8/8 こども説教 使徒行伝 28:17-20
『ユダヤ人たちに語る』
28:17 三日たってから、パウロは、重立ったユダヤ人たちを招いた。みんなの者が集まったとき、彼らに言った、「兄弟たちよ、わたしは、わが国民に対しても、あるいは先祖伝来の慣例に対しても、何一つそむく行為がなかったのに、エルサレムで囚人としてローマ人たちの手に引き渡された。18 彼らはわたしを取り調べた結果、なんら死に当る罪状もないので、わたしを釈放しようと思ったのであるが、19 ユダヤ人たちがこれに反対したため、わたしはやむを得ず、カイザルに上訴するに至ったのである。しかしわたしは、わが同胞を訴えようなどとしているのではない。20 こういうわけで、あなたがたに会って語り合いたいと願っていた。事実、わたしは、イスラエルのいだいている希望のゆえに、この鎖につながれているのである」。 (使徒行伝
28:17-20)
ローマに到着して、そこで暮らし始めて3日目に、まずユダヤ人たちがパウロさんに会いに来ました。パウロは、彼らと話し合いました。訴えられて、これから裁判にかけられる私です。けれど、殺されなければならないような悪いことは何一つもしていません。また、自分と同じ民族である仲間たちを訴えようとしているわけでもありませんと、パウロは語りはじめます。
20節、「こういうわけで、あなたがたに会って語り合いたいと願っていた。事実、わたしは、イスラエルのいだいている希望のゆえに、この鎖につながれているのである」。ローマまで長い旅をしてきたことも、裁判にかけられることも、牢獄に囚われて鎖につながれていることも、皆すべて、『イスラエルのいだいている希望のためだ』と語りはじめました。神の民とされたイスラエルが抱いている希望とは、救い主がこの世界に遣わされて、神の国をこの地上に建ててくださるという希望です。神ご自身のお力とお働きのもとに、私たちが神の御心かなって生きることを願い求めながら日々を生きることができるという希望です。しかも、約束されていた救い主とは、ナザレ村から来たイエスというお方であり、私たちを救う力はただ救い主イエスにだけあり、救い主イエスを信じて救われるという希望です(使徒4:10-12,同16:31,ヨハネ福音書 3:16ほか)。パウロさんも私たちも、この同じ一つの希望を家族や他たくさんの人たちに知らせるようにと、神さまから命じられています(使徒19:21,同23:11)。