みことば/2019,1,27(主日礼拝) № 199
◎礼拝説教 ルカ福音書 3:15-20 日本キリスト教会 上田教会
『聖霊と火と水によって』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
3:15 民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた。16
そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。17
また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。18 こうしてヨハネはほかにもなお、さまざまの勧めをして、民衆に教を説いた。19
ところで領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロデヤのことで、また自分がしたあらゆる悪事について、ヨハネから非難されていたので、20 彼を獄に閉じ込めて、いろいろな悪事の上に、もう一つこの悪事を重ねた。 (ルカ福音書 3:15-20)
まず15-16節です。洗礼者ヨハネはみんなの者に向かって、「わたしよりも遥かに力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。本当にそうなんですよ、分かりますか」と断固として言わねばなりませんでした。なぜなら、民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で彼のことを、もしかしたらこの人が待ち望まれていたその救い主ではないだろうかと考えていたからです。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が同様に、このことを詳しく報告しています。人々のその誤解を断固として、すっかり拭い去ってしまわねばなりません。もし、そうでなければ、本来は救い主キリストに向けられるべき信頼や栄誉をたかだか人間にすぎないものに向けてしまうことになるからです。神にだけ信頼し、神にだけ依り頼み、神にだけ仕えるはずのところで、そうではなく! 神と並べて、たかだか被造物にすぎないものに信頼を寄せ、当てにならない虚しいものに聞き従うことになってしまうからです。それこそがとても危険な逸脱であり、神を仰ぐはずの信仰をはなはだしく歪め、損ない、その人自身にも信仰の共同体にも大きな災いをもたらすことになるからです。しかもなお、本来、神に向かうべき尊敬や信頼が、目の前の生身の指導者たちに向けられる過ちはたびたび繰り返されつづけてきました。そうなりやすい性分を私たちが抱えているからです。例えばモーセもまた、いつの間にか神と並べて信頼を寄せられ、神とともに崇められそうになりました。まるであたかも、神とモーセが一心同体であるかのように。その証拠に、モーセがシナイ山に出かけて40日40夜のあいだ留守にしたとき、モーセがいなくなったばかりか、モーセとともに神ご自身まで消えてなくなったと思い込みました。彼らはアロンに命じて金の子牛を作らせ、「見よ。今日からはこれが私たちの神々だ」と好き放題に戯れ合うどんちゃん騒ぎをしでかしました。おかげで、神さまからたいそう叱られてしまいました(出エジプト記32:1-6)。しかも、「わたしこそが世を照らす光である。わたしに従って来る者は闇のうちを歩くことがなく、命の光をもつ」(ヨハネ福音書8:12)と救い主イエスがおっしゃったのです。その言葉を、私たちもこの耳ではっきりと聞いて覚えています。束の間に消えゆくはかない光ではなく、せっかくなら世を照らす命の光、救い主イエスにこそ、私たちはよくよく目を凝らしつづけねばなりません。
さて16節。「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授ける。(しかし私のあとから来る、私よりも力のある方は)聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」。今日読んだ中では、これこそピカイチに難しいと思えます。また、分かりにくい表現です。『水による洗礼』と『聖霊による洗礼』;二種類の別々の洗礼があるということでしょうか。一段劣る人間的でただ形ばかりの洗礼と、真実な高級で上等な霊的洗礼という二種類、二段階の洗礼があると。いいえ、二つは一つです。私たち人間が授ける水の洗礼、そこに重ねて神さまご自身が授けてくださる聖霊による、霊的な洗礼。これらは一つであり一組とされます。ここにいる私たちの中にも、「やがてふさわしいときが来たら、この私もぜひ洗礼を受けよう」と心づもりをしておられる方もいますね。あなたのためにも、神さまからの格別な導きがぜひありますように。洗礼は、神の民=クリスチャンとして生きることの出発点です。「キリスト教の信仰のすべてがほぼ分かった。十分に理解して、とうとう合格点をもらって、だから洗礼を」ということではありません。「神さまに信頼し、神をこそ頼みの綱として生きる。自分の決断、自分の能力やふさわしさや自分自身の正しさによってではなく、神さまの恵みと憐れみと、神ご自身にこそ委ねてこの私は生きてゆこう」。その出発点が洗礼です。
『洗礼』は、この聖書の神さまを信じて生きはじめるための入門の儀式であり、出発点です。洗礼はまた、「結婚式・披露宴・役所への届け出」とずいぶんよく似ています。結婚式をあげるときの準備と同じように、洗礼を受けて神さまを信じて生きていこうとする人たちのために、教会は準備の教育を行います。もし、神さまを愛するなら、もし、この神さまと結婚したいのなら、生涯添い遂げてこの神さまと幸せな家庭を築きあげたいと心底から願うのならば、それなら、その神さまがどんな神さまなのか、どういう性分で、どういう願いをもって生きておられるのか、何をしてくださるのかを精一杯に知る必要があるからです。たとえ自分の寿命が残り数週間、数日間の生命であるとしてもです。そのわずかな時間を精一杯に、晴れ晴れとして生きて死ぬために。もしそうではなく、式だけあげ籍だけ入れてただ形だけ結婚してみても、独身時代のつもりで同じく自分の思いのまま、また自分自身や周囲の人間たちの望むまま気に入るようにとふるまい続けるならば、もし、その連れ合いや家庭を少しも顧みないならば、その夫婦生活は直ちに破綻してしまいます。それでは、あまりに無責任で子供っぽすぎるじゃないですか。救い主イエス・キリストこそが花婿。教会と、また一人一人のクリスチャンはこのお独りのお方と添い遂げようとする花嫁である。聖書ははっきりと証言しています(エペソ手紙5:21-33,マタイ福音書25:1-13,ヨハネ福音書3:27-30)。その結婚式では花嫁と花婿とが互いに誓いあいます。本気になって、精一杯の誠実を尽くしてです。「あなたはこの方と結婚して、その妻となろうとしています。あなたは真実にこの方をあなたの夫とすることを願いますか。夫婦としての道を尽くし、常に愛し、これを敬い、これを慰め、これを助けて変わることなく、その健やかなときも病むときも、このお独りの方に対し、堅く節操を守ることを誓いますか」。――これが結婚生活の秘儀であり、神の子供とされる洗礼の秘儀でもあります。なにしろ花婿である救い主イエス・キリストは、キリストこそがあなたのためにもこれを誓い、この誓いを断固として守り通してくださいます。本当のことです。「水道の蛇口をひねって出てきたようなごく普通の水」を用いてでも、素敵な贈り物は、主イエスご自身から贈り与えられます。神さまからの素敵な贈り物は、新しい心、普段のいつもの生活の中での新しい在り方や生き方、新しい腹の据え方です。神の憐れみがすでに私たちに注がれています。礼拝献金や維持献金の袋の中の献げものばかりではなく、むしろ私たち自身の体と魂のすべて一切を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげて暮らすことができるようになります。なすべき霊的な礼拝とはそのことだと語られています。その霊的な礼拝の積み重ねによって、私たちはこの世と妥協しない者とされていきます。心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるか、何が悪であり神さまの御心を悲しませることであるのかを、わきまえながら一日ずつを生きる私たちとされます(ローマ手紙12:1-3参照)。だんだんと、少しずつ。ね、これは素敵な贈り物でしょう。
しかもなぜ、私たちキリストの教会が主イエスを信じて生きようとする者たちに洗礼を授けつづけているのか。「しなさい」と主イエスから直々に命じられているからです。パンと杯の聖晩餐の食事も同じです。神の国の福音を宣べ伝えつづけていることも、聖書によって教えられていることを教え続けていることも同じです。「しなさい」と主イエスから直々に命じられていること、託されていることをしつづける。それを大切にし、それを喜び、そのように感謝し信頼を寄せつづけている。『すべてのキリスト教会とその伝道者らは、もちろん一人一人のクリスチャンも、洗礼者ヨハネにならって、この彼のように悔い改めに至らせるための洗礼を施し、彼のように神の国の福音を宣べ伝え、そのように主イエスを信じて生きることの道備えをし、主イエスをこそ指差して働きつづけるのだ』と世々の教会は受け止めてきました。他の誰のためよりも、なにしろまずこの私たち自身が救い主イエス・キリストを自分自身の王さま・ただお独りのご主人さまとして迎え入れ、この救い主イエスをこそ信じて聴き従い、そのように生きはじめるための道備え。また、そのように生きつづけるための魂と在り方の道路整備と点検、保守保全。これを精一杯になしつづけ、それを喜び、そこに希望を抱いている。だから、ここはキリストの教会であり、私たちはクリスチャンなのです。復活の主イエスと弟子たちが、かねてから約束されていたあの山の上で出会ったときのことです(マタイ福音書28:16-)。イエスが行くように命じられた山に弟子たちは登りました。イエスに会って、ひれ伏し拝みました。中には疑う者もいました。イエスは彼らに近づいてきて言われました、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らに洗礼を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。出かけていって、主イエスの弟子とすること。主イエスを信じて生き始めようとするその人々に洗礼を施すこと。命じられている一切のことを守るように教えること。しかも兄弟姉妹たち、主が教えてくださったその中身こそが、主イエスの弟子である私共を支えとおし、がっちりと堅く守りつづけます。なぜするかといえば、ただただ主のご命令であり、「よろしく頼みますよ」と主が私たちに大事な仕事を任せてくださったからです。それなら私共は「してはならない」と戒められていることをしないでおき、「しなさい」と命じられていることを心を込めて精一杯にすればよい(詩126:6,ピリピ手紙1:6,コリント手紙(2)9:8-11,ローマ手紙4:21)。
17節。やがて来られる救い主イエスは、「箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てる。やや分かりづらく、また恐ろしい裁きが言い表されているようにも思えるかも知れません。けれど立ち止まって、よく考えてみますと、倉に納められる「麦の実」である人々と火で焼き捨てられるだけの「麦の殻」に過ぎない人々と二種類の人間がいるのでしょうか? いいえ、そうではありません。しかも神の国の福音の種を撒かれ、神ご自身によって養い育てられた麦は必ずきっと良い実を結びます。神さまご自身こそが実を結ばせてくださるからです。その収穫のとき、私たちはそれまで自分を包んでいた古い殻を脱がされ、古い罪の自分という殻を引きはがしていただいて、裸の麦の一粒一粒として倉に納めていただくことになります。
◇ ◇
18節。「こうしてヨハネは他にもなお、さまざまな勧めをして、民衆に教えを説いた」と報告されます。この教えは、元々の言葉では「福音」であり、「神の国の良い知らせ」です。「下着を二枚持っているなら貧しい者にその一枚を分けてやりなさい。食べ物も同じ。決まっている以上に取り立ててはいけない。人を脅かしたり、だまし取ってはいけない。自分の給与で満足しなさい」など、してよいこと、してはいけないことが具体的にはっきりと示されました。それらは公正であること、隣人に対して慈しみ深くあること、神への忠実と信頼のうちに慎み深く暮らすことです。ちっとも難しくはない、誰にでもできるはずのとても分かりやすく素朴な勧めです。「悔い改めにふさわしい実を結べ」という神ご自身からの要求は、実は、「神に立ち返って生きるなら、あなたもきっと良い実を結ぶことができる」という恵みの約束でもあり、神の国の嬉しい知らせそのものです。そして19-20節。洗礼者ヨハネは牢獄に閉じ込められ、やがてそのまま殺されます。主に仕える働き人は主から命じられた務めをなし終えて、そのように退いてゆきます。私たち一人一人も同様で、なすべき務めを果たし、やがてそれぞれの順番で心安く退いてゆくことができます。この後どれほどの時間がそれぞれ残されているのかを私たちは知りません。まだしばらく続くかも知れません。あるいは、案外にとても短いかもい知れません。それは神さまにお任せしてあります。長くても短くても、行く手に何が待ち構えているとしても、神さまから与えられている自分の務めを心安く果たし、やがて心安く退いてゆくことができます。この預言者のように。また、「主の救いをこの目で見た。ああ良かった。本当に」(2:29-30)と喜びにあふれて立ち去っていったシメオンおじいさんのようにです。神の国に必ずきっと辿り着き、そこに迎え入れていただけるという確かな一つの希望があるからです。私たちの主なる神さまは生きて働いておられます。この世界のためにも、また私たち自身と大切な家族の一人一人のためにもです。