2019年10月7日月曜日

10/6「墓場に住む男」ルカ8:26-39

                   みことば/2019,10,6(主日礼拝)  235
◎礼拝説教 ルカ福音書 8:26-39                     日本キリスト教会 上田教会
『墓場に住む男』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


8:26 それから、彼らはガリラヤの対岸、ゲラサ人の地に渡った。27 陸にあがられると、その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた人に、出会われた。28 この人がイエスを見て叫び出し、みまえにひれ伏して大声で言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」。29 それは、イエスが汚れた霊に、その人から出て行け、とお命じになったからである。というのは、悪霊が何度も彼をひき捕えたので、彼は鎖と足かせとでつながれて看視されていたが、それを断ち切っては悪霊によって荒野へ追いやられていたのである。30 イエスは彼に「なんという名前か」とお尋ねになると、「レギオンと言います」と答えた。彼の中にたくさんの悪霊がはいり込んでいたからである。31 悪霊どもは、底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。32 ところが、そこの山ベにおびただしい豚の群れが飼ってあったので、その豚の中へはいることを許していただきたいと、悪霊どもが願い出た。イエスはそれをお許しになった。33 そこで悪霊どもは、その人から出て豚の中へはいり込んだ。するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまった。34 飼う者たちは、この出来事を見て逃げ出して、町や村里にふれまわった。35 人々はこの出来事を見に出てきた。そして、イエスのところにきて、悪霊を追い出してもらった人が着物を着て、正気になってイエスの足もとにすわっているのを見て、恐れた。36 それを見た人たちは、この悪霊につかれていた者が救われた次第を、彼らに語り聞かせた。37 それから、ゲラサの地方の民衆はこぞって、自分たちの所から立ち去ってくださるようにとイエスに頼んだ。彼らが非常な恐怖に襲われていたからである。そこで、イエスは舟に乗って帰りかけられた。38 悪霊を追い出してもらった人は、お供をしたいと、しきりに願ったが、イエスはこう言って彼をお帰しになった。39 「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた。  (ルカ福音書 8:26-39)

 主イエスと弟子たちは小舟に乗って湖を渡り、向こう岸にあるゲラサ人の地に着きました。この出来事の発端は、同じ822節です。「向こう岸に渡ろう」と主イエスが弟子たちにお命じになり、彼らを促したのです。向こう岸に渡ろう。救い主を主と仰ぐ信頼と一途さにおいても、信仰の歩みにおいても、この自分の日々のあり方や腹の据え方においても、《向こう岸》があります。一緒に渡り、ぜひ辿り着こうと主は私たちを招きます。そして向こう岸には、主イエスの福音を求める一人の惨めな男が待ち構えていました。
  まず28-29節。悪霊にとりつかれた彼が墓場から出てきて、主イエスに出会いました。「その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた」、また「悪霊が何度も彼をひき捕えたので、彼は鎖と足かせとでつながれて看視されていたが、それを断ち切っては悪霊によって荒野へ追いやられていた」と報告されています。彼にとりついた悪霊が、あの彼にとんでもない乱暴を無理矢理に行わせ、獣のような暮らしをさせていたのでしょう。あの彼の中から、悪霊どもが主イエスに向かって叫びかけます。28節、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」。たしかに悪霊どもは、目の前に立っておられるかたが神の独り子、救い主イエス・キリストであることを知っていました。もちろん悪霊どもと、そしてあの彼や私たち一人一人と、救い主イエスは大いにかかわりがあります。しかも悪霊はあの惨めな男をとてもとても苦しめています。喜びや幸いばかりではなく、辛いことや恐れも悲しみも大きな苦しみが私たちを襲うこともある。そのとおりです。それでもなお、悪霊や悪魔が好き放題に私たちを苦しめてよいはずがありません。それを、ただ見過ごしになさる神ではありません。悪霊どももまた私たち一人一人も、この世界があとどれほど続くのか。また自分自身の地上の歩みがあとどれほど残されているのかを、知らされていません。むしろ、「我らの日毎の糧を今日も与えたまえ」と祈り、一日また一日と、魂に刻み込みつつ生きるようにと教えられ、しつけられている私どもです。わたしたちのための『日毎の糧』の中には、一日分ずつの生命も含まれていました。数ヶ月分、数年分ずつではなく、一日また一日と、ただ恵みによって贈り与えられて生きる生命です。土の塵で形造られ、鼻に生命の息を吹き入れられ、私たちは生きる者とされました。やがて神さまがあらかじめ決めておられる時がきて、それぞれの順番とあり方で生命の息を抜き取られ、この私共もそれぞれ土に還るのです。そのとき、こう申し上げましょう。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(創世記2:7,ヨブ記1:21)と。また、この世界にとっても私たち自身の生涯においても、「終わりの時は思いがけない日、気がつかない時にくるから、だから目を覚ましていなさい。用意をしていなさい」と促されています。惜しみつつ生きるに値する、かけがえのない一日一日の生命です。どのように目を覚ましていることができるでしょう。思いがけない苦しみや悩みが私たちを襲う時、心細く、生きることの思い煩いの中で心が鈍くされてゆく日々に、神を信じて生きるはずの私たちは、何をどう用意しておくことができるでしょうか。どんな神なのかを知りつづけ、神を敬いつつ日々を生きることです。そのためには、必要なだけ、すっかり十分に神さまにこそ信頼を寄せることです。神の御意思に服従し、どこでなにをしていても、そこでそのようにして神に仕えて、神の御心に聴き従って生きることです。どんな困難や恐れや心細さの只中にあっても、「助けて下さい」と神さまにこそ呼ばわって、救いとすべての幸いとを神さまの中にこそ求めること。すべての幸いはただただ神からこそ出てきて、恵みによって贈り与えられることを心でも口でも認めながら、一日一日を生きることです(「ジュネーブ信仰問答」問7 1545年)
  だからこそ、主イエスは「向こう岸に渡ろう」と弟子たちを促し、この土地にやってきました。悪霊にとりつかれて苦しむあの彼の生命を回復させ、人生を取り戻させてあげるために。また弟子たちの信仰の成長と養いのために。今日では、ゲダラの墓場は世界中に拡大しています。テレビの中や新聞のニュースの中だけではありません。墓場付近をうろつき、足かせや鎖にしばられ、とんでもない乱暴を働いて周囲の人々を困らせたり、自分自身を傷つけたりしつづけるおびただしい数の惨めな人々がいます。もちろんこの上田界隈にも、小諸や佐久や、塩田平や丸子や真田町あたりにも。ごく普通の家庭にも。どこにでもある職場に。学校や介護福祉施設に。兄弟たちの中にも、自分の夫や妻や子供たちが。あるいは私たち自身が、しばしば墓場に鎖と足かせでしばりつけられます。私たち自身も、しばしば石で自分の胸を打ちたたいて嘆きます。さあ、皆さん。墓場で独りでいた者たち。叫んだり、ついつい乱暴して他人を困らせたり自分自身を苦しめたり、自分を打ちたたいて嘆き悲しんでいたゲラサの人々よ。あなたの家に、今日、平和が訪れました。平和の主が、あなた自身と大切なご家族と共にいてくださいますように。ぜひ、そうでありつづけてくださいますように。
  30-37節。彼にとりついていた悪霊どもは、数が大勢なのでレギオンだと名乗り、「底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならないでください」としきりに願い、近くの山ベに飼われていたおびただしい豚の群れがあったので、「その豚の中へはいることを許していただきたい」と悪霊どもが願い出た。イエスはそれをお許しになった。悪霊どもは、その人から出て豚の中へはいり込んだ。するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまいました。豚を飼う者たちは逃げて町へ行き、起こった出来事を人々に伝えました。すると、町中の皆がイエスに会いに出てきました。35-37節。ここに目を留める必要があります。町の人々は、あの惨めな一人の人が苦境から救われて安らかな魂を取り戻したことを喜び感謝するのではなく、「恐れた。非常な恐怖に襲われた」と2回繰り返して聖書は報告します。町の人々は何をどう恐れたのか? 主イエスに会うと、「この地方から出て行ってください」と頼みました。経済や、損得やソロバン勘定がしばしば優先する私たちの社会です。「いつの時代にもどの社会でも、仕事や生活上の自分利益と損害のほうを多くの人間たちは選び取ってきた。そのようにして、主イエスとその福音は拒絶されつづけてきた」とある人は言いました。どうして自分の損得、自分の都合、自分自身の利益と幸いばかりをついつい優先させてしまうのか? 神さまが私と家族の生活、幸い、平和と安全を守って下さるとは思ってもみないからです。そういう神さまだとは知らないし、信じてもいないからです。それなら、自分自身の力と甲斐性で必死になって生活と幸いを守ってゆくほかないからです。
38-39節。主イエスによって悪霊をとりのぞいていただいた者が、お供をして、ごいっしょについて行きたいとしきりに願いました。けれど、その願いは断られました。もちろん、主イエスを信じて生きることは断られません。けれども、そこから一緒に旅をつづけるようになった弟子たちと、現地に残された弟子たちと2種類の弟子たちがいつづけます。39節、「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」と主イエスご自身から命じられました。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがしてくださったことを、ことごとく町中に言い広めました。もちろんまず大切な愛する家族の一人一人に。それから隣近所の方々に。町中に。いつもの職場でも、学校でも、町内会の寄り合いでも。それから隣町でも。それがあの彼と私たちにとって、そのときから、生きる理由になり、目的となりました。
 「知らせなさい」と命じられてもそうでなくても、恵みを受けた者たちは、その大きな驚きと喜びとを知らせないではいられません。主イエスから差し出され、受け取った愛が、その人々を駆り立てて止まないからです。この私たちもそうです。自分の大切な家族に、大切な友人たちに。主がどんなに大きなことをしてくださったか。また、どんなに憐れんでくださったかと。その喜びの知らせは、聞き入れられる場合があり、冷たく拒まれる場合もあるでしょう。その大きな出来事よりも、差し出されたその深い憐れみよりも、人々は自分たちの経済や損得やソロバン勘定にばかり目も心も奪われて、私たちをなかなか受け入れてくれない場合もあるでしょう。良い知らせを告げ知らせに出かけてゆくときの心得については、つい先日、おさらいをしておきました。手ぶらで出かけてゆくこと。どこかの家に入ったら、まず「平安がこの家にあるように」と言いなさい。もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈るその平安はその人の上に留まる。もし、そうでなかったら、その祈り願った平安はあなたの上に帰ってくるであろう。迎え入れてもらえるならば同じ家に留まって、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。「神の国はあなたがたに近づいた」と言いなさい。やがて戻ってきた弟子たちに主イエスはこうおっしゃいます。「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ福音書10:1-20。天と地のすべて一切の権威を御父から授けられている救い主が、その権威を私たちに委ねておられます。だから、わたしたちに害を及ぼしうる者は何一つない。そのとおり。その上で、この私たちは何を喜び、何を悲しみましょうか。聞き入れてもらったり、冷たく邪険に跳ね除けられたり、喜び迎え入れられたり、シッシと追い払われたりするでしょう。いいえ、そんなことよりも、むしろ私たち自身の名が天に記されてある。そのことをこそ喜べ。私たちを町々村々へと、それぞれの家庭や地域や職場へとお遣わしになる方がおっしゃいます。むしろ私たち自身の名が天に記されてある。そのことをこそ喜べ。魂に刻み込みましょう。

             ◇

  救い主イエス・キリストの到来によって、神さまのご支配がこの地上にいよいよ現実のものとして勢いを増し、着々と建て上げられはじめたからです。神の国はこの地上にすでに来ており、着々と建て上げられつづけ、やがてすっかり完成されようとしています。確かに終わりの時はすでに私たちの只中に来ている。けれど、悪霊やサタンや闇の力との戦いはなお続いています。だからこそ、主にあって、主ご自身の偉大な力によって、あなたは必要なだけ十分に強くしていただきなさいと励まされます。エペソ手紙6:10-18です。「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」。
  主イエスを信じるその希望の中身は、具体的には何でしょう。「あなたがたは、この世では悩みがある」と、はっきり語りかけられています。悩みがいくつもあり、次々とあり、それらが無くなることはありません。誰にとっても、それが生きてゆくことの現実です。いいえ。それが私たちの現実の中の半分の側面です。もう半分の、もっとその千倍も万倍も大切な現実は、救い主イエスからの約束でありつづけます。「わたしはすでに世に勝っている。だから、あなたがたは勇気を出せ」とおっしゃる。「だから」と呼びかけられました。主イエスがすでに世に勝っておられるからといって、けれど、どうして私たちは勇気を出したり、そこから平安を受け取ったりできるのでしょうか。それと、私たちの勇気や平安とは、何の関係があるのでしょう。この救い主イエスというお方が、私たちの主であられるからです。ご自分が勝ち取った勝利の中へと、私たちを招き入れ、私たちを据え置いてくださるからです。主イエスがすでにこの世に勝ったからには、この主に率いられて、私たち一人一人もまた世に勝つからです。権威あるおかたが、この私たちをも屈服させ、私たちをも従わせてくださるからです。このお方の権威のもとに、波と風が従い、悪霊さえもひれ伏し従うとして、それだけでなく弟子とされた私たちも「行け」と言われれば行き、「来い」と命じられれば来るからです。あの弟子たちと共にこの私たちにも、この同じ主が命じられました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20