みことば/2019,9,29(主日礼拝) № 234
◎礼拝説教 ルカ福音書 8:22-25 日本キリスト教会 上田教会
『荒波の中の小舟』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
8:22 ある日のこと、イエスは弟子たちと舟に乗り込み、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、一同が船出した。23
渡って行く間に、イエスは眠ってしまわれた。すると突風が湖に吹きおろしてきたので、彼らは水をかぶって危険になった。24 そこで、みそばに寄ってきてイエスを起し、「先生、先生、わたしたちは死にそうです」と言った。イエスは起き上がって、風と荒浪とをおしかりになると、止んでなぎになった。25
イエスは彼らに言われた、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」。彼らは恐れ驚いて互に言い合った、「いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは」。 (ルカ福音書 8:22-25)
高い山や丘に囲まれ、すり鉢状に深く削られた谷底に、(ゲネサレ湖とも呼ばれる)ガリラヤ湖はあります。標高600-700メートルから急激に落ち込み、海面のさらに210メートル下に湖面があります。ですから気温の変化によって、しばしば山地からはげしい突風が吹き下ろすこともありました。夕方になり、日も暮れて視界も悪くなります。主の弟子たちの多くはそのガリラヤ湖で生まれ育ち、そこで働きつづけた漁師たちでした。その湖の怖さも危険も、よくよく知っている彼らでした。だからこそ、激しい突風が吹き荒れ、とても小さく貧弱な舟がザブン、ザブンと波をかぶり、水浸しになるほどになった時、彼らは、その危うさと恐怖を身にしみてビリビリと感じ取っていたでしょう。けれども、この肝心な時、危機の只中にあって、主は舟の片隅でスヤスヤ眠っておられました。何ということでしょう。24節、弟子たちは主イエスを揺さぶり起こし、「先生、先生、わたしたちは死にそうです」。
僕の大切な友だちはこう言います;「辛い体験をすると、神さまの御心が分らなくなる。クリスチャンであるのに、つい神さまを疑ってしまう。私はあやふやで気もそぞろな、とても危なっかしい人間だ」と。まったくその通りだと思います。辛い体験をすると、神さまの御心が分らなくなる。たとえクリスチャンであっても、ついつい神さまを疑ってしまう。あるいは、その憐みもゆるしも助けもすっかり信じられなくなってしまう。その通り。だって人間だもの。聖書自身も、「そんなものだ。人間って」と言っています(創世記8:21,ローマ手紙3:10-27,同11:32,エペソ手紙2:3-,同3:23,ガラテヤ手紙3:22-23)。
24-25節。「『先生、先生、わたしたちは死にそうです』と言った。主イエスは起き上がって、風と荒浪とをおしかりになると、止んでなぎになった。波と風は叱りつけられて、しーんと静まります。弟子たちの外側、小舟の外側で激しい風が吹き荒れ波が打ち寄せていたように、《弟子たちと私たちの心の中》でも、やはり激しい風が吹き荒れ、高い波が打ち寄せます。恐れと不安、心細さのために、たびたび水浸しになってしまう彼らであり、私たちです。私たちの小さくて貧弱な舟に、手ごわい波がザブン、ザブンと打ち寄せます。今にも暗い湖の底に沈んでしまいそうになります。
何度も話しますが、一個のキリスト教会はとても小さく貧しい小舟です。一人のクリスチャンもまた、小舟です。その生涯も、一日ずつの営みも、やはりとても小さな貧しく危うい小舟です。その家庭も家族もまた、小舟です。主イエスは、この私たちの貧弱な舟の中でも起き上がり、権威をもって断固として叱りつけ、「黙れ。鎮まれ」とお命じになります。波や風に対して。そして私たちに対しても。私たちの周囲を激しく吹き荒れる風は、なかなか手強いのです。波も、かなりしぶとい。私たちの足もとに広がる湖は深く、暗く、底が知れません。しかも私たちの乗った舟はあまりに貧弱で、舟底の板もあまりに脆く薄い。いいえ、むしろ私たち自身の荒ぶる魂こそが難物です。吹き荒び、大波が立ち騒いで、いっこうに鎮まる気配もありません。主が断固として起き上がり、叱りつけ、「黙れ。静まれ」と権威をもって命じてくださるのでなければ、黙ることも鎮まることもできません。「あなたはどこを向き、何を見ている。あなたは、どこに足を踏みしめて立っている。あなたは何に期待し、何を待っている。あなたは一体、誰の声を聞き、何に信頼しているのか。あなたは誰のものか。主なる私のものではなかったか。主である私の声にこそ聴き従うあなたではなかったか。《主である私からのゆるし、恵み、救いの約束》にこそ、その只中にこそ自分の身を据え置くあなたではなかったか。違うのか。そうでなくて、では、あなた自身は、どうやって安らかに喜ばしく生き抜いてゆくことができるのかと」と叱りつけてくださるのでなければ。
25節。イエスは彼らに言われました、『あなたがたの信仰は、どこにあるのか』。彼らは恐れ驚いて互に言い合った、『いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは』」。主イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と弟子たちに語りかけ、問いかけました。ここが正念場です。さて、「私たちに信仰がある、神を信じている」とは、どういうことでしょうか? その信仰は、必要なときにそれを働かせることができて、その信仰によって私たちが助けられ、支えられることができるということです。もし、そうではないなら、その信仰が肝心要の緊急事態のとき、少しも働かず、私たちを支えもせず助けもしないなら、信仰があることにいったい何の意味があるでしょう。私たち自身と大切な愛する家族を救うことのできる信仰を与えられて、確かに持っているのかどうか。その信仰を、必要なとき、必要なだけ十分に働かせることができるのかどうか。だからこそ、ここで救い主イエスはあの彼らと私たちに切羽詰まって、問いかけています。あなたがたの信仰は、どこにあるのか?
いきなり突風が吹き荒れ、波がザブンザブンと打ちかかって小舟を激しく揺さぶりつづけます。小舟も彼ら自身も水をかぶり、とても危険になりました。そこで彼らは大慌てで主イエスのもとへと駆け寄り、しがみつき、「先生、先生、わたしたちは死にそうです」と主イエスを揺さぶり起こして助けを求めました。ここに、生きて働く信仰があります。これが彼らの信仰であり、彼らを救う信仰です。これでまったく十分です。たしかにあの時、あの波風吹き荒れる小舟の上で、あの彼らは、信仰と不信仰との分かれ目の挟間に立たされていました。主イエスへの信仰も、主に信頼することも、「どうぞよろしく」と主に委ねることもすっかり吹き飛んでしまって、そこにはもう何も残っていない、かのように見えます。けれども兄弟たち。だからこそ、その瀬戸際の崖っぷちの姿に、信仰の本質があざやかに立ち現れます。ここに、主イエスを信じる信仰があります。なぜなら彼らは、大慌てで、主イエスのもとへと駆け戻っているからです。なぜなら彼らは、今こそ、必死で本気になって主にしがみつき、切実に訴えているからです。「先生、先生、わたしたちは死にそうです。今にも溺れてしまいそうです」と。
聞いてください。忍耐の限界をこえて苦しみを味わうことは、あります。逃げ道も出口もまったく見出せない真っ暗やみの日々も、あります。「地獄だ。とても耐えられない」と溜め息をつくばかりの日々もあります。本当にそうです。だから、「耐えるべきだ」などと軽はずみなことはとても言えません。あなた自身も、「耐えなければならない。耐えるべきだ」などと思ってはなりません。むしろ必死に、一目散に、そこから逃げてきなさい。そこから、なりふり構わず避難してきなさい。叫びなさい、「助けてください」と。あなたの苦しみを、あなたの惨めさを、あなたがどんなに辛いのかを。あなたの憎しみも腹立ちも、嘆きも、なりふり構わず大声で叫びなさい。もちろん誰に対してよりも、なにより神さまに向かって。そして、周囲の人間たちに向かっても。あなたは声を限りに叫びなさい。もちろん、そうしてよいのです。気兼ねも遠慮も、大人ぶった体裁を取り繕うことも、もう要りません。では、質問。あの弟子たちは、なぜ、大慌てで駆け戻って、「主よ、お助けください。わたしたちは死にそうです」と恥も外聞もなくすがりついていると思いますか? 大変な危機で、まさに崖っぷちで、生命の瀬戸際に立たされているからです。しかも《この方ならきっと必ず》と知っているからです。あなたも知っているんでしょう、《この方なら、きっと必ず》と。
十字架におかかりになる直前、私たちの主イエスは、「わたしの思いのままにではなく、御心のままになさってください」(マタイ福音書26:39-)と御父に向って祈りました。でも、ただちに簡単に、ではありません。罪人として十字架にかけられ、体を引き裂かれ、血を流しつくして殺されていくことは、救い主としても苦しいことでした。できることなら、別の方法を取りたかった。「わが父よ。もしできることでしたら、どうか、この杯(=十字架の苦しみと死のこと)を私から過ぎ去らせてください」と主は、繰り返し繰り返し祈りました。救い主イエスにとっても、それは祈りの格闘でした。苦しみ、身悶えし、血の汗を滴らせて祈った、と報告されています。地面に身を投げ出して祈りました。祈りつづけました。その格闘の只中で、「しかし、わたしの思いのままにではなく、御心のままになさってください」という信頼へと辿り着きました。例えば主の弟子パウロも、ただちに簡単に、「私のための主の恵みは十分。神の力は、私の弱さの中で、そこでこそ十分に働く」(コリント(2)12:7-を参照)と安らかであり続けたわけではありません。「私に刺さったこの刺を抜き取ってください」と格闘しつづけた果てに、かろうじて、ようやく辿り着いたのです。ただ3回だけ試しに祈ってみた、ということではありません。3回とあるのは、300回、3000回、何回祈ったか分らないほどに祈って祈って祈りつづけたという意味です。《御心のままに》;それは、祈りの手間を省く安易な言い訳でもなく、願っていることをすっかり諦めてしまった者たちの都合のよい方便でもありません。格闘するように、すがりつくようにして祈り続けた者たちこそが、ついにようやく、その格別な安らかさへと辿り着きます。ついに、その格別な、晴れ晴れとした信頼へと辿り着くのです。強がって見せても、誰でも本当は心細いのです。大慌てで主のもとに駆け戻り、必死に訴える。「助けてください。支えてください。倒れてしまうそうです。今にも溺れてしまいそうです。主よどうぞ、この私を」。クリスチャンはそこに立ちます。そこが福音の定位置。恵みを受け取るための、私たちのための、いつもの場所です。「そこへと駆け戻り、そこに我が身を据え置きなさい。あなたも、そこに腰を落ち着けなさい」と主イエスは、この私たちをも招くのです。とても怖がったし、アタフタオロオロした。その通りです。その、生きるか死ぬかの崖っぷちで、その緊急事態の肝心要の局面で、そこで大慌てで主の御もとへと駆け戻り、「先生、先生。わたしたちは死にそうです。助け手ください」としがみついた。ここに確かに、その人を救う信仰があります。また、「このかたはどなたなのだろうか」と驚いて、主イエスにじっと目を凝らし、つくづくと考え込みました。ここに、信仰があります。私たちは信仰が薄いし、度々やたら怖がるし、たびたびとても心細いと気づくなら、もしそうであれば、「主よ、助けてください。私の信仰を増し加えてください。怖がって心細さを噛みしめる度毎に、そこでこそ本気で主の御もとへと駆け戻る信仰を、この私にもぜひ贈り与えてください」と願い求めることもできます。もし願うならば、その願いはきっと必ずかなえていただけます。なんて約束されていたんでしたっけ。「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」(ヨハネ福音書16:24)。しかも、「向こう岸に渡ろう」(18節)と主が誘ってくださったのです。「主イエスという方はどういう方なのか、ぜひ知りたい」と私たちも願いました。山や坂があり、底知れぬ暗く恐ろしい湖も行く手に立ち塞がります。しかし同時に、この湖には魚の群れが潜み、私たちの思いをはるかに越えた収穫さえ待ち受けます。乗っている舟はたしかに貧しく粗末な小さな小さな小舟にすぎません。その通り。しかしご主人さまであられる救い主イエスが、この同じ小舟に乗り合わせておられるではありませんか。
25節。弟子たちはとても驚いて、互いに問いかけ合いました。「いったい、この方は誰だろう。お命じになると、風も水も従うとは」。波と風を恐れることを止めたので、ここでようやく、まるで初めてのようにして彼らは主を畏れることを始めました。それまでは、風や波や湖や世の中の風潮や、周囲の人間たちの顔色や気分やその場その場の空気を読むことや、さまざまなモノを手当たり次第に恐れて忙しくしていたので、それで、主を畏れる暇がほんの少しもありませんでした。風や波と共に自分たちの心も鎮めていただいて、私たちもまた、とうとう、まるで初めてのようにして《主イエスとはいったい何者なのか。この世界にとって、また私と家族にとって》と問いました。その答えをぜひ知りたい、掴み取りたい、と願い求め始めました。小さな小さな粗末な小舟に乗って、けれども主イエスも同じ舟に乗り合わせてくださって、その小舟の私たち自身の旅はなおまだ続くからです。向こう岸へ、向こう岸へと渡りつづけます。
【語句の訂正】;前回、9月22日の礼拝説教『神のもとにある家族』。2ページ目、「サウル、サウル~」(使徒9:4)は「サウロ、サウロ~」の誤りです。お詫びし、訂正をします。(金田聖治)