使徒4:19,529と腹をくくれるかどうか。これこそが、信仰の決定的な分かれ道です。

さらに、つづけて、「主イエスは、父なる神に逆らったことはないのですか」「神に逆らう罪を一度も犯しませんでした。主イエスに導かれて、わたしたちも 神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされてゆきます」。聖書が語る『罪』とは、神に逆らい、「私が私が」と強情をはることです。その頑固さと強情が周囲の人々を苦しめ、傷つけ、また私たち自身をみじめにさせます。しかも一人の例外もなく 誰も彼もが頑固で強情で、誰も彼もがとても罪深い。だから『罪のゆるし』は、その頑固さと強情から解放して、神に素直に聴き従って生きることができるようにしてくださること。まず救い主イエスこそがそのように生きてくださいました。だから私たちも、『主イエスに導かれて、わたしたちも神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされて』ゆきます。ゲッセマネでの主イエスの祈りのように、私たちも、「私の願いどおりではなく、父よ、あなたの御心のままになさってください。御心にかなって生きることを、私にも願い求めさせてください」(マルコ福音書10:15,14:36,ローマ手紙12:1-2と生きることができます。幸いは、ここにあります。

「あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」。神が身を屈めて、神でありながら同時に人間となってくださった。まことの神であり、どうじに、まことに人間でもある。救い主イエスが選び取ってくださったその人間性とは、限界ある生身の人間という肉の本質と、心の動きです。人間に固有のもろもろの心の動き、人間としての私たちの弱さを身に負ってくださった。弱く貧しく愚かであるものたちに対してあわれみ深い、しかも父なる神に対してどこまでも忠実であってくださる大祭司となるために、人間のもろもろの感情に身を委ねてくださった。その「祭司」の務めは、神に背き、逆らいつづける者たちに対する神の怒りを鎮め、悲惨な者たちを助け、倒れてしまった者たちをふたたび起き上がらせ、疲れ果てた者たちを慰める職務です。さまざまな悪と試練に悩まされる度毎に、私たちは、その悩みと苦しみを御子イエスもまた味わってくださったことを思い起こすことができます。深い失望と落胆を味わう度毎に、この私たちは、救い主イエスもまたその1つ1つを味わってくださったことを思い起こすことができます。

18節、「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」。助けることができる。ぜひそうしたいと願ってくださった。だから、どんな悩みや災いの中からも、どんな誘惑や試練からも、きっと必ず助け出してくださる。そればかりでなく主イエスに導かれて、わたしたちも神に逆らうことを止めて、神に素直に従うものとされていく。神からのこの約束を信じることができます。










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     金田聖治
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